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「淨潤日記」日日是好日



  愛・愉氣
Date: 2009-11-27 (Fri)
起きているときも寢ているときも、
一秒、否、一瞬たりとも途切れずに
相手の気持を感じ、無条件の愛を注ぎ続けるのが、真の(恋)愛だろう。
そうでなければ愛ではない。
……………………………………………………………
それは体癖で言えば開閉型の恋愛の形であるが、
もとより恋愛は開閉的感情なのである。
……………………………………………………………
一秒が長く感ずるように相手(対象)を思う事が貴女にはあるか。
一日千秋という言葉を真に実感することが貴方にはあるか。
…………………………………………………………
妊娠中の母親は、それを常とする。
それが勤めであり、またそのように身体がなっている。
そうして、私たちは皆生まれてきたのである。
一秒どころか片時も離さずに氣を向け愛し続けてくれていた。
つまり愉氣をし続けてくれていた。
───今、生きているというのはそういう事だ。
…………………………………………………………………
母親は、常に愛を向け、私と一つとなって行動する。
更には、否定的な言葉も使わず、否、そうした感情を一切起こさなかった。
たとえ否定的な感情が生じた時にもその都度私達に謝っていた。
私たちは明るく肯定的な感情のみで育っていった。
───それが氣道的つまり整体的出産(育児)である。
……………………………………………………………
かのように愛(愉氣)し続けるには、受胎以前から愛を育てる身体(心)づくりが無くてはならない。
その上で肯定的なことだけを想い続けるには、絶え間ない自観法(自己凝視)が自然にできる「大人」になっていなくてはならない。
(それをケセラセラと言う)
…………………………………………………………
一時期、自観法と共にホ・オポノポノを絶え間なく(つまり数秒に一回)一日中行っていた時期があった。
(これを「ワイパークリーン」と呼んでいる)
そのうちホ・オポノポノの言葉が必要無くなり、言葉が無くなりただ愉氣が常に行われている状態になっていった。
………………………………………………………
そうして、それは内に対してだけでなく相手(対象)に対しても行えるようになる。
………………………………………………………
再度繰り返し言いたい。

私たちが今生きているという事は、
そうした母(父)親からの無条件の愛(愉氣)を受け続けてきたという証なのである。

  ヴェーダ
Date: 2009-11-27 (Fri)
幼少の頃、私はヴェーダに憧れた。
師の部屋に行く毎に、その文献を見ていた。
様々な教えに文字通り身が震えた。
而して、38年間経ち、今もって一番心に残る言葉は、ただ一つである。
(それ故、その言葉は常に【心の学校】で言ってしまう。)

「生は、ただ生あるのみ」

───そしてそれを実感し歩む道が氣道だと思う。 

  生きる目的とは? (3)
Date: 2009-11-27 (Fri)
 (続き)

 即ち…

 食事中に、
 「人間にとって食べるとは何なのか?」
 を考察するのと同様である事に気付いて欲しい。

 「人は何のために生きているのか?」

 この質問こそ、有史以来、人間故の 最高の愚問なのである。

  生きる目的とは? (2)
Date: 2009-11-16 (Mon)
(続き)

そして(1)の熟慮の上、
そうした命題を考える人間の状態を考察感得して欲しい。

  生きる目的とは? (1)
Date: 2009-10-30 (Fri)
人間は有史以来、次の命題を抱えてきた。

「人は何のために生きているのか?」

果して、その答えは何なのだろうか?
現在まで多くの智者、識者がその命題に取組み、それぞれの答を提示している。
結果、宗教や哲学体系になったものも多い。

しかし、ここで改めて自問して欲しい。

  肥田春充
Date: 2009-10-19 (Mon)
 随分と書いたのだが、また全て消えてしまった。
 言葉に限らず、いつも、残したいと思う時に消えたり録画されなかったりするのは、その余分な思いのせいなのか。

そこでは以下の事について書いていた。
・肥田師の聖中心について。(丹田)
・その血を持って書いた「我に、あらゆる苦難よ来い」の書について。
・学ぶという事は、現在の自分を壊す事に他ならなく、それ以外に学びは決してあり得ない。
・故に、臨書の書き方で才能もその後の伸び方もわかる。
・「『ここ』は学びたい」と思っている時は、「ここ」を選ぶ自分があるので学んでいない。
(そうした観点を捨て全てを白紙にしなくてはならない)
・不立文字。
 言葉、言語を通して理解出来たという時は、必ず裏切られる。
・言葉を両刃の剣。言葉を頼っている現代人。
・言葉で意思疎通は出来ない。
 言葉の背後のものを言葉で感じるに過ぎない。
 よって、理解を言葉のみで行う行為は却って誤解を生む。
・赤子の気持ちを介して育てると言葉を覚えるのが遅くなる理由。
 (そして喋るのが遅い赤子のその後の成長度合いと言語能力の素晴らしさについて。)
・言葉になるものに真実はあり得ないが、それを言葉化しようとするところには意味がある、という事。
・「言語」「型」「観念」の繋がりと瞑想との兼ね合い。
 即ち、「いのち」〜「生」〜「赤子」〜「大人」〜「捨俗」〜「再び現実に」との兼ね合い。
・隣人をなぜ師匠のようにお辞儀できないかの理由。
・野口晴哉師とヨガナンダの共通項。

  体〜野口晴哉〜
Date: 2009-10-13 (Tue)
誠に人間の体は面白い。
左に傾いていた胸椎八番を正しただけで生来の臆病が消失する。
副腎ホルモンの分泌が少なくなり風邪も引けなくなる程、体が鈍ってくると八番は飛び出す。そして依怙地になる。
正せば風邪を引けるようになり、人の意見も耳にする。
右に倒れれば、胃は拡張し、怠けがちになり、過敏になれば、少しの事に動転する。

此の如く、体は全ての心理状況を如実に現し、またその状況を調整し得る。
心理療法の世界でも、ミルトン・H・エリクソンを皮切りとした1960年代から始まる現代的な心理療法では、心と体との関係を重視し始めている。
私はNLP(神経言語プログラミング)を日本に始めて紹介したY恩師の許で心理療法、催眠療法を学んだが、師は実に寛容で幅広い視点を持っていた。
学びがアドヴァンスから直伝となり、最終的にはスーパーヴァイズ即ち実際にクライアントにセラピーを行う事になった時、師は私に身体面からのアプローチも用いるよう仰った程である。
トラウマ治療に画期的効果のあるTFTを更に発展させたFAP治療が進化したのも師の援助や後押しがあったからであろう。

そうした心と体の繫がりを深く研究し纏めた先達は整体の創始者故野口晴哉師である。
(現在では整体というとボキボキッという調整法をイメージされる事がある為、敢えて野口整体と呼称しているのは不可思議な事ではあるが)
師ほどに、体をそして心を細かく深く観察した人を私は知らない。
そして、その纏めあげられた知識は、いかに発展したといっても現在の心理療法の世界でも活用されていない。
(それは冒頭に掲げた八番一つをもって然り)
さらに、師は心との関係のみならず観察を進める。
即ち、八番なら地震の前には其処が捻じれる(直下型なら四番も)、
というように、外的な状況との連動、そうして体が未来を先取りしているという観察も纏めてゆく。
(ちなみに師は背骨を数秒観察しただけで、その人の過去の病気はもとより全ての人生体験を克明に言い当てたと云う。)

 私はそうした整体に興味を持ち勉強し始めて34年間経つ。亀のような歩みどころか行きつ戻りつの歩みで戻ったほうが多かったのではないか、とも思う。
 昨年までの数年間興味があったのは、瞑想の深化であった。
 何十年の修行よりも一回乃至数回の施術で瞑想が深まる事を何度となく体験した。
 もう一つは体に未来が現れているならば、それを変えられるのではないか、という事であった。
 それは私をして衝撃の事実であった。

 (然して現在、操法する者の意識(体)状態により、その時に現れる相手の体が異なる事が分かってから、それを尽き進めていく過程として、「現在」という定義を施術に求める事が難しくなる事も生じたため、単純に過去、未来とも言えなくなっている状況にある。
  それは相手の体が変化したという意味でなく、全く別の次元に移行した為に、その結果、別の過去、未来を提示されてしまうという事である。)
 
 そのような事を感じるにつれ、師が観察し纏めあげた身心の連動性はこの三次元的世界に於ての一つの文法と認めつつも、同時に、身心一如でない部分も現在の私は認めつつある。
 (それは、以前から私自身も体験していた幽体離脱のような体と心との不一致体験という意味だけではない事は上記( )内文章でお分かり戴けるかと思う。)

 そうした意味も含めて、やはり体は全くもって面白い。
 それ故、私が現在行っている「楽に楽しく生きるための道」として紹介している「氣道」では、体の事を今もって大切に扱っている。
 (注/「楽に楽しく」の為には、自身の本源、即ち自然(=道(タオ)=氣)の流れに則するのが最良と思ったため、「氣道」は(裡なる)自然に沿って生きる道と定義している。)
 
 それは、【氣道の学校】の初等〜中等の流れもそうだし、
 指導法である【氣道指導法講座】の初等〜中等の流れもそうである。
 (「指導法」の技術methodは、野口晴哉師とミルトン・H・エリクソンの統合である。)
 
※なお、【氣道の学校】つまり自身の身心を整えてゆく学校では、この年末年始に於て、初めて「高等」も紹介できる運びとなった。
  会員(「氣道」協会会員)の方には、今月末にお送りする会報にチラシが同封されると思うのでご参照戴きたい。)
 ※また指導法についても、来年9月以降「高等」をご紹介する予定である。

 
 先述したように、「氣道」の指導methodは野口晴哉とミルトン・H・エリクソンとの統合であるが、
 (それは断言できようが、勉強し日を追う毎に、それぞれの師が限りなく遠く感ずる日々である。)
 故に、今もって私は師の言葉に触れるにつれ、その行間、あるいは背後にある氣に触発される。
 
 この日記を盗み見る読者の中で、もし野口晴哉師の著書をお読みになっていない方がいらしたら、ぜひご一読をお薦めしたい。

 筑摩文庫でも数冊出ているが、お薦めは同じ著書でも文庫版ではなく、全生社から出版されているものだ。
 http://www.zensei.co.jp/ (全生社)

 (私は「治療の書」を最初に読み、次が「健康の自然法」であったが、後著は絶版故、ともかくピンとくる書から触れて戴けたらと思う。
  なお、通常は、「健康生活の原理」「愉氣法1」「風邪の効用」「整体法の基礎」あたりから、お薦めし、
  興味を持った方には、「体運動の構造T」「体癖T」か、   あるいは興味が師の根源にまでゆく方には、「偶感集」「治療の書」という私のバイブルと共に、「朴歯の下駄」「子育ての記」という奥方の著書を薦めている。
  (この「子育ての記」は、育児に興味の無い方にとっても、実生活での師のエピソードが多数ある為、師の動きのタイミングが身体感覚的に掴める事でお薦めしたい) )

 ……………………………………………………………………

 ここからは少しコマーシャルになるが、ご寛容戴きたい。

 「体運動の構造」をお持ちの方、あるいはご購入される方は、ぜひ180〜216ページをご一読して戴きたい。
 師の著書は、いつも胸椎の○番が、など分かりにくい記述もあるが、私も恩師(橋本貫光師)より二十歳の時に、
 「野口先生の文章は分からなくとも小説よりも面白い」
の言葉に同感で、人間あるいは自分自身に興味のある方には、とても面白く読めると思う。

 ただ、其処に書いてある技術に興味を持つ人もいるだろう。
 それはそうだ。
 自分の事ではなく人の調整に関心のある方なら、其処に書いてある「お腹を観て脊椎の状態を観察する」というのは、少なくとも私は興味があった。
 (しかし本には記載されていない)
 そうした方のため、現在、「野口晴哉研究会」を行っている。
 (次回が、今度の土曜日の午後3〜6時であり、その内容は上記の範囲である。)

 つまり、其処にあった内容の「疑問点に全てお答えし」かつ「必要な技術」を公開するというものである。
 当会(「氣道」協会)でも、後日DVDとして販売する予定ではあるが、実際に見たものとは違うだろう。

 なお、この「体運動の構造T」以降を行う予定は現在のところは無い。
 (また残る「冷え」「乾き」についても、今年(11月、12月)は、先述の【氣道の学校】高等準備の為お休みさせて戴く)

 最後がコマーシャルで申し訳ないのであるが、希有な機会であるとはも思う故、
 もし先述の部分をお読みになって興味ある方はどうぞ遠慮なくいらして戴きたい。
 (本当に遠慮なく。
  なお、この講座の最初は、同文書(同ページ)の内容確認の為にテストを行うが、これは単なる余興であって、テストによって自身の勉強がたとえ一夜漬けであっても促進される方は活用して欲しい。
  それだけの意味であるので、テストに意味をおかず、気軽に何の勉強もせずいらして下さって構わない。)

 大事な事なので、もう一度言おう。
 同ページを見て興味を抱いた方なら、
 いえ、読まない方でも、興味がある方なら、

 「全く勉強せず、一読もせずいらして下さっても構わない。」
 
 必ずや得る事はあるであろう。
 (まあ、復習として同本の同ページを見て戴けたら、ご本人としては学びになるだろうが、
  そこまで身につけなくとも、得られる事は大きいだろう。)

 
 この講座はもとより恩師岡島瑞徳に捧げるつもりで行っていた。
 (今年は終了したが、関西での整体講座もそうであった。)
 野口晴哉研究会という名称もそうであった。
 岡島先生からは実に多くの事を学んだが、その一番がこの「体運動の構造」にある全ての技術であったと言っていい。
 
 同日には、いつも関西からも数名いらっしゃる。
 そういう意味ではなく私はこの講座に毎月(今年は最後であるが)向っている。
 先生(岡島先生)から教わり、数十年経ち、同じ本をもとに講座を行うという事は、私自身様々な意味が在った。
 その一番は何よりこの講座を行う契機となった先生への餞のためである。
 単なる模倣でなく、先生も喜ぶような講座を作らんと頑張ってきた講座である。

 その意味でも大事な事なので、再再度言う。

「全く勉強せず、一読もせずいらして下さっても「全く」構わない。」

 ……………………………………………………………………

 そんな個人的独白はさて於て、
 久々に日記に迎える歓びを感ずる。
  (実は、一昨日夜、自分に於てはこの数年無い如くの素晴らしい(?!)という日記を書いたつもりであったが、最後に全て消えてしまった経緯がある。
 (ちなみに其処で書いた内容は今日の内容にも孕んでいるが、今日は申し訳ない。)

 今後は、先述したように、年末の「高等」に向け、
 そしてこれは書いていないが、今月24日から始まる「指導法(整体)中等」に向け頑張りたい。
 (DVDもとるが「氣道」の集大成であろう。)

 …………………………………………………………………

※次の日記は、此処に掲げようと思いつつも掲げられなかった文章(本の紹介もある)になると思うが、
 「自然掲示板」http://8003.teacup.com/joho1/bbsを始め、頓挫しているところが多いので、如何なる事やら。
 

   涅槃 (ニルヴァーナ)
Date: 2009-08-22
 確かゴールデンウィークの頃だったか、この日記にて
「今後は、こうした順序で書きます。そして最後は動画の紹介になる。」と書いておきながら、数日以内どころか、数週間、それどころか実に数ヶ月が経ってしまった。
 月日は経ったが、ともかく今回でその時からの流れが完結する事になる。
 (何とか公約を守れた次第である。(日記で公約というのも変なのであるが、ここを盗み読みされる方の為に…)
  また、公約?をしたのは、おそらく関西での【氣道の学校】中に書いた「夢(0)」の前後あたりではないだろうか、もう一年以上経っている感がある為、不確かではあるが、その時からのこの日記は、今日の完結までの一連の流れである故(時々の話題は別として)、最近この日記を盗み読みし始めた不埒な方は、ぜひその時の項からお読みになって戴きたい。
 様々な「観念」に対する話題から、観念あるが故に、私たちは意識的にせよ無意識的にせよ氣を設定しまっており、そして同時に愉氣になってしまうこと(設定愉氣)、それでは0に戻るには如何にしたらいいのか、という、この日記にて繰り返し繰り返し語り続けている事が、この数ヶ月の一連の流れで纏まっているとも言えるとも思うからである。
 (逆に言えば、この数ヶ月の一連の流れも、「何十年前からいつも言っている事ね。」と思われる方もいるだろう。
  そうした方の存在こそ私はうれしい。)

 ともかく、長らくお待たせ致しました。
 いよいよ完結となる。

 ………………………………………………………………………………………
 
 以下に、二つのアドレスを掲げる。
 連続の動画故、必ず1から観て戴きたい。
 なお、少しでもご興味のある方は、今はアップロードされていないが(アップロードされた時点でここに公開しよう)、
 私が行っている【氣道の学校】(中等=【心の学校】)のご参加を心からお薦めしたい。

 何故なら、私は氣道家の端くれなのであるが、(注/氣道とは氣(即ちタオ)に沿って生きる道=自然に沿って生きる道)
 そのため、私がこの自分の日記で書くことというのは、時々の話題は別にしても、どうしても氣道に関わることになってしまう。
 この動画もその延長である。
 そして、この動画こそ、或る意味で「氣道」の目指しているものと思う。
 (ただ、この動画の主人公は脳梗塞を体験した科学者である(大変せわしなく喋っているが、氣が途切れない点は評価できよう)が、彼女の体験が【氣道の学校】で体験されるものと同一とは限らない。
  【氣道の学校】で体験されるものは、もっと細かくもっと閑かで敷衍的なものである。)

  ───その事。
  この動画を紹介するにあたって、何故だろうか、とこの数ヶ月考えていた。
  最近思うのは、やはり右脳故なのだな、という事。
  即ち、確かに右脳の世界に完全にいけば、(私も大変いきやすいタイプなのであるが)そうなる。
  然し、【氣道の学校】(【心の学校】)では、両脳を活性化させた時点で(これは現在、速読法を【心の学校】の初日から外しているため具体的には行わないが特に今回は【夢の学校】一日講座を設けているため、それに準じたあるいはそれ以上の活性化が望めるかもしれない)、
思考を限りなく鎮めてゆく。(右脳をも)
  そのため、脳の領域を超えた感覚を味わう事になる。
  (臨死体験は右脳も含めて脳死状態で起こっている)
  おそらく、それが彼女が味わった体験と私たちが味わうであろう経験との相違の理由なのではないかと思う。
  しかし、たとえそうであっても、彼女の体験、即ちこの動画の意義はあろう。
  (だからこそ、この一連の流れの最後に持ってきたわけである。)
 
 ………………………………………………………………………………………
 
 1、 http://www.youtube.com/watch?v=Jza9z_n7Ju0
 2、 http://www.youtube.com/watch?v=NRMx87tfxkE

………………………………………………………………………………………

※なお、この動画に興味を持たれた方にお薦めしている先述した【氣道の学校】は、年に二回程行っているが、
 今年後半では9月19〜26日に行う。(場所は東京江東区(菊川))
 (先に書いた【夢の学校】一日講座(願望実現講座)は20日であり、その日のみの単独受講も可であるが、この動画の主旨とはやや外れる。)
 連絡先は045-261-3300(Fax045−261−3304)。
 該当資料をお送りするので、ご興味ある方は遠慮なくご連絡戴きたい。
 (なお、同学校はマンツーマン指導が出来るよう少人数限定としている(通常6名)。
  また現在、薬を服用されている方や精神的に不安定な方など、お断りするケースもある事はご了解戴きたい。)

  夢中夢
Date: 2009-08-17 (Mon)
 夢を見る(覚えている)事の少ない私が最近見る夢は面白い。
 前回(8/5)は、夢を創り出している源を味わい驚いた経験であったが、今回は其処は味わえないいわゆる映画としての映しの夢であった。
 しかし、それは以前に書いた何度夢から醒めても夢であるという自覚夢(覚醒夢)の白陰の軸外軸ならぬ「夢外夢」であったが、今回は同じ自覚夢(覚醒夢)であっても、その逆に近かった。
 
 逆というと、自覚夢故、夢の中で、それが夢である事を知った上で…
 その中でまた眠り、夢を観るということである。
 そしてその夢の中でもまた夢を観る…それが合わせ鏡の如くに無限に行われる。
 即ち「夢中夢」である。

 こうした夢を観た経験も、もしかしたらあるのかもしれないが、多くの「夢外夢」の経験や、瞑想中での経験によって、敢えて今後する必要はないだろう。

 この日は、現実と全く同じ状況を自覚夢として観た。
 即ち、夢外夢でも夢中夢でもない、まさしく今、寢ている夢である。
 しかしOOBE(体外離脱)ではない。
 なのに、現実の体も把握できる。(その意味では単純な自覚夢でもない)
 現実と夢との二つを同時に把握し、その双方が自由に動いていく。
 
 私たちの今生きている現実は、私たち自身が思っている以上の不可思議さがあるのである。
 
※なお、夢について興味のある方は、
 「【夢を視る、自分を知る】」(講師/大道かほ莉)という講座をぜひご活用戴きたく思う。
 私は、夢については10歳より、ユング心理学の大学講師をしていた恩師(麻原雄)に教わり、その後フロイトや野口晴哉や仙道の夢分析に至るまで数多くの夢分析方法に触れてきた。
 その結果、ユングの連想法を適用したオリジナルな分析法も考案したが、私が信頼できる数少ない指導家の大道かほ莉氏の「夢」に対する造詣の深さは、それらを遥かに凌駕すると確信する。
 
 偶然、今回の日記が夢の話であり、そしてまた講座間近であったため、紹介を兼ねて書かせて頂いている。
 (紹介…というのは、今回はいつものような定員御礼ではなく、まだ充分に空きがあるのである。)
 
 繰り返しになるが、「夢」についてご興味のある方は、ぜひご活用されるといいと思う。
 今後、あらゆる「夢」に対しての本やセミナーに触れる以上のものが得られる事を確信している。
 (残念なのは、今回の講座のDVD(あるいはCD収録)を行わない、という点である(現在、最後のお願いをしている段階ではあるが…)。
  その事もあるため、ここで紹介している訳である。
 (今後、観た夢に対して、ユング〜晴哉(それは私が言えるが)の分析ではなく、適切な判断を下したり、あるいは活用法を学ぶ機会を、本やインターネットで得るのは難しいと思う為。)
  つまり、宣伝ではなく、個人的な気持ちとしては、大変僣越な表現なのであるが、皆さまが「後悔しないで戴きたい」ためだけに、この※以降を書いた。それ以外に、紹介の理由は「全く」無い。)
※否、それ以外に一つあるとしたら大道かほ莉先生に直に会える事であろう。
 なお、この講座の参考アドレスはhttp://npo-kido.com/tokubetu.html#visionである。

http://npo-kido.com/tokubetu.html#vision


  禮(礼)  
Date: 2009-08-13 (Thu)
生命はシンメトリックからは生まれない。
某かの歪みが生じた時に発生する。
即ち、生ある者に個性があるのではなく、個性生ずる時に生が生まれた。

この事、何十度となく述べたことであるが、ともあれ、
偏在する氣、即ちタオ、宇宙意識、源、いのち、という偏りない天心の氣より私たちは生まれた。
「より良くならん」という設定の意思(氣)、即ち歪み、個性を持つことに因って。

故に、潛在意識(感覚的身体)や物理的身体、即ち自我には、常に「より良くならん」という働きが在る。
それによって、私たちは、生活の様々な場面で、より良く生きようと溌剌とし、或る時は楽しみ、また或る時はそれが出来ないがために苦しむ。

「より良くならん」という本能があることによって、世俗上の全ての楽と苦は生ずる訳だが、
その本能の設定が誤りということでは無いだろう。
何故なら、それあるが故に私たちは生まれてきたのであるから。

而して、自我や思考が増大し、「より良くならん」が肥大してくると、楽しさや苦しさに価値付け(即ちもう一つの設定愉氣)をしたり、あるいは、その苦しみがある事に対して苦しむという図式の愉氣にまで至る。
即ち、私たちの源である0、天心の氣から離れてしまう。
頭脳ある人間の不幸の多く、否全てが、源の氣からの乖離現象ではないかと思う。

花を育てれば「美しくなって」という設定愉氣を行う。
子供を持てば「元気に育ってほしい」という設定愉氣を行う。
私たちは、自然治癒力という本能の「より良くならん」というそれあるが故に生まれてきた働きだけではなく、
他に対しても、「より良くなってほしい」という思いが、源からか神からか分からないが伝授されている。
あるいはそれさえも自分で思ったが故に生まれてきたのか。
(どちらにせよ、元を正せば源がほんとうの私なのだから、同じ事になるのだが…)

それ故、人は自分だけでなく、人をも「より良くなってほしい」という本能を持つ訳であるが、
それを、野口晴哉先生は、人間だけがなぜ他の動物よりも早く(13ヶ月分)産まれてくるのか、の理由としている。
そうでなくては、赤子を育てられない。
そしてその意味では性善説と言えよう。
そして、その本能により、私たち全員(!)親から育てられてきた。
今、生きているという事はそういう事だ。

しかし、植物や人など、他に対する「より良くなってほしい」という想い(即ち根源的な設定愉氣)も、自分自身同様に、足かせになってしまう事がある。

滝に行けば余程自然の滝でない限り、私はその滝にすでにかかった結界その他の設定愉氣を外すことから始める。
行者の想いや結界が残っている場合が多いからである。
そして、その上で、行をされる方の身の安全と、それぞれの人の行の深まりを願って、結界という設定愉氣をさせて戴く。
そして行が終わったあとは外す。
それが、滝という自然の一部を、行というたとえそれが禊ぎであっても、人為的行為による影響(即ち設定愉氣の影響)をから外し、自然に戻したいが為である。

私たちは、一日の中でも、数多くの設定愉氣をしている。
たった5分間であっても、自己凝視し、その間に浮かぶ思考や感情を調べてみると驚くことだろう。
否、一秒の中でも無数の思考が飛び交うことに気付くこともある。
愉氣とは対象に意識を集めることを言う。
そして思考働く限り、私たちは様々なことに無意識的に愉氣をしてしまっている。
しかも天心ではない無意識にまかせた設定の愉氣を。
即ち、この世は設定愉氣の応酬と言っていい。
そしてその応酬によって、現在のこの世が創られていると言ってもいい。

ならば、どうしたらいいのだろう。

たとえ、それが大河の一滴であってもいい。
私たち一人一人が、自身の思考、感情に気づき、無意識で行っている設定愉氣に気付くことから始めたい。

私は氣道という根源の氣に則して生くる道、即ち自然に沿って生くる道を提唱しているが、
そこでは、自身の身体(潛在意識)の声を聞くことから始め、(体の学校)
続いて、無意識で行っている設定愉氣、即ち観念に気づき、身体(潛在意識)をクリーニングすることによってそれらから自由になってゆく事を推奨している。(心の学校)

即ち、大河の一滴と書いたが、まずは全てのことを自分自身の責任、というか自分が捉えたこと、そして自分が創ったこと捉え、自分自身の浄化、禊ぎを初めに推奨している。
そしてそうした氣の道にご賛同して下さり、研鑽をされる機会や場を求める方のため「氣道」協会という組織を創った。
(こういう考えは変っているため、ご賛同戴く方のみを対象とした会員制度の形をとっている。)

しかし、その代表である私自身が、果たしてどの程度、自身の事や、他のことに対して、無意識的な設定愉氣をせずに、即ち自分の思考や感情をワイパーのようにチェックして、天心で向かえているか、というと、本当に出来ていないことばかりに気付く。
(夜、恵比寿を飲んでいる時だけは勘弁…という逃げ道を作っているのは時間制限があるので、まだ許される?としても、朝起きてから生活の中でどれだけ出来ているのだろう。
 一秒を無限大のように細かく細かく捉えられた時があっても、逆に数分であっても(それが思考を働かして集中する仕事ならば仕方ないにせよ)、無意識的に思考を動かして、設定愉氣をしてしまっている事に気付くこともある。
 即ち、私自身が完全に出来ているにほど遠い者である。
 それでも以前よりはマシかもしれないが、マシになるにつれ、更に今まで気付かなかった背後の思考や感情が隠れていたことに気付く。そのため、ある時は落胆、またある時はそれに奮起するのだが、それ自体が設定愉氣、即ち観念による愉氣である事に気づき更なる精進を促される。)

 私の話が続いて恐縮だが、(日記なので勘弁して頂きたい)
仕事上、人の体に触れることが多い。
 その時は、出来るだけ天心で触れるよう日々勤めている。
 しかし、ある場所に触れると、ちょうど滝行のように、今回はここを変えれば良いという観念が生じ、其処を変えるためにはこの場処であろうと調べ、そしてその場処が変って欲しいと思ってしまう事も多い。
 そうした細かい話でなくとも、たとえば赤ちゃんなら、より元気になるように、とか、末期の癌の方なら、少しでも楽になるようにと思ってしまう。
 それは、先に申し上げたように本能にインストールされたがために生ずるものではあるが、完全なる設定愉氣である。
 而して、それは否定はしない。
 しかし、それだけではいけない事も長年の経験で知っている。
 即ち、「より良くならん」「より良くしたい」という私たちが生まれた理由でもある最深最大の設定さえも、増大する事によって、天心の氣から離れないようにしなくてはならないと思う。

 そのため、7月27日の日記(題名「蓮」)では、
「良くなって欲しいという止むに止まれぬ情熱から解き放たれた時、癒しが訪れる。
 より良くならんという執着を手放せた時、進歩が訪れる。」
 と書いた。
(即ち、7月27日の文章を補足するためだけに上記の文章を書いた次第である。)


 だからこそ、
 氣の道の個人指導(整体)は、『生命に対する禮(礼)』としてのみ存在する。

 (いみじくも私は、ただそのために生きていると言っていい。
  しかし、日々、それ(生命に対する禮)が出来ていない自分に気付く。
  (或る時は「より良くなって欲しい」という本能の設定愉氣のまま貫く、即ち「ここが良くなる」という愉氣をする事もある。もちろんそれは同時にその人の源、0への回帰がその後訪れることを知りつつだが、それが違っている事もあっただろう。
   逆に天心の愉氣ではなく、あの人の場合は足首にだけ紫色のそしてAminorの、そして自身はS3に内感する設定愉氣を行ったほうが良いこともあったろう。
   同様、恋する男に天心で愉氣をするうちに、それがその恋実るような色合いになったのに、天心に戻そうとして却って乱してしまったこともある。そのまま全うさせたほうがもう少し早く、即ち27日の日記の如く、その恋は恋の「まま」愛にもなったろう。
   然して、天心とは本能のそうした設定愉氣も孕んでいるのかもしれないが、愉氣する者は、自身の鍛練としてただただ天心に向うことが要されよう。
  来る者拒まず、去るもの追わず…
   そして、どんなに強い愛憎があっても、そうどんなに罵詈雑言や酷いことをあっても、その人を愛そう。
   その人に天心の愉氣をしよう。
   何故なら、それは自分がそう捉えているに過ぎないし、そしてまたそれが勘違いであっても、それを創っているのは私自身なのであるから。
   
   ───そうした反省が日々繰り返される。)
   
  私の性格(プラクリティ)上、ついその時々の感情に流される事もあり、気儘にしか出来ない事も多いが、それでも常に氣道家の端くれにはなりたく思っている。
  たとえ気儘であっても、天心の愉氣に対する即ち真の愛に対する真剣さは時々忘れてはなるまいと思っている。)

 ……………………………………………………………………………………

───ともあれ、上述した如くの、このような変わった私の考え(「氣の道」)に賛同してくれる方なら、ぜひいらっしゃり共に研鑽したり指導をさせて戴く、という意味で、会員制度の形にて行っている次第である(「氣道」協会)。
 
※(ご興味ある方は、mail@npo-kido.comまで資料請求をどうぞ。
 なお、ホームページはhttp://npo-kido.com/なのであるが、近々数ヶ月後には改定する予定なので、(変えよう変えようと長年思いつつ今もって同じ形なのである)
 正直、現在のホームページでの印象は、私が伝えたいものと違うところが続いている為、特別講座や定例講座、スケジュール表などのみ参考にして戴けたらと願っている。)

※さて、観念による無意識的な設定愉氣をしない状態、即ち、思考や観念がニュートラルになる状態を私たちは求め、(なお、その事にご賛同戴ける変わった方のみ会員になって頂きたく入門会その他を行っている)
それを瞑想etc.を通して実現するために当会では【心の学校】(即ち【氣道の学校】中等)を行っている、と書いたが、
 それに関連する動画を次回紹介したい。

(即ち、その紹介により、
 数ヶ月前(半年前?)からこの日記にて、
「この順序で書きます。ただ間に時々の話題も入ります。」と言った流れがようやく完成されるという訳である。
 (ちなみに今日の文章は、いつもいつも書いている事なので、時々の話題というよりは、CDで言えばライナーノートを解説するライナーノートという位置づけである故、以前から日記を盗み読みされている?方には申し訳ない。)
 即ち、ホ・オポノポノ〜設定愉氣の紹介〜実際の整体現場の紹介〜【心の学校】(【氣道の学校】中等)に関する動画という流れの完成が、ようやく次回で出来そうというわけである。
 (なお、ホ・オポノポノに関しては一度アップロードしてしたのだが、講座参加者の守秘義務に抵触する恐れがあるため翌日削除させて戴いた。どうかご了解戴きたい。)

 どうぞ、ご期待?頂きたい。

  「氣道」創始 3 (1よりお読みください。なおこの3は後日校正するだろう)
Date: 2009-3月と書いたが元々は2月のよう
 (これ以降校正必要。上記も校正し、以下まとめる事)

    なお、この方は、私の薦め通り、その翌月もタイミング良く受けられた。(3/14)
    ちょうど、その日の整体後に新ためてその方を誘って自宅にて数十分歓談をした経緯を日記にも書いたので、以下その日記よりそのまま転載する。
「左膝と腰椎3、4番との連動、良し。5番右の硬直無しまま、股関節良し。
胸椎2、3番がいらした時より突出したのは会話のためと、その時に顔を右に向ける形だったため、頸椎4番の矛盾が逆に少なくなり、胸椎2、3番に浮上されたのだろう。
胸椎7〜8番の安定は、5、6番と連動しているようだが、それは一杯のビールと共に落ち着いたためというよりは、まだビールは胃に残っており、それよりも、話の内容に集中していたため頸椎2番との連動で5番が緊張した事を証す。
そのお体を見てとても嬉しく思うと同時に、明日の変化を思う。
おそらく今日は眠いのだが、そして安心な感覚と共に何か一つ残るような就寝になるのかもしれない。それは今述べた変化だけの理由ではなく、季節的変動による骨盤の上がりのせいもある。(それは自然な事故、今日いらっしゃる前に日中受けられた整体では解除していない。)
今日のテーマであった腰椎5番右は左足矯体に依って緩解させたが、それは季節的な変動に依るものでは無いために行ったのであるが、その効果もまだ残っている。しかし本人の体の中で統合され落ち着くのは、どんなに早くとも明日の午前中以降だろう。
明後日は腰、骨盤は安定するが、その為かえって上胸部と首に緊張がいきやすい。
しかしその方に限らず今日受けられた方々の背骨の弾力(特に乾き方からすると)明後日の天候は晴れか(そうでなくとも曇り)だと思うので、その方の場合上胸部と首の緊張まではいかないと推測する。
その天候の為気分も安定し、かつ晴れやかになるだろう。
お彼岸ころに一つの小変化がある、これは天候とも関係する。
細かく言えば切りが無いが、ここまで玄関でのご挨拶の後、みおくりびととして、この十数分の来訪によっての変化を見たく、その後20m位離れた所から後姿を2秒位観察した事を書いた。

(ちなみに今日行った操法は、ご本人がハンカチを忘れたため、互いの礼の前に、座姿での観察、ハンカチが訪れ、礼をせずに!うつ伏せになって戴き、続いて仰臥の観察。
 一ヶ月前の操法と、その時宿題として提示したその方に合わせた体操がどのように影響しているかを観る。同時にそれ以外の変化を観る。それは先述した腰椎5番右であるが焦点はその一点に絞られる。動きは恥骨にあり、それは一週間前からそうであろう。
 右側腹つまり胸椎10番とそれ以上に腰椎3番の動きが邪魔しているのをどう対処してゆくか。体癖は否、現在の体周期特性(体の波)も捻じれる時期では無いのに。
 その他様々な事を観察し、その一点の為の操法を設計して行う。焦点である腰椎5番の変動を作った部位を、設計した順序で解消した後、焦点の為に先述の左脚を用いる矯正操法と保ちの踵操法のみ行う。最後は腹部操法で全身の統合を図る。
 その後、その人に相応しい体操を提示する。
 (体が前日までに予想していたものと若干異なっていた為、前日その方にメールしたものとは角度が異なっていたのと呼吸の仕方が反対であった。)
 上記は極く簡略した説明であり、他にも様々な観察点はあった。
 そして、その方とは整体後、数時間後再び来訪され、その後みおくりびとになった次第。)

見送った後、二階に戻り思うのは、数週間、数ヶ月という単位の波ではなく、もっと大きな彼の体の波の事。
前回や今日観察した時点でもそれは思ってはいたし、その前の歓談でもその話が出ていただが再度それを確かめる。
やはりその方に先月申し上げたように、この数年では一番変化ある年であり、同時に体に大きな変化を及ぼせる時期であり、それは、丁度「心理指導法講座」(DVDにも残っている)にご参加された時と、とても共通項がある。
この事はその人に言っていないが、久しぶりに活用出来る大きなターニングポイントが来たと思っている。

その樣に生物には何年周期の大きな波がある。それ以上の何十年周期の波もある。
生きる者は、その波と共に生き、否、波を求めて生を、個性を纏ったのかもしれないと思う。
面白いのは短期の波は長期の波の縮図であり、その中にも全てが孕まれている。逆もまた真也。
しかし実際のところその方の数十年の波を把握してその上で現在のその方の体を観る事は中々に難しい。
けれども、それを踏まえて相手の身心に対峙して自然性を喚起させるのが氣道の個人指導の理想の姿だろう。

実際、生きる者を観る時、そうした幾重もの波を感じざるを得ない。
変化しない事は、変化するという事だけなのである。
私たちは常に動きの中にあり、それは運命とも言えるその方の大きな波、というか深い部分にある流れにも連動していると観察する。
その運命自体、大きな深い波とそれにより現れる現実自体を読み取る事は現在の私にとって多く困難な事であるが、ただ読み取ろうとするところに「いのち」に対峙する者の立処の何かがあると思っている。
(だからこそ逆に言えば、占い的な事を否定してしまうのだろう。
 感覚するものはいつも不確かであり、また感覚したと同時に変化する。
 即ち、占いを否定する理由は、その断定的な側面であり、断定した時点でそれは変化してしまうし(実際関東に地震があるという噂が広まる事はその地震自体を回避する事に繋がると言う)、同時に、過去に過ぎなくなってしまうからである。)

地震と言えば、その前は胸椎8番が変化する、直下型地震の場合は4番も。阪神大震災の場合は7番も変化した方が多いと言う。
台風が此処に上陸するなら胸椎3番と10番が、という様な読み取りは割と簡単である。
しかし先述のように長期的な観察になる程、難しくなる。
単に観察眼を細かく練成してゆくという事だけでなく、自身の氣の質、即ち瞑想の深さを鍛練する事が必要となり、それ即ち真の意味の観察眼の養成と言える。

ただ、その人にとって最も長期の波である運命は確実に言える。
それは、生まれた時から、死ぬと約束されているという事である。
その宿命が生きる体にどう現れているのか。

其れは現れている。
いみじくも私はいのちの講座で語ったように、赤ん坊と死に逝く人との共通項を知っている。
それは先の言い方で言えば瞑想を主体とする観察眼であり、その人の生まれてから死ぬまでの大きな波、中の波、小の波を読むよりはたやすい。
しかし、私にとって其れは指導の原点であり、同時に私がこの仕事が行える唯一の拠り所でもある。
今後は、その感覚をもっと確かに感じ、生きている間の波への観察眼に結びつけていきたい。」

   
  Dさんの場合
   この方は設定愉氣を何度も活用されている。今日のリクエストは無いとの事であったが、「視力回復」の氣(エネルギー)を改めて作成したばかりだったので、そのモニターになって頂く。
   もともと眼の疲労から胸椎1〜3番に硬直が出やすく、その為もあり腰椎1番が右上左下捻じれになりがちの癖がある。
   体癖は上下ではないので、よくそれらを操法の焦点としながら、現在の身心の動きに即して他処の焦点とを組み合わせて設計する事が多いが、この日は眼の系統だけを焦点、操法点とし、それらが変わった所で、「視力回復」の設定愉氣を行う。
   (もちろん一生残る愉氣(KF設定)で、オート&マニュアル設定(その時の体調に合わせて自動的に視力を調整する&必要があれば視力upの氣を自分で最大限まで全開できる設定)とキャンセル設定(伝授した愉氣を取り除く事が出来る設定)の三つも含まれている。)
   整体後、左眼を開ける事が出来ないと言われる。(当然その方は反応である事をご承知。)

 (・この如く一人一人に様々なドラマがあるのはもちろん、一回の整体指導にも上記出来ない様々なドラマがある。
   指導の時間は、どの方も現在は5〜10分程度であるが(これは今回の方に限らず、外国からいらした方でも同様である。そのため宿題の行い方は受付の者に教わる形である)、H師は一分であったように、短い時間ほど効果は高い。
   短くとも適切で無ければそれは長い事になる。(その適切さを求めて、私たちは修行する。)


Eさんの場合
今回の整体は身心の調整ではなく、自分の関わる仕事や仕事場の流れを円滑にしたいという希望であった。
伺うとEさんご自身が仕事やそれに関わる人間関係などで困っている訳ではなく、また職場の雰囲気を変えたいという事でもなく、職場に関わる全員の仕事が更に円滑にいくように、という事であった。
Eさんご自身は、社長でも部長でもない一従業員としての立場であると言うので、「それだったら直接、思いつく改善方法を上司や皆さんに言ったらどうか。」と言うと、「氣道の立処として全ての事は自分の現れだと思うので、私の中にある仕事における部分を完全にクリーンにしたいので、その為の整体をお願いしたい。」と答えられた。
また心象内感愉氣を初め、【氣道の学校】でのmethodは行っているとの事で、少し困ってしまった。
私はその職場の仕事全体の氣を感じた上で、「そこまで内観者の立場にならなくとも、貴方は既に充分行っているのだし、また、現在はそうした感覚的な事ではなく、具体的にアドヴァイスしてゆくほうが良いし、職場の氣もそうした段階にある感じがしますよ。」と申し上げ、続けて「仕事場で問題と思われる事や改善点と思われる事を思い浮かべた時に浮上する内感部位に愉氣をするのではなく、『どうしたら良いか?』と身体対話法を行い、得られた答えをリストアップして書いておくと良いですよ。」と申し上げた。
それでもEさんは「それは行いますが、それでも今回の整体はその目的に絞って戴きたい。」との事だったので、結局その目的のための整体を行う事にした。
Eさんの職場での仕事の氣を再度調べ、その氣のマイナスを抜くその他二種類の愉氣を行い、続けてEさんと仕事との「間の氣」を取出し、確認&三種類の愉氣をする。 同様、Eさんの中での仕事の部分の氣を取出し同様に行う。
Eさんのご要望が、自身が変わる事で職場での全ての仕事が円滑にゆくという事であったので、快医学のバイオインターネットを応用した手法で、Eさんの身心自体をEさんが持っているその問題自体にした。
即ち、Eさんの身心を調律する事が、Eさんの中のその問題を調整する事に特化される訳である。
着手し、D6、10、L4に特に焦点を感じ、実際の物理的観察によってそれを確認する。その部位は、いつものEさんの身体焦点と同じ部分もあるが、違う処もある。同じ部分があるのは、仕事の問題自体がやはりEさんという身体が持っているものであるから重複する部分がやはりあるのであろう。
それらを変える操法を設計し行う。操点は頭部第二近辺(これは内感(愉氣2)して浮上したもの)と、いつもには無い右アキレス腱、同3〜4指間、D6右一側の処理、その他であり、それらの操法をしつつ、内感も行って確かめかつ私自身の感覚的身体で処理をする。(その処理の仕方として一つは【氣道の学校】で以前紹介していたしつこいカルマ処理も行う)
最後の仰臥では、右中指等の愉氣も行うが最終的には、目と物理的身体的にも変動あり、また感覚的身体としては両足などかなり様々な処に散らばっていた臍への愉氣となり、それは愉氣1と2を自動的に相互に行うものと、愉氣3、そして瞑想に至るなど、『自動操法的愉氣』を暫し行った。
最終的に無の瞑想から全感に至り、そして現実に戻るという【氣道の学校】の前半から後半の間に訪れる流れと同様になり、其処から機を捉えて放手しつつ終了の言葉をかけた。
身体を動かしづらい感のあるEさんであった為、その儘にさせようかとも思ったが、起き上がられ始めた為、礼をする。
「何か…行って…おくと良い事は」と聞かれたので先述の右足3〜4指間の上、右足を足す足湯を薦めた。
其処は、Eさんの職場の持つ仕事での問題点でも、現在の活性点でも無いが、そこが職場にとって誰もが気付かない透明な観念(=ストコーマ)の場処であり、Eさんの現在の職場、仕事を変えた整体後となっては、そこ自体を変化させる事が出来、それによって更に職場の仕事が改善されると思ったからである。
指導前は困ったリクエストと思ったが、現在では一旦抱えてしまったせいもあるが、次回のEさんの仕事場の状況変化やその為の指導設計が楽しみになった。


  ・また、実際のケース故、行った心理技術はほぼ割愛させて頂いている。

    

《指導後》  ・今日の方々のカルテを俯瞰し、氣(エネルギー)の確認をする。
       不思議な事に、カルテ自体の印象が非常に変化している。
       (準備の段階、即ち指導前からそうなり、即ち指導は準備が出来ていないからこそ指導が在る。
        けれども現在の私のレベルではやはり実際の指導が必要な事が多く、そのためカルテの感覚も残念ながら指導後にも変化する事が多い。)
       その段階で再度、調整を行う。(「整体」6)
       ・その後、どうしても思い出す事が多いので、それぞれに今後の後押しのため、氣(エネルギー)のレベルから遠隔愉氣する。(「整体」7)
    
       ・夜、何度も整体をしている夢で起こされる場合もあるが、必ずキチンと整体を夢中でも行い、また、それらの方々には起きてからも行う事。
        また同時に時間軸に縛られないように、瞑想を行う。
        それによって互いが純化されるのはもちろん、依存で無い整体に更になり得る。
    
    …というか、先述したように、実際の現場が未来(そこで終了)なのである。
   
 ……………………………………………………………………

 以上、掲載したが、
 ともかく、これらは現時点(2009年初春)の報告に過ぎない。
 (現在では、ベンジャミンクレームの手法を指導前に行い、そのためもあってか、多くの部分が割愛され纏められつつある。)

 昨年までこの二十年間、晴哉先生の素晴らしさに頭を垂れ、技術ではなく、愉氣を、天心の愉氣を追い求めていた。
 
 そのために何より重要な瞑想その他、氣道メソッドに明けくれた。
 しかし、今後は愉氣の質ばかり深めるのではなく、指導技術や数十年もの観察をも出来るよう精進したく思っている。

  (2009・8月)
 ………………………………………………………………………

 もし、ここに掲げた整体(氣道個人指導)に興味のある方は、
mail@npo-kido.com(事務局メールアドレス)か、045-261-3300(事務局電話)までどうぞ。

 

  「氣道」創始 2〜(「部隊裏」故、日記を盗み読みされる方は必ず下からお読み下さい)
Date: 2009-08-07 (Fri)
…………………………………………………………………………………………

 今回は、【個人指導(=整体)】を行う際の『舞台裏』を公開する。
 即ち、指導者が整体指導(氣道個人指導)に際して実際どのように臨んでいるのかの初公開である。
未熟故恥ずかしいが、【個人指導(整体)】を含め氣道の「指導を行う方」あるいは今後行われたい方にとって某かの参考になればと思い書いた。
 なお、以下の文章は極々かい摘んでの筆記である為、実際にはそれ以上の事を行う。逆に下記にあっても敢えて行わない場合もある。
 また整体は個人指導故、人によって全く異なるし、また準備を含め技術の面に於ても日進月歩であり、こうして書くこの数日でもかなり進化を遂げ、更に様々な事を統合している故、下記はあくまで2009年2月現在の指導舞台裏一断面である事、ご了解戴きたい。

 ……………………………………………………………………………………………

《指導前日まで》
  ・予約表にて明日いらっしゃる方の名前を見て、その方々の身心状況を推察し、氣(エネルギー)レベルでの観察と様々な調整を行う。「整体1(一回目という意)」
   (なお、その行い方は後記《指導当日》に記す。)
  ・その上で、明日の天候と身心状況の変化を鑑み、明日行う操法や宿題その他を暫定する。
(なお天候とは単に天気の事だけでなく、場の影響を指す。つまり地震その他の天災も含む)
・いらっしゃる方々の身心状況の流れと天候とをかみ合わせて、どうした音楽(BGM)をかけると全員が纏まるかを推察する。
・場合によっては、夜あるいは就寝直前、明日いらっしゃる方々の身心状態、それに行う必要がある整体を再確認し、かつ再調整を行う。「整体2」
 (なお当日での予約が指導者の許可を得ているのはこの前日での準備の為が大きい。)

《指導当日》
  (以下は、順不同となる事多し)
  ・昨日同様、今日の天候とその身体変化を確認し、この1〜2年の数ヶ月単位の季節の流れと数週間、数日といった短いスパンでの天候の変化を俯瞰する。 (なお「天候」とは単なる天気でなく磁場の全ての影響という事は《指導前日》に書いた通りである。)
  ・それらの体に及ぼす影響を考え、また明日以降の天候の影響を予測すると共に、その上で、いらっしゃる方々の顔ぶれの流れと合わせて、かける音楽(BGM)を最終的に決める。
(音はダイレクトに身心や場に影響する故、単なる音楽療法という意義以上のものが有る。)
  ・今日いらっしゃる方々全員のカルテを目の前に置き、全ての方の全体の氣(エネルギー)の状況を感じ、かつ氣のレベルでの整体(クリーニング&調整)を行う。
(「整体3」/なお《指導前日》の項にも書いたように前日にも行う事が多い。
          また、この調整方法は、当会で行っている際の遠隔的手法同様で、即ち氣(エネルギー)体の調整と内感的調整を合わせて行う。
          これは、ホ・オポノポノを更に徹底的に深め、かつ氣(エネルギー)レベルでも行うものである。(大概、フォーカシングを更に深めた心象内感や他の手法を用いるが、場合によっては原始的にホ・オポノポノを行う事もある。)
 また、ベンジャミンクレーム氏が紹介する技法も行う。

          これらは特に月一回以上受けていない方の場合、カルテを頼りにして氣(エネルギー)を知る事もある為、私たちにとってカルテは非常に重要な意義がある。)
  ・続いてカルテを個別に診る。
   〈過去ap.〉・それぞれの方の今までの心身経緯と、今まで行ったアプローチ(操法etc.)を確認する。
         ・前回受けられた時の身心状況(背骨は元より身体の全てと、心理状況と氣(エネルギー)状況)を確認する。
         ・それらの上で、その流れだと今日はこうなっているetc.の予測を最終的に行う。
   〈現在ap.〉・今日の時点でのその方の氣を確認する。
          (カルテだけでなく、その方のイメージが出来る方はそれでも、またイメージ無くとも内感的に訪れる方も多いのでそれら全てをそれぞれに行う(次の調整も一人に対してそれぞれの手法で行う)。)
         ・その後、その方へ氣のレベルの整体(クリーニング&調律)を行う。
(「整体4」この調律方法は前記「調整3」で書いた通りであるが、その人に即した手法をとる為、人によってかなり異なる。)
          ・再度、カルテからの氣、イメージからの氣、内感的な氣を確認する。
         ・更に、再度、全体の氣(エネルギー)を確認し、その上で再度調整する。(「整体5」)

 ※なお、こうした準備は、私の整体のセオリーではあるが、ただそうしたいから行っているに過ぎない。
 如何なる仕事に於いてもその仕事が重要な程準備は行いたくなる。
 整体指導は、氣道の個人指導である故、その人のいのちと対峙し、そのいのちを十全と発露させてゆく一期一会の場である。
 それ故、私をして準備をしたくなる訳であるが、講演など參加者の顔ぶれによって準備した台本と全く違う事はよくある。
 同様、整体に於ても準備が役に立たなかったの如くの事も多い。
 しかし、それでも準備には意味がある。止むに止まれぬ要求によって、たとえ役立たぬ準備であってもそれを行う。故に役立つ。
 けれども最初から準備をしなくてはいけないと思って行うのでは形だけになる。
 全ての仕事がそうであるように、その仕事をしようと向かった瞬間から仕事が始まっている。
 従って準備は実は準備では無く本番なのである。
 息一つが整体の奥義であり原点でもある要諦だ。
 その息は実際に相手の体に触れる着手の時では無い。その時は既に一つに向かってなくてはならない。
 お辞儀の時には全ての観察を終えると言うが、その前もある。
 その意味で準備で全てが終わると言っても良い。
 実際の現場はその結果であり、確認と微調整に過ぎない。それは、即興演奏のライウ゛でも実は同様である。
 
 実は準備は予約が入る前から始まっている。
 日々の行き方が準備でなくてはならぬ。
 だからこそ整体をしたくなるのである。
 整体(氣道指導)をするにはその前に整体をする者になるべきである。
 私たち自身が息一つの状態で無ければならない。
 (その息一つの状態を私たちは健康と呼ぶ。その状態を目指す道を氣道と言う。)
  
 そうして以上のような準備を経て実際の現場に新鮮に対峙する時、整体は一期一会のいのちの調べとなる。
 そして同時に、その実際の現場自体が次なる整体の為の準備に他ならなくなっている。
 ───是れが氣道指導(整体)の立処である。



《指導実際》
      
 この段階で、私達は相手の実際の物理的身体に触する事になる。


  ………………………………………………………

 ・ここでは、極々限られた実際現場を記す。
    これ以外の本当に様々なドラマが毎日あるどころか毎時間、人が変わる毎にある。)


ここでは前日(2009年2月○日)に、実際にあったケースだけを掲げる。
  Aさんの場合
   合気道をなさっている方。(ちなみに合気道を教えている方が四名程整体を受けている。どの方にも共通する体の特徴がある。これはただ合気道を行っている方とは別の特徴である。)
   
   
  Bさんの場合
   この日のため石川県からいらした方(日帰り。後略)

  Cさんの場合
   整体は一年ぶり位の方。たまに誕生日の整体(あるいはその直前)が有効という事から、一年に一度誕生日のみ整体を受ける方がいるが、それでは整体が身心を育む真のお稽古事とはなりづらい面がある。
   (たとえば、ピアノのレッスンを一年に一度では、本人の意識にとっての新鮮な意味合いが強く、本人の意識とこちらで分かる潜在意識的変化や体(指)の動きなどが乖離してしまうのと全く同様である。
    もちろん指導者はその乖離も実際に把握してレッスンなり操法を行わなければならない。
    また、そうした受ける方の意識が低い事は多いが、その為、指導者は、整体がどういうものであるのか、身心を整えるとはどういう事なのか、そしてその意義と、ただ受けるだけで身心を育むお稽古事になっている事を、場合によっては直接伝える必要もあろう。
    その場合は、ご理解頂けるようその方のリソースに合わせて工夫して伝えるべきである。
    それでもどうしても伝わらない場合は、毅然として帰すべき事もある。
    美術館に行きたいのに、アンパンを薦められても人は動かない。
    釈迦が言うように「縁無き衆生は度し難し」。
    決して無理に進めてはならない。
    しかし時が解決する事もある。潛在意識に残った某かの指導者のメッセージが後で花開く事もある。
    「縁無き者は度し難し」であるが、同時に「縁は不可思議」でもある。
    けれども、全ての責任は己である。
    故に、何より大切なのは、整体がそれだけのものである事、だからこそ命懸けで行うに足るものである事を、だからこそ整体の現場という一期一会の場がある事を、指導者自身の潛在意識が了解していなくてはならない。
    身心を真剣に育み、いのちを発露させ、潜んだ能力を十全と発揮して、生まれそして残された時間を溌剌と生きる事を望む方のためにのみ、その最も有効な手段として整体という個人指導が存在するのである。)

    上記の( )内は自責である。実は昨年より、そろそろ受けないとと私が薦めた。
    「他人でも理解する者は縁ある者だ。」とは尊愛するH師の言葉であるが、今だ縁有る者でありたしという感情より薦めた。
   その方の母親の体は何度か観て知っており、父親は観ていないが何枚かの写真で時間の経緯との連動までは分からないが身体状況は全て掴んでいたので、その方自身の体状況と合わせて、このままだと来年はこうなり、再来年は、そして…と読める立場にいたため、その逼迫した感から、つい薦めてしまったの

  (これ以降校正必要。上記も校正し、以下まとめる事)

  「氣道」創始 〜
Date: 2009-3月○日
(今、関西(芦屋)にいる。
 おそらく最後になるであろう「整体法修得連日講座」が明日から始まる。

 初等が明日と明後日。(二日間なら今後も出来る可能性はあるだろうが、逆に初等は私でなくとも出来る。)
 中等は10日(月)〜15日(土)までとなる。
 (それは今後流石に難しいという意味である)

 氣道における個人指導、即ち整体というものがどのようなものなのか、
 それはこの日記でも、常々書いていた事ではあるが、実際、私たちはどのように行っているのか、を書きたくなった事がある。
 もちろん、その数分の時間の中における様々な意識や思考の変化について書くのは難しい。
 それは、私たち自身が意識化していない部分も多々あるからである。
 そして、その現場こそ何より重要なのであるが、その為にどのように現場に向うのか、という点で、
 精神論でないものを書きたくなった事があった。
 それが、今年の3月12日(あるいは14日)である。
 
 以下に掲げる文章は、以前の文章(現在、氣道協会の巻頭言に掲げてある文章)同様、一日で書かれたものである。
 (ちなみに、この文章も最後半までは、既に会報同封のテキストにて会員の方には公開されている)

 そして、それは前述したように、ただ個人指導(整体)を行うものが、どのように対峙しているかだけのものである。
 それ故、以下の文章にも、指導時(操法時)の事が掲げてあるかもしれないが(現段階で見ていない)、
 それは、そうした視点からのものであり、実際の現場の中では、それ以外の様々な、そう、同視点でない、まるでパラレルワールドの如くの別位相からの視点もある故、ここで掲げたものが、現在の個人指導と捉えてしまう事に少し懸念を覚える次第である。

 (なお、個人指導(整体)の実際を書きたく向った日であったが、
  そのためには、個人指導の説明をしなくては、
  そして、それには、氣道の説明もしなくては、
 ───という順序で、このように氣道の紹介からの文章になってしまったのである。
 (そのため題名が「氣道創始」となってしまった…) )


また、この文章は、以前に書いたように「ホ・オポノポノ」そして「設定愉氣」の文章に続けて書くという約束の文章であったと思うが、書いてから、ほぼ半年が経っている。
 そのため、現在の指導とはかなり違っている面もある。
 (前記した「設定愉氣」の文章では「今、読むと『辟易する』とのような言葉まで使ってしまっているが、そこまではいかないが、未熟な指導、そして文章である事は否めない。
  おそらく、今の指導自体が半年すればそうであり、その意味では常に未熟である。
  (そして、そうありたいとも思っている。)
  なお、ホ・オポノポノの文章を消したのは、ホ・オポノポノの内容を外部に公開するのが受講生にとっては契約違反になる可能性があるためであった。
  この日記では突然消えたり、校正が入ったりとする事もあるが(今回も後日かなり校正を入れなくてはならない。画面が左半分だし)、
  その類ではない事、一言申し添えて置く。 
  (なお、書いている最後で消えた、という時は、大概、書くことも出来ない程酔っていて、親指シフトキーボードのエンターキーと削除キーの隣接関係になせるわざと思って間違いないだろう。キッパリ?))
 
 ともあれ以前からの約束通り下記の文章を掲げるのであるが、このタイミングで掲げるのは、明日からの最後の「整体法修得連日講座」に何がしかの応援、宣伝になればという思いである。
  (そのため、本来なら校正をしなくてはいけない部分を全くせず掲げてしまう事になった。
   どうか、その点は、ご寛容の程、お願いしたい。)

 
 …………………………………………………………………………………

 「氣道」とは何か?

 氣道とは茶道が茶の道であるのと同様、氣の
道を指す。
 氣とは道教によればタオそのものだと言う。
 タオとは生を含め万物万象の根源であり、同
時にそれらを生み出したものとされる。
 即ち氣は宇宙意識であり、愛であり、梵であ
り、集合的無意識であり、天真であり、神であ
り、偏在するいのちとも言えよう。
 その氣から私たちは生まれた。
 生を得ると同時に私たちは個性を持ち、氣は
その個体を通して翻訳され彩りある個性を帯び
る。
 そして毎瞬毎瞬その彩りは変わる。
 而して人は、その氣を意識で統御する事も出
来る。
  
氣は元々タオであったが、その現れの放つ氣
は個性を帯びている。
 氣の道は、人間にとって、その両者の流れを
潤滑にする道である。
 即ち集合的無意識(潛在意識)と意識との流
通を良くする道と言っても良い。
 すると人は野生の動物のように自然の要求が
身心に合ったものになってくる。
 それ故、氣道を自然に生きる道(自然道)と
定義した。
⦆
 然し自然自体を定義づける事は出来ない。
 個体に於ける自然はそれぞれ異なり、また同
じ個体であってもその時々によって変化する。
 而して、自然に生きている時、私たちはそれ
を健康と感覚する。
 そして理想の健康状態の時、人は自らの身心
の感覚を感じられない。
 無体であり、無心。心自体が無いという無心。
 恰もタオそのものになったかの如く。 
 そうした潛在意識と意識との流通良い理想の
健康状態、即ち自然な姿を求め歩む道を氣道と
言う。
 故に氣道は自然健康道である。
⦆
 そしてその状態は真の要求に沿って自然に即
すると実現する。
 悪い物を食べれば吐いたり下痢をする。羅菌
すれば熱を出し老廃物を発汗する。(症状即療
法)
 これまた健康の姿である。
 健康は無病である事を指すのでは無い。
 内外の様々な刺激を通して更に個体を十全と
させようとする力そのものを言う。
 従って健康であるが故に症状を持つ。風邪を
引き、悩みを持つ。
 それによって更に身心が育まれ、健康度が増
し、理想的な健康状態に近づく。(症状即健康)
 体や心の働きは既に自然に即している。(自
然とはタオの個体に及ぼすタオ自体への回帰性
なのだろう。)
 即ち、氣道にとって無心無体の理想的健康状
態は一つの目標に過ぎず、重要なのは日々を自
然に即して生きていく事にある。
 否、自然に即して生きていこうとする事にある。
 そうした体即ち潛在意識の自然性に即そうと
する道が氣道である。
 氣道は健康自然道である

…………………………  
 そうした自然道(健康自然道、自然健康道)であ
る「氣道」を学び研鑚出来るよう「氣道」協会
という組織を創り、
 各種講座や個人指導を通して研鑚が出来るよ
う東京、横濱、関西(芦屋)に道場を創設した。
 研鑽活動の中心軸は二つある。
 一つは、「自分自身」が身心を育み健康や自
然な生活を実現する為の氣道研鑚。
 もう一つは、「他の方」に氣道を指導する指
導法の研鑚である。
…………………………  
 前者の自身での「氣道研鑚」には、二つの道
を用意している。
 一つは、「入門会」から続く流れとしての【氣
道の学校】である。
(これは、初等と中等とがある。
初等は、別名「体の学校」と呼ばれ、体の面から
自分で行う健康法を学習実践してゆく。
 期間は1〜2日であるが「健康指導者」としての
基本レベルまで習熟出来る。
 中等は、別名「心の学校」と呼ばれ、心の面か
ら自分で行う健康法を実践してゆく。
 期間は一週間程だが、前半の数日だけでも何十
年もの参禅でも得られなかった成果を数日で得ら
れる方も多い。
 その前半では瞑想を深める事、後半では望む現
実を創る技術を修得する。
 氣道を学ぶ者にとって必須の講座であり、卒業
後は「瞑想家」そして観自在の夢実現マスターと
して「氣道家」に相応しい身心と立処を得る事が
出来よう。
(なお現在(2009年)の段階では行っていないが、今後
予定している高等では氣と霊的成長を更に純化させる
プロコースとして行ってゆきたい。)
 また前記、【氣道の学校】以外にも「体塾(ヨ
ーガ・コース)」「氣道塾」「瞑想会」等の『定
例コース』や、
 毎年行っている「砂療法」「滝行」「湯治」等
の『合宿』や、「速読法」「呼吸法講座」等々の様々
な『特別講座』も開講している。
 それらの『定例コース』『合宿』『特別講座』は、
【氣道の学校】参加後にその方の目的に合わせて
自由に氣道を研鑚出来るよう設けている。
 然し年数回の【氣道の学校】参加までの時間を
有意義に過ごす為にそれらの講座を活用されるの
もお薦めしたい。)
 もう一つは、【個人指導】(整体)である。
 これは身体の観察をし、現在の状態に即して体を
調律する事によって、自然に生きる力を十全に発揮
出来るようにしてゆくものである。
 なぜ体なのか。
 体と心は一つであるが、然して体には意識として
の心だけでなく潛在意識(深層意識)も如実に現れ
ている。
 その意味では、体は潛在意識(深層意識)そのも
のと言っていい。
 意識的に嘘をついた事も体には現れるが、意識で
も気付かぬ嘘も体には克明に現れる。
 人が自然に生きる為に重要なポイントは観念であり、
それあるが故に人は自我を持ち、悩み、喜び、症状
を持つが、その観念を作るものは潛在意識である。
 「氣道」は潛在意識の要求、即ち身体の自然性に即
そうとする道であると言ったが、体を整える事によ
って多く容易に潛在意識は変革出来る為である。(特
に深層意識は身体面から他動的に働きかけないと中々
に変化しない。)
 その為、氣道の個人指導を整体と呼んでいる。
 「体を整える」という言葉の真意を確認して
欲しい。
(なお、【個人指導】(整体)の技術自体は恩師岡島瑞徳師よ
り教わった野口晴哉師の手法を源流としている。その手法を
ミルトン・エリクソンの手法と統合させた頃は「心理整体」
と呼称していたが、その後、内観技法、レイキ、快医学、TDE、
ホ・オポノポノ、ベンジャミン・クレーム氏の薦める手法、
その他数十の技法を取り入れ更に統合化した為、現在ではシ
ンプルに【個人指導】と呼称している。)
 【個人指導】は氣道研鑽に於ける一つの究極の姿
であり、もう一つの流れである【氣道の学校】と共
に「氣道」研鑽には欠かせない。
 そして両者は、相補的、相乗的な効果を挙げる。
 (その為、最終的にこの二つの流れになった。)

………………………………………………………

※お稽古事としての【個人指導】(整体)

 髪が伸びれば、散髪に行かざるを得ないのに、な
ぜ体のほうは整えようとしないのだろうか。
 この事、改めて真剣に考える必要があろう。
  
散髪は仕方ない、体は乱れているかどうかが自覚
できないから…果たしてそれだけだろうか。
 口では「健康が第一」と言いながら、私達は心(や
体)の事をおろそかにしているのではないだろうか。
 ピアノやダンス等々、興味を持ったものなら稽古
をするのに、何故、何より大事な、一生用いてゆく
道具である体や心の遣い方を稽古しようと思わない
のだろうか?
 そして、症状や悩みを抱え、身心に異常を感じた
時に初めて慌てる。
 その上、自分自身の身心であるのに病院や心理療
法にお任せする。
 この事があまりに可笑しい事、中学生でも少し考
えれば分かるのではないだろうか。
 然して、心身を整え、育んでゆく稽古の場が限り
なく少ないのも事実である。
 我田引水となってしまうが、ここに氣道そして当
会の存在意義があろう。
 とりわけ個人指導(【整体】)はその代表である。
 なお、体(潛在意識)を整える「稽古」という意
味で、巷の整体とは技術も全く異にする。
(それは当会の整体の源流である野口整体同様、愉氣を基
盤とする。
他の整体が段々と強い刺激でないと感じなくなるのと異
なり、愉氣は受ける毎に身心が敏感になる。かつ依存も
全く無い。)
 個人指導(整体)は、身心を育む『究極のお稽古事』
であろう。
 しかも受けるだけで稽古になる。
 この点は大いに特筆すべき事であろう。
 つまり、受動的なお稽古事であり、しかも快ちよい。
 お稽古事と言えば、ピアノのレッスンでも最初は
先生が模範を呈するように、個人指導(整体)は治
療的な文脈から始まる事が多い。
 そうして段々と潜在体力、潜在能力を発揮してゆ
く段階になる。
 こうした流れはピアノに限らず、他の如何なる分
野のお稽古事と同様である。
 そしてピアノもそうだが、他の分野では、プロに
なっても必ず稽古(指導)を受ける。
 そのように、「受けるだけで心身を整え、自然に育
むお稽古事」として個人指導(整体)を活用して戴
きたく思っている。
 そのため、裡に潜在する能力や体力を十全に発揮
されたい方や、ますます楽々悠々と自然に生きるこ
とを望む方には、ぜひ継続的に活用して戴くことを
お薦めしたい。
 体を育むこの稽古は、必ずや、人生に安心と活気
をもたらす文字通りの基礎となるだろう。
なお、中には毎週どころか連日で受けられる方も
いらっしゃるが、ごく短期間での体質改善、潛在
意識改善を望む方は別として、自覚症状なく通常
の健康状態の方ならば月に1、2度で充分である
事も付記しておく。
…………………………
※なお「個人指導」は、【整体】以外にも三者ある。
 一つは【整体】とアロマエステを統合した「アロ
マ整体」。
(これは美容と健康の双方を実現するものである。
なお、アロマはその人に合ったものを一人0リングテスト
で選び、日本人に合わないオイルの代りに食べても大丈
夫なゲル・クリームを用いる。行うところもリクエスト
に沿いながらも、体の観察の上選択する。)
 もう一つは、その「アロマ整体」に、更に「吸い
玉(プハン)療法」をも統合させた「プハンエステ」
である。
(整体以上に最速の体質改善が図れるのと、残った跡を見て、
自分の体の悪い処が分かるので人気が高い。
遠方の方をはじめ、これ(プハンエステ)と【整体】と
を同日に連続して受けられる方も多い。
(中には「マコモ風呂」もその前に活用される方も多
い。))
   
(※なお、これらオリジナルのエステは、連日の実修研究
の上、実に一年近くの時間がかかって完成の目を見た。)
 三つ目は「プハンエステ」同様、難病にも特効が
あるとされる「温熱療法」である。
 これは特に慢性病や難症の方には必須の療法である。
 「自宅で簡単にできる体質改善&疲労回復の方法」
であるため、どなたでも一度は体験され、その「行
い方」を習得して戴きたい。

………………………………………………………

〔ご家族や他人の健康指導をされたい方のために〕

 さて、後者であるご家族を含め他の方に「氣道」を
指導する方法の研鑚、
 即ち「氣道」の『指導法』研鑚の道の流れは現在
のところ一つである。
 それは【整体法修得講座】(氣道「指導法」修得講座)
のみであり、ご自身の氣道研鑚である【氣道の学校】
同様、「初等〜中等〜」という流れになっている。
(初等が10時間程度(日数にすると1〜2日)、中等は一
週間程度。
 なお、中等では整体のみならずミルトン・H・エリ
クソンやNLPを初めとする最新の「心理療法」も統
合して学ぶことが出来る。)
※それ以外の講座についても自身の氣道研鑚同様、随
時行っている。
 例→・「整体塾」
(月一回程度。ここではその年の時々の季節
の体に則した整体技術の紹介を中心に、様々
な技術を学んでゆく。
 とりわけ「整体法修得講座」にご出席さ
れた方のアップフォローを目的としているが、
ご出席前に参加する事も可能。)
   ・「野口晴哉研究会」
(野口晴哉先生の著書の技術や知識を学びた
い方にはとにかくお薦めしたい。)
   ・「各種特別講座」や「整体合宿」
(現在では余り行われていないが、テーマを
絞り、技術を深めてゆく。)
  …………………………………………
 「「氣道」の『指導法』研鑚の道の流れは現在のと
ころ一つである。」と前記したが、
 流れではなく、もう一つ、ぜひ皆さまに活用して
戴きたいシステムがある。
 それは【個人レッスン】である。
 【個人レッスン】では、氣道指導法である整体を、
その方の状況、ペースに合わせて指導させて戴く。
 (基本的には、「整体法修得講座」と同等かそれ以
上の時間がかかるが、個人指導のため、実技中心の
深い学習が可能である。)
 それだけでなく、【個人レッスン】では、整体の
みならず心理指導、あるいは自分で行う健康法につ
いても学ぶことが出来る。
 即ち、「氣道」で紹介しているどのような内容でも
【個人レッスン】を通して習熟する事が可能である。
(但し【心の学校】(【氣道の学校】中等)については内
容上難しい。)
  
 定まっている講座開講日時でなく、自分の都合で
ピアノのレッスンよろしく「氣道」の全てを学ぶ事
が可能なわけである。
 しかも、上記以外の如何なる内容でも、リクエス
トに応じて対応させて戴いている。
  
(今までの例→呼吸法や瞑想だけの研鑽をしたい。
 痩せたい。視力回復を図りたい。
 整体のこの部分を向上させたい。
 速読を身に付けたい。etc. etc.)
  
※時間、料金については、担当指導者の個人指導のそ
れに準ずる。
(指導者によって若干料金は変わるが、通常50分5千円。
なお、人数が複数人となっても料金は同一である。)
即ち、担当指導者の個人指導の枠で、リクエストも
含め、「氣道」のあらゆる事を学べるという画期的
な学習システムであろう。

※また、「氣道」の指導者に
なる為の研修生制度もある
ことも付記しておく。
  
 ───以上、「氣道」研鑽のため、当会の活動を有
効に活用して戴きたく、様々ある活動の中心につい
て略記した。
 ご自身の目的に合わせて、当会を活用され、氣道
という健康自然道(自然健康道)を深めて戴けたら
幸いである。
(なお、ご不明な点があれば遠慮なく事務局まで伺っ
て戴きたい。)
…………………………………………
(さて次回は、前述した【個人指導(整体)】の実際を、
初公開する。)


……………………………………………………


   夢 (そして)  ∞
Date: 2009-08-03 (Mon)
今朝方、睡眠中、夢を創ろうとしている自分に気付いた。
そして、夢を観ながらも、その前に同時に夢を創っている自分だった。

(「その前」というのは理論的には過去という事になるが、感覚的には未来と言ってもいいため、「背後」という表現のほうが良いだろう。
 「同時」という表現もおかしいが、どうも夢中(潛在意識中)では時間の流れが順行逆行と交錯し、また伸縮自在な感じがある。)

私たちは夢中にて夢を観ているだけではない。
もちろん明晰夢(自覚夢)のように夢である事に気付く事もある。
そしてその夢を自在に変えたり操ったりする事も慣れれば楽しめる。
しかし、夢を観させようと夢そのものをも創っているのである。
その時の私は本来の私に近い。
(そして、その私を知覚していた私もいた事になる。)
それらどの私もすべて私自身であり、私ではない。
その私自身をも無限に包括し、かつ同時に存在する私も含めた「全て」が本来の私であり、あとは影絵に過ぎない感覚もあるからである。

  (無題)
Date: 2007-?
 同じ宿に連泊すると、一日目と二日目の印象が違う事もある。
 私たちの連日講座もそうだが、傍目でも毎日どんどんと変わっていく人が多くいらっしゃる。
 しかしそれは、私たち自身が変わるので、変化を誘導している面がある。(中略)
 
 いつも言うように、純粋な観察はあり得ない。
 ハイゼンベルクの不確定性原理の所以であるが、それ故、私たちは、常に客観的判断を疑わなくてはいけない。
 真の客観が無いことを知ると、他を観察する時だけでなく、私たち自身が自身で思っている客観性も疑わなくてはならない。
 全てが主観でしかない。
 たとえばフォーカシングやホ・オポノポノなどでも禊ぎ(クリーニング)したい事柄があるとすると、それを禊ぎ(クリーニング)したいと判断した自身の立処自体主観である事も気付かねば、酔っぱらったままである。
 そして、全てが主観であることを知っている上で客観を設けようとするところにのみ観察の意義がある。
 それには無限に主観を追わねばならない。
 それを瞑想と呼ぶ。

  設定愉氣(6) 「金運&金流」3
Date: 2008−8?9?


★このCD(「金運&金流」)の使い方について


※この項を読む前に、まずは前記「愉氣グッズ」の使用方法について」をお読み下さいませ。
 (ここでは以下、このCDだけに特化された部分のみ記します。)


・このCDは【お金の学校】名言集をご購入された方へのお詫びとして、初めて指導スタッフ以外の会員の方に譲渡する目的で製作された「愉氣グッズ」です。

・このCDは、再生しなくともそのままの状態でも氣(エネルギー)を自動的に発生しているCDです。(前述しておりますが、設置しておくだけでも直径数m 再生した場合10m以上に強い氣(エネルギー)が発生しています。)

 そのため炭や宝石同様、携帯されるだけでも効果を期待できますが、「愉氣グッズ」の使用方法にも書きましたように、再生している時のほうが氣(エネルギー)の放出量(循環量)は多くなります。(このCDの場合、半径5m以内が強く、20m離れても影響があります。)
・音は無音にしても氣(エネルギー)出るように設定しておりますが、この「金運&金流」CDについては、同封の文書にもあります通り、録音されている音源も特殊なものです。
 ただの沢のせせらぎの音ではなく、その録音方法や音自体に様々な工夫がされています。(エネジーリファイン効果)
 その音を聴くだけで、心身が様々なレベルで浄化される音源です。(数万円のCDでした。)
 そしてその音源に…
 更に、NASAでも用いている技術を駆使している現在の日本で最も最高と思える「サブリミナル」技術を用いている業者に、私が作成した暗示文章を挿入してくれるよう委託しました。
 (それが当会で譲渡している「サブリミナルCD」な訳です。なお「サブリミナルCD」は私のお氣にいりジャズなど、あと3種類あります。)
 サブリミナル効果を与える私が作成したメッセージは要約すると以下の通りです。
 ・私は「今」、生きている幸せとともにあります。
 ・私は幸せそのものです。
 ・私は自由です。
 ・そして私が幸せになる事が、周囲の皆の幸せにも繋がっています。
 ・私の心身は日々あるゆる面で良くなっています。
 ・いつも健全なバランスによって保たれ、必要があれば風邪を引いたり症状を通して、さらに身心が育まれ健康になっていきます。(←この点は他の暗示文にはい、特に氣道的な文章でしょう)
 ・私の願いは、最も良い時期に最も良い形で魔法のように叶ってしまいます。
 ───その他のメッセージが、100回以上繰り返し唱えられて収録され、かつ最高のサブリミナル効果を挙げられるようなCDに仕上がりました。

 …という訳で、この「金運&金流」CDは、ヴォリュームを絞ってても、皆さんの金運やお金の流れを良くする氣(エネルギー)が発生しますが、
 音量を出せば、上記のような1「音源効果」と2「サブリミナル効果」もあります。
 そのため、このサブリミナルCDをもしお持ちで無い方は、音を出して活用される事「も」お薦めします。
 また、既にお持ちの方は、音を出した時、そうでない時など、色々と試して下さいませ。

・ なお、前記(★このCD(「金運&金流」)自体の製作方法について)にて書きましたように、無音で流した場合、場をクリーンに禊でいくとても清々しい精妙な氣(エネルギー)が発生します。
(ですので、場や人の邪氣を祓い、潜在意識をクリーニングする「引き算」的な氣(エネルギー)です。)
 私自身が無音で毎日使った感覚としても、その場の氣がどんどん清々(すがすが)しくなっていくことを感じています。
場の浄化や潜在意識のクリーニングのためにもぜひご活用下さいませ。
 (なお、どの位の期間流しっぱなしにすると場の氣(エネルギー)が安定するかは、場所にもよりますので現在の段階ではつかめていません。
  ついでながら『場の浄化でお薦めな方法&手順』も下記にまとめておきましょう。
 1、掃除を行う。
 2、(音)気合を入れるか(人の氣が一番強い)、倍音発声をし(祝詞や勤行が出来るかたはなお良い。必要があれば拍手祓いも)、その後、カザルスetc.良質の音源を流しっぱなしにする。(ハーモニーベルのクリーンアップCDは場の浄化に於てはカザルスより端的な効果がある。)
 3、(物)四方や気になるところに盛り塩と良質の炭を置き(なお、炭はすでに埋炭されているのが理想。
また「鉄筋マンションで8階以上の場合、グランディングが出来ないため数年すると殆ど必ず情緒が不安定になります」ので、大地にアースをとるか、とっくり椰子や葉の大きい鉢植えの植物を置く。)、
 4、(香り)場を良くするお香を焚き、
 5、(人)その上で自動運動と瞑想をし、
 6、(氣)その上でこのCDを無音で流しっぱなしにする。
     (なお、このCDはご存じのように場の浄化に特化した設定を行っていません。今後そうした作ろうとは思っていますが、もし場の浄化に特化したCDが欲しい場合は、ハーモニーベルのクリーンアップを個人指導時に持ってきて下されば(あるいはその時に道場で購入されれば)、無料で設定愉氣させて頂きます。)

・さて、そうした盛り沢山のCDですし、タイトルが「金運&金流」ですので、「もしもこのCDに価格を付けるとしたら」などと考えてしまいました。(もちろん、このCDは非売品です。)
 皆さんなら幾らつけられるでしょうか。
 私なら、上記の事まだ設定愉氣をしていない一枚のサブリミナルCDでも数十万円の価値はあるかと自身で使ってみて思っていますので、それに設定愉氣を加えた値段はちょっと考えられませんが、現在一週間程連続使用してみて、
1かなり場が変化した事、
2自身の氣の流れが変化したこと、
3お金に対する考えだけでなく様々な感情がニュートラルになりとらわれから開放されたこと、
4何より実際に臨時収入が入ってきたことから、CDには白文字で66万円と印刷してあるのですが、それ以上の価値を最近では実感しています。
 皆さまも、色々とご使用され、それ以上に価値を拡げていって下さったら幸いです。
(もしかなりのお金が入りましたら、協会もずっと赤字が続いておりますのでご寄付下さったら大変うれしいです。(なお、私自身の手許には入りませんので、ご安心(?)を。ご存じのように私はこの数年日々協会や会員の方々へのボランティアに勤しんでおります故(笑))
・さて、その位、影響、効果の高いCDだと思っていますが、金運やお金の流れに関して言えば、あくまでこのCDは【お金の学校】名言集や【お金の学校】CDをsupportする存在ですし、ご自身の身心を自分で変えていこう、と勤めていくことが何より大きな力になりますので、ぜひ【お金の学校】名言集を再度お聞きになり、また出来ましたら【お金の学校】にも再チャレンジされて下さいませ。
 大変大きな相乗効果が期待できると思います。
 (なお、名言集には収録出来なかったのですが、ジョー・ヴィターレ著の「お金持ちの法則(VOICE刊)」は、とても良書だと思いますので、ご興味があればぜひお読み下さいませ。
  偶然このCDを作成中にちょうど読んでいた書ですので、シンクロの相乗効果があるかもありません。)

・なお、お金に関わりの深い身体部位は「自然掲示板」にも書きましたように腎臓や胸腺などがありますが、右下腹部恥骨上5(女性なら卵巣)〜臍右下の少し上の間のラインは特に今後のお金を得る能力、運に非常に関係が深い事を、ここまで読んで下さった皆さんにご紹介申し上げます。
(なお右小指下のいわゆる手相で言う財運線の場処に手相をその時の好みで金か銀色で書くのも効果はあります。)
 また、仰向けで足を上げた時、左が上りづらい方はお金が入ってこない人(つまり「金運」が悪い体)で、逆に右が上がりづらい方はお金が入っても出てしまう人(つまり「金流」が悪い体)である事を最近の研究発表で知りました。
これは、仙腸関節、腰椎4番、股関節を調整すれば個体差はありますが、1〜数回で改善できます。

・前記「愉氣グッズ」についてで書きましたように、ご自身で行なう事やこのCDの効果を補填するため、あるいは上記場処その他を活性化させ、さらに「金運&金流」を良くされたい方は、個人指導(整体)をご活用される事をお薦めします。
 その際には、予約時あるいは指導を受けられる時に仰って戴けば、上記場処その他を含めた「金運&金流」を良くする操法、あるいはご希望があれば、身体状況を観た上で、イメージや暗示による心理指導や、感覚的身体の中にある金運の「氣球」を取り出しそれを何度か裏返して浄化させたあと愉氣をする強力な方法も行なわせて戴きます。

※最後に
  
  自然の道は健康の道でもあります。
  そして健康は野生の動物がそうであるように、体の要求に任せていくと自然に健康は実現出来ます。
  頭脳ある人間は観念多く中々それが難しいのですが、そのために「氣道」では、体に任せるが難しくとも感ずる事から始めたら、と言っています。
  私たちは体の要求に沿ったことを行うと「快」を感ずるようにDNAからインプットされています。
  頭ではなく、体が快ちよいと感ずることを行うだけで、体は育ち、同時に心も育ち、そして健康に戻っていきます。そして「快」自体も育っていきます。
  それが自然に沿って生きるという事です。
  すると自然な道が拓けてきます。

  その時には「全ての運命は完全に決まっていて、同時に完全に自由である」という感覚になってくる事でしょう。このCDや【お金の学校】名言集などを契機に、日々を存分に楽しんで生活し、健康や豊かさを自然に実現して下さる事を祈っております。
                                長谷川淨潤 拝

  設定愉氣(5) 「金運&金龍」2
Date: 2009-08-03 (Mon)
(続き)

〔確認〕   
 H媒体(物品)の氣(エネルギー)状態の確認
 (出来たら氣(エネルギー)の分かる他の方に調べてもらう。〜自分でも使用し確認する。    
 (場合によっては数週間〜数ヶ月使用してもらう。氣の分かる方、複数人が良い))
  〜修正点が少なければ、微調整を行なう。修正点多ければ、どの段階でまずかったのかを検討し、その段階から創り直す事。)

 ※なお、「愉氣グッズ」の製作方法については、個人レッスンの時間内で一回で学べます。
   (精度の高い「愉氣グッズ」を作るには、ここに掲げたような手順と注意が必要ですが、そこまで学ばれたい方は個人レッスンを活用して頂きたく思います。
 なお、個人レッスンの料金は指導者によって異なりますが、通常は50分5,000円で何人でも受けられます。
何回で修得できるかは個人差があるため確約は出来にくいです。人によっては一回でも可能な場合もあるかもしれません。)

 …………………………………………………………………

★このCD(「金運&金流」)自体の製作方法について

 まず、このCD(「金運&金流」)では前記@〜Hまでの「愉氣グッズ」製作手順を全て行なっております。

 @の「製作者」は長谷川淨潤です。
 Aの「媒体」は松岡正彦が選出しました。
  (高額なCD媒体(しかも氣(エネルギー)が入りやすいということで販売されているCD!)にも同様に行い、最終的に比較したのですが、こちらのほうが「氣(エネルギー)の届く範囲は殆ど全く同様で、なおかつこちらのほうが氣が細かい」(松岡)「こちらに再生を切り換えた瞬間に透明感が訪れる」(角川)と私同様の見解をスタッフが言っていたため、この媒体に致しました。)
 Bの「設定」とGの「封入」については以下の通りです。

   1、「このCDを持ったり再生した時に、現在のその人の状態に一番相応しい形で、最もお金の運がつく氣(エネルギー)が最大限発生する。」
    (なお、再生した当人という設定はしていませんので、ご家族の方にも影響がいってしまいます。ご留意下さい。以下も同様です。)
   2、「大黒天の神氣封入」
    (修験道の大黒天真言を「複倍音発声」で唱え大黒天とリンクさせ「ながら」、「降神の術」を用いてき封入する)
   3、「このCDを持ったり再生した時に、現在のその人の状態に一番相応しい形で、最も良いお金の流れがつく氣(エネルギー)が最大限発生する。」
   4、「斉藤一人氏の氣(エネルギー)封入」
    (注/或る人が言うように、斉藤氏の氣と大黒天は確かに共通しているところがあった。)
   5、「地蔵菩薩の神氣封入」
     (上記2同様、修験道の地蔵菩薩真言を「複倍音発声」で唱え地蔵菩薩の神氣とリンクさせ「ながら」、「降神の術」を用いてき封入する)
   6、オファー
   (これは設定までしませんでしたが、前記設定の前提として無意識的に設定していたと思うので、念の為であるが、下記、記載した。)
   「このCDは【お金の学校】名言集を活用され、【お金の学校】CDの内容を実践すると更に相乗効果が得られ、
   そして、現在のその人にとって最高のお金の運や流れが訪れる。
   また、【心の学校】(【氣道の学校】中等)を既に受けられている方にとっては、その前半の禊ぎ(0)の効果と、再生(1)の効果が更に増していく。」
   (【心の学校】前半の禊ぎが分かりにくい方は内観とか鎮魂、ホ・オポノポノと思ってくれれば良い。
    なお余談ながら、ホ・オポノポノに関しては、全面的に【心の学校】に取り入れた2002年より、ホ・オポノポノ自体も進化している。
    現在(2008年以降)の【心の学校】(【氣道の学校】中等)では、更に進化&深化させたホ・オポノポノの発展完成版と思われるクリーン(禊ぎ)技術を公開している。
   7、KF設定(keepforever.設定=これらの氣(エネルギー)が半永久的に残る設定)
      (そして、KF設定が出来たかどうかの確認もしました。)

 CDの「製作者の禊ぎ」については、今回は【氣道の学校】中等(=【心の学校】)の最後に行っている最終セッションを行い、身体感覚が殆ど無い状態で行われました。
 Eの「媒体の調整1」については、前記に更に加えて、祝福の氣のこもったお金に挟む形で神棚に長期設置致しました。
 Fの「媒体の調整2」についても完全に行いました。
 Gの「設定愉氣封入」は、前記した通りですが、一番良い時を偶然も含めて待ち、CDに続けて行いました。
 Hの「確認」では再生時に発生する氣(エネルギー)がかなり強かったため、氣(エネルギー)アタリをされる危険を回避するため、どなたでも安全なように少しだけ設定し直しましたが、その結果、その届く範囲と影響の及ぶ深さ、細かさがかなり増してしまいました。
 (何故だかは分かりません。結果として氣アタリ(=面弦(好転反応))は無くなりましたが氣(エネルギー)の量は変わらずに、さらに細かく深くなった感覚があります。)
 おそらく「この氣が『お金が入ってくる氣』なの?」という疑問が起こるかもしれない、というほどに清々しい細やかで精妙で、浄化の働きを持つ氣(エネルギー)りになました。(青木先生の仰る清和(さや)けさを感じる氣です。)
 しかし、本来のお金の本質的な氣(エネルギー)、あるいはお金にリンクし呼出す事のできる氣(エネルギー)というのは、本来そうした清々しく細やかなもので、場や人間を禊いで潜在意識をクリーニングする氣(エネルギー)なのかもしれません。
 (ギラギラした感じのお金持ちの方もいらっしゃいますが、それは「現れた姿」であって、本田健さんではありませんが、お金とは何かと突き詰めて考えたり、様々な億万長者の方々の氣(エネルギー)に触れるにつれ、原点はここにあるのかもしれないな、と自分で創った(呼んだ)氣(エネルギー)なのですが、驚きながらも得心している次第です。
  なお、そのためこのCDを無音で流しているとその場や部屋の氣(エネルギー)が非常にクリーンな感じに変わってきます。
  後記「このCDの活用法」にも書きましたように場の浄化のためにもご活用下さい。

★「愉氣グッズ」の使用方法について

 ・「愉氣グッズ」は、どのような用い方をしても結構です。
   皆さんの感覚に合わせてご使用下さい。
 ・なお、何も感じない方の場合は、氣の感覚に慣れていないか、すでに同質の氣(エネルギー)であるため感じられないかの、どちらかのケースが殆どです。
 ・前者の場合は使い続けているうちに、あるいは瞑想(特に懺悔瞑想ついで感謝瞑想が良い)を初めとする氣道methodを実践されているうちに、感じ方の個人差はありますが、次第に感じられるようになってまいります。
 ・後者の場合は、現在は必要ない氣ですので、無理にご使用になる必要はありません。(そういう場合もよくあります。なお使用しても全く弊害はありません。)
 ・多くの場合は、様々な感覚を感じますが、それがあまり感じなくなってきた頃には、前項で申し上げたように「愉氣グッズ」の氣(エネルギー)が身体に馴染んできておりますので、使用頻度を少なくされたら良いでしょう。
  (サプリ同様、こうしたグッズや他力本願なものを活用する場合のポイントでもあります。
   つまり…
   1、まずは、自分の身心に合ったものを選ぶ。
   2、そして自分に合った適宜な量や回数で活用する。
   3、4日〜長くて3週間で変化がなければ、必要ないと中断する。 
   4、変化があった場合は、その変化が落ち着いてきた頃(身心の調子が安定して来た頃+一週間くらい)で、中止する。
     (それ以上、活用し続けると、依存を生む危険性がある為。)
   5、なお、その頃には自分の身心に合ったものが分かるようになっているのが理想だが、難症の場合はまだそこまでご自身の体の声(要求)が意識に浮かばない事もあるので、それ以外の飲食物、刺激で合う物を個人指導時etc.他者に0リングテストなどで選んでもらう。)
 ・なお安定するまでの期間は非常に個人差がありますので、上記3は一つの目安にして下さい。
   (活用の仕方、頻度によっても異なります。)

 ・ともかく「愉氣グッズ」を活用することで、感覚を敏感にし、その結果、健康に幸せになって戴くのが目的ですので、「愉氣グッズ」に『心理的』に依存するのはサプリやビタミン類同様弊害がある事はご承知ください。
  (「その意味」では、「愉氣グッズ」のそれ自体の効果は大きなオマケと捉えて戴けたら幸いです。)
 なお、そのために、私たちは設定愉氣の大前提として「このグッズに心理的に依存しない事が自然と生まれる」という立処(つまり本人の力を喚起する立処)から製作しています。
 大きなオマケを存分に楽しみながらご活用されてください。

 [CDの場合]
  ・基本的には前記「愉氣グッズ」の活用方法同様ですので、まずは前記をご参照ください。
  ・CDによっては設置しているだけでも愉氣が発生し続けていますが(恒久的)、特に再生した時に、現在のその人にとって最も相応しい該当する氣(エネルギー)が発生する、条件付き愉氣(設定愉氣)を施しております。
    (再生すると活性化(?)するのか、そのほうが氣(エネルギー)の放出量(循環量)が多くなるためそのようにしております。
     なお、音量に関する設定はしていませんので、音は無音にしても効果、影響は全く同じです。)
  ・また、再生ボタンを押した方への愉氣という設定はしていませんので、ご家族の方にも影響がいってしまいます。ご留意下さい。

  ・設置しておくだけでも直径数m 再生した場合10m以上に強い氣(エネルギー)が発生しています。
   (近いほど強い氣と感じられたり、また氣の濃さが距離によって何段階かに変化しているように感ぜられる事でしょう。
    これは、人間同志が近寄って互いの氣(エネルギー)を感ずるのと同様です。
    そして、人同志がそうであるように、その段階内の範囲ですと数mずれていても同様の効果を得られます。
    もちろん近い程影響、効果は大きいですが、たとえ数十m離れていても影響は少なからずあります。)

  ・短期間で身心を変化させたい場合は、ごく近くで再生されるか、ある一定期間だけはヘッドホンで聴かれると良いでしょう。
   (ヘッドホンの場合、肌からは聴けないデメリットもありますが、脳内は短期間で変化します。
    なお身体面を短期間に変化させる場合はイヤホンを臍に当てる方法もあります。)

  [マコモの場合]
   ・前述したように、食品の中では最も愉氣(エネルギー)が入るのがマコモです。
    そのため、希望者には現在でもマコモに愉氣、あるいは設定愉氣(その人の飲む時の心身の状態に一番合う、という設定が多い)をさせて頂いております。
   ・活用方法については、マコモの通常の使用方法と全く同じですので、ここでは割愛しますが、前記「★「愉氣グッズ」の使用方法について」をご参照の上ご活用下さい。
   (必要な服用量が、数分の一などかなり服用量が少なくなってしまいます。現在のところ、皆さん今日はここまで充分と感覚できるようになっています。)

  ・なおマコモに限らず当会販売品に関しては、個人指導時に仰って戴ければ愉氣させて戴いております。(無料です。なお設定愉氣も含みます。)
    また、月一度以上定期的に受けられている方は、こちらもその人の状況が明確に把握出来ていますし、また身心が自然に沿って活性化していますので、ご自身の所有物に関しても個人指導時(あるいは神塾(勤行時))に愉氣させて頂きます。
   どうぞ、遠慮なく仰ってくださいませ。

※ なお、当会で取り扱っている商品で、特にお薦めしているものは、「太古の水」と「マコモ」と「ワン・ウォーター(浄水器)」です。
(※「ワン・ウォーターについて」:蛇口取り付けタイプの小型で浄水器としては、最もお薦めの物です。「体に良く」&
「美味しい水」に、ご興味のある方は、ぜひ、パンフレットのご請求をされてくださいませ。FAX:045-261-3304 
TEL:045-261-3300)
(「太古の水」はすでに天心なので、設定した愉氣を行いたくないので不可ですが、ワ
ン・ウォーターについては、より強力に出来ると思いますので、個人指導時に仰って
ください。)
  
※なお、前記★「愉氣グッズ(愉氣自動発生グッズ)」の製作方法手順の冒頭と繰返しになりますが、ぜひ皆さんも、「愉氣グッズ」を作ってみて下さい。
   (創り方は、前記しましたように、講座や個人レッスン、個人指導中にいつでもご指導します。
   創れる方は、この「愉氣グッズ」を含め、設定の変更も出来ます。どうぞ色々と試して下さい。
   ただ元に戻してと言ってもそれは出来ないので、その点はご判断の上。(笑))

  良い氣(エネルギー)や、それを封入した「愉氣グッズ」が出来たら、ぜひご紹介ください。
  あるいは他団体でも「ここのは素晴らしい」などありましたら、ぜひ教えて下さいませ。  
  (ぜひ皆さんと共有できたらと思っています。)

 ※また、今後、こういうグッズ(CDその他)が欲しいという希望があれば、ぜひ教えて下さい。
 (ちなみに、現在、私たちが今後いつか作りたいと思っている氣(エネルギー)は、以下の通りです。
  「銀運&銀流」、「天心」、「禅」、「真の自動運動促進」、「瞑想の深化」、「禊ぎ」、(←ホ・オポノポノの最新形であるセルフ・アイ=デンティティー)を更に進化させ言葉の背後にある氣(エネルギー)を重視し、身体感覚をも統合させて完成させたもの(1998年にはそれを「アロハ」という名称を付けていたがその後更に進化したため現在では、心象(内感)行氣、感覚連動ホ・オポノポノなどと言っている。)なおヒューレン博士自身がなさるホ・オポノポノは現在も素晴らしい。ここではそれを身体感覚、霊的にせよ、誰にでも出来るようなという意味と捉えて欲しい。)をstorysystemで封入したもの」、「場の浄化」、「その人の魂の本流に即した夢実現促進」、「Make it(=苫米地氏のコンフォートゾーン)を安定、促進させる」etc.です。
  すでにグッズではなく人間に対しては個人指導時にリクエストに応じてインストールしているのもあります。)

 ※あなただけのオリジナルCDもリクエストがあれば作成します。
  ご希望の方は遠慮なくご連絡下さい。
  (例「人間関係を良くするCD」、「その時点の自分に一番相応しい氣(エネルギー)が発生するCD」、「会社の運営が良くなるCD」「絵が上手くなるCD」「つい言ってしまう癖を直すCD」「人からの邪気を受けなくすくCD」etc.)
  また、そうしたリクエストを「自分のお氣にいりのCD」に封入する事も可能です。
  (個人指導時に行いますので(一つなら無料。どうぞそれを活用して身心を育んで下さい。)、どうぞ前記[マコモの場合]をご参照になり、遠慮なくお問い合わせくださいませ。)

 ※何よりのインストールは身体自身です。
  その意味でも、そしてまた「愉氣グッズ」に依存しない意味でも、自身の日々の身心の育みのために、自動運動などの身体訓練はぜひ行って下さい。
 (青本(実践自然健康道)にも書いた「条件付き自動運動(つまり設定自動運動)」は、インストールを自動運動を通して行っていくものです。)
  また、その意味でも、整体(個人指導)は存分にご活用されて結構です。
  (一生残るインストールも『★「愉氣グッズ」製作までの経緯』に書いたように、ご相談の上行っています。
   個人指導(整体)を受けている方は自然と創れるようになっていきますが、ご希望があれば「愉氣グッズ」が創れるような整体(個人指導)も行ないます。)

  設定愉氣(4) 「金運&金流」
Date: 2008−8?9?
(以上、(1)〜(3)まで、以前に書いた文章を掲げさせて戴いた。
 この(4)は、「氣道」協会会員の方で、或るCDをお求めになった方のお詫びとして送ったCDに添付した文章である。
 そして、そのお詫びのCDは、公開した形での、物品に対する設定愉氣インストールの初めてのものであったため、以下のようなライナーノートを添付したのであった。
 (1)〜(3)までの内容を補完する部分があると思い、ここに掲げる事にした。
 (…が、余りにも古く、少し辟易する感もある故、以下を自分自身で見れない現在でもある。
  ただ、幼き私の一過程として、ご笑覧戴ければ幸いである。)

 …………………………………………………………………


   「金運」&「金流」CDについて

 このCDは【お金の学校】名言集をご活用されている方に録音不備があったお詫びとして製作致しました。
 せめてお詫びの品をと思い、何が相応しいのかと考えまして、以前からもスタッフをはじめ何名かの方からこうした物があったらというご希望の声を聞いていた事を思い出し、今回急遽製作いたしました。
 ただ、「何だか怪しい」「眉唾ものだな」と思われる方もいらっしゃると思いますので、簡単な説明と使用方法について述べさせて戴きます。

★「愉氣グッズ」製作までの経緯

 このCDのような製品を略して「愉氣グッズ」と言っておりますが、正しい呼称は「愉氣自動発生グッズ」であります。
 つまり、炭や水晶、パワーストーン、宝石などのように 氣(エネルギー)が常時自動的に発生するグッズという意味です。
 炭などはもともとの性質上、そういう物になっている訳ですが、人為的にそうした物を作る事も可能です。
 たとえば長年使っていた万年筆にその人の氣が残り、その人の氣が発生してしまうように、物は氣の影響を受け、そしてそれを伝えます。
 それは自然な経緯でそうなった訳ですが、その原理を応用して意図的に行う事は以前より行なわれていました。
 (たとえば野口晴哉師が幽霊屋敷に愉氣をした例etc.)

 どなたでも人間である限り愉氣は出来ます。
 しかし、やはり@手が開かれた方や、A瞑想の深い方(潛在意識と意識との流通が良い方)の愉氣はとても深い影響を対象に与えます。
 そしてまた、物質に愉氣をし、なおかつそれが永続的に物自体が愉氣を自動的に発生させるようにするには、Bある程度の技術、コツと、C多くの経験が必要ではあります。

 私談になりますが、私はその技術を15年程前に、ある真言宗の僧侶達と数年の間、随分と研修させられました。(仏像や書などに魂入れをしたり、開眼させたりなどの技術も仕込まれました。)
 数ヶ月の研鑚でしたが、毎日、愉氣をしているせいか習熟も早く、非常に評価され、水を変えた時には、「淨潤先生にはもう浄水器は全く要らないね。こんなの外してしまって、ただ一瞬愉氣すればいい。」とまで皮肉混じりに言われました。
 (ちなみにそれでも都会では浄水器は必要だと思います。
なお、液体は愉氣でとても変化します。気体はさらに変化しやすく、さらに細かいもの、つまり物にもなっていない「氣」とか思考のエネルギーは更に迅速に変化します。
  逆に固体は粒子が荒いので、その分子構造のレベルまで感じて愉氣をしていかないと十分な変化を上げる事が難しいです。)

 ところが、私自身は物に愉氣する事にどうしても気持ちが向かず、その研修以後は殆ど全く行なっていませんでした。(一年に一回くらいはお酒の席などで行なってはいましたが。)
 まして愉氣グッズを作ることは一回も行なっていませんでした。
 ただただ、氣道の指導を受けにいらっしゃる人に愉氣をする事と瞑想を深める事だけを行っていました。
  (その結果、逆に様々な愉氣が出来るようにはなりました。
  愉氣は氣道を伝えるための最大、短速の手段でなので日々仕事として行っております。
   何十年も日々行なっていると、深化する部分もあったり、色々な気づきもあります。普通で考えると妙な
事も出来るようにはなりました。
   たとえば、時間を超えて愉氣が出来る事を発見し、以前通信テキストにも書いた或る方同様、過去の映
像や出来事もある程度だけですが変える事ができるようになったり、それならば未来への愉氣も出来るのではと試行しま
した。
   そうした経験から個人的な瞑想体験では感じていましたが、時間と空間を超えたアプローチも可能であ
ることを発見し、0リングテストで検証していきました。
   (なお念の為申し上げますが、これらは「運命は変えられないとしてもどうしたら其処から自由になるの
か?」「どうしたら幸せになるのか?」を、自分のためだけでなく日々いらっしゃる方々のためにも見つけて
いきたいという気持ちがあったからなのですが、そんな格好の良い事?よりも、ただ一氣道家とし
け瞑想や自動運動を深めているうちに、また日々の指導を通して得た事を、ちょうど子供の頃、忍者に憧
れたように興味を抱き、そしてこれだったら皆さんも喜ぶ、と発展していっただけなのです。
   余談ついでに申し上げると、それはチャクラの開発やクンダリーニの覚醒とも同じかもしれません。
   それらを開発、覚醒させようとすると、かえって難しかったり、あるいは大きな事故が生ずるものですが、
それを求めずに修養していたり、ただ準備だけしている内に自然の流れでかえって速やかに覚醒開発され
るのと。
   相場で言う「人の行く道に裏あり、花の山」の譬えではありませんが、「我欲で求めると、結果として違う
目的地に行ってしまう」ようで、純粋に内なる魂に沿って、自然に沿って生きるのが結局一番の幸せの近
道なのだと思います。
   また逆に言えば、そんな事が出来るようになっても幸せや、人格とは殆ど関係がない訳でその意味でもそう
した能力はオマケなのでしょう。
   自動運動つまり瞑想を深めるとオマケは大きいのですね。
   オマケを求めず、自動運動(瞑想)を深めて戴きたく願います。
   また、そのための準備としての氣道method(夜寝る前に今日一日のことと全てに懺悔と感謝を捧げる、朝起きた時には呼吸法、日中の脊髄行氣や内感〜ホ・オポノポノやその発展版である心象内感行氣(氣道流フォーカシング))etc.の代表的method)も活用して戴けたらと思っています。)
 
 話を戻します。
 そうしたかなり厳しい研鑚を受けてシッカリと確実に出来るようになったものの、それでも、物に対する愉氣には抵抗がありました。
 それでしたらその物を使う、食べるという大本の人間自体を変えたら良いと思っていたのです。
 その後、20年近く経ち、たまたま届いたDMを契機に朝比奈さんという超能力者(XPサイエンス主催)に出会い、私自身の身心に一生残る条件付き愉氣(設定愉氣と氣道では言っています)を受けました。
 (「相手に最も相応しい愉氣が自動的に輸れるようになる」という表現に惹かれたのです。
  なお、それを受ける事を朝比奈氏はインストールと言っていますが、その後、自動運動(や瞑想)や試行を通して私も出来るようになりました。
   (なお、苫米地氏やホ・オポノポノを特に講座に出ず本だけ読んで実行していても、意識と潛在意識の流れを邪魔するものが多いと成果が上がりにくかったり、また、心だけでは変わりにくい人が余りに多かったのが、物理的身体や感覚的身体を調整するととても潛在意識etc.の流れが良くなるため、氣道の個人指導(整体)の中で行っています。))
 朝比奈氏の施術は一回10万円以上と高額でしたが(しかも1分弱)、その後、その会で行なっていたインストールを全て受けました。(全6種類程)
 何故なのか今もって分からないのですが、それが契機となったようで、物品に愉氣をする事に抵抗が無くなりました。
 その後、「そうした物を持つ事によって、身心が育まれたら、そして皆さんの生活がより良くなったら嬉しい」と思うようになりました。
 そして更に経って、「この技術を公開すれば、愉氣を気軽に楽しく活用して下さるのではないか」と思いました。
 楽しみながら愉氣に慣れて戴ければ、ご自身の氣の流れも良くなり、感覚、感受性も敏感になりますし、それによって生活も質的に変化する事でしょう。
 結果、自然に生きる道、氣の道に繋がる事でしょう。
 そう思って「感覚開発講座」を行ったのです。
 物へ愉氣する技術のコツとポイントと、その頃開発した、そうした愉氣自動発生グッズが製作出来るような回路を開く施術を参加者一人一人に行ないました。
 今後も、楽しみながら愉氣を気軽に活用し、その事によって身心を育て健康を向上させ自然に沿った道(氣道)を深めるためにも、そうした技術をお伝えしようと思っています。
 (ただ回路を開く施術は当分行わない予定です。)
  なお、愉氣は氣の道を伝えるための最大かつ最速の手段です。
  そのために私は個人指導(整体)を愉氣を通して行なっております。
  そして、その効果を上げるためにもご自身が瞑想や自動運動、感謝の気持ちなどの氣道methodを行なうことはより大切です。
  同じ意味で、愉氣を行なう能力も他動的に一遍に身に付けるよりも、皆さん一人一人が楽しく愉氣を繰り返す事によって自然と習熟されていったほうが自然に沿っていると思うからです。
  ただご家族に難症の方がいらっしゃる等、どうしても早急にする必要がある場合は、前述したように個人指導(整体)の中でも行いますので、ご予約時に仰って下さいませ。
  その他の設定愉氣(リクエストにできる限り応じます)を受けたい方もご予約時に仰って下さい。(別途料金。なお、定期的に指導を受けていない方の場合、簡単な条件を申し上げる事もありますが、ご了承下さい。)
  なお近々では「頭の回転を良くする」「全ての情報を把握し適切な応対ができる」「その時その場にて最も適切な事が出来る」「体調に即して行動する事が出来る」「丹田力」等々の一生残る設定愉氣(インストール)を整体中にさせて戴きました。


★「愉氣グッズ(愉氣自動発生グッズ)」の製作方法手順。

  (「愉氣グッズ」は、以下@〜Hの9段階の流れで製作しております。
    どうぞ皆さんが「愉氣グッズ」を製作される時の参考になさって下さい。)
   ※なお、いい「氣(エネルギー)」や「愉氣グッズ」が出来たら、ぜひご紹介下さいませ。

〔準備〕
 @製作者選出
  (少なくとも3年以上ほぼ毎日愉氣を人間に行っている方で、固体にも恒久的に残る愉氣が出来る瞑想の深い方。←これはプロとしての条件ですので皆さんが気楽になさる時は別。)
  
A物品(媒体)選出
  (出来るだけ、1、愉氣が入りやすく、2、かつ愉氣の入る量が多いもので、3、そして、そ
の後も安定した氣(エネルギー)状態を保つものを選ぶ。
   使用者の指輪などの所持品は下記調整をしっかりと行なう。

なお、液体は1は良いが3に関しては不安定で、逆に固体は安定は良いが1の面で困難で施術者の力量
が問われる。
   ちなみに現在最も入る媒体は人間そのもので、これは1〜3の全ての条件をクリアしている。(そのため、@
でも人間に愉氣している方を対象としている。)
   物品だとダイアモンドが最も良い。(但し基本的に純化された愉氣が入り設定愉氣向けの媒体ではない。け
れども製作者の瞑想が深ければ可能で、ダイアモンドの特性である持つ人との相性も変化させる事が
できる。ただエイトスターはすでにされている強力な設定愉氣を抜きにくいので不可。なお同じ鉱石で言え
ば水晶はかなり劣るがスターサファイアは良い。)
   なお食品では現在の調べでは、マコモが最も入れやすく、しかも非常に良く入り、安定どころかさらに活
性する(マコモ菌が強力になるのだろうか)。(太古の水は不可。それ自体がダイアモンド以上にピュアに純
化されているためと、とても自然な設定愉氣が既にされているのを変えたくない。
   これらは瞑想後に皆さん持たれて確認してみると良いだろう。)

 B「設定」選出
  (相手のリクエストに出来るだけ応ずる(ただ、その「設定」自体が相手にとって本当に相応しいものかは十分に検討の事。)
   ※この事は非常に重要で、文章のテニオハが変わるだけでも氣(エネルギー)の質が変わることもあるので、願文同様、十分な検討が必要である。
   この相手に合わせた設定創作に於て、製作者にとって以下の三点が重要となる。
   1、氣道的視点と2、心理援助能力(相手の本当の望みを具象化させる能力や果たしてそれを実現させていいのかどうかも感ずる能力)、3、言語能力(それらを最も相応しい言語に表現する能力。ただしそれが難しければ、製作者が愉氣技術に長けている場合、相手の氣(エネルギー)体からそれらを読み取って言語無しで設定する事も可能。)

C〔実際〕
  製作者の調整1(禊ぎ=0)。
  (塩湯〜自動運動を代表とする身体禊ぎ行法〜0への瞑想(What am I?)、ホ・オポノポノ〜感覚的身体を連動させた深層ホ・オポノポノを代表とする鎮魂禊ぎ行法〜その他)
  
D製作者の調整2(リンク=0〜1)
(源と通じ、様々な氣(エネルギー)を取出せる状態に調整(設定愉氣モード作り))
 
E媒体(物品)の調整1(祓い=クリーン=0=物品自体の氣(エネルギー)を出来るだけ純化させる。)
  (かなり霊的に被っている場合は磁石による調整(〜祓いの気合〜物によっては波動水
に浸ける〜カタカムナ技法(電子(マイナスイオン)を長時間放射。宇宙空間(真空)状態に
設置するのに準じた効果を与える)〜神棚その他に設置〜BCの準備をした製作者が感覚
的身体を連動をさせたホ・オポノポノや愉氣の2〜3によりさらに細かい部分、深い部分の抜
氣を行なう)

  F媒体(物品)の調整2(愉氣=物品(媒体)に偏りない氣(エネルギー)を満たす。)
  (カタカムナ技術やBCが完了した製作物が地球の重力状況に相応しい氣(エネルギー)を充填。
  なお、不安な場合は氣玉を創り自他で確認した上で封入。
  また、このFは@〜E(特にC〜E)が正確に行なわれると、敢えて行なわなくとも自動的に行なわれてしまう。ぜひ試行確認してみると良いだろう。)

  G媒体(物品)の調整3(設定愉氣封入=希望の設定を物品に愉氣封入する)
  (1、「設定」の再確認
   2、その「設定」への印象が入らないように注意する。
     (使用する人が限定されているなら、相手のイメージだと印象になりやすいので相手の魂とリンクした上で行なう。期限その他についても同様。)
      それが出来るモードになって初めて行なう。)
   3、設定愉氣の氣(エネルギー)の製作。
     (慣れている方は一瞬で出来るが、初心者あるいは不安な人は、Fの氣玉を創り続いて設定愉氣の氣玉を創る。)
   4、設定愉氣封入
     ・その媒体に入る最大限まで入れる。
     ・瞑想が深い人ほど分子、原子レベルまで深く(つまり細かく多く)封入できる。
     ・なお、封入時間は、先述したように人間あるいは動物のような愉氣感応が優れた媒体なら、慣れている人なら数秒そうでなくとも1分以内。
      物品だと数分の事もある。
     ・もし上手くいっていないなら(←なお、それが分からない人は設定愉氣は出来ない)、それまでの段階のどこか(特に媒体対象の抜氣など)が上手くいっていない。
     ・これは、人に対して行う場合も全く同様。
      故に、まだ数十秒ないし数分間行なう必要があると感じた場合は、それ以前の段階に戻る事。
     ・設定がかなり複数、複雑である場合でも同様。
     ・なお、この設定愉氣に場や人、神々の神氣を用いる場合は、「降神の術」や「抜魂の術」を用いたり、場合によっては該当する真言を「複倍音発声法」で声明し、該当するその氣と感応、呼出し出来る状態に製作者がなった上で行なう。)
  (5、KF設定(keepforever設定。これらの氣(エネルギー)が半永久的に残る設定)

  ・KF設定を行っている最中に違和感、抵抗etc.が生じた場合は、キネシオロジー、一人0ring、その他の身体対話法やイエローグリーンetc.のガイド法で、この設定が出来るかどうかを確認してから行う。
     ・KF設定が無理な場合は期間を限定するか、既に封入した設定愉氣の内容自体を変えなくてはならない事もある。
      (基本的に目一杯すでに設定愉氣を封入しているので、それが活かせる期間のほうが流れが良い。
       最初から半永久的に効果が変わらない事を目指している場合(つまり必ずKF設定を行うつもりの場合)は、KF設定のほうをいかす。
       すると自動的に3で設定した量が変化するのが常だが、設定の内容が若干変化する事もある。
       これは感覚できる(←出来なくてはいけない)。
        つまり、違和感etc.を感じたのに、そのままKF設定を続けた場合は、自動的に、それ以前に行った設定内容が変化してしまうが、その変化した内容も製作者は感覚できなくてはならない、という事。
     ・こういう事が生じないためにも、KF設定にこだわる場合は、4の段階からKF設定を行っていくのが無難である

  ※6、製作者の氣(エネルギー)が入らぬよう注意する。
   (気合を込めれば、その気合を入れようとした気迫だけが入る。こうなったらいいと思えば、こうなる氣(エネルギー)ではなく、こうなったらいいという願う氣(エネルギー)が入る。
   これにはコツや熟練がいる。そのため上記が重要なポイントになる。
   源と繋がった感覚で、なおかつ、その氣(エネルギー)とリンクし、操る事が「何の力みもなく、純化された意識状態のまま」出来る人が行い得る。
    (そうでないと上述の不純な氣(エネルギー)が入ってしまう。ちなみに青木宏之先生が玉川温泉で行なった「氣道協会の発展のために」という設定愉氣演武は物への愉氣ではないが、この点に於ても本当に見事であった。
      そこには祈りの純化された姿があった。)
     そう、『設定愉氣は純化された祈り』なのである。
     愉氣や設定愉氣自体はどなたにでも出来るが、この点に於て瞑想の深まりやかなりの習熟あるいはコツが要る訳である。)
  
      

  設定愉氣(3)
Date: 2009-2009-03?4?

★作ったのに、まだ書いていない「氣」

  「夢∞現 (チェンジ)」
  「うんち君」 作成日(2009年2/3分。一週間便秘の息子の為に作り初めてインストールもの。 」
「元気」 作成日、下記「幸せ」同様、2009年2月末辺り。息子に初めてインストール。
(上記「健康」と同様だが、違いは、元々の元気(元の氣を元気と言う)を発揚させるところにある。
一生涯、その本来ある元々の元気が更に発揚し、そして「健康」の氣同様に、その時々の身心状況に即して現れるという氣。
「幸せ」 作成日は上記「元気」と同じで、続けてインストールした。
一言で言えば、いつも限りなく幸せという感じを味わえる(目指す)氣。
本来ある幸せの感覚(健康=幸せ)をどんどんと創り出せ、またその時々の身心状況に於てもそこから幸せを引き出し、かつ増幅させるという氣。(後のほう(引き出し&増幅)の部分では「元気」の設定と若干違うが、「元気」同様、一生涯のという強力なKF設定。ただ、まだ進行形の氣にはしていない。)
「ベスト」 ←どちらの呼称でもOK
作成日(2009年3/21) Sさんに設定愉氣した氣。
(その時々の自分に一番相応しい氣(エネルギー)が発動する氣。Sさんにはその氣をインストールすると共に、Sさんの身体がその氣をご自身の身心で発せられるような氣を創り(←そのほうが自然だと思ったから)それ「も」インストールした。
その時点の自分でベストが「あらゆる意味」で発現できる氣(なお、Sさんの場合は心理的な事に特化されていたので創り直す必要あり)。
もともと、身心はそのように行っているので、この氣を創る必要は本来無い。
その為、Sさんとも色々と整体前に、問答や、確かめなどがあったが、ある意味究極の愉氣が出来るかと思い、創ったところ、どちらも出来たので、行った次第。

★今後、作る「氣」

  「未来」 時間は未来から現在に流れている。過去や現在の嫌な事は未来から見れば全て活きている。
  「現在」 ・未来が幸せだから、今も幸せである。(現在どんな状況であっても、未来に活きている。
       ・なので、フォーカシング(心象内感)をする必要が全くない。
  「達成アンカー」 ・今まで達成した事のアンカーが今後の生活で作動しやすくなる氣。
  「予定調和(どらえもん)・未来は良くなるのだから、今あくせくしなくとも良い。
      (文章を書くのに苦労した時、「完成された素晴らしい文章」をイメージすると今が動きやすく(書きやすく)なるので、作動させた。2009年1月23日)
  「他動調和(他チェンジ)」
      ・私がうまくスケールを弾くのではなく、明子さんが仰るように、鍵盤がスーッと滑らかに動くとイメージするとその通りになる、に触発された。
  「リセット」
「チェンジ」・これは「キャンセル」と「OK」が自動的に行える氣。つまりまず「キャンセル」が作動し無くなったあと「OK」の事を自動的に探し出しそちら(ゴールの方向)に向かってゆき氣。
(なお、「夢現」の名称と同じなので、「夢現」のほうの名称を変えよう。)

 …………………………………………………………………

 なお、現在(8/3)までに、上記には書いていない設定氣も作り誘導伝授させて戴いたが、
 (1)にも書いたように、「氣道」に関わるものばかりで、
 (例/自分&他人にも働きかける「筋肉調整」、「関節調整」、「仙椎調整」「骨盤調整」「邪気祓い」「邪気転換」etc.
  それ以外の設定氣(エネルギー)は、それぞれ専門の方や団体に任せたい故)
 それらは【氣道の学校】か【氣道の指導法学校(「整体法修得講座」】の中でのみ現在はお伝えさせて戴いている。
 

  設定愉氣(2) (続き…スミさんの会報文章より転載の部分)
Date: 2009-03?4?
■設定された氣(設定愉氣)の種類
(以下、会報で掲載されたスミさんの文章を転載します。)

(前略)
 そのため、長谷川先生は氣道創始以前から数十年間ずっとこの「天心の愉氣」のインストールだけ行っていたのですが、今年後半になって、特定の設定での愉氣も伝授されるようになりました。
 それは先生ご自身が随分以前にお世話になっていたY先生(故人)のお弟子さんであるA先生にそうした特定の愉氣を伝授され、それが良かったため、そうした愉氣もこれからは皆さんにも誘導したいと思ったからなのだそうです。
 ただ天心の氣と違って個性ある氣のため誘導伝授の行い方を工夫するのに月日がかかり、満足いく形で出来るようになったのが今年の秋ということで、このような個性ある氣(それを条件付き愉氣とか「設定愉氣」と呼んでいます)を誘導伝授(インストール)し始めたのは、9月からの「整体法修得講座(中等)」からになります。
 私は、その最初の時から受け始めましたが、現在(12月)まで伝授(インストール)された設定愉氣を以下に記してみます。

 現在、インストールできる氣を以下に掲げます。

●「天心の氣」
  これは野口晴哉先生が開発されたものです。
  氣の誘導(つまりインストール)ですが、天心の氣が全員に通って、そして満ちた後の二回目からは、個性を帯びた特定の愉氣を誘導(インストール)して下さいます。
 この一回目の天心の氣のインストールは、実際に受けた方も多いと思います。
 
 そのため愉氣をする時には、天心になって行わないと、場合によっては心配の氣や良くなってという焦りの氣を愉氣する事になってしまいます。
  その天心の愉氣は、愉氣一度受ければ、一生涯活用出来ます。
 
「整体法修得講座(中等)」にて

 1、自分のペースに合わせて整体の技術が向上する。(これは一生涯の氣が創りにくい參加者がいらしたため3カ月間の設定伝授でした。)
 2、「天心」 (この設定愉氣は一生涯OKの伝授でした。)
 3、今日と明日の中等講座で学ぶ事が、意識しなくとも、今後の生活で自然に必要な時に使えるようになる。(これを「無意識設定」とか「自動設定」とか「オート設定」と呼んでいるそうです。「無意識自動設定」なのでしょう。、以下、今回は、そのように書きます。
  4、「応急手当」 
     (3同様の無意識自動設定で、ここで学んだ応急手当が、意識しなくとも、今後の生活で必要な時に自然に出来るようになるというもの。一生設定。なお一生設定は半永久設定であり、KF設定と先生は言っているそうです。そして、その設定に限らず、インストール(伝授)されたものは全て、ご本人が「消えろ」と思えば、消去できるように設定しているとの事でした。なお、現在では、不安な方もいらっしゃるので、消えろとか消えてとか、「そのように思い」、そして「omit」とか「消えた」とか呟けば削除されるような設定にしているそうです。なおこれについては全て同じなので、以下記載を省きます。)
 5、「愉氣2」 
     (愉氣の2とは内感しつつ相手に触れる、あるいは相手に触れて内感するものですが、それが今後、円滑にいくような設定でした。これも無意識自動設定&一生設定でした。)
 6、「愉氣3」  
     (愉氣の3とは瞑想しつつ相手に触れる、あるいは相手に触れて瞑想するものです。これも5同様に、無意識自動設定&一生設定でした。)
 7、「まかせる」
     (運命も含め、あらゆる意味で、現在の流れにまかせる事が出来るようになる氣だそうです。無意識自動設定&一生設定。)
 8、「つく(創)る」
     (本来の「要求」に沿える氣。自分の夢やしたい事が自然の流れに沿って出せ、それに沿えるようになる氣。無意識自動設定&一生設定。)

 9、5〜8の統合 (上記、5と6、7と8は陰陽の氣なので、それらが、自分の中で自然に無意識的に働くように統合設定したという事です。これも無意識自動設定&一生設定です。以下、全てそうなので略します。)
 10、「中等」
     (今回の中等講座の全ての内容が、今後の生活の中で、意識しなくとも、今後の生活で自然に必要な時に使えるようになる氣。 1〜9までの総括統合の氣だということです。)

「全脳「速読法」講座」 にて
 11、「眼が良くなる」
    (眼が良くなる氣が出来たので、インストール(伝授)するとの事でした。なお、この氣(エネルギー)は、出来るとも思わなかったらしく、今回が最後になるかもしれない、そして今後出来たら底上げをしたい、と後日仰っていました。)
 12、「速読法」
    (今後の生活の中でも、整体中等講座同様に、意識しなくとも自然に無意識的に速く読めるような氣をインストール(伝授)されました。)

「【氣道の学校】(初等)おあしす」 にて
  (「自然掲示板」では有名ですが、初めてでの「おあしす」による湯治合宿での初等でした。なお、これは私は参加出来なかったので、下の「健康」の伝授(インストール)は受けていません。)

 13、「健康」   (体と心が自然にそって育まれてゆき理想の健康状態に近づいている。進行的設定愉氣。(自動設定、一生設定などは全て同じ))

「【氣道の学校】(初等)横浜道場」 にて

 14、「自動運動」 (1、自動運動が出やすくなる 2、日常生活の動作もが自動運動に即したものになる。(=日常動作が自身の体を整える動きになってゆく) 。(自動設定、一生設定などは全て同じ)
 15、「内感運動」 (1、内感運動が出やすくなる。 2、内感運動と自動運動との連動がスムーズになる。つまり意識と潛在意識、感覚的身体との連動が非常に良くなり、そのまま自動運動にも移行しやすい。
    この氣は、先生は、「「自動運動」と重複している部分が多い氣です。」とも仰っていました。
 16、「脊髄行氣」 (1、呼吸をしている限り、意識をしていなくとも、脊髄行氣がその人のその時に合った形で無意識的にして出来るような氣。 2、脊髄行氣法を行った時に行いやすくなる。
  なお、この氣の伝授(インストール)した後、先生は「これは実感しやすい人が多かったようです。」と仰っていました。ただ、通常の愉氣同様、実感して体感を意識化出来るかどうかと氣の誘導法(伝授(インストール))の効果は全く異なるとのことでした。)
 17、「初等」    (この二日間の初等講座で学んだ事の自動設定、一生設定でした。)

 なお、私はその後に行った、現在も進行中の【氣道の学校】(中等=心の学校)には、参加出来ていないのですが、伺ったところ、初日の27日は、上記の14、15の「自動運動」「内感運動」と17の「初等」、それと「この中等が最大限有効に働く氣」、それに昨日が新月であった事もあって、その願い事を書いた後で「今書いた事が最大限叶う氣(一ヶ月限定)」、の5つもインストール(伝授)されたとの事です。
 そして二日目は、新しく創った「集中」、「瞑想」という、ヨーガで言うダーラーナとディヤーナが、それぞれ上手く出来るようになる氣だったそうですが、「瞑想」に関しては、以前の中等の場合は整体講座ですので、相手に触れた時に対して作動する氣であったため、今回のは自分の瞑想が深まるという点で違うという事と、それとこの「瞑想」の氣は進行形で瞑想が深まる氣にされたそうで、そうでないと、瞑想に対して付加価値というか余分な事をしてしまう懸念があるため、現段階でも瞑想の氣は出来るのだけれども、その感覚自体が無くなっていく氣の感覚であったりするため、後日時間差を置いて完成させるよりも、現段階としては瞑想だけは、他の氣とは異なった形での伝授となったそうです。
(それと、集中と瞑想が連動して深まっていく、KI法が上手くゆく「1→0」という氣(エネルギー)も伝授はありませんでしたが創られていたそうです。今後は、「3→2→1」というKI@(身体から心がリラックスして「これから行うことに集中できる氣」)と、「3→2→1→0」というKIゼロ(0)(身体から心がリラックスして、更に瞑想(0)に至る氣」という進行形に作用する氣(エネルギー)を創られてから皆さんに公開したいという事です。)

 これについては、先生も、「野口先生の愉氣を再現された方が一人だけいらっしゃったが、しかし、微妙に違う。同様、瞑想とは0なので、0の愉氣を設定愉氣で行う事自体が0では無い。その事をこの20年以上ずっと考え、そして試しているがやはり難しい。最近二つの方法があって、進行系の氣は、音楽に於てはライヴでも行っているので、その手法を一つの進行形の氣(エネルギー)として取り出せないかという事と、もう一つは、ブラックホールの感覚、といっても分からないかもしれないけど、拡大瞑想すると、やはりボコッとブラックホールがあるので、その感覚を参考にすれば、瞑想の氣も創れるかもしれないと思ってやってみて、そして再現出来るかを検証し行ってみた結果です。
 もとより、瞑想は0なので、その設定愉氣は出来ないと思っていましたし、一番心配なのは、限りなく思考が静かになっても、設定愉氣をインストールした事によってかえって残るものが強くなってはいけない、と言うことでした。ブラックホールの感覚を得てからは、少なくなりましたので、まだまだ途中段階ですが、要約すれば、「瞑想」の氣については、氣を創るのではなく、つまり0の氣、タオ、ブラフマン、といった氣を創るのではなく、そこに向かうという形、つまり進行形の形でしか実現出来ないと思い、その段階での実現が出来たので初公開したのです。」と仰っていました。
 三日目は、インストールは無しの予定だったのですが、What am Iの瞑想と対になっているWhere is Godの瞑想にも繋がると言う(これも今回初めて伺いました)いつも行っている空つまりである「風の瞑想」が全員素晴らしく出来て同時に、氣も作れたので、それをインストールされたとの事でした。
 無限大∞を感じようとするとWhere is Godに近くなり、そしてそれはWhat am Iと同質の感覚になるという事で瞑想2という名称でも良いか思ったそうですが、全感は、クリシュナムルティが言うように「あらゆるすべてを全く抵抗なく感じきる=愛」というものですから、最新のNLPでの菩薩の三つの定義(つまり、「全てに抵抗が無い」「全てを認識している」「慈愛がある」)と同じになってしまう、という話から名称としては「覚醒」という名前にその日講座後になったそうです。
 ただ、「限りなくリラックスして、すべての抵抗を抜いて」、そして「内感」し、そのまま「内感」だけでなく、「外感」つまり感ずるもの全てを何の価値判断も無しに全てただ感ずる、味わい愛でるという事が、再現出来るようになるという「全感」の氣と、「覚醒」の氣は違っていたのだそうで、翌朝、確認してみると「覚醒」の氣自体が創った自覚は無いのに既にある事が分かり、というのは、覚醒と設定すると、創っていない別の氣(エネルギー)が先に訪れるのだそうです。それはかなり峻烈なそれこそ感じるモードというよりは「覚醒」という感じで完全にクリアになって、全ての情報が全感覚に訪れる感じで、全感の時とは質が異なっていたそうです。
 その感覚は、先生としては11年前に徳島で訪れた感覚と酷似しているという事でしたが、ともかく全感の氣とは異なるので、きっとこれは、16年前のドラえもん事件(降神の術が出来るようになって暫く後に、ドラえもんの氣(エネルギー)を呼んだら存在していた。それで降神の術、そして神事まで全てを止めてしまったという事件。委しくは「神の学校(CD)@)」まで)と同様だと思い、それでしたら同じ名称ですと、既に存在している氣と混じってしまう可能性があるから、ということでそれらの分離も簡単だけれども現在は「覚醒」という名称は保留にしたというそうです。
 ともかく、この「全感」の氣は「瞑想」の氣と同様に今後進行形にするかもしれないが、しかし今日の氣、そして再現して取り出せた氣が素晴らしいので、進行形の作用ではなく、このままか他の氣同様に、もっと深めていくだけにするかもしれない、という事でした。

 四日目は、皆さん深く進行されていたためインストールは無しだったそうです。
 (なお、名前の無い世界への旅なので、本来なら三日目もインストールしないほうが良いのか、とも思っていた事もあったそうです。ただ、インストールは単なる愉氣なだけなので、それが残るようにしているだけなので、バガウ゛ァンとかクリシュナムルティとか悟ったお坊さんがいつも傍にいるような感じであっても、つまりいつも必要な時には触発するような氣があっても大丈夫だろうし、それこそ、と思って前半でもインストールを今回はしているのだそうです。
 また、もう一つは、先生自身が、過去にインストールを受けた後に、ご自身での深い体験や、そしてまたマジックマッシュルームetc.の手法で強制的に完全に飛んだ体験があったそうですが、どちらの後でも、その後、インストールされたものは残っていた経験から、今回は前半でもされたのだそうです。)
 そして、五日目は、【氣道の学校】も、後半に進みました。後半は、前半とは異なり、自分の現実を創っていく学校で、そのため【夢の学校】とも呼ばれています。(前半は【風の学校】という0へのプロセスです。)
 その一日目が2009年の元旦でした。この日もインストールの予定はなかったそうなのですが、參加者の皆さんの状況を見て(なお【氣道の学校】はそのように參加者に合わせて進んでゆきます)、二つのインストールが行われました。
 一つ目の名称は、「キャンセル」です。 
  (これは、自分(特に将来の自分にとって)不必要な=マイナス)思考や感情が出た時に、「キャンセル」とか「クリーン」と心の中で呟くか、あるいは自分で決めたトリガー(言葉や動作)を行うだけで、速やかに消去し出来るようになる設定愉氣。
   1、イメージがキャンセルされて影響を受けなくなる、だけでなく、
   2、体感してしまったものは、自動的に内感行氣が速やかに行われて潛在意識がクリーニングしまう氣(アンカーエネルギー)。(ただし、これは現在のところ内感行氣を行った事のある方にしか作動しない)。
   3、そして更に、前日の「全感」に移行していく進行形の氣で。
   4、なお、そのトリガーが更に強力に作動するようにも設定しているそうです。)

 二つ目は、 「OK」 です。
  (こちちは、「キャンセル」とは逆に、自分にとって必要なもの居心地のよい状態、環境があった時に「OK」と心の中で呟くか、あるいは自分で決めたトリガー(言葉や動作)を行うだけで、それが自身に定着出来るようになる設定愉氣。

  1、体感されたものが残るだけでなく、
  2、増幅され、
  3、さらに今後の生活の中で、それが自分の身心に流れに沿ってより増幅定着してゆくような氣(アンカーエネルギー)。   4、なお、そのトリガーが更に強力に作動するようにも設定しているそうです。)

 最終日となった六日目では、今回インストールした氣を、全て底上げして再インストールされ、そして最後には、【氣道の学校】という今回の中等で学んだ内容全てが今後の生活で意識しなくとも無意識的にその時にとって最も良い形で発動し、そして心の中で【氣道の学校】あるいは【心の学校】と言った時には意識的に最大限発動するというオートマチック&マニュアル設定で行われたそうです。
 
 そのようなインストールを皆さん全員感じられて、そして活用されていらっしゃれて、今回の【氣道の学校】(中等)は、そうした伝授によって、見違えるほどかなり早い(つまり深い)進行になったそうで、また、伝授以外のほうが、よりシンプルにより瞑想が深まるワークになったと聞いています。
 今日の【氣道の学校】あとに整体にいらした方が、「前々から【心の学校】(【氣道の学校】(中等)の事)には興味があったのですが、今日は表の扉を開けた瞬間、世界が違って、何なのこれ、気持ちいい、としばらく玄関の中で味わっていました。」と仰っていました。
 先生は、その方に「皆さんには、一生に一回はぜひどうぞ、と言っているのですよ。でも、この氣が気持ち良いなら、いつでもどうぞ。そして一回受けると満足してしまうのですが、同じ演奏家でも、進歩するでしょう?
 また聞きたくなるように、【心の学校】も、物凄く質的に変わっているので、再受講こそ、本当に面白いですよ。」
 と仰っていたと伺いました。
 私も、実は、今回の【心の学校】を参加しようと予定していたのですが、どうしても難しく泣く泣く断念したので、この事を聞いて、大変残念ではありました。
 私と同じようにお感じの方もいらっしゃるかもしれません。
 一年間に非常に少ない回数の【氣道の学校】ですが、次回は、来年のゴールデンウィークに姉弟子である佐野裕子さんが行って下さるので、その時こそ受講しようと思っています。
 もし、ご興味のある方は、一緒に研鑚できたらうれしいです。

 さて、話を戻しますが、設定愉氣の伝授(インストール)を受けた後は、それぞれに共通した感覚があります。
 私の場合は、大抵翌日位から身体感覚が敏感になっているのです。
 そして、それぞれのインストール(伝授)を受けた時のことを思い浮かべると意識状態も変化します。
 (これは後日先生に伺ったところ、「そのように意識した場合は強くさせる事もできる設定もしています。全開とか100%と思えばそうなるように設定してあります」との事でした。 先生はこれを「マニュアル設定」と呼んでいます。つまりオートでも働きマニュアルでも働くという事なのだそうです。
 上では、オートつまり無意識自動設定としか書いていませんが、全て「オート&マニュアル設定」なのです。)

 そして、「現在では、その氣の名前を心の中で言うだけで、その氣が全開するようにしています。この名前設定まで至るまでに毎日のように様々な紆余曲折があったのですが、結局「断言法」、つまり石井宏之さんの言うフェイクイットと同じなのに驚きました。つまり、アファメーションを氣を通して身体感覚に連動させたと思って下さい。」とも仰っていました。

 なお、特に、一番最近に受けた「脊髄行氣法」の変化は明確でした。
 翌日、脊髄行氣を行ったところ、息の通りが良く、背骨を意識する感覚が細やかになっていました。
 以前は途中でつかえて質ったり、背骨のどこまで吸っているのかわからなくなることも多くあったのですが、たった一回の誘導伝授(インストール)で格段の進歩を遂げたのでした。
 先生は、「こういう事は、本当に皆様の援助になる事が分かったので行い始めただけで、野口先生から伝授された方法にも抵抗がある方がいらっしゃるかもしれません。そのため当分は【氣道の学校】とか【氣道指導法の学校】(整体法修得講座)のような講座と、【氣道個人指導】つまり整体の中で予約時に仰って戴けた場合しか行わないつもりです。しかも整体については来年からはどうしようかと思っています。」と仰っていましたが、
 私は、今後の講座中に、どのような設定愉氣の伝授が受けられるのか、今からとても楽しみなのです。

 角川 彰弘

  設定愉氣(1)
Date: 2009-03?4?
 以下の文章は、3月か4月位に書いた文章である。
 先のホ・オポノポノの文章同様、今となっては隔世の感があり、こうした事に凝っていた時もあったのだナ、と懐かしく思うだけであるが、
 ここで掲げると約束もした故、そして、この機を逃すと、今後どこにも公開されないだろう、と思う故、未完成の文章ながら、恥ずかしながらも掲げる次第である。
 
 なお、予め申し上げたいことが二つある。

 一つは、私たちの生活そのものが設定愉氣の押収である事。
 もう一つは、だからこそ、設定の無い、純粋な天心の愉氣を目指す必要がある事。
 最後に、そうした天心の愉氣が出来るようになるほど、設定した愉氣が明確に伝わるし、また設定したい気持ちが純化され、変な設定をしなくなってしまう事である。

 (※なお、現在、私は設定愉氣は基本的に受け付けていない。
   ただ、講座中には行うが、それは、「自動運動」「脊髄行氣」「関節調整」その他、氣道の助けになる設定愉氣がメインとなっている。
   お金の事は、今月関西で行わざるを得ないが、おそらくそれが最後かナ、と思っている。)

  ………………………………………………………………………
 
        氣の誘導(インストール)について

■氣の誘導(インストール)とは何か?
 
 氣の誘導(インストール)とは、愉氣を受ける事によって、その「氣」を、その時だけでなく今後の生活の中でも活用出来るようにするというものです。
 (整体の講座にいらした多くの方は皆さん受けられたご経験があるでしょう。氣の感応によって進める通常の愉氣と異なり、他動的に氣を通してゆく手法を用います。
  そのため、名称としては野口晴哉先生の命名にあやかり「氣の誘導」としておりますが、実際には愉氣「伝授」あるいは「インストール」のほうが正確な表現かもしれません。)

 ●一度受ければ、一生涯活用出来ます。(これをKF設定と呼びます。)
 ●受けた方の必要性に応じて、身心のバランスを重視して、自動的に加減をして働きます。(オート設定)
 ●必要に応じて、意図的に加減する事も出来ます。(100%用いたい時には「全開」と思えばそうなります。)(マニュアル設定)
 ●笑っていれば愉快な氣に、靜かでいれば静けさのある氣になるように、氣は様々に変化します。
  そのため、様々な「設定での氣」があります。(以下「設定の氣」参照)
 ●何種類も受けられた方は、それらをの氣を同時に用いる事が出来ます。

■氣の誘導(インストール)の歴史

 古くは釈迦やキリストが行っていたと言われています。
 引導を渡す、という言葉は現在では別の意味になっておりますが、元々は、悟った弟子に対して印堂という場処に、或る設定をした愉氣を行う事を指しておりました。
 その後、古神道や密教その他、様々な中で形を変え氣の伝授、誘導は伝承されておりましたが、宗教と離れた形としては、昭和の初期にブームを起こしたレイキ等が有名です。
 (その頃には悟った方に対してではなく、別の目的を持って行われるようになってゆきました。)
 その後、整体創始者である野口晴哉先生が新しい誘導の形を考案されました。
 野口先生は、氣を輸る事(愉氣)が出来るようにするため合掌行氣法という訓練法を薦めておりましたが、何年行っても愉氣の出来づらい方いらっしゃり、その為もあってこの誘導法を開発されたとの事です。
 レイキではイニシエーションと言い、段階を経て愉氣が出来るようにしていきますが、野口先生は、たった一度で、しかも求める方が多かったため、全員を一度に愉氣出来るような簡潔な方法を創られました。
 (なお野口先生もお若い時には愉氣ではなくレイキと仰っていた時期があります。)
 ちなみに、野口先生の「氣の誘導法」の方法は、伝授者と共に、受けられる方が輪になって手を上向きにして、右隣の方の手首を軽く把持し、伝授者より巡らされる氣を流す事によって、数秒から長くとも数分程度で、全員愉氣が出来るようになるという方法を取ります。
 そして、その誘導法による伝授を受けられた方で、その上、行い方も伝授された方は、野口先生の愉氣を同様の行い方で伝授する事が出来ると言われています。 (私もその後継者の一人です。なお、現在では手を繋がなくとも誘導出来る行い方も行われています。)
 さて、昭和時代に野口晴哉先生によって完成の形をとった氣の誘導法は、平成になって全く別の形で発展します。
 単に愉氣が出来る、という事だけではなく、様々な個性ある氣も伝授出来るような時代となります。
 その皮切りは山口氏です。その頃、心理療法の世界でも、ミルトン・H・エリクソンの手法を伝えるNLPがコンピューターのメカニズムを参考に心理技術を再編しましたが、そうした時代的背景からか、氏もコンピューターを参考に、氣の誘導、並びに設定技術を開発しました。
 また、それらの目的別の「氣」を人間だけではなく、野口先生もそうした時期がありますが、CD等の物品に氣を封入して多くの方を癒すと共に、その効果がプラシーボ(暗示)によるものでは無い事を多くの医師と共に検証し、素晴らしい実績を挙げられました。
 笑えば笑う氣が、明るければ明るい氣が生じますが、その笑いや明るさ自体を持てないという方が多いものです。
 現代医学では既に投薬でそれが可能になっております。しかしかなりの副作用があるのが難点です。
 (そのため氣道では個人指導(整体)に於て、身体に直接働きかけてホルモン等の分泌を変化させてゆきますが、それは氣のレベルの話では無いのでここでは割愛します。)
 氏の設定愉氣製品では、氣のレベルから相手の氣(エネルギー)体を通して変化させます。
 その意味でも氏の登場と医師による検証は、氣の誘導(伝授)技術に於て、第一段階である仏陀やキリストから第二段階の野口先生を経て、設定愉氣という第三段階の革新を得たと言えるでしょう。
 ところが氏はその後、急逝されてしまいます。
 氏、亡き後、現在では、XPサイレンスやT先生が継承され、また別の形に於てはK先生が独自の手法で更に発展させております。
 しかも、それぞれに素晴らしい成果を挙げられており、その意味では現在は氣の誘導、伝授に於ける第四段階の時代と言えましょう。
 (しかし、美味しい蕎麦を作るのにも技術以外に才能があるように、更に美味しい蕎麦を創る技術は、どなたにも出来るものでは無く、現在では数人だけしか出来ないのは当然とは言え残念な事ではあります。
  私事で恐縮ですが、私自身は先述したように野口先生やレイキ、飯島先生、朝比奈先生、T先生、K先生、古神道、修験道を初め、それ以外にも数え切れない程の伝授を受けております。
  そして現在は求められる方には行っておりますが、今後そうした伝授(氣の誘導)「自体」を才能ではなくして出来るだけ多くの方に行えるようにようにする可能性も見えて来ております。これは第五段階の萌芽と言えるでしょう。)
 ───以上、氣の誘導、伝授についてごく大まかな歴史経緯を述べさせて戴きました。

 
■氣の誘導(インストール)に対する氣道的視点。
 ここで、氣道という自然の道にとって、それらの氣の誘導(伝授)についてどのようなスタンスでいるのかを述べさせて戴きます。
 (多分に私自身の私感と体験になりますが、ご寛容下さい。)
 まず最初は常識的な観点から述べますと、こうした事は安易には受けないほうが良いのではないか、という事です。
 氣道の観点は、たとえば「風邪が役立っている面がある」と言うように決して常識的でない立場ですので、常識が正しいとは私は思っていませんが、しかし「キッチリとした判断や感覚」が無い時には、一方で常識的なスタンスを持つ事も重要だと思うのです。
 その観点からすると、こうした伝授的な事は非常識の極み、いわば「眉唾もの」の類だと考えます。
 そして、人は弱ければすがりたくなります。現代医療はそれで進歩?し、現在でも存在しています。その図式は占いやリーディングと同じで依存を生じさせる可能性があります。
 私たちの整体(氣道個人指導)が、たとえ現代医療以上の治療効果があったにせよ、注射や薬の代りとして用いて欲しく無いのは、整体(氣道)が、人を二の足を立たせる、つまり自然に生きていく為の真の治療では無くなってしまう事を恐れるからです。(もちろん薬や注射が必要な時もあります故、現代医療を否定しているのではありませんし、またそうした整体が必要な事もあります。
 医師について言えば、素晴らしい医師は数多くいらっしゃいますし、会員にも多くの医師がいらっしゃいます。その方の体を観ると、この人は本当に医の道を全うしているのだな、という方ばかりで、こうした方ならお世話になりたいと常々思う程です。)
 「問題は使い方」であって、それは整体もそうなのでしょう。 
 一人立つべし、は理想ですが、人の援助を借りなければいけないこともあるのは勿論ですし、また、常々言っているように、真の治療を「お稽古事」として捉えるならば、体を育む事や私たちの整体や治療に対する考え方がそれこそコペルニクス的に変わるのではないでしょうか。
 これは心理療法も同様ですし、温泉などの転地療法も同様です。
 そう考えると、氣の誘導(伝授)は非常識な方法はあり、また場合によっては依存を生みやすいと思う事を述べましたが、それが必要な方も実際いらっしゃるのではないか、という事、そして何より問題は使い方であって、「依存」ではなく「活用」しようとするスタンスならば、限られた人生の時間を有効に使う為にも、身心を育んでいく強力な一助になるのではないか、と思っております。

 ※その意味では、内観法やホ・オポノポノを行っている方(私たちはそうした方を内観者あるいは0の氣道家と言っています)やD先生の内観を行っている方にこそお薦めします。
  (全く逆のアプローチではありますから興味も持たない方も多いのですが、意を決して紹介したところ、そうした方々ですので依存になるどころか、存分に活用され、「自力」の部分が十全と発揮出来るようになったと喜ばれています。
   それが、本当の意味での「他力」の用い方ではなのでしょう。)
  なお、そうした方でないと誘導を受けられないという事ではありません。どのような方であっても、受けられる権利はあります。

 
■氣道に於ける氣の誘導について。

 (略)

※他所で受けられる場合の注意を簡単に申し上げておきます。
   
 1、まずは、料金が11万円以上は注意。(10万円でも素晴らしいところがあるので、敢えて11万円と書きました。)
 2、副作用が無い事。(副作用がある、とは書きません。その団体の感じで知るしか分かりません。(それは長を見れば分かりますが、その現れは事務員の電話での応対などにこそ現れています。))
 3、後日、クリアに出来るかどうか。(これは真実のものであっても、出来ないと言われる可能性がありますが、しかし安全をとって聞いたほうが無難です。気軽に聞いてみて下さい。その答えによって分かります。)
 ───以上、三点をクリア出来る所は相当に少ないはずです。
  変な新興宗教に陥らないための回避手段としても覚えて戴けたら幸いです。

■誘導の実際
 
 ・一瞬です。
  (以下、略)

  「氣道」協会のコマーシャル
Date: 2009-07-29 (Wed)
依頼され、ここに書く次第。
(本来のこの日記のこれからの流れを以前に告知しただけに申し訳ないが、私も時々に書いているので、ご寛容戴きたい。)

★まず一つは、「滝行」

 滝行に、ご興味のある方はぜひどうぞ。

 特に、滝行初めての方にお薦めします。

 (というのは、夏場の滝行などは、まず他団体ではないでしょうから。
  普通、滝行は冬です。)

 初めての方でなく、滝行熟練者でも、氣道の滝行は、瞑想滝行ですので、お薦めいたします。
 (一生に一度はどうぞ。)

http://npo-kido.com/tokubetu.html#taki

 (なお↑ここで仰向けになっているのは十数年前の私でございます。(まだ緊張しているところが残っているのが恥ずかしい)
  しかし、こんな事は皆さんしなくともいいですし、とにかく自由に「滝と楽しめます」。
  あり得ない夏の滝行ですし…)

 まあ、滝行にご興味ある方、特に「瞑想」を深めたい方はどうぞ。

★もう一つは、関西での「整体法修得講座」についてです。

 というのは、例年、この「お盆」の期間では、関東で講座を行っていたのであるが、 今年だけは、関西にて行う。
  (関東では、8/14から行うhttp://npo-kido.com/tokubetu.html#seitai_ss
  
 関西で初めての連日での「整体法修得講座」であり、そしておそらく最後になるかもしれないと思う。

 整体にご興味のある方は、あの清々しい、ティアラで、共に学びたい。(なお初等は間口担当になる可能性がある。今、申し上げている最初で最後の事は、中等の事である。
 ちなみに東京での中等では、技術無くとも、全ての筋肉、関節、椎骨、仙椎、骨盤、を愉氣のみで行える設定愉氣伝授も行った。(自分も出来る。ほとんど瞬時である。)
 関西でも今回は行う予定であるが、今後は、関西、関東に限らず、行う予定は控えようと思っている。)

 野口晴哉やミルトン・H・エリクソン、あるいはその統合(や、クリシュナムルティ、瞑想)その他の統合した形を学ばれたい方は希有の機会故、ご活用くだされば幸いである。
 ご縁のある方には、ぜひいらして欲しい。
 (なお、人数の制限がある(ごく数名で行う)ので、お申し込みは今月末まで(045-261-3300かFax045−261−3304)
  が有難いそうだ。)

───以上、ご関心のある方にはどうぞ。
  私も、同講座ともに、今回はお薦めしたい講座である。
  (あとは9月の【氣道の学校】であるが、それは内緒にしたいと思っていた位なのでおそらくここでも紹介しない)、
   
  ともかく滝や整体に興味のある方はどうぞお問い合わせ下さいませ。

 
 

 

  蓮 (芦屋にて)
Date: 2009-07-27 (Mon)
良くなって欲しいという止むに止まれぬ情熱から解き放たれた時、癒しが訪れる。

より良くならんという執着を手放せた時、進歩が訪れる。
逃げたいという思いが無くなった時、相手、物事、去る。
恋から自由になった時、真の愛に再びまみえる。

叶うと信ずるもの必ず叶わず。
叶えたいという願いを手放せた時、夢は実現す。

自由になりたいという想いから解き放たれた時、今の自由に気付く。

然して、最初の決意無くしてそれらは訪れざらんや。
決意あり、然してただその道に進むもの。
自ずと道拓かれ、華開かれん。

これは絶対である。

  あと二日。 (既に六日目)
Date: 2009-07-23 (Thu)
 以前【氣道の学校】では、一日毎の感想を書いたこともあった。
 【整体法修得講座】では、そんなことはしないが、時事の話題として。

 個体の動きが、全体の動きと連動していることを、他者への「自動運動誘導法」を通して今日の最後に行った。
 
 上手く援助すればするほど、援助者の姿が全体としての自動運動にもなってゆく。

 今日は、悟った蟻の話もした(以前、ここに書いていると思うが)
 が、それを認識しているのは何処なのか。
 そして、それをも認識しているのは? (軸外軸)

 互いに必要な位置に行くとピッタリとした感覚が訪れる。
 自他一。
 それは感覚であり、理屈、常識、知識ではない。
 ならば、どうしたらその感覚が得られるのか。
 その答えが今日の講座であった。

  弔 … 餞
Date: 2009-05-21
愛するMさんは、20年程前から個人指導を受けていらした方であった。
その方は、偶々に青木先生(新体道創始者)とお知り合いでもあり、いつも大いに話も盛り上がった。
その後、天真書法塾のY先生とも懇意なる事を知り、話は更に豊かに拡がった。
当初から感じていた事が一昨年あたりから浮上し、Mさんの肝臓は限界になっていった。
その後、私は、Y先生に自分の見立てを申し上げた。
ほんとうの親友、魂の繫がりのある方たちだと思ったからである。

こうした事を書きたくて、この日記に向ったのではない。
続ければ、切りがない。
それは、明日、話せればと思っている。
(現在、「氣道指導法修得講座」を横濱道場で連日行っている)

とまれ、私に代り、横濱道場にもいらっしゃれなくなったMさんの最期をずっと診てくださったのがシャンタンであった。

彼は、私も10代の時に学ばせて戴いたラジニーシの弟子であるサニヤシンであり、その後、カルキ・バガヴァンから直々に呼ばれたディクシャの伝道者でもある。

東京道場にも一度いらして下さったが、カルキ・バガヴァンのエネルギーを瞬時に出されていたため、普通ならあり得ない、晴哉先生や順平先生が大事に選ばれた材木用いる道場の奥も、ご紹介した。

Mさん亡きあと、Mさんは、いつも、ここにいることになった。

そんなころ、シャンタンからメールが届いた。

以下、シャンタンからのメールを転載する。

ドロドロと、ここまで…と言いたいほどのきつい印象もあったが、白黒や、虹のでは、感慨深いものもあった。

緻密を見せるに、緻密に表現するとかえってがさつになる。
絵という時間に関係ない表現形態でも、それは現れる。
一見、がさつに思える中に緻密があり、茫洋な中に機がある事もある。
そして機は裡にあり、裡はただライヴ(実際にまみえる)ことでしか伝授できまい。
(↑この数行は、シャンタンに関係ない私の独白である。)

私個人の感慨は、上記以外はさておいておく。
Mさんも、マンダラアートという新境地を拓き、最期まで描き個展をされていた。
きっと、最期まで一緒にいたシャンタンと共の蜜月もあった事だろう。
Mさんの弔い、否、自然な餞のためにも、
ここに一度書きたかった。

   ………………………………………………………………………………………
----- Original Message -----
From: miyai
To: mail@npo-kido.com
Sent: Sunday, May 31, 2009 5:21 PM
Subject: 見て下さい。


長谷川 淨潤 様

宮井陸郎(シャンタン)ですが、再編集した絵のアドレスを送ります。最近描いているモノのスライド画像 (122Mb)です。

見て下さい。もしこの絵を見せたい人が居たら、ドンドン下記のアドレスを送ってあげてください。

宮井陸郎書画集<files.me.com/haruhisa_i/7g1et2>

を、クリックするか、インターネット・プラウザのアドレスに貼り付けて下されば、ダウンロードが始まります。
                              シャンタン

(続いて以下が届いた)

 長谷川 淨潤 様 

宮井陸郎(シャンタン)です。

第U集の書画集を送ります。

下記のリンクをクリックするか、Webブラウザへコピー&ペーストしてしてください。ダウンロードが始まります。
QuickTimeムービー<http://files.me.com/haruhisa_i/lj34ke.mov> file.mov 12MB

 Quick Time ダウンロード<http://www.apple.com/jp/quicktime/download/


  岩見啓吾デュオ/ 雑感
Date: 2009-07-11 (Sat)
 時事の話題が続く。
 (以前に書いたように、ここで用意している原稿を掲げなくてはならないのだが、余りに前のものが多く、
  ここでの投稿のタイミングを図っているうちに、こんなにも日時が過ぎていって申し訳ない。)

 今日は、野口晴哉研究会(体運動の構造「食べるT」)の実修が終え、その後、いつものここにて、明日の最終的準備をしていた。
 その間にBGMとして前回のライヴを聴く。
 恥ずかしさが込み上げる。
 
 ………………………………………………………
 即興演奏は、テーマや、イメージを決めていることもあるが、多く「まっさら」な状態から始める。
 特に、今回の演奏では…
 ライヴ終了後には空っぽになり、絶対にアンコールの拍手はしてくれるな、と思いつつ楽屋?に戻ると、
 「一曲、ソロで…」とマスターに言われたあとの状態は、
 もう、何も出ない、あり得ない、「まっさら」なまま、
 唖然とし、夢遊病者の如く、「どうなるのだろうか?」と思いつつ、ピアノに向かって歩いた。
 鍵盤に向かった時も、誰が弾くんだ?という感じであった。
 (なお、演奏後にマスターが「イエー!」と言ってくれたのは嬉しかった。)
  ………………………………………………………

 ところで、印象、感想というものは、今の自分という観念集合体(フィルター)から出ずるものである。
 それ故、感想はその時の状態によって異なる。
 即ち感想とは自分自身の照射でもある。
 そのように、私達は常に生活している。
 「これは綺麗、これは美味しい…」
 ただ見、ただ聞き…と、対象と一つとなって感じていない限りは、
 私たちは、まるで鏡に囲まれた中で踊っているように、自分の宇宙の中で一人相撲をしているに過ぎない。

  ………………………………………………………

 ところで、
 ───(私たち)技術屋は、ただ瞑想すればいい、というものではない。
 技術を深める同時に、深き瞑想が訪れるような生活をもせねばなるまい。

 ……而して、生活こそ、瞑想の誘因、結果でないベクトルの瞑想(=生活)となるのだろう。

 即ち、技術(生活)と瞑想は、∞の関係にある。
 否、瞬時のパラレルとしても、同時に存在していよう。 
 そこがまた、面白いが、
 パラレルな宇宙に意図的に移動出来るものは、前者の∞に気づき、即ち瞑想深く、明るい状態の者だけなのである。
 ところが、移動したく思う者はその気持ちの起こりからいって大概、感情や観念に塗れており瞑想からは離れた状態である。
 その気持ちを放棄する事によって初めて可能になる、という事は願望実現のメカニズム同様、逆説的な構造であるが、それまたとても面白い。

  ラヴェル/ピアノコンチェルト第二楽章
Date: 2009-07-02 (Thu)
雨上がりの爽やかな風と共に、横濱道場にはラヴェルがまるで彼のボレロの如く繰り返し響く。

・D9右三側。糖尿病の○さんが長年打たれていたインシュリンを0にする事が出来た。誠に嬉しい。そしてこれからが本番。
・毎月ライヴにいらっしゃるTさんの悩みは猫の事。
 今朝の私と全く同じ悩みなので思わず笑い合う。
 Tさんから、これは主人がまとめた本です、と渡される。

「OLD but NEW イセザキの未来につなぐ散歩道」 (イセザキ歴史書をつくる会 編著)
 ゆずに始まり、伊勢佐木町の古くから現在までが数多くの写真と共に纏められている。
 実に懐かしく、嬉しい。
 横濱道場にいらした方のため道場に置く事にする。父にも贈りたい。
・長らく高潮であったK君も先週より低潮。
 D7、9矯正圧法、漫画、アキレス腱、統合法。
・その後、如何?とH君に問う。離れているとの事で間の氣を調べるに非常に希薄。相応しい氣という設定での愉氣をしても変わらず。しかし体は以前よりしっかりとし腰の弾力もある。胸鎖乳頭筋。離れて佳し。しかし愛には浸ろう。
・三重県よりいらしたFさんは妊娠9ヶ月。自動運動も愉氣もしていないですネ…「前の子よりよくお腹が動くのです」…うれしくてかナ?居心地が悪くてかナ?内股、心臓。
 「ところで明後日、願い事のお皿を自分で描ける日ですよね?
  去年、あれに『女の子が欲しい』って書いたの。そしたら本当にそうなったみたい。先生もそう言ってたでしょ。」
 そう。
 七夕の強力版、願望実現スペシャル「横濱 増田窯 ペインティング教室」は4日(土)午後1〜4時。
 http://npo-kido.com/tokubetu.html#masuda
(私も今年は、皆さんの作られたお皿に最大限願いが叶う設定愉氣(去年とは全く異なる強力版)をさせて戴く事になっている。)
 まだ空きがある筈なので、ご興味のある方は3日(金)の夕方までにお問合わせ戴きたい。
 (045-261-3300「氣道」協会事務局)
 

http://npo-kido.com/tokubetu.html#masuda


  感謝
Date: 2009-06-22 (Mon)
 今日は、本当に有難うございました。

 青木先生を始め、関西など遠方からも、平日の日中、しかも雨の中、ご足労戴きほんとうに感謝しております。
 また、多くの電報も戴きました。
 
 そうしたお気遣いして戴く皆さまのお蔭で、横濱道場も15歳を迎えることが出来ました。

 この場を借りて深く御礼申し上げます。
 本当に有難うございました。

  苫米地さん
Date: 2009-06-17 (Wed)
(日記らしく)
  今日は、朝より様々な事があった。
  起きて息子の風邪の経過を聞き、夕べより内感して感ずるのと全く同じかどうかの確認から始まり、その後、相場の動向と身体感覚との照合(昨日から今日の午前中以上に身体感覚が動く相場はこの二十年間では無かった)から、いつものように今日の指導にいらっしゃる方々の夕べを含め、三回目の氣(エネルギー)の確認を行い、それぞれの方の氣(エネルギー)的な指導を行いつつ入浴の準備にかかった。
  
 このままでは、その後の朝の動向も書けなくなるので、その後は割愛して、いきなり夜にいく。
 (ただ夕方の講座では、弟者が「あんなに「会員用掲示板」に書いたのに!」と怒っていたのが面白く、かつ何より嬉しかった。)
 夜は、重要な校正があったのだが(まだ手が付けられていない。事務局の方ごめんなさい。きちんと行います。)、
 15周年に関する青木先生からのメールに返信する(私のライヴは今後全ていらっしゃる!?)など、大切なメールもありメール返信に勤しんでいた。

 …………………………………………………………

 さて、現在は「自然掲示板」のアップロードが急ぎなのであるが、
 (http://8003.teacup.com/joho1/bbs参照)
 そこでも書いたように、今日はまずは日記を更新しなくては、と思い、日記の掲載予定の文章を見ているに(ホ・オポノポノについての文章である)、それなら、その前にこれを先に掲げなくてはと思ったのが同じ日記用下書きフォルダにあったため、と、最後への纏めで、釈迦の指が出ている故、この日記に繫がりがあろうか(ただ、この文章のほうが日記よりも前であった)、とここに掲げる次第なのである。

 ………………………………………………………………
 
 なお、この文章は、「氣道」協会会報に既に掲載されたものである為、会員の方にとっては、またか…の文章であるし、また、この文章を載せるなら、その前に紹介したヒュー・レン博士のDVD(お薦めである)やヒュー・レン博士自身が書いた著書の紹介文章も掲げないと本来親切ではないのであろうが、そこは、会員特典(逆?)としてご勘弁戴きたい。

 ………………………………………………………

 なお、この文章を書いたのは、「軸中軸」以前のものである事は確かという事しか分かっていないが、ご寛容戴きたい。
 (おそらく去年(2008年)か今年初めのものだろうと思う。)

 …………………………………………………………………………
 (会報よりそのまま転載)

 「本当はすごい私」(←この本が良い本と言うわけではない)等 (苫米地英人著 講談社刊)

 前々回、前回とご紹介しているホ・オポノポノは「氣道」の原点であるが、多くの方は、本やDVDを観たその時は感銘を受けても、その後数ヶ月してゆくにつれ、あまり行っていない自分に気付くのかもしれない。
 しかしこの全てを自分の責任とするというホ・オポノポノ、氣道の原点を真剣に行っていくとどうなるだろうか。
 最初は、辛かったり、嫌だと思った時だけ行っていく人が多いだろうが、その内、自分の中に去来する様々な感情、思考に気付いていく。
 これを「氣道」では内観法と同じ作業なので、思考内観と言ったり自観法あるいは『自感法』と言っているが、これはクリシュナムルティの言う自己凝視である。
 そしてこれが細かくそれこそ一秒を長い時間と捉えて出来ないと、瞑想は出来ない。
 ボーッとしていては瞑想は出来なく、雑念に細かく気付いていく行為こそ瞑想の重要なポイントである。
 これは、当会会員でもあられるヨーガ行者の成瀬雅春先生も著書「瞑想法の極意」(平河出版社←名著である)の中で書かれてある事であるが、だからこそ瞑想は頭が良い人でないと難しい。
 そして真剣に行っていくという事は、それを内観法同様に日常生活全ての瞬間において行っていく訳だ。
 これはかなり困難な事である。
 まず仕事中は一秒に何回どころか仕事に没頭していればいる程、数十分行わなかった事に気付く。(ただ徹底的に行い、慣れると監視する自分が出来るため一秒に数個はかなり楽になる。これを行っているのを内観者と言う。)
 その他、困難な点は多々あるが、そこまで真剣に行っていない人でも、自分を責めるような感覚に陥り、一種の心理的自家中毒状態になってしまう事がある。
 それで「こんなのはやってられない。」とか「でも、あの人はああいう人だ。」と、あの人やあの事があるかの如くに戻ってしまう。
 (いつも言う事であるが、氣道の中では他は無い、ホ・オポノポノで言う自分の責任、という以上に他自体が無い、と捉えている。)
 ホ・オポノポノは氣道の0同様「潛在意識のクリーニング」であるはずなのに、結果として、かえって色々な膿を潛在意識に溜め込んでしまうのは可笑しい。
 ところがヒュー・レン博士ご自身は軽くすがすがしい印象がある。
 私の知る限りだが、ホ・オポノポノを行っていて、「正に潛在意識のクリーニングなのだな。」と感ずる方は少ない。
 軽くなっている人は真剣に行っていない人ばかりで、真剣に行っている方に限って、少し暗くならざるを得ないのだろうか。
 ヒュー・レン博士の文章を読んで気付いた事がある。
 その後、ヒュー・レン博士の姿を観て、気付いた事が本当だな、と思った。
 それは、ホ・オポノポノを行う前提、というか行う時の立処が重要なポイントである、という事だ。
 きっとヒュー・レン博士はホ・オポノポノを行う毎に、どんどんと軽くなってゆくだろう。真の内観者、即ち氣道家もそうだ。
 最初のボタンをかけ間違うとそれは最後まで帳尻を合わせる事は出来ない。
 自分の責任である→自分を愛さなくては→また嫌な事が起こる→それも自分の責任なので自分の潛在意識に、あるいはヒュー・レン博士が行っているように相手に対しても懺悔し愛をもって接しなくては→また嫌なことが起こる→
 〜という繰り返しの結果、自家中毒状態が生ずる訳だ。
 その無限の輪廻をどこで断ち切るか。
 それを、多くの方は、「これではやっていられない」と別の服を来たり、あるいは「やはりあの人は…」とボタンの帳尻を合わせようとする。
 ヒュー・レン博士はそんな事を行っていない。氣道家もそうだ。
 最初の立処、前提が違う。
 ───その事も伝えたく前回からの【氣道の学校】(中等=【心の学校】)を行っている。
 つまり、ホ・オポノポノをする、反省する時の自分自身が、反省やホ・オポノポノをする立処では無いのである。
 一つは、自分の責任に仕切れていない(相手があると思っている)状態で行っている。(実は殆ど99%がそうだろう。)
 もう一つは、自分の責任にしていても、その自分の感情に巻き込まれている。(これは特に真剣に行っている人がそうなっていくが、まずあまりいない。)
 反省をするなら徹底的にするべきである。
 しかし、こうした立処での反省は、前者なら、いつか「やっていられない」と暴発するか、後者なら先述の自家中毒に陥る。
 前者にせよ、後者にせよ、共通するのは、現在の自分自身の立場でホ・オポノポノ、内観(感)を行っているところにある。
 …その事に気付いて、スタッフの数名と或る方には「最初のモード創り」こそ大切だよ、と申し上げたが、これは現在も変わっていない、ヒュー・レン博士のカラクリでもあろう。

 私たちは「自分は○○だ」、という事が染みついている。気付かなくとも透明な観念としてある。
 否、その集合体が自分であると言ってもいい。
 野口晴哉師は「人は暗示だけで出来ている」と言ったが、それに対してミルトン・H・エリクソンを紹介する最先端の心理療法家も「そこまでは…」と書いているが、師の言葉は真実と思う。
 ホ・オポノポノや内観などを行う時の立処自体、つまりそれらを評価する「自分」が観念や感情の塊なのである。
 つまり、まず、それらを行う自分を変えなくてはならない。
 最初のボタン、あるいはそのボタンをかけようとする自分を変えなくてはならない。
 
 そう言うと「いや、その「自分」をこそ変えようと思ってホ・オポノポノを…」と言う反論もあるだろう。
 ごく最近の【氣道の学校】(【心の学校】)にご参加された方ならお分かりだと思うが、そのためにこそ多くの準備をしている。
 軍隊蟻は、その行進の途中にあるものは、死んでいるものに限らず、生きている全てのものを喰いつくすと言う。
 しかし、その行進の規則性を活用して、最初の蟻を最後の蟻に繋げると、軍隊蟻は無限の輪を描いて行進し続けるのだそうだ。
 ───どこでパンチイン(心理療法語)を入れるか。
 少なくともホ・オポノポノ(氣道)を行う人にとっては、最初の段階に入れたい。
 あるいは、行ってみて、そろそろという時に入れたい。
 
 この拙文が、前回ご紹介した本やDVDを実践している方にとって良いパンチインになっているかどうか分からない。
 しかし、苫米地氏のこの書以降の数冊は、ルータイスのシステムを彼なりに纏めたものであり、現在の自分をどう創るか、という点では共通している。
 彼は、氣道にとって重要な情報を齎す。
 ところで氣道の指導法は、ミルトン・エリクソンと野口整体との統合であると言うと最も分かりやすいらしいが、私は彼からミルトン・エリクソンの秘術をも教わった(実際彼はその手法によってオウム信者の脱洗脳をされたと言う)。
 そうした指導法(整体)の面だけでなく、彼の情報は氣道そのもの、つまり人間が自然に生きる道にとっても重要な役を演じている。
 つまりホ・オポノポノ(内観、瞑想、氣道の0)を行う「自分」自身の状態を創るに一役買ってくれる。
 この書が彼のそうした類書の中で一番良いかどうかは分からない。
 しかし、それこそ軍隊蟻のように見える彼の書の中での先頭の蟻かもしれない、と思い一応この書を掲げた。
 
 (なお彼の著には馴染みにくい単語が幾つかある。
  空や止観は殆ど同義であるが、ストコーマは「透明な観念」、エフィカシーは「自己評価」、ゲシュタルトは「集合体を認識する観念」、内部情報の書き換え「観念の書き換え=リフレーミング」などと換言して読み取ると良いだろう。
  新年会でも或る弟者に言ったが、私たち人間は言葉によって認識世界を培っている部分があるため、新しい言葉を聞くと、違う事かと思うのであるが、そして、それは、その人の言っている真意を汲み取ろうと白紙になる意味ではいいのであるが、コンピューターに様々な余分なバグが入ってしまうのと同様、同じ事を指しているのに、別言葉であるのは、私たちの脳に余分な負担をかけるという意味ではなく、潛在意識的にも作動しづらい。
  その意味では、氣道は、様々ある言語、観念の形体を統合しようとする試みでもあろう。
  氣道という言葉は、自然に沿って生きる道であるが、そのメソッドとしては多くのものをどのように取り入れ、あるいは削除し、あるいはどのように残し、そしてどのように改良するか、という事においては、様々ある他言語を統合してゆく過程こそ、メソッド作成過程なのであった。
  そのため彼が用いる言葉にも私なりの注釈を入れたのであるが、同じ意味で、ホ・オポノポノに対する注釈がこの拙文である事も読者にはお分かりだろう。
  団体が異なると用いる言語も自然と異なる。それは団体だけでなく、実は、全ての言葉は、その人だけでしか定義づけしていないのである。
  つまり、話は戻るが、私たちは、私たちの中で培ってきたもの、培われてきたもの、それ以外をどうやっても出ない。
  孫悟空は無限の空間を旅して、道標として記したものが、実は釈迦の掌の中で旅しただけで、記したものは中指であったと言う。
  氣道的に言えば違う。
  孫悟空が記したのは釈迦の中指では無い。
  自分の指に記したに過ぎない。)

 こうした視点は仏教の唯心論に近いのだと思うが、ホ・オポノポノよりも徹底した自己(責任?)の観点だろう。
 そしてホ・オポノポノがそうであるように、苫米地氏に今後期待したいと数年前から思っていた事は、彼の言う事がいみじくも気功協会の天野さんが最近仰るように「からだ」身体感覚とどのように結びつけられたらであった。
 (きっと彼自身は、共感覚者なので出来得るがために、身体感覚との結びつきの必要性をあまり感じないのかもしれない、と思って諦めていたのであるが、
  去年、成瀬先生との対談をした前が丁度苫米地さんと成瀬先生との対談であり、その語、先生と彼とのご縁があるのを知るに、段々とそうなって戴きたいとは願っている。)
  
 我田引水になるが、そうした全てを踏まえて「氣道」そしてそれを伝える【氣道の学校】を行っている。
 (以前ご参加された方も、これでお分かり頂ける部分もあるだろうか。また、整体を「氣道」の個人指導と言っている理由をも。
  そして当会に秘伝無し。極意をも伝える。)

 孫悟空は、夢から醒めて、釈迦の掌で舞っていただけに過ぎないと気付いた。
 しかし、それをも夢だと気付けば、彼はすぐに更に違う指に舞っただろう。
  
 ───これが「氣道」の極意である。

  そよ風
Date: 2009-06-10 (Wed)
いつも私はここに座り、この日記を書いたり、様々な事をしていた。
そして、いつも、様々な方々がうれしい風を送ってくれた。
今も応える如くに、嬉しきそよ風が窓から入る。

ある時は野口先生であったり、ヨガナンダだったり、門田さんだったり、Sぶさんだったり、さまざまな氣も訪れる。
そう、或る弟者の時は虹も祝福してくれた。

今日の【自由参加瞑想会】では、氣道で伝えているシンプルな0の瞑想(座禅)と、その太極の∞瞑想の二つと共に、
座禅でよく言う「ただ坐る」という瞑想を行った。

ただ坐る。
ただ坐ろうとしなさいでは無い。
ただ坐りなさい、である。
するとクリシュナムルティが何度も言う如く、こちらからではなく、あちら側からで無くてはならない。
ただ坐るが出来なくては、ただ坐れない。
しかし、そうすると、禅問答では無いが一つの真空が生まれる。
浄土真宗のいう「しない事」という表現が、雑念や感覚が浮かんだ時への対処にピッタリする。
野口晴哉師が、瞑目し云々、自我の投影を観るだけだ、元より心無し、悟り無し、という如くの表現に、思考が止まった事を思い出す。
晴哉師は悟り無き悟りを得、そしてその表現で悟りを促した。
正に禅問答の極致とも言えようが、それが普通の文間であるところに凄味がある。
而して知る人ぞ知る。
それは文章ならず絵でも音楽でも何でも同様であろう。
(きっと、今日の瞑想会にいらした芝さんは、そんな事を本当は言いたかったのかもしれない。)
 そして、瞑想は常に在る。

そよ風がそよそよと入り、そして時に頬を心地好くくすぐる。
私はいつもここに居る。

(そしてそういう思いも無い時
 私は 風になる )

  その返信文章への返信文章
Date: 2009-01-17?
>1)設定愉氣の感想。。。。
真っ黒黒すけの件は、確かに緩和してます(ヴィジュアルでは見えませんが、時々気配は感じますが)。
もし昨日頂いていたのであれば、昨夜(正式には2日の2am)目が覚めて、降ってきて、正直どっきとしました。

・あはは、敏感ですね。
 (もし、今後もそういう事があれば、「真っ黒黒すけ、全開」と心の中で言えば、新年会の時にインストールした「真っ黒黒すけ」の愉氣が全開になりますよ。
 「半分」と言えば半分の氣(エネルギー)になります。
 (これがマニュアル設定という事です。)

 普段の生活の中では自動的に、その時の身心レベルとバランスを取りながら働いてくれます。
 (これがオート設定です。)
 
 つまり、全開と言えば、その氣(エネルギー)だけ強調される(それもその時の身心バランスの中で強調される)、という事で、このマニュアル設定とオート設定を合わせて、「マニュアル&オート設定」と言っています。
 (もちろん、これらは私のオリジナル技術です。
  こんなのが出来ればと試行錯誤した結果のものです。
  御存知のように、私は凝り性ですから、一つ興味があるとこんな感じで走ってしまうのですよね。
  でも、これも結果だけ言っているだけで、それを作成している間は歩いている間もひたむきに向っているわけで、逆に言えば、こうして結果を言っているほうが健全なのですね。とても一般常識的にはかえって結果だけ聞くと健全ではありませんがネ。)
  
>設定愉氣という技術について思いました。
あ、これ氣のレベルのトリガーとアンカリングなんだと。
だとすれば。。。。

・鋭い鋭い。
 そうなんだよ。
 私も、設定した氣(エネルギー)までは、創る事が出来たののですが、先にも言ったように、その後、出来上がった氣(エネルギー)をどのように扱ったらいいのかで、随分と悪戦苦闘しました。
 それが、名前を付ける事によって、それがトリガーになって扱う事が出来ることが分かったのは随分あとの事です。
 名前が一番の「観念」であり、陰陽師では「名前が最大の呪である」と言われていますよね。
 つまり、【心の学校】の前半は、名前(観念)の呪縛からの開放。
 後半は、名前(観念)の活用。

 私たちは、設定しない名前無しの愉氣を深める事をこの20年間行っていました。
 (だからこそ瞑想(【心の学校】前半)が大事。)
 その後、最近になって、もともと自分のためだけに行っていたこうした遊びが発展して、他の方の役に立つ事が分かったので公開している次第です。
 …というか、天心の天真の愉氣が出来ないと、こうした設定の愉氣は出来ないのです。
 だって、「私達の日常は、無意識的にせよ勝手に設定した愉氣の応酬」ですものね。
 日常の自分の思考、感情を本当に真剣に見つめてみれば分かるよね。
 思考はそれ自体が愉氣。
 そして、私達は、油断すると別の事を考えていたり、
…と設定しようと思っていないのに、
  勝手に、設定愉氣を行っている。

  だから、設定愉氣の応酬がこの世界。
  だからこそ、設定を取った愉氣が何より大切。
  これは、何度もしつこい程言っているけど、その設定無しの天心、つまり「0」を求める道が氣道である。
  すると、0=1で、(まさしく絶対無は1=∞だ)
  現れる。

  設定無しの天真の天心の愉氣が出来る者が、明確に設定の愉氣も出来る、というのは、
  つまり、自分のこの生きている一秒一秒の中で、どれだけ思考を即ち自分を見つめているか、という事。
  日々是れ禊ぎ──即ち氣道。
  (いつも同じ話の繰り返しで済まない。)

>とにかく今は答えとして表すより、とにかく祓い続けております(clean,clean,clean)。

・はい。
 そしてcleanしようと思う気持ちもcleanしようね。
 さて、真っ黒黒すけに困ってしまって新年会で設定愉氣をインストールの件に話を戻そう。
 愉氣は、時間があったら抜けるけど、ある程度の期間抜けないようする事も可能だという事が分かった。
 それで、前メールに書いたと思うが、KF設定と言って一生残る事が可能かとも調べた。
 氣(エネルギー)的に難しいのも多々あるが、弱くなっても出来るのもあった。
 それで、現在ではインストールと表現している訳。
(その後の注/ヒュー・レン博士のように、ダウンロードとしようかとも思っている。)

 それで、「キャンセル設定」という名前を付けたのだが、インストールされた氣(エネルギー)自体をもcleanしようと思ったら、口に出して「真っ黒黒すけ、キャンセル」と呟けば、キャンセルされるように新年会にてキチンと行っております。
 一生残る設定なので、現在では、特にオリジナルの設定愉氣の希望の場合(そうした人が100%なのだけど)そのような「キャンセル設定」も必ず加えています。
 (口に出す必要があるのは、偶数体癖の方だと、つい「ああ、キャンセルって少し思ってしまったかも…」などという事があって悩んでしまう事があり、実際何度もそうした経験があったからです。)
 
 まあ、キャンセルご自由な無料サービスでしたが、そうした事は誰でもが出来る事。
 (頭の良い人は出来ないかもしれないが)
 そして何より、そうした事をなぜ私がするのか、そしてなぜ本来はしない事が良く、しない事をすることが出来る事に意味があるのか、
 もちろんお分かりでしょうが、本当に真剣に真剣に考えてみるといいでしょう。
 単にとりがーとアンカー以上の、現在苫米地さんが味わっているあの世界をも超えたものが見えるかもしれません。

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 ※(なお、次回は、設定愉氣について纏めた文章があるので、それを、話の流れ上掲載しようと思う。
   (その前に時々の話題の日記が入ると思うが。)

  これらの流れも、関西での【氣道の学校】(【心の学校】)中の日記からのものであるが、「無」の掲載から一時この日記も休止しようと思っていた。(ちなみに完全なる「絶対無(0)」を体験した方は私感では実は結構多く、全国で数万人以上いるのではないかと思う。)
  しかし、下書きトレイの中にここに掲載する分が幾つか今年年頭から溜まっていたためこのように掲載再開している次第である。
  そして…
  この流れの最後には、関西での【氣道の学校】(【心の学校】)の参加者が味わったであろう動画も紹介するので楽しみにして戴きたい。
  (【氣道の学校】(【心の学校】)での体験のほうが閑かで深遠な0であろうが)
  つまり、その動画が現れる前までは、敢えて「この流れ」に日記をしている、とご了解戴きたい。)

  或る方への返信メールより抜粋(相手の呼称など若干校正しました)
Date: 2009-01-13
○○さんへ

今日もお疲れ様。
新年会はよくいらっしゃって下さいました。
勤行では、かなり般若心経を「草書」にした為、一年の最初から面食らわせてしまったかナ。
育児講座A「いのちの指導」は、育児講座@に引き続き、私たちがどのように両親から愉氣されてきたのか、という「いのち」にご興味ある人間であるならぜひ参加して欲しい講座でした。
25歳位に書いた実践自然健康道では、自分自身の体験が無い為、育児については口を一切噤む、と書きましたが、その後、数千人の妊婦や赤ちゃんをずっと診てきたので、本当にずっと開きたかった講座だったのです。
そして、ようやく開ける資格が出来たので、この20数年間の想いを込めて行いました。

…と言うより、内観者である○○さんにはお分かりでしょうが、氣道では(内観も勿論そうですが)、全て全て100%自分のせいにするでしょう?

そして御存知の通り、赤ちゃんの動作は全て親御の責任なんですよ。
少なくとも氣道や野口整体ではそう捉えている。
人間の子供は他の動物と違って13ヶ月位早く産まれて来ている、って言うでしょう。
特にその間は泣いたり大変で、一分どころか一秒でも目が放せない。
そして、それが何年も何年も続く。
その間に起きる事は全部親の責任。
そう捉えている親にとって、育児は「最高レベルの氣道修行」、内観修行、ホ・オポノポノ修行なんですよ。
まさにワイパークリーン!
……どころではない。
これは行ってみた人でないと絶対に分からない大変な修行だろう。
育児は、人間にとって特に内観者にとって徹底的な修行である。
だからこそ子供を持っている親御さんの雰囲「氣」は確実に違うのでしょう。
ただ、それは、そのように(即ち赤子の動作を全て自分の責任にする)思っていない感覚の崩れた親御さんには当てはまらない。
実際、残念な事にそういう方が本当に多い現状もある。
その為、20数年想いを耐えていたと言っても、私が屋上を楼を重ねる様なこの講座を行った訳です。
「全てを自分の責任とする」という氣道の最初の出発点、そしてそれは内因をみる東洋思想、東洋医学の立処でもありますが、それを分かって欲しい、と思って行った訳です。
そして、それは「育児に関わらない人にとってこそ必要」だと真剣に思う。

今回の参加者は、今現在育児に関わる方や、今後関わりたい方が多かったですが、私は、貴方のように今後育児に関わるのかどうかは分からない方にこそ参加して欲しかった。
というのは、育児に関わらないかわりに、この講座によって、たとえそれが何千分の一であっても、いえ、おそらくは何億分の一でしょう、そうであっても、私たち一人一人がどのように親から育てられていたのかを俯瞰できると思ったからです。
この23年間行き続けているカリスマ美容師が先日「子供を育てなくては親の気持ちは一生分からなかっただろう」と言っていました。
私は其処までは思いませんが、それは数千人の赤ちゃんを観た経験があるでしょうが、それでも実際となると確かに違う事は否めない。
私感では、「ああ、人間はこうして自然の要求に任せれば、それ自体、氣道になってゆくんだ」という事でした。
つまり、内観せざるを得ない。自分の責任にせざるを得ない。
先述したように、他のせいにする人が殆どだが、それでも真心ある人はせざるを得ないと思う。
そして赤ちゃんを決しては泣かせてはいけないのが氣道的育児なのは御存知の通りである。

0への道はいつも言う事ですが、そのようにちゃんと人間には自然と拓かれているのでしょう。
よく野生の動物にとっての自然と、人間の自然とは違うと私は言いますが、先述した動物よりも13ヶ月早く産まれるという事自体にもこのように全てを自分の責任にして優しさ思いやりという人間としての自然を培う契機になっている事が本当に自然の神の運びの見事さを感じざるを得ません。
私は11歳の頃、恩師の麻原先生に「潤ちゃん。描こうとしては駄目だよ。ただ、よく見るだけだよ。」としょっちゅう穂高で叱られました。
文章でもそう。
「君の年齢でも経験はある。創るのではなく、その体験から導かれた経験を書けばいい。」
それこそ何百回言われたか分かりません。
育児だけでなく、全ての事がそうなのでしょう。
ただ全身全霊を込めて、いえそれは肩肘を張るのではなく、ただ今ある事に真摯に向う時、それは自ずと道が拓かれるのだと思います。
育児はそれが他の意味も含めて包括的に含まれている。
そしてそれは、人の生の端的な一断面であり、其処に一つの鍵がある。
即ち、私たちの潛在意識(ウニヒピリ)の中で一番大きな因子である親からの影響を根本的に解く鍵です。
御存知のように内観法では両親についてしらべていきますし、そして私の体験では両親についてをしらべたあと、他の方への捉え方が全く違ってしまった。
それだけ両親の私たちへの影響は大きいのでしょう。
それを俯瞰できるのが育児であり、そしてまた、自然は内観できるように創られている。
精神世界や修行を行う方は妻帯を否定するところもありますが、30年程前、野口晴哉のたおやかさと美しさを感ずる時に、人としての統合の美しさを感じました。青木先生も岡島先生も然り。

実際、そうした雰囲「氣」を独身で持つことは困難であろう。
それこそ内観法の吉本伊信先生のように、生命ぎりぎりの修行を日々継続して瞑想する他は難しいと思う。
そして、それだけの事を親はしてくれている。

それ故、「今後、子供は産まない」だろうという方々にこそ参加して欲しく行った講座でした。
いらっしゃれなかったのは残念で、その為、ここまで書いてしまいましたが、まあご興味があれば、CDがありますのでどうぞ。
(育児講座Aは映像もあるようですが、私としては@のほうが知識的にではなく好みであります。)

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 なお、今度、とっておきのそれこそ青木先生や○会も驚きの講座(個人別整体講座)を一年かけて行いますので、これはぜひどうぞ。
 また、○さんが以前参加された【氣の学校】も最近大変深化してしていますので、お薦めしますが、その今回の一年コースは、「これだけ覚えれば奥様どころか、どんな方にも現在の○会のコンサルタント以上になってうまう」という物凄い内容です。
 「一生に一回の機会」なので(今後行う予定は現在のところありません)、他の会員には内緒の早い告知になりますが、(予約開始時間は公平を期しますのでその点は大丈夫でしょう)4/5(木)午前11時からです。
  (すぐに予約が一杯になってしまう可能性が高いです。
   今日(1/13)もホ・オポノポノのビジネスクラスの4月の申込みサイトが今年になって初めて今日出ましたが、数時間後の現在6時では既に満了でした。
   ちなみに数十時間をかけて以前出席された会員の○さんから伝授を受け「先生は出る必要は全くありません」「ほんとうに『全く』ですか?」「はい。」「では何故貴女は4月に再受講するの?」「それはこのところの先生のインストールの技術とヒュー・レン博士の行っている事の中で、特に受講生のクリーニング技術と場のクリーニング技術が非常に似ていると思って、それを確認しにいきたいためだけです。」「うーん、まさしく私が今回予約した理由と同じですネ…」という会話が今日の午前中にありましたが、○さんとの会話は長くなるのでここまで。
 現在の、氣道の個人指導では、どのような体癖の方にも、苫米地method(内部表現の書き換えこそ氣道指導=整体。希望者には抽象度を空まで上げてゆく。吉田先生にもそうしたところに青木先生がその場にいて、離れていたのに感じられた。)と、ホ・オポノポノ(これは年末に出来上がった統合です。苫米地とヒュー・レン博士との統合はもっと時間がかかると思っていました。)、そして、それらとミルトン・エリクソンと野口整体の統合を通して、というのが、ごく最近の個人指導文脈ですが、それは弟者が私や○さんの整体を「受ける」時のことであって、それらを学んでいくのは、「整体法修得講座」中等です。
 一回しか行わない予定の今回の個人別指導修得講座は、ともかく「○○」の全てのエッセンスが修得出来るというものです。(○会でも公開していないものです。)

 横浜の今後の事もあるので、来ないと首を捻るぞ、とは言いませんが、たとえ青木先生であっても、通常の青木先生の講座だったら、講師の青木先生を「そんな講座よりも…」と引張るべし。と言いたい講座です。
  
 そういう訳で、今回の「いのちの指導」講座同様、「一生に一回はぜひ」どうぞ。
 ───以上、長くなりましたが、まず真っ先に○さんに公開まで。

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ところで、時々見えて困っているという真っ黒黒すけはその後如何ですか?
その事を新年会で伺い、急遽、2/3まで大丈夫な「真っ黒黒すけに対する愉氣」をインストールをしましたね。
あの時は、言いませんでしたが、私の中で行った設定は以下の5つでした。
 1、真っ黒黒すけの影響を受けない。
 2、感ずる能力が貴方にとって自然に、しつ純粋にupする。
   (その結果、真っ黒黒すけが見えなくなるかもしれないし、見えたにせよ大丈夫だと思って、上記の二つの設定でまず行いました。
    続いて…)
 3、感ずる能力だけでなく貴方にとって自然な道(=氣道)が実現できる。 
   (…とここまで行った時に、取り出した貴方の氣(エネルギー体)が少し重くなったので、期間限定にしようかと思いました。
    そこで身体対話法をしたところ2/3(ちょうど立春ですね!)が最も良いと出ましたので)
 4、2月3日まで働く設定インストールとした。
───という流れ行っていました。

 その後如何でしたか? いつか感想をお聞かせ下さい。

(あ、設定愉氣インストール料金の請求書は後日届くと思いますが、よろしくお願いしますね。(笑)
 既に今まで創ってある設定愉氣の伝授(インストール)ですと、モリケンのモンロー研究所で体外離脱した時のマーキング手法で、すぐにその氣(エネルギー)が呼べるので、その場合は簡単なので通常通り5万円なのですが(伝授してくれたお師匠さんも日本で一番安く5万円台だったので、それ以上にはしにくい)、
 しかし、今回は新しく創った、しかも複合愉氣ですので、まあ○さん割引という事で10万円ポッキリにしておきましょう。)

 最後は冗談になってしまいましたが、実際こういう事は誰でもできるのです。
 ただ、どんな仕事もそうですが、微細な感覚と経験、即ち修養が必要です。
 その為にも、0を瞑想を深める事が重要になり、(これらアストラルの遊びに過ぎないのではないかと思っております。実際、設定愉氣は設定無しの愉氣が出来る人でないと出来ないと断言したいです。まして一生残る設定は別問題があります。)
 そして、何より設定をしない愉氣こそ、天心の天真の愉氣である事、貴方に会ってから僅か数年ですが、ずっと申し上げている事であります。
 何故なら、氣道家(内観者)以外は、時に人のせいにし、そして、その色合いある「設定愉氣」を輸ってしまっているからです。

 日常の会話はもちろん、いつも色々な感情が入っています。
 即ち、きちんと設定もしていない、色々な設定愉氣が飛び交っています。
 だからこそ、設定愉氣は、設定愉氣ではない天真の愉氣が出来なくては難しいと言うのです。

 時々刻々、常に。
 限りなく、限りなく、限りなく。
 ワイパーどころかcleanにし、
 設定無しの真の天真の天心の愉氣が出来るよう。

 自然に任せ生きて、ここにいる事は、実は、山中の仙人にいる以上の修行なのです。
 赤子の事では無いが、そのように出来ているのです。
 而して彼は、逆説の逆説的に斯く言う。

「今、此処にあるは、宇宙の息也。
 それに生くる時、廣さを知らず。長さを知らず。
 月と地球と太陽を比べず。
 (中略)
 雨が降った時には傘をさす也。
 吾が養生とは各の如き也」

 君、真の瞑想(養生)すべし。
 何十年後か、縁あれば再び会わん。

  新しい風 (昨日のを若干校正。なお校正は逐次行っている。今日の題名は途中にも出てくる言葉であるが正に新 体道であろう) 
Date: 2009-05-18 (Mon)
昨日は本当に嬉しかった。
月一度の個人別氣道指導講座の懇親会であった。
2月からの予約での懇親会であったが、皆様、体を整えるという意味を皆さん本当に分かって下さっていて嬉しかった。

即ち、なぜ「体を整える」というのか、という意味である。
それ位「潛在意識(=体)」というのは重要なのであり、その為、ヨガナンダや野口晴哉の余り知られていないエピソードもご紹介した。
体を整える意義は、禊ぎ即ち0への道であり、そしてそれを氣道と呼んでいるがそれは人にとって自然な道である。

最後に残った三名は、バシャールという名称を創られ出版企画をされたKさん、整体に造詣の深いKさんと、歯科医のH先生という名高い方々であったが、
その方々も、ただ自然に生きようという氣道の目的、そしてこの講座の目的に大変賛同して下さった事は何より嬉しかった。
(そう途中で帰られた長年新体道をなさっており、会報にも書かれていらっしゃるNさんも含め、皆さん10以上前からの古くからの会員であった事も嬉しい。)

0=1=I
(そしてIは愛であり、神の母音でもある)

その三方に限らず皆さんが、何よりほんとうの自分、源の為、即ち地球否宇宙の為にと、からだの意味を熟知した上で学んで下さっていた事が本当に嬉しかった。
そして、そうした会員の方と、今後も月に一度お会い出来るのが、ほんとうにうれしい。
私はこの数年、氣道の特に禊ぎ面である0への回帰を伝えるため孤軍奮闘していたが、それが報われた気持ちでもあり、大変幸せである。
体を整えるとは禊ぎであり、
そして禊ぎは体(からだ=潛在意識)を整える事に他ならない。
そうした無私の力、ほんとうの幸せ、の「風」こそ、たとえそれがどんなに僅かであっても宇宙にとって大きな力になってゆくと思う。

 
Date: 2009-05-03 (Sun)
無。
あまりに透明。
限りなくクリヤな静寂。
(空間もない。上下もない。無限。時間も無い。全。)
真空。

而して一言で言うと無。


  関西最後の【氣道の学校】(【心の学校】)報告
Date: 2009-05-02 (Sat)
【氣道の学校】(【心の学校】)は4日間なので今日が最終日となる筈であるが、(東京のほうは恙なくそうなった)
私(関西)は、明日も行う。
 楽しみであるが、これまた自分が創り出したもの故、皆の進行を阻んでいまったかと反省する所もある。
 即ち、これまでの講座中に行ってきた個人指導の方々への想いや、ホテルに戻ってからのメール返信が、多いと数十個あり(受講生には「心の断食」なのでメールチェックをしてはいけない、と言うが、私の場合、事務連絡等がありそれも出来なかった)ホテルに戻るのも苦痛のこともあった事や、その他にも小さな事では多々思い当たることがあった。
 ご迷惑をかけたという想いも含め今日は内感愉氣をさせて戴く。

 参加者それぞれに本当に素晴らしく、無限の空、絶対無のままの方もいらっしゃったし、つい現在が講座中である事を忘れ、あまりに素晴らしくそのまま私も意識が戻らない方向にいきたく思った事も、根源の愛に共感したことも、あるいは、皆での歓送会の時に「ただただ「ほんとうに簡単なこと。なんで、こんなに求めていたのか」と仰る姿に私も皆も共感できたこと、等々、この4日間は、あっという間だったが何年もの旅のようでもあった。
 死んだ直後に一生の全てを再体験するとよく言われるが、それも不思議ではない以上の感覚がある。
 途中経過という題名ではあるが、とても途中経過は言えない感じで、きっと最初で最後という事であえて同時進行にしている東京担当者のゆん君(佐野裕子)も同じ思いだと思う。
 もちろん、今日はどういう事があった…と互いに連絡はしているが、書けば限りなく、それこそ数百とかではないし、どこまでを書いていいかの基準を作るのも前半が進行していくと難しくなる。
 そのため、別視点(一般的な進行を俯瞰する視点)を呼び起こし、互いに連絡し合うのであるが(きっとゆん君もそうだろう)、シンクロが多いのも不思議というか当然になってくるのでそれさえ敢えてコメントしない感じにもなってくる。
 (たとえばこういうコメントがあった。
  ○さんは、昨日あたりから、「私とは何か」という問いを持たれていましたが、今日のセッション後に 「私とは何だと思いますか?」 と伺った際は、
「全くないですね。全くない、でもある。」 と仰っていました。」
 ───全く同じ事を仰っていた方が関西でもいらっしゃった。(チベット源流の「What are you?」ワークを行っている時の事であった。)
 そうした関東と関西のシンクロも言えば切りがない。
 
 一つ弟者から戴いたメールで思い出した事があったので、それに関係する事を紹介しよう。
 (弟は現在三人いるので、皆、自分の事かと思うかもしれないが。そして今までもそう思ってしまったかもしれないが。ここでは、自分から名乗りをあげた一人目の弟者である。数年講座には出席されていなかったが、先々月から一月に二回いらっしゃるようになり久し振りに会えて嬉しい。)
 とにかく前半では純粋にただ感ずるという即ち単なる集中を行っていく。
 つまりこれは愉氣に他ならない。
 愉氣がキチンとできると、その対象として実感できる。
 それがクリシュナムルティの言う現実直視(観察者と被観察者との差が無い世界)であり、「ナリキリ」である。
 それを、5000年前からは聴覚から行う手法が多いが、敢えて「氣道」では視覚から行う。(その理由はここでは割愛。)
 すると何が訪れるか…
 
 ところで前半では、外を愉氣するだけでなく、内も愉氣してゆく。
 (愉氣onlyである)
 しかし、2日目〜3日目に、触覚の愉氣、つまり普通の手当てをした時に、手当てを以前した事のある方は驚く。
 今回でも関西では【氣道指導法(整体法)修得講座】の卒業生が何人か参加されていた。
 「整体は技術ではない。整体の原点は愉氣である。その愉氣は天心がいいと言う。」
 これは誰もが知っている事だ。
 しかし、私は10代の頃から、そして20代からは懸命に技術や知識を追いかけていた。
 今もって人に伝える以上、ある程度の知識はと思ってこの20年位あるが、同時に、伝える役目としての宿命ではあるが、個人的には難しいと思っていた。
 それは天才を多く見てきたからだ。
 自分が一つだけ出来る事なら、愉氣を深めようと20代後半からそれを追い求め、青本にも書いたように(それを書いたのは25歳前後であるが)、ともかく内観し瞑想と思い、今日に至る。
 愉氣の質だけが、私の求める事であった。
 (後年、○先生や、○博士、○先生、○先生、等々数十人の愉氣を受け、さらにそれらを越ゆる瞑想、愉氣も受け、自分の未熟さに愕然とした。)
 話が逸れたが、人に施術、ヒーリングをしたい方は、その原点を見つめて欲しい。
 なぜ、自分は施術、ヒーリングをしたいのか、と。
 
 実は自分が癒されたい、のかもしれない。
 もちろんそうだ。
 自分が0を体感していないと、人は癒せない。
 poi。
 全てが私なのであるから、私の幸せが原点であり終着点である。
 アルファでありオメガ。自分という1が実は0であると気付くと、その0は絶対の無という1であり、そしてそれは同時に無限大としての1であるが、そこからしか、愉氣はできない。(それ以外は観念(メモリーとしての潛在意識)からの愉氣である)
 その時には、愉氣しようと思わなくとも、愉氣になっている。
 愉氣は、輸る氣では無い。
 (なぜ、それなに愉しい氣と書くのかも考えて欲しい。天心で良いのに。)
 ともあれ、整体とか手当てとか行った人は、3日目に改めて触覚(手当て)を行い気付く。
 「なんで、これを最初から教えてくれないのですか!?」
 と。
 
 しかし最初から、そしていつも言っている。
 瞑想を深める事が、0に向うことが、即ち自然に生きることが、愉氣を深める一番の近道だ、と。
 もちろん、1を求めることにより、0が深まることがある。
 そして、それが自然な姿でもある。(何故なら、私たちは元々0から1(重力(摩擦、思考)ある世界)に生きたく、生を望んだのであるから。その望み願望故、今も心臓が動いているでしょう?)
 
 長くなったが、整体に興味を持つ方に一言言いたくなった次第。
 
 0を体験すると、人によっては、私がニュジーランドから久し振りに伊勢佐木町に戻った時に 「ああ、津村さんに電話をしなくては。そう私の仕事は肉体に関する仕事であった…」とゲンナリしたような感覚を覚えるかもしれない。
 (私の場合、その後、肉体を調整すると指導者によって其処までいける事を知った。(工夫した。))

 H師は「整体をするには整体をする人にまずならねばならない」と言っていた。
 それには生命の運びを信頼できている人でなければならない、など様々な意味があるが、その一つとして、私は、0を知った者だけが、否、知ろうとする者だけが、その視覚があると思う。
 そして、その資格は人によって違うが、大概、 「あっ …!」 という感覚として訪れる。

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  真、善、美は瞑想であり、それは培うものでは無い。
 それは、最初だけは求むるが、その願望をも手放しただ歩む時、現れている。
 そして、それはどの仕事でも芸事でも然り。
 それが人にとっての自然道であろう。

  と或る方からの伝言
Date: 2009-05-01 (Fri)
「とにかく100%自分の責任なのです。
 100%なのです。
 少しでも感情が動いたら全て100%自分の責任なのです。
 毎瞬間です。今もです。いつもです。」

(───確かにそうだろう。
 全ての現実は現実そのものではなく、自分(の観念)が捉えているに現実に過ぎないのだから、その中で感情が動くという事は自分(の観念)の問題に過ぎない。
 故に、たとえ実際、他や相手に非があると思っていても、自分(観念)越しに観ている相手や他に責任を求めるのは、自分の中で一人相撲をしているに過ぎない。
 鏡に向ってまくし立てている図にも似ている。
 そして、自分(観念)が消えた時、自分も他に対する感情も印象も、「全て」が消失する。
 無。
 そして、その絶対無には、全てが在る。
 これを空とか意識体とかタオとか愛とか神とかいのちとか氣とか言うが、そこには何も問題は無い。
 いつも言うように、私たちは其処から生まれ其処に還っていく。
 ただ要求によって重力(=思考=時間=空間)の世界を楽しみたいと思って体を纏った。
 そして、美が健康が真が善が愛がそうであるように、それらは生まれる前と死んだ後だけでなく、いつも、「今、ここに」ある。
 ただそれを感じないだけであり、自動運動や瞑想、自観法(クリシュナムルティのいう自己凝視)等を契機として、それは忽然と、否、時々(じじ)「現れる」。
 しかし「毎瞬間、今も、いつも…」というのは大変だと思う人もいるだろう。
 実際、私も一秒の中に去来する様々な思考を感じる事を四六時中続け、一カ月で禿状態になった事もある。
 また今でも、出来ていない(気付いていない)自分を感ずる。
 しかし、行っていくうちに慣れてくる。
 以前は、抵抗していた事が、自分の問題だと腑に落ちると、もっと行いたくなってくるものである。
 ちょうど風邪が寝返り等では取りきれないものを取る姿であるように、悩みが夢等では取りきれないものを取る姿であるように、問題や症状が起こってくる事自体を自身の禊ぎや進歩の過程と意識でも捉えられるようになってくると、
 つまり自然治癒力があるから風邪を引くわけであり、リソースがあるからこそ悩みを持つという事が腑に落ちてくると、ピンチはチャンスではなく、ピンチ自体がチャンスだと分かり、症状や問題、悩みをかえって歓迎する気持ちになってくる。
 すると、悩みや問題、症状があると、ラッキーと心から思えるようになってくる。
 それどころか丹田の重要性を紹介し自身実現された聖人と言っても良い肥田春充翁は、戦時中の日本のあらゆる問題にアドヴァイスをしながらも「もっと私に問題を。過酷な試練を。」と遺されている。
 私も周期的にそう感じる事もあったが、その結果、「いや、とてもこれは対応できない。前言撤回だ。」と逃げ出す事の繰り返し。
 それ故、そこまでは現在では思えないが、しかし少なくとも風邪をラッキーと思うようになったのと同様、問題や悩みはラッキーと思えるようにはなったし、最近ラッキーがあまり来ないなと思うことさえあるようにはなった。
 (追記(余談)であるが、そうして0に辿ると別人生(宇宙)にポンと移行する事がある。(実は朝目覚めた時私たちはそうなっているのかもしれない。勿論昼中でも。)
  然しそれは結果としてオマケとしてそうなるのであり、1を観念あるまま求めると(例えばこの現実から逃れたい等)それは難しい。願望を実現するには常に言うように願望自体を手放す必要がある。 元より本当に無いのである。其処から生まれたが、其処は何でも創り出せるが、然して本当のつであり本当に0であるという意味で、というかそれは0なのだが究極の1なのである。そして、その0から遊びたくなって…)

 これが「氣道」(自然道)の考え方であるが、これら全て他の方の影響はもちろん受けているが私自身が勝手に創案した考えに過ぎなく、つまり、この考え方もまた一つの「観念」である。
 ただ、私自身がそう捉えて生きていると、この生がとても楽であり、そしてその楽さが年々増えているので、こうした観念を持つと楽になると思い「「氣道」」として紹介しているだけである。
 (それは、常々言うように簡単に言えば、【氣道の学校】(【心の学校】)の中で行い、その卒業生を補う形として【個人指導(整体)】を代表として【氣道塾】その他の講座がある。)
 そして私自身は、ヨーギーがそうであるように、一氣道家としてただ日々研鑽してゆきたく思っている。
 その意味でも、この伝言は、自身には常々期していた事であるが、改めてこう聞くと、反省も多々浮かび、また仕切り直しで更に日々、否、分々、秒々深めてゆきたく思っている。

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 (tonikakuMisogi(i n)= →0→0→0→・→  !!(tao) 

     (0=1=∞) 

  〜  shizenhassei(yo u) ・→1→1 
 
  〜  futatabi(i n)→0→0→・→   〜  )

  3月号以降の【巻頭言】文章
Date: 2009-01-18((Sun)
(下で再三申し上げたように、以下に掲げる文章は、1月18日に書いた文章である。
 その日は、横濱エアジンにてライヴがあった。(「淨潤トリオ(drumつのだ健lead竹内直)」)
 ライヴ終了後、いつもなら一緒に道場に戻り、共に風呂に入った後、ビール片手に今日の演奏を聞きながら反省会(親睦会?)を行うのであるが、この日は二人とも用事があり、珍しく独りでの帰宅となった。
 この日の演奏は、今までの淨潤トリオの中でも秀逸な音が訪れた為か、帰宅後も、暫し瞑想状態が続き、その後、浮かぶ言葉があったので、こうしたタイミングを逸すると【巻頭言】も書けなくなってしまうと思い、したため始めた。
 帰宅したのが7時半過ぎ位だったので、おおよそ一時間弱書いていたのだろう。
 書き終えて今日のライヴにも来てくれた弟者を呼出し(?)、共に祝杯をあげた。
 それが、下に掲げる文章である。
 (なお、文章量が予想に反して多かったため、【巻頭言】としては一回に収まらず、小出しにする形となった。
  私としては、最初と最後で繋がる文章のため(最後の辺りを書きたく書き始めていたが浮かぶ文章が違っていたので、それまでの文章を浮かぶままに書き連ねていたに過ぎない)、
  分割すると主旨が分かり難くなる事を恐れ、一回に纏めたかったのであるが、それは仕方ない。
  (お蔭で私個人としては、H先生のように毎月【巻頭言】を急かされる事が無くなったという疾病利得はあった。)
 なお、今、私は関西であるが、関東と関西では同時に【氣道の学校】を開催している。
 「氣道」協会では、【氣道の学校】と【個人指導(整体)】との二つが、自然道(氣道)を深めるための両輪となっている。
  そしてそれらは補完かつ相乗した成果を実現出来る。
  自然の道は0への回帰の道でもあるが、私が尊愛するヒュー・レン博士もほぼ同じ日程で東京と関西でセミナーを行うのも嬉しい。
  関西の受講生も皆ほんとうに瞑想を潛在意識のクリーニングを深めていらっしゃる。
  関東の受講生もそうだ、と毎日報告を受ける。
  ご興味があれば、皆さんもいつの日か、整体のみならず、【氣道の学校】(【心の学校】)をご受講されて楽しんで戴けたらと願っている次第である。

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 生命は即興である。
 その時その時一瞬を輝かせようと常に動いている。
 その働きは真であり善であり美でもある。
 そして生命の現れである体も然り。
 或る時は働き過ぎを鎮静化させようとし、また或る時はより根本的に調整しようと風邪を引いたりする。
 心も同様。
 働き過ぎれば無気力になり、刷新するために悩みを持つ。
 体、心の様々な症状や問題は、それ自体が身心を整える自然の整体法である。

 そしてまた人為の整体も、そうした自然の働きに沿った形で無ければならない。
 依って、整体も自然に即した即興であり、其処に美が現れていなければ自然に沿っているとは言えまい。
 手術、投薬、全身をスパゲッティ状態にする点滴のような治療に美を感じないのは私だけではないだろう。

 一片の花びらにも、舞う雪の結晶にも、整然とした美がある。
 美は現すものではなく、自然に沿った時に現れるものである。
 自然な即興こそ生命の姿であり、それに即したものに私たちは美を感ずる。
 整体は単なる治療では無い。
 真の治療は症状の軽減では無く、自然の整体法である症状の声に即してその体にとっての自然を促すものである。
 それ故、真の治療と健康向上に他ならない。
 「治す」と「健康になる力を発揮させる」は整体に於て同義である。
 問題の解決は問題の中には無い、とは私の口癖だが、問題自体が自然の整体法なのであるから、問題を消す必要は本来ない。
 闇を消すのに掃除機を使う人はいるまい。
 ただ光を当てれば闇は無くなる。
 もとより闇は無い。
 光闇一つ。
 
 健康は生命が十全と発露された一つの形である。
 それ故、健康は真であり善であり美である。
 単に病気で無いという事を指すのでも、悩みが無いという事を指すのでも無い。
 発熱していたり、元気が無かったり、苦しみ抜いている姿にも健康は在る。
 そしてそれを通して、風呂上がりのようなサッパリとした感覚が訪れる。
 生きているというただそれだけで嬉しい、という感覚が氣道で言う健康の状態である。
 それは、ちょうど赤子の微笑みのようなものだ。
 それを真善美と感ぜぬ人はいまい。  
        (ここまで3月号会報に掲載された。)

 健康が真である限り、それは体や心のみならず、生活そのものも潤いや豊かさあるものであらねばならない。
 そして健康になると自ずと生活もそのようになってくる。
 よく人は願い事に「お金のこと」「仕事のこと」「人間関係」「家族」の好転について掲げるが、実は健康さえであれば、それらの全てが付いてくる。
 少なくとも氣道ではそう健康を定義している。
 真の健康は生活のみならず全てを孕んでいる。
 健康とは幸せに他ならない。
 
 私たちの見ている世界は、「私」という色眼鏡を通して捉えている世界にすぎない。
 従って「私」が変わると、世界は変わる。
 「私」を変えるためには意識ではなく潛在意識に染みついた様々な観念を変えねばならない。
 それは全て体に現れている。
 中でも深層意識に潜んだ観念は、体を変えない限り変化を及ぼし難い。
 「私」は私が思っている私では無い。
 それらこそ「私」なのである。
 
 そして「私」が健康になると、世界の見え方は一変する。
 見え方ではなく実際に世界が変わってしまったと感ずる。
 私が健康になるだけで全てが付いて(ツイて)くる。

 それ故、生命(いのち/ルビ)の自然に沿って生きる道である氣道にとって健康は何より重要なことである。
 自然とは健康の事であり、そして健康である事が本来自然なのである。
 故に、氣道は「自然健康道」であり、同時に「健康自然道」である。
 そうした「氣道」の紹介を当会では【氣道の学校】で行っているが、その個人指導が整体である。
 両者は相補的に補完仕合い、その効果を相乗する。
 自然に生き真の健康を実現するためには、先述した如く潛在意識(深層意識)を変え、育くむ必要があろう。
 体は潛在意識の現れである。
 それ故「体」の自然性を回帰させるために、整え育む必要がある。
 すると体を通して深層意識を含めた潛在意識の全てが変化し、心身に潜んだ能力も最大限に発揮されていく。
 それを整体と呼ぶ。

 整体は潛在意識(体)を自然に沿って育み導く他動的な手法であり、ピアノのレッスン宜しく一生を通して体(潛在意識)を育んでいける最もお薦めのお稽
古事である。しかも快ちよい。
 たとえ痛みがあっても快痛である。
 而して反応も斯くあるが、しかし鈍った体にはその反応を居心地悪く感ずる事もあろう。

 快ちよい事が心身を自然に育ませるよう人間の体は出来ている。
 従って、ただ受けるだけでも、身心を自然に沿って育んでゆく事が出来るお稽古事であるのが整体の特長である。
 而して自動運動等の自分で行う行法を行う者はその効果を飛躍的に倍増させるが、これまたピアノを初めとするお稽古事の如くである。
 整体は、真の健康、即ち幸せを実現するための究極のお稽古事である。

 そのご理解のもと、存分に整体を活用して戴きたく思う所存である。           
            (ここまで4月号会報に掲載された。)

その整体は、氣によって行う。
 氣とは私達を生かしめている一番根源にあるものである。
 私たちは体があって生きているのではない。 実際、死人は体があっても生きていない。
 生きている事が先にあって体がある。
 その事忘れて、胃癌だからと言って胃を摘出する事もあるが、その原因が姑との不仲の事もある。
 生きている事を忘れて、死体の体として観ると表面の現象に翻弄される。
 体よりも先に生きているという事自体がある事、再考されたい。

では何によって人は生きているか。
何によって生を得たか。
それは某かの要求であろう。
東洋ではそれを氣と言う。
それ故、氣は生の原点と言ってよいが、人はそれを意識集中に依って伝える事も出来る。
 それを愉氣と言う。
 整体は自然に生くる氣道の個人指導故、氣で行う。
            (ここまで5月号会報に掲載された。)

 食事療法や呼吸法等よりも、何故、体を整える事(=整体)が先になるのか。
 それは食事や空気、心の栄養を摂る前に、「心」そのものを整える必要があるからだ。
 そして心(潛在意識)は運動系と言われる随意筋や不随意筋、そして特に脊椎二側三側にある筋紡錐には、深層意識の要求や意識との不一致度までもが如実に現れている。
 だからこそEFTやTFT等、数箇所の経穴をタッピングするだけで過去の大きなトラウマを解消する事が可能になる。
 (実際、私の最も信頼する心理療法家は有効な手法としてNLP、ミルトン・ヒプノシス、セドナメソッド、ホ・オポノポノ、フォーカシング、EFTを掲げられ、その中でもとりわけ効果があり、同時に日本人向けであったのがフォーカシングとTFTであったと仰る。)
 ならば、決められた数箇所だけでなく、相手の体(心)に則した場処に適宜にアプローチする事が可能ならば何処までその効果は上がるのだろうか。
 正しくそれが「整体」である。

 体には過去の因縁来歴が全て現れている。
 しかし同時に未来も現れている。
 その事を発見し、それならば体を調律する事に依って過去と未来の調整が実現出来るのでは、と思った。
 そして驚く事にそれは可能なのであった。
              (ここまでが6月号会報に掲載予定の文章。)
 
 マクロビオティックを行っていても胸椎6番の可動性が無ければ、せっかくのマクロも役立たない。
 マクロに限らず良い薬だろうが栄養だろうが消化吸収をする事自体が出来ない。 
 新鮮な自然な空気の中でも、腰椎4番の可動性が無ければ、肺の機能は乏しく転地療法も呼吸法も役立たない。
 どんなに良い話や心理指導であっても耳が聞こえていなくては伝わらない。
 頸椎4番の可動性無い状態だが、可動性があっても右にいけば躁的になり左なら鬱的になって曲解してしまう。
 胸椎10番が捻じれていれば反発し、同時に腰椎3番と足首が捻じれていれば心理療法で言う逆説的アプローチも無効になる。
 手首が固ければ話が通っても言葉は素通りするし、腹部第二が実ならば心理的栄養過剰状態故、聞こえても聞く耳を持つ事が出来ない。

 全ての感情は体にあり、体が変わると心はそのまま変化する。
 逆に心を変える事が出来ると体も変わる。
 卵が先か鶏が先か。
 その答えは生物学者により既に解答されている。
 人の心身についても、母体から出産そして生後数ヶ月をよく観察すれば、答えは自ずと判ろう。
 
 私たちの生きる本源である「氣」を調整し、その現れである「心」を調整するためにも、まずは「体」を整える必要がある。
 そしてその手法は生きる源である本源の「氣」に依る。
          (ここまでが7月号会報に掲載予定の文章。)

 つまり「整氣」であり「整心」であるが故に「整体」なのである。

 先に願い事について触れた。
 生きとし生ける者は自ずと願いを持つ。
 そして根源の願いは「幸せ」に他ならない。
 人は常に幸せを求める。
 その幸せを、今、毎瞬間実感できる状態を健康と言う。
 その時人は幸せを求めない。
 
 幸せとは心だけの問題ではない。
 痛い時には体も痛む。
 身心一如。 
 敢えて心と体に分けるのは可笑しい。

 健康な時、私達は体や心の存在を感じない。
 無であり空。
 幸せとは0であり∞であり、それ故1。
 
 故に、整体つまり氣道の個人指導は、幸せの実現法としてのみ存在する。 

          (ここまでが8月号会報に掲載予定の文章。)
          
  
苫米地さんや茂出木さん達、脳科学者は、脳を変える事によって全てが変わると言う。
 
 20年前、或るパーキンソン氏病の方を個人指導(整体)をさせて戴いた時の事。
 彼女はどんどんと良くなっていくのであるが、私の方法が疑問であったらしい。
 「私の病気は脳なのです。それなのになぜ先生は頭に触れないのですか?」
 操体法創始者の橋本敬三先生や晴哉先生ならば、
 「ならばここに脳を出しなさい。」と仰ったかもしれない。
 私は 「頭に触れないのに貴女の状態が改善されている理由は何だと思いますか?」と答えた。
 
 食欲無い人に食事を薦めるのが人の常であるが、趣味を通して食欲が沸く事もある。
 「問題を解決する方法は、その問題の中には無い」とは私の口癖であるが、
 解決された「答えもまた問題の中には無い」のである。

 現在の脳科学者も身体の重要性について言いはするが、実は逆なのではないか。

 全身が脳なのである。

 即ち体に触れる事は脳に触れることに他ならない。
 体は脳の機能、機質を全て司っている。
 それだけではない。
 脳は思考の司令塔として働くと言われるが、その思考自体も体から来ているのではないか。
 
 
 臨死体験者は殆ど全て脳死状態にて、その体験をする。
 脳の中の単なるイメージではない。けれども思考を持つ。
 その思考は純粋なる思考に近いが、それでも死後直後は以前もっていた体からの影響を受けた思考ではある。
 
 こうした事は、現場を通した私の実感に過ぎなく、現在の段階では科学的に立証されていないのかもしれない。

 しかし、真実とは事実の事である以上、それは歴史を通していつか認められよう。

           (ここまでが9月号会報に掲載予定の文章。)

 円相だけが上手く書けなかった日本一の書家が、頸椎調整による一回の整体で書けるようになり、今までの数十年自の修行は何だったのか、と悔やまれたエピソードは有名であるが、他にも高名な禅僧が腰仙関節だけの操法で悟りをひらいたりなど、そうした例は枚挙に暇が無い。

 体に触れるとは心に触れる事に他ならない。
 
 そして、心の奥の深層意識よりも深い「いのち」にまで触れゆく事でもある。
 整体は体を通し「いのち」の本源への扉を開く。
 その時、操者と受者は一であり、ただ「いのち」という自然の息を共有している。
 整体が何よりも合理的な深き瞑想への誘いになる所以である。
 整体は単なる物理的身体の調整や潛在意識のクリーニングの為だけに存在するのでは無い。

 もとより相手に触れるという事は、相手の存在「全て」に触れる事に通ずる。
 そして「全て」とは体、心、魂だけでなく、相手の生活そのものも含む。
 そこには人間関係を含めた全ての「関係性」があり、それは無限に世界中に拡がっている。
 そうした一人の体に現れている横の繋がりを含め整いゆくのが整体の可能性である。

 体を整えるとは、宇宙を整える事に他ならない。

 その横の繋がりには操者自身も含まれる。
 それ故、相手に触れるという事は自身に触れる事に他ならない。 
 先述した如く一人の体への縦の深まりとしての深奥は「いのち」であり、それ故全てに通ずる。
 息一つになりて操法が行われる時、操者は受者でもあり、その宇宙の息に舞う。
 
 体を整える事は自然に沿う事に他ならない。

 そうして一期一会の舞を終え、互いに分かれこの現実という夢の世界に戻る時、
 「いのち」から運ばれる命を新たに得る。

 体を整えるとは、運命を整える事に他ならない。

        (ここまでが10月号会報に掲載した文章。)


 もう、体の事、心の事、仕事の事、生活の事を、それぞれに分けて努力するのは止めよう。

運命とは命を運ぶと書く。
まずは根源にある命の運びこそ整えよう。

 即ち 私たち自身の根本を整えよう。
 生命の発露である身心自体を整えよう。
裡が整えば外も自ずから然り。

 そして それは既に私たち自身の生命が行っているのである。
 
 その運びを邪魔せず、そして更に育む援助として、自動運動や内感、瞑想という一連の流れを初めとする自分で行う氣道の方法があり、
 それをも援助する形として個人指導(整体)が在る。
  
 故にそれらの方法や機会を単なる治療あるいは体だけの健康法として捉えるのも止めよう。
 そして同時に、生活のあらゆる機会を自らの身心を育む機会として捉えよう。
 かけがいのない私達の「いのち」を育む契機として毎瞬を迎えよう。

 時々(じじ)楽しみ、時々「いのち」を輝かせよう。
 
 ―――これが氣道である。


(ここまでが11月号会報に掲載した文章。)

 健康であれば、凡てが付いてくる。
 平安も充足も、やすらぎも歓びも、そして豊かさも、
 自らが真に求むること凡てが付いてくる。
 そして其のそれぞれが最も良き機に訪れる。
 即ち既に成っている事を裡に知り、無限の安心と共に在る。
 それを健康と言う。

 故に健康とは身体面の事だけを指すわけではない。
 身心一如と言う如く身体や精神を含めての事だけでもない。
 
 裡にあるものは外に現れる。
 裡外一如。自他一如。

 而して私たちは他を「私」の感覚でしか捉えない。
 故に他無し。
 私のみ在る。

 而してその私も裡も何処から生ずるのかを感ずる時、
 私無し。
 他という私のみぞ在る。
 自他一。

 健康とは幸せに他ならない。
 そして真の幸せは自他無い一の自由である。

(ここまでが12月号の会報に掲載された文章である。)

       
 髪が伸びれば床屋やパーマ屋に行かざるを得ないのに、
 
なぜ体は整えようとしないのだろうか。
  
ピアノやダンス等々、興味を持ったものなら稽古をするのに、
なぜ、何より大事な、一生用いてゆく体や心を稽古しようと思わないのだろうか?

  
これらの事、
改めて真剣に考える必要があるのではないだろうか。

   (↑1月号に掲載された文章。
    以下は2月号以降に掲載された文章。)
  
ピアノのお稽古は、最初の段階では、手取り足取り教えてゆく。
  これは整体指導で言えば、いわゆる治療の段階に当たろう。
  
  続いてピアノでは、段々と課題曲を与えて練習をさせてゆく段階になる。
  これは整体指導で言う、体質改善のための段階に当たろう。

  そしてピアニストはプロになっても曲の解釈その他のレッスンを受ける。
  これは整体指導で言う、潜在能力開発や瞑想を深めるための段階に当たろう。
  そして、これこそが整体指導を受ける醍醐味とも言えよう。

  私たちの体は、生命の現れを表現する楽器に他ならない。
  その力が十全と発揮できるよう生ある限り体を育てていこうではないか。
            (2010年2月号会報に掲載された文章)

  ………………………………………………………

 整体の本来の姿は、治療でも健康法でも無い。
 整体は、生命への禮(れい)であり、相手の生命の現れである体を通しての一期一会の舞である。
 故に整体は相手の身心をして顕れる芸術でもある。

 その結果として、身体が整い、潛在意識が禊がれ、
 それに因って、健康度が高まり、自然に沿って生きる事が潤滑になってゆく。

 依って、病気治療や症状軽減という為だけでなく、
 潜在体力や能力の発揚、瞑想の深まりという、
 自身の生命、即ち個性が十全と発揮されるような体育てのためにこそ整体を活用して戴きたい。

 それこそが「体を整える」事の真の意義であり、
 また同時に、月一度等の定期的な調律、調整を薦める理由でもある。
        (2010年3月号会報の掲載文章)

 ………………………………………………………………
 
 私自身が整体を受けるという事は10年以上無かった。
 何か依存のような気がしたからである。
 そこで、氣道の整体では、
 技術自体も依存させずに相手の力を喚起するようにし、
 また必ず宿題を提示するなど
 依存ではない健康指導としての形にしていった。
 今から20年前の事である。
 最初の数年は訝しがる方もいたが、10年程たつと、受けられた方から
 「今回はどのような事に気をつけたら…」と尋ねられるようにまでなった。

 そうした変化の為だろう。
 私自身が稽古事として整体を受けるようになった。
 その結果、数十年、円相が書けなかった書の名人の気持ちも分かるようになった。
 そうして感じた事は、依存は自分の内にこそあった、という事であった。

 天心の愉氣は依存を生まず、
 受ける毎に体が鋭敏になり、自ずと整っていく。
 
 他の動物にはない人間の本能として、手当てが備わっている所以だろう。

 愉氣を通して体や心を育て、
 その結果として温かい社会が実現するよう願って止まない者である。

               (2010年4月号掲載予定)

  ………………………………………………………
 (この後の文章は、カットされてしまいました。)

  明日、公開す。
Date: 2009-04-28 (Tue)
 いよいよ、関東と関西での「同時【氣道の学校】」が始まった。
 初等である【体の学校】は昨日と今日。
 そして明日からは【心の学校】、つまり本当の【氣道の学校】が始まる。
 先日の日記でも書いたように、偶々、【体の学校】の前日はヒュー・レン博士の講座に行っていた。
 (もしかしたら、ここでその光景を公開する「かも」しれないが、息子と弟者次第(謎)だろう。)
 講座終了後、関西に飛び、翌朝から始まった訳であるが、まさに精錬されたメンバーという感じで、予定調和の如く行われる。
 参加者の一人が教えてくれた。「実はヒュー・レン博士は今関西に」
 何だか同じ事を行っているな、と思ったが、それで、何でヒュー・レン博士は私に何度も肩その他を、の謎が溶けた気持ち「も」あった。(それこそ(謎)。全ては弟者と息子次第?)
 ともあれ、明日からは、【氣道の学校】(【心の学校】)を通しての全国バージョンである。
 自分にとっての日本という観念を禊いでいきたい。
 
 (その報告もここでまた出来るとは思うが、講座前後の時間もかなり忙しいのと校正や横浜とのメール連絡もあるのでかなりハードであるので難しいかもしれない。)
 
 …という訳で、いよいよ全国版【氣道の学校】が始まったので、明日、3月号以降の【巻頭言】を出来たら明日公開するつもりである。
 

   3月号以降の【巻頭言】を公開する前に。108
Date: 2009-04-22 (Wed)
「次には公開する」とか、すぐ下でも「公開する」と書いておきながら、肝心の本文がまだ投稿されていない。
 引っ張り引っ張りという感じであるが、「氣道」協会会員の方は既に会報3月号からその文章を連続で読んでいる。
 なぜ、このように出し惜しみしているかの理由は、その時々に幾つかあるのだが、一つは、会報でも、まだ半分くらいしか公開できていない、という事。
 つまり、一変に長文が、ここにドガッと来るので、戸惑ってしまう分にはまだ良いが、読まれる方が飽和状態になってしまい、そして私が投稿を暫く控えていても、「これは長いから…」という事でスルーされてしまう事が、以前にも結構あったから、という点である。
 
(その意味で一つ付記。
 この日記は、時折り、時間のある時に校正をする時もあるのだが、(そのため先日のゆん君(佐野)の初等打上げに乱入した時に言ったように、削除したり、校正を多くする事がある)
 最近では、一昨日、
 ■ 氣道 (「孫悟空自身が、実は釈迦であった。そして…」 「地球は回り、そして…地球も太陽、星、宇宙も止まっている。」 白陰2 (軸外軸) )
 に、校正というか「追加文章」を入れた。
 これは、先日の「神塾(祝詞&勤行会)」の時に、とっておきの事として「氣道」を歩む際に参考になる事を言ったのであるが、その時、「日記でも書いているように…」と言い、
 その時、或る参加者の氣が面白く曇ったのであるが、最近の日記を読むに、確かに書いているが、夢のくだりは書いていない事に気づき、追記させて戴いた次第である。
 (そして、その内容こそ、とっておきの「氣道」故、今度のゴールデンウィークの【氣道の学校】の中核でもある。)
 
 なお、追記ついでに言えば、今日、筑摩書房から連絡があり、拙著「氣道入門(東洋医学セルフケア)」が再増版の運びになった事を伺う。
 初版が一万部で、再販が二千部、今回も二千部であるが、既に一万人以上の方が、拙著に触れて戴け、有り難く思う。
 しかも、届く多くの感想が、「実践しています」という声なのは何より嬉しい。
 (筑摩書房の方も、整体入門がベストセラーになったので、次は私という事であったと仰っていたが、その方は、自宅と会社とで一冊ずつ購入され、それらの本もボロボロになっているという事であった。
  まあ、これは初版が出る頃の話。)
 ともあれ、その本には、整体入門の続きという筑摩の意向はあったにせよ、私としては「絶対に『整体協会』と抵触しないよう」と、拙著では全て自分で行うアプローチのみ紹介した。(愉氣の行い方も紹介しなかった筈)
 それこそ氣道らしいし、そこが私(氣道)の原点でもある。)
 
 コマーシャルになるが、もし自然に生きる道に関心がある方は、ぜひご購入頂けたら幸いである。
 赤本よろしく、一家に一冊という想いは、今だに変わっていない。
 つの健たちとの音楽や、「身心の文法」同様、この本を残せたから、生きている意味(地球に貢献できた意味)が少しはあったか、と思っている。
 増田窯の主催者がお薦め本の一つとして掲げて下さった事も嬉しい。)

 つれづれに書いたが、3月号意向の【巻頭言】を公開しない理由は、その時々に他にも色々とあった。
 現在となっては、下の日記でも書いた【氣道の学校】(【心の学校】)の開催が間近である事が大きい。
 (ちなみに、その前にホ・オポノポノのビジネスクラスに行く。ホ・オポノポノの事は既に【氣道の学校】には折込み済みだが、そして実際、この数ヶ月、二日間も割くなら、指導を求める人に申し訳ない、という気持ちがあっこのだが、ホ・オポノポノの発展版、進化、深化バージョンを【氣道の学校】(【心の学校】)では行っている、と書いた以上、実際にもヒュー・レン博士にお会いしなくては言葉に説得性が無いと思い決心した次第。何卒ご寛容戴きたい。)
 
 【氣道の学校】(【心の学校】)は、御存じのように、関東は佐野裕子、関西は私が行う。
  (なのでホ・オポノポノのご報告や更なる消化発展バージョンは関西での【氣道の学校】でお伝え出来るだろう。)
 【氣道の学校】を関東と関西にて、全く同時に行うことで、日本に種まきをしよう、という試みである。
 偉そうな表現であるが、【氣道の学校】以上の凝縮度持った「瞑想を深め」「生きる意図を具現化させる」講座を、この30数年、私は知らない。
 そしてその講座(【氣道の学校】)は行う毎に進化、深化している。
 ただただシンプルになってゆくだけなのだが、4日間で数十年の座禅以上の成果を挙げ、2日間で苫米地methodを越える生の具現性を得るmethodを私は知らない。
 今日は歩きながら、まさに「秘儀の公開」だナと感じていた。

(なお、今回の【氣道の学校】は、前半、後半と一日ずつ予備日を設け、本来6日間の学校を8日間で行う。
 それも含め、今回は最初で最後の企画である。

 …というのは、関東と関西の同時進行という点だけでは無い。
 関西だけをとっても、おそらくこの形で関西で別日にせよ行う事は無いだろう。
 だからこそ、私は万難を排し、伺う。
 
 それ以上に、この形、つまり【氣道の学校】(【心の学校】)を現在の形で行う事も今後無い可能性が非常に強い。
 協会では、9月にも行うと年間スケジュールでは組んでいるが、それも行わない可能性がある。 (あるいは別形態にするか…)

 全30万円以上のアバターコースの内容はもちろん、他の様々なmethodが純粋に結晶化されている【氣道の学校】であるが、それでも20万円かかるし、また纏まった時間も捻出しなくてはいけないので、多くの方には抵抗があるのだろう。
 それは当然と言えば当然である。
 そしてまた行う私たちとしても、相応の時間と労費を伴う。
 4名以上の受講者でないと、全てが賄えない状況の中、手弁当よろしく行うのは、企画としておかしいのであろう。)

 そんな訳で、【氣道の学校】(【心の学校】)のスタイル、そして料金も長年続けさせて頂いたが、この形態、料金は、
今回のゴールデンウィークが最後になると思う。
 
 (その事を申し上げたい理由が一番として、3月号以降の【巻頭言】が公開していないのである。それ故、ゴールデンウィークの【氣道の学校】が始まったら公開したい。)
 
 今後は、【氣道の学校】は料金アップと共に、前半と後半の独立受講可能という形になると思う。
 (独立受講の場合、現在と異なり、マンツーマンでは難しい可能性がある。現在のような形も残していきたくは思っているが、ともあれ、一度終止符を打とうか、と私と佐野とは話し合っている。)

 そういう意味でも、最後の可能性ある【氣道の学校】。
 
 ほんとうに瞑想を深めたい方、
 生きる事に真剣に向いたい方
 氣道とは何かを知りたい方、
 (あるいは整体の原点である本当の愉氣を修得したい方。
  先述の校正箇所「夢外夢」etc.を実際に体感したい方。)
 自然に生きたい方

 は、ぜひこの最初で最後の企画にコミットして欲しい。
 古(いにしえ)を越える最新の秘儀の公開でもある。

http://npo-kido.com/tokubetu.html#kido_c

 私たちも、懸命に、最後の舞台に向います。

http://npo-kido.com/tokubetu.html#kido_c


  3月号以降の【巻頭言】 を公開する。
Date: 2009-04-11 (Sat)
ついに3月号以降の【巻頭言】を公開する。
何度も、ここで書いているように、それは1月18日の関内「エアジン」の演奏直後に書いたものである。
それは久しぶりの『淨潤トリオ』(即ちdrumつの健、lead竹内直)であり、多くの聴衆者からも嬉しい拍手を戴いたライヴであった。
ライヴ後は、共演者と共に自宅に戻る事が多いが、この時は、互いに都合があり、久しぶりにこのトリオとしては三々五々の帰宅であった。
エアジンというライヴハウスは、辛島文夫のような世界的にも超一流な方か、あるいは斬新な即興演奏をする方しか認めない。
私はその意味では本当に未熟であるが、こうしてレギュラーとして行える事に誇りと共に有難さを感じ、今もこの道に向う原動力の一つとなっている。
超一流という事では、つの健も竹内直も世界的に有名であるが、何よりつの健とは四半世紀以来の間柄であり、直さんも一年越しの毎月の「音と体の関係」で共演させて戴き、その結果なのかもしれないが朝日カルチャーセンターでの即興演奏講座を二人で行ったりもしたなど、つまり心の底から気心知れている親友の二人である。
(そのために「淨潤トリオ」とは、私とつの健と直さんとのトリオを指す。)
ともあれ、そうしたライヴ後は、つの健も直さんも温泉大好きだし、一緒に「自然掲示板」http://8003.teacup.com/joho1/bbsに書いた利世館にも行ったりしたのだが、最近は道場の「マコモ風呂」が出来てからは、それを味わって生ビールというルーティンが出来ていた。
そんな訳で、この日のライヴ終了後三々五々の解散は珍しかったのである。
 しかし私としては充実した演奏の後は常にそうであるように、そして以前にもこの日記で何度となく書いているように、エアジンから一人歩き、そして「ひとり」になり、戻ったのであった。
それは丁度、多くの緊張があった数年前のソロコンサートでもそう。「 私は、この後、演奏を無事に出来るのであろうか。ここに戻る時にどんな気持ちで戻るのであろうか。」…そんな事が思い浮かび、恐怖と共に、その場から去った。
結果…OKであった。
その時の経験を元に【氣道の学校】を現在行っている。

「ひとり」の感覚を味わい、何故か書きたい事があった。
それは、自分が行っている整体の事である。
整体とは氣道の個人指導の事を指すが(それ故、今後は「個人指導」と表記する事がメインとなるだろう)、なぜ、そうした「ひとり」の珍しい空間の中、自宅に戻り、整体(個人指導)の事を書きたくなったのだろう。
今、思い出すに、或る方が整体の事を少し勘違いしていることを理解して欲しかったからではないか、と思う。
而して、そういう事は、常々言うように自分の現れ、否、その人も自分自身に過ぎないので、全く徒労なのであるが、その時はついそうした気持ちが浮上したのか、あるいはだからこそ自分自身に再確認するために書きたくなったのか、それは定かではない。ただ自然と巻頭言用の文章を書き出した。
氣道と整体との関係は何か… つまり自然に生きる道と身体を整える事の関係は何か、という命題について再び書きたくなった。

ともあれ、その貴重な1/18のエアジンライヴの後の、今となっては偶発的に出来た一時間の間に書いた文章(協会会報3月号以降連載)を掲載したい。
(すぐに掲載出来るのに、結局長くなってしまい出し惜しみしている感があるが、そういう訳では無い。
  なお、内容については、私の今までのこの日記に全て書いてある事なのだが、その点はご寛容戴きたい。)

※なお、全く別件であるが、本氣で瞑想を深めたい方、あるいは自分の本当の願いの実現を望む方は、ぜひ「氣道」を知って欲しい。
そしてそれを学べるのは【氣道の学校】であるが、皆さまの都合に則して、ゴールデンウィークに行う。
宣伝のようで恐縮であるが、関東では佐野裕子が、関西では私が全く同日で行う。
私担当は数年前よりお願いされ、そして今回に、ほんとうに「機を機に重ね」、そして機を得て、ついに関西で実現できる事になった【氣道の学校】である。
関西、関東で全く同じスケジュールで同時進行してゆく事も含め、始めての企画である。
 そして最初で最後の実現だろう。

 私たち一人の力であっても、大河の一滴の如く、貢献が出来たらと思ってそうした。
その意味で、私は、参加者の人数に関係なく、収支に関係なく、ただ、ただ、懸命に行いたい。
これまた個人指導やライヴ同様である。
最初で最後の【氣道の学校】の企画。
 実現した嬉しさと共に、最後故、懸命に向っていきたい。

ご縁のある方は、どうぞ遠慮無くお問い合わせ願いたい。
 (下記のアドレスもご参照下さい。)
 045-261-3300

http://npo-kido.com/tokubetu.html#kido_c


  明日…
Date: 2009-04-03 (Fri)
159万円の講座を行う。
12〜17時までである。
「なお次回に投稿するこの日記では、約束通り、巻頭言の続きを掲載する。
 それは、1月に行ったエアジンライヴの後の数十分で全文を書き、その上で弟者を迎えたものである。」
───と3/11に書いたのに、それ以後、つい日々の想いを綴りたく書いてしまった。
 そして今日もそう。
  (ちなみにその文章は、既に会報3月号の巻頭言から連載している。あの数十分で書いた文章が、このままでは7月号位までかかりそうだが。)
  
…というのは、明日、159万円の講座を行うからである。
12〜17時までの休憩入れて5時間の講座で講座名を「氣道的観点に於ける個人的経済の手法」略して【お金の学校】と言うが、http://npo-kido.com/tokubetu.html#okane
その為、下で掲げた【氣道の学校】以来、トイレの時間はもちろん歩いている時もテープを聴き、今もその準備を行っている。
ライヴの前日同様、かなり具体的に実感出来てきたので、一息、プレッシャーを弛めたい気持ちもあって日記に向った次第。
何しろこれだけの高額の講座を行った事は今だかつて無い。
と言っても、この金額は、私が現在最も信頼している0リングテストの名手が先日の芦屋での講座後調べてくれた額であって実際の値段とは異なる。
私自身は、まあ少なくて70万、たぶん100万以上の価値はあるかなナ、と思っていたが、お墨付きを得たようで嬉しかったが、何度行っても「160万円ではありません。そして158万円以下も調べましたが違う。」との事で不思議だった。
私は明日の講座の金額を実際には4万5千円と思っていた。そしてチラシを見たら…愕然とした。
それはちょっと無いのではないか。
たった9千円安いだけであり、しかも、どちらにせよ100万円以上の付加価値があるのに、どうしてそう感じてしまうのだろうか。
考えてみれば5分の4になったのだから、その割合でなのだろうか。
ともかくそうした実際の金額を考えるとボランティア感覚ではなく、自己矛盾を感ずるので止めておこう。
(それはエアジンでのライヴでもそうだ。この日の為にと準備もし、いや準備は当然としても、生涯最高でお客さんも絶賛された演奏であってもギャラは数千円である。それが当たり前の世界である。
 なので実際のギャラに関係なく私達は演奏する。それは私にとって全ての仕事に向う立処である。実際、エアジンのほうがギャラは高い。明日の講座ももちろんそう。)

けれども私や共演者は裕福なのである。(具体的な経済状況は聞いていないので分からないが)
とても自由で豊かな人達。
私はそうした共演者に恵まれている。
そんな実感と共に、今明日の講座に向っている。
「氣道的観点に於ける個人的経済への処方」という長い講座名であるが、分かりやすくしかも逆に言えば「お金という切り口からの氣道研鑽」と言えるだろう。
腰が痛いとかガンだからと言って当会にいらっしゃる方は多いが、そうした切り口から氣道という自然に生きる道に進まれるのも良いと思う。
治療から潛在意識のお稽古事への移行だ。
同様、どんな切り口であっても、自然に生きる事に繋がっていけたらうれしい。
そして自然とは今生きている事自体が幸せに向っている状態だ。
それを健康とも言う。
生きとし生きる者には全てその力が常に完全にあり、そして現在どのような状態であってもそれが現れている。

(※ちなみに明日の講座は少人数限定のため、もう定員であると思うが、年間スケジュールに掲げた秋の関東および関西での同講座(お金の学校)は、一般公開せず【氣道の学校】(心の学校)卒業生のみを対象にさせて戴こうと思っているので(今後はそうした講座も増えてゆくだろう)、まだ【氣道の学校】をご受講されてない方にとっては最後の機会になるかもしれない。
 (その事はスタッフも知らない事なので、果たして私の思いが通るかどうか分からない)
 ともあれ、ご参加に迷われている方や上記あるいは過去の日記により自然道の主旨をご理解頂き、お金からの開放を目指したい方は定員になっているかもしれませんが、ご縁ですので、どうぞご一報下さいませ。

 明日は、明後日のエアジンライヴのため名古屋から横濱に上京する「音楽界のイチロー」こと依田拓が講座にも出席される予定。(実際、顔だちやオーラも酷似)
 
 さて、明日の講座のため、また準備に戻る。(何せ159万円だし、という想いよりも、際限ないがとにかくもっと準備したいのである。そうして自力で行うと明日の即興(降臨)が出来るという経験則のためでもなく、とにかくしたいのである。
 ◆ちなみに明日は、最近の【氣道の学校】の内容も公開すると共に、先月(まだ今月だったのですネ!)公開出来なかった事も紹介します。最近の【氣道の学校】参加者にはお許しの程。)
 ───「真実の『錬金術』」である明日の講座を、苫米地英人氏とミルトン・H・エリクソンそして野口晴哉に捧げます。

http://npo-kido.com/tokubetu.html#okane


  愉氣(洗心=禊ぎ)
Date: 2009-03-31 (Tue)
素晴らしいピアノリサイタルに行った。

「斬新な解釈と情感詩うテンポルバート、絶妙なアクセント。
 ペダルを駆使した流麗な音立ちに、輝く高音と情熱ある確かな低音が舞う。
 ノンペダル時には「間」を最大限活かした奏法。

 情熱と深遠さ、知性と優しさが一体になった演奏。
 臨席の方が「即興演奏も入れているのか?」と言う程、曲との一体感、今この一瞬での魂の響きある演奏。
 高橋明子は今後のピアノ界のみならずクラシック界を拓く光である。 」

───と、著名な音楽雑誌に掲載されるらしい。
以下は上述されていた事は「割愛」した私感のみ。
 前回のリサイタルは私の大好きな曲ばかりであったが、今回は有名な曲ばかり。(その意味でもこの3年間大変なご苦労であったと思う。)
一曲ずつ言い出せば切りが無いが、最終曲の名曲かつ難曲のバッハシャコンヌは圧巻だった。最後の和音を出すあの間。きっと一生忘れまい。
演奏後、ただただ泣が頬を濡らす。(今も思い出し泣いている。)
音楽雑誌にも書かれた「光」で言えば、全ての音が音であると同時に光の粒たちの舞いであったが、二回目のアンコールの月の光はまさにそれであった。
流れる光の粒たちが久遠の時と宇宙に拡がり、リサイタルも終えた。

(またも号泣し、恥ずかしく臨席の歯科医に挨拶もそこそこに席を立つ。3年前のように泣き顔を知合いにあまり見せたくは無い。
 こんなにも情熱的でそして最後は体が気体化する如くのクラシックコンサートに行った事は今まで無い。
 前回も圧巻で数ヶ月は体からその印象が抜けない程であったが、今回も同質の圧巻さがありながら、しかもそれがクリアさを呼ぶ。
 今も、まるで自身がエアジンでライヴを行った後、虚空感と共にひとりで戻り、ここでパソコンに向かう時と同じ感じがするのに驚く。
 自分の演奏は全く高橋氏には及ばないので比するつもりではなく(しかし今週末がエアジンだ。どうしよう…と今日のリサイタル中も思ったのであった)、ただ、こんなにも身心がクリーンな感じにさせて貰えた事、一つのリサイタルが、音を通しての愉氣であり、そしてその愉氣は人の生そのもののようで、そして最後は限りない透明さ(瞑想)に向かう愉氣であった。
洗心。

 限りない感謝を氏に捧げたい。
 
 

 
Date: 2009-03-19 (Thu)
整体は瞑想を深める為にこそ存在する。
整体であるとは、体つまり潛在意識が整い、意識との流通が良い「健康」な状態を指す。
その「1」である息一つの状態は、無心、瞑想の深まった「0」の状態でもある。(1=0)
而して「∞」(無限)。(1=0=∞)
そして其処には全てが在り意思を持てばそのまま現れる。(観自在)
願望実現の要諦は瞑想(0)にあり、「瞑想は体が全て」という書家の吉田先生の言葉通り、そのkey pointは整体にある。

今日で【氣道の学校】4日目が終わる。
つまり前半の「0」への旅である「風の学校」の終了日である。
何とまあ長い4日間であった事か。
実に様々な愉氣を行った。
石への花への匂いへの空への大地への感情への川への植物への思考への壁への鳥への太陽への動物への人への車への想念への橋への内体への音への感覚への無への全てへの…等々、ありとしあらゆるものに愉氣を行った。
4日前が遥かな昔のように感ずる。
しかしあっと言う間の一瞬の4日間であった。

そしてたった4日間にこんなにも瞑想が深まる姿を見て感動する。
また同時に受講生の方々のお顔、体、佇まいを見るに、人は本当に生まれ変われるのだ、と再認識させてもらった。

まだ明日から新たな旅が始まるのが不思議な感じだ。
明日からは、生まれ変わってからの、新しい現実創りの旅、現実への愉氣を体得する旅が始まる。

今日までのそしてこれからの旅を支えて下さった受講生皆さんの潛在意識、そしてそれらを応援する全ての存在に感謝したい。

  みおくりびと (巻頭言の続きの前に)
Date: 2009-03-14 (Sat)
左膝と腰椎3、4番との連動、良し。5番右の硬直無しまま、股関節良し。
胸椎2、3番がいらした時より突出したのは会話のためと、その時に顔を右に向ける形だったため、頸椎4番の矛盾が逆に少なくなり、胸椎2、3番に浮上されたのだろう。
胸椎7〜8番の安定は、5、6番と連動しているようだが、それは一杯のビールと共に落ち着いたためというよりは、まだビールは胃に残っており、それよりも、話の内容に集中していたため頸椎2番との連動で5番が緊張した事を証す。
そのお体を見てとても嬉しく思うと同時に、明日の変化を思う。
おそらく今日は眠いのだが、そして安心な感覚と共に何か一つ残るような就寝になるのかもしれない。それは今述べた変化だけの理由ではなく、季節的変動による骨盤の上がりのせいもある。(それは自然な事故、今日いらっしゃる前に日中受けられた整体では解除していない。)
今日のテーマであった腰椎5番右は左足矯体に依って緩解させたが、それは季節的な変動に依るものでは無いために行ったのであるが、その効果もまだ残っている。しかし本人の体の中で統合され落ち着くのは、どんなに早くとも明日の午前中以降だろう。
明後日は腰、骨盤は安定するが、その為かえって上胸部と首に緊張がいきやすい。
しかしその方に限らず今日受けられた方々の背骨の弾力(特に乾き方からすると)明後日の天候は晴れか(そうでなくとも曇り)だと思うので、その方の場合上胸部と首の緊張まではいかないと推測する。
その天候の為気分も安定し、かつ晴れやかになるだろう。
お彼岸ころに一つの小変化がある、これは天候とも関係する。
細かく言えば切りが無いが、ここまで玄関でのご挨拶の後、みおくりびととして、この十数分の来訪によっての変化を見たく、その後20m位離れた所から後姿を2秒位観察した事を書いた。

(ちなみに今日行った操法は、ご本人がハンカチを忘れたため、互いの礼の前に、座姿での観察、ハンカチが訪れ、礼をせずに!うつ伏せになって戴き、続いて仰臥の観察。
 一ヶ月前の操法と、その時宿題として提示したその方に合わせた体操がどのように影響しているかを観る。同時にそれ以外の変化を観る。それは先述した腰椎5番右であるが焦点はその一点に絞られる。動きは恥骨にあり、それは一週間前からそうであろう。
 右側腹つまり胸椎10番とそれ以上に腰椎3番の動きが邪魔しているのをどう対処してゆくか。体癖は否、現在の体周期特性(体の波)も捻じれる時期では無いのに。
 その他様々な事を観察し、その一点の為の操法を設計して行う。焦点である腰椎5番の変動を作った部位を、設計した順序で解消した後、焦点の為に先述の左脚を用いる矯正操法と保ちの踵操法のみ行う。最後は腹部操法で全身の統合を図る。
 その後、その人に相応しい体操を提示する。
 (体が前日までに予想していたものと若干異なっていた為、前日その方にメールしたものとは角度が異なっていたのと呼吸の仕方が反対であった。)
 上記は極く簡略した説明であり、他にも様々な観察点はあった。
 そして、その方とは整体後、数時間後再び来訪され、その後みおくりびとになった次第。)

見送った後、二階に戻り思うのは、数週間、数ヶ月という単位の波ではなく、もっと大きな彼の体の波の事。
前回や今日観察した時点でもそれは思ってはいたし、その前の歓談でもその話が出ていただが再度それを確かめる。
やはりその方に先月申し上げたように、この数年では一番変化ある年であり、同時に体に大きな変化を及ぼせる時期であり、それは、丁度「心理指導法講座」(DVDにも残っている)にご参加された時と、とても共通項がある。
この事はその人に言っていないが、久しぶりに活用出来る大きなターニングポイントが来たと思っている。

その樣に生物には何年周期の大きな波がある。それ以上の何十年周期の波もある。
生きる者は、その波と共に生き、否、波を求めて生を、個性を纏ったのかもしれないと思う。
面白いのは短期の波は長期の波の縮図であり、その中にも全てが孕まれている。逆もまた真也。
しかし実際のところその方の数十年の波を把握してその上で現在のその方の体を観る事は中々に難しい。
けれども、それを踏まえて相手の身心に対峙して自然性を喚起させるのが氣道の個人指導の理想の姿だろう。

実際、生きる者を観る時、そうした幾重もの波を感じざるを得ない。
変化しない事は、変化するという事だけなのである。
私たちは常に動きの中にあり、それは運命とも言えるその方の大きな波、というか深い部分にある流れにも連動していると観察する。
その運命自体、大きな深い波とそれにより現れる現実自体を読み取る事は現在の私にとって多く困難な事であるが、ただ読み取ろうとするところに「いのち」に対峙する者の立処の何かがあると思っている。
(だからこそ逆に言えば、占い的な事を否定してしまうのだろう。
 感覚するものはいつも不確かであり、また感覚したと同時に変化する。
 即ち、占いを否定する理由は、その断定的な側面であり、断定した時点でそれは変化してしまうし(実際関東に地震があるという噂が広まる事はその地震自体を回避する事に繋がると言う)、同時に、過去に過ぎなくなってしまうからである。)

地震と言えば、その前は胸椎8番が変化する、直下型地震の場合は4番も。阪神大震災の場合は7番も変化した方が多いと言う。
台風が此処に上陸するなら胸椎3番と10番が、という様な読み取りは割と簡単である。
しかし先述のように長期的な観察になる程、難しくなる。
単に観察眼を細かく練成してゆくという事だけでなく、自身の氣の質、即ち瞑想の深さを鍛練する事が必要となり、それ即ち真の意味の観察眼の養成と言える。

ただ、その人にとって最も長期の波である運命は確実に言える。
それは、生まれた時から、死ぬと約束されているという事である。
その宿命が生きる体にどう現れているのか。

其れは現れている。
いみじくも私はいのちの講座で語ったように、赤ん坊と死に逝く人との共通項を知っている。
それは先の言い方で言えば瞑想を主体とする観察眼であり、その人の生まれてから死ぬまでの大きな波、中の波、小の波を読むよりはたやすい。
しかし、私にとって其れは指導の原点であり、同時に私がこの仕事が行える唯一の拠り所でもある。
今後は、その感覚をもっと確かに感じ、生きている間の波への観察眼に結びつけていきたい。


  つれづれに(若干校正)
Date: 2009-03-11 (Wed)
巻頭言を続けて掲載すると書いたが、書きたかった事が山ほど積もり、ついこの日記に向ってしまった。
たった先程でも東京道場にて嬉しき邂逅があった。
邂逅と言う意味で言えば、その前の整体も辿れば一人一人の体に合うのも同様だ。
私が観る方は日々時々私の中に在るのを実感する。

山程の想いの書きたかった事は書きたく無い事でもある。恩師であった二方が亡くなった後、後を追うようにここでも書いたお世話になったK先生も亡くなられた事。
麻原先生、岡島先生、と、限りなくお世話になった方の順で亡くなるのは手足を一つ一つもぎ取られて、否、エーテル、次はアストラルと奪われていくような感があった。
J先生の時には、覚悟はしていたものの最期まで奪われ、然して、託されたのだ、継いだ者として生きるのだ、と言い聞かせるしか無かった。
ともかく生き残る私たちは懸命に先人の遺志を継ぎ、その意味で発展させてゆかねば継いだ事にもなるまい。

これだけ言えば山程あった事も殆ど心から無くなる。ただ山程の想いがあっただけなのだろう。
其処で思う事は、前記の如くである。
そして、自分が出来る事に更に邁進したい。
それは氣道の発展深化に歸する。

私たちはどうしたら自然に生きれるのだろうか。
私たちはどうしたら幸せになるのだろうか。

その答えの提示という意味である。

(どうしたら潜在能力を発揮出来るのか、願いを叶えられるのか、という俗なるレベルでもいいが、
 その答えは、先述の自然に生きる事で付いてくると思う。
 自然に生きる、真の健康の実現に尽きる。)

そして自然に生きる為にこそ、どのように自身の身心に向き合うのかを恩師達は教えてくれた。
それらの纏めとして「氣道」を創り、【氣道の学校】と個人指導である【整体】の二本柱の流れや、それぞれのmethodを整理した。
それらは単に私の知る限りに於てではあるが、巷にある能力開発法、武道、宗教、その他を遥かに凌駕しよう。
亡き恩師の方々は、その技術に於けても素晴らしかった。
ある方は心理面、ある方は抽象度を上げる愉氣の深さに於ても追従を許さなかったろう。それはミルトン・H・エリクソンと比しても瞠目であった。
そうした恩師のお蔭で氣道やそのmethodが出来たのである。
その意味では、「氣道」という自然道(健康自然道)自体も一つの生命であろう。
そして、そのいのちは、この一年でも大きな成長を遂げた。
然し、今後は恩師の遺志を折込み更に成長してゆかねばなるまい。
育て親として、それこそ自然な成長だけを準備し、そして親として懸命に精進してゆきたい。

 ……………………………………………………………………………………………

以上、想いの大きな所を書き、そして校正したが、昨日は以下のような文章も書いてしまった。
それは私の大好きな青木先生の事である。
消すに(校正するに)出来なく、上記の文意とは異なるであろうが残す事にしたが、ご寛容戴きたい。

……………………………………………………………………………………………

 唯一残る恩師は青木先生である。
 先生とは20年以上のご縁であり、様々な教えを戴いた。
 昨年は共に極秘旅行にも行かせて戴き、烏滸がましくも先生に個人指導を何度かさせて戴いた。
 故恩師の岡島先生も青木先生の体に触れ様々なコメントを述べられ、それは著作にもなっているが、その上での指導である故、まるで植芝盛平師の体を観るが如くの想いであった事を思い出す。
 玉川温泉では、師に「私が直せるところは此処と此処だけで、これは長年故難しい」等と申し上げた事も思い出す。

 日記に向うとつい、という感じで、また恩師の話になってしまったが、青木先生ご自身も、玉川温泉で深夜私の部屋に電話をくれ行ったところ仰っていた。
 「このところ親しき方が亡くなる事が相次いでいるんだよ。」
 その時に戴いた指導と共に、その胸の裡を僅かながら分かった感もある。
 人が生き、亡くなる事は自然である。
 生まれたと同時に亡くなる宿命に在る。
 けれども、相まみえた人たちとの豊かな愛を私達は忘れてはなるまい。

……………………………………………………………………………………………
 
自然に生きる。
その道を提示せんと、恩師の方々の縁より私として目指している。
思えば、それは44年前からの旅だったのだろう。
青木先生は、直接にmethod的な事での関わりが無かったし、それまた不思議であるというか、氣道と新体道という全てを包括するゲシュタルト故、このような関係を20年以上も続けさせて戴いているのかもしれない。
新体道、天真書法塾もまた氣道そのものなのである。
(先生にとっては大変烏滸がましい表現でヘイクツの想いではあるが。)
自然に生きる為のmethodとして大変お世話になった方々は亡くなったが、methodでなくその中心を生きられている方が今だ生きて生きている事だけで私は嬉しい。
 青木先生には6年前だろうか「先生が生きているだけで地球が喜んでいると思います。」と言った。
 先生は「淨潤、いつからそんな煽ての言葉を覚えたんだい?」とあの笑いと共に仰って下さった。しかし、それは本心であり、そして私という個人にとっても掛け買いの無い父への想いでもあった。

 ……………………………………………………………………………………………


そうした恩師に恵まれ、私たちは深化し続けさせて戴いている。
10年一日どころか数日が一年のように感ずる事も多い。
どんな魔術が私達にかかっているのだろう、と思う日々である。
しかし、それも全て、恩師の方々のお蔭だと思う。
そして皆様のお蔭だという事を感じている。

……………………………………………………………………………………………

 今も亡き恩師の氣を感ずるが(青木先生の氣も)、今後は自然に生きる道である氣道の個人指導である整体を二人三脚、否、6人一脚で実現してゆきたい。

…………………………………………………………………………………………

(※注/「整体」は氣道の個人指導であり、【氣道の学校】(中等)同様、知る限りに於ては素晴らしいmethodである。    それ創って下さったのは恩師を初めとする皆様であり、私はただ好きで、止むに止まれず幼少の頃(先月母が言うには3歳らしい)から:ただそうしていたに過ぎない。
   矜持の現れもあったかもしれないが、それはご縁のある方にお伝えしたいが為であり、実際には、この如く(なお整体の裏舞台については次回に掲載した文章の後で公開する?かもしれない)に向っているに過ぎない故、何卒、ご寛容戴きたい。

 (なお次回に投稿するこの日記では、約束通り、巻頭言の続きを掲載する。)
  それは、1月に行ったエアジンライヴの後に全文を書き、その上で弟者を迎えたものである。)

…………………………………………………………………………………………

この文章を読まれる皆様に、幸せと共に、源と連なる自然な息がありますよう。

  【2月号巻頭言】
Date:
【2月号巻頭言】
 
完全な人間などいない。
生物学者によると、生はシンメトリックからは生まれないと言う。
完全な形に某かの歪みが生じた時に生命が発生する。
生きると個性が生ずるのではなく、個性が生じた時に生命が誕生する。
それ故、生きている生物は全て歪みを持つ。
その個性を全うする事が一生の、そして今の使命であり、それはその時々の要求に現れている。
そして死ぬと完全に戻る。
背骨も死ぬと真っ直ぐになる。
腰の曲がった老人も棺桶に入る。
そう考えれば、背骨を真直ぐにするという事が生命の要求の逆を行っている事に気付くだろう。
亜流の整体では、一回でこれだけ背骨を真直ぐにしたと喧伝するが、それは一回でどのくらい殺せたかと言っているのと同義である。
では、生命の要求を感じて整体するとどうなるか。
図らずして、どんな整体よりも背骨は真直ぐになってゆく。
赤子の要求を受け入れて育てるとその子は伸びやかに真直ぐに育つ。
それは人間に限らない。
ありとしあらゆる生命はそのように出来ている。
私はその事を20年以上を経て数万人の整体をした後で初めて気付いた。
そして生の真の要求が死である事を知り驚愕した。
死は生の中に常にある。
一日生きるという事は一日死に近づいている。
しかし、この一瞬の要求自体が死を求めている。
生死一如。
一瞬一瞬の生の全うこそ自然な死への餞なのである。
生ききった者にのみ安らかな死がある、だけでは無い。
生ききってゆく今にこそ自然な死が在る。
そしてその時、人は死なない。
死無し。 どのような意味に於ても永久(とわ)に生のみがある。
それは溌剌と生きる者のみぞ知る。
現し世を生と呼ぶが、確かにあらゆる意味で夢の現しである。
眠りたくなるまで、溌剌と生きよう。

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  【1月号巻頭言(新年のあいさつ)】
Date: 2009-03-07 (Sat)
【1月号巻頭言(新年のあいさつ)】

 新年明けましておめでとうございます。
 新しい年を迎え、心機一転されようと思っている方も多いことでしょう。
 それには、体をも新しくなるよう努めなくてはなりません。
 人間の心身は皮袋ではないので、古き皮袋のままでは新しき酒は盛れません。
 そしてどんなに年をとって古くなっても、私たちの体には更により良くなろうという生命力が常に在るのです。
 一新の決心が萎えないうちにも、氣道の健康法を通して体をも一新させてゆきましょう。
 これから春までの間は一年で最も大きく体が変化します。
 どうぞ積極的に自動運動を初めとする氣道methodをなさって下さいませ。
 
 また新しい飛躍の過程では、過去の古い皮袋を捨てなくてはならない事があります。
 その際には、風邪などの身体的な変動もある事でしょうし、古くからの友人や同僚と離れるというような対外的、心理的な変動もあるかもしれません。
 それらを新しい心身を迎えるための排泄反応と見做し、自らの夢と立処を確立させ邁進して戴きたく望みます。
 そうした一新されようと思う方、より良くなろうとされる方への、一助が出来るよう私たちも勤めて参ります。
 今年も、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
                         「氣道」協会代表  長谷川淨潤


  つれづれに
Date: 2009-03-04 (Wed)
2月から4月は一年の中で最も体が(心も)変化する時期である。
故に体(潛在意識)を変革する好機である。
その時期に体を自然に沿って調律すると、恙なくその後の一年間を過ごせる。
しかも今年は昨年末より骨盤の動きが大きく数年ぶりの好機である。
また、これからの変動も大きそうなので、それも読み取りながら調律(整体)に励む。

そうした事を皆さん知っているのか、この時期は数ヶ月受けられていない方もいらっしゃる。
(私たちとしては、一ヶ月に数回観ている体なら、過去も未来も大凡の予測つくのだが、そうした方だと正確に体を読むのに骨が折れる面があるが…)
 整体は、体(深層意識)を育む事を通して「いのち」の自然に沿う究極のお稽古事であるので、その事をご理解頂け、遠くからいらして下さる事はとても喜ばしい。
(2月から指導日には連日、遠方の方が訪れている。
 多い時は一日複数人となる。
 今日は仙台、今日は石川、今日は京都と名古屋、今日は山形。
 しかもどなたも日帰りで片道5時間以上かけていらっしゃる。
 折角いらしたのだから横濱見物は如何?と言うが、皆さん、いえそのまま変えります、との事。
 10分から長くとも15分間の整体のため往復10数時間をかけられている事を知ると、以前だったら緊張していただろう。
 しかし行う事は徒歩3分の方と同じ。
 整体は常に一期一会の調べだからだ。
 
今日は博多から元スタッフの志音さんがいらした。
話したい事は募る。
変な譬えだが、直さん、つの健が遥か地球の裏からいらしたような感であった。

一期一会と言う癖に、整体中、受付の人に呼びかける事もある。
まるで演奏中に観客に呼びかけるようなものだ。
而して、指導者はそれをも軸内軸と感じつつ整体し、軸外軸にいる。少なくとも道場は軸内となっている所以。

なぜ整体なのか。
その理由は「氣道」の個人指導であるからであるが、ではなぜ整体でなくてはならないのか。
その答になるかは分からないが、この日記では今後、氣道協会(氣道を伝える組織)の会報に載せた巻頭言を掲げたく思う。
(既に以前掲載したものと重複部分もあるが…)

 整体は生命への純粋な祈りであり、
 その原点である愉氣は愛である。
 (愉氣は愛そのものであり、
  其処から生まれた整体は生命への純粋な祈りなのである。)

  誓い
Date: 2009-02-27 (Fri)
R先生より恩師の訃報を伺う。
師は一年以上前から体調崩され、お別れの挨拶までも戴いていており常に覚悟はしていたものの衝撃は禁じ得ない。

貴重な時間を割き、何度も何度もご指導を戴いた。
それらは全て愛溢れており、しかもそれぞれが本当に貴重な奥伝そのものであった。
それら数々の場面が今も活き活きと想い出され、その時の感覚が全く失せずに体に残っている。
そしてこの感覚は今後もそうであろうし、また更にもっと増してゆく事だろう。
師は、今までも今もそうであるように、今後もずっと私の中で生き続けて下さる。
しかし今は大変大変寂しい。

ご子息のK先生もそうであろうが、私もまた師の遺志を引き継いていく事、遺影とお骨の前で誓わせて戴く。
いみじくも明日は師より授かり受けた東京道場での指導である。
17年前初めて師にお会いし指導を受けたのも其処であった。
横浜道場を創るためにその場を見たく父も師の指導を受けた。

「今までは準備だよ。これからが本番だ。」
そんな師の声に答える為にも、新ためて引き継がせて戴いた気持ちで迎える。
そして今後は師と共に二人掛かりの指導となるだろう。

  氣道 (「孫悟空自身が、実は釈迦であった。そして…」 「地球は回り、そして…地球も太陽、星、宇宙も止まっている。」 白陰2 (軸外軸) )
Date: 2009-02-20 (Fri)
白陰禅師はよく書や画をしたためたが、その軸は多く不思議であった。
軸の画に軸が有り、その軸を見ている人が画かれている。
そして、その軸の画には同じ画が画かれてあり、その画の中にある軸の画にも…という合わせ鏡のような無限構図なのである。(これを「軸中軸」と言う)
まるでフィッシャーの絵のような面白さがあるが白陰は何故そのような軸を作ったのか。
これまた禅の公案ならぬ画公案、軸公案であるが、公案故、私の口癖の如く、その問題の中自体に解決法は無いのだろう。
(何故なら問題自体が解決法なのだから。これは症状がそのまま治療法、自然の整体法であるのと同様である。
 真の解決策は常に別に有る。整体(氣道の個人指導)の意義は其処にこそ在る。)

三島由紀夫の金閣寺でも有名な無門関に出てくる南泉斬猫の話は、公案よろしく猫を斬った後に趙州が履き物を頭の上に載せて去った事で「もしお前があの時おったならば、あの猫を斬らずに済んだのに」と南泉が言うものであるが、その解釈は今だに謎で無門でさえ頓珍漢な解釈とも言われる。
私にとっても20年以上難題であったこの公案をH師は講座の中で引合いに出す。
「…すると、両方に猫がいなくなっちゃった。生きものにおける個というものは…」
その声、言葉を聞いた時、
師は公案と同時に私の中心をも見事に斬った。

白陰の軸内軸にも様々な解釈がある。
然してそれらの解釈も軸の内に入ってしまう感がある。

或る時、軸内軸の軸を見ている人達を見て、ニヤリと微笑む白陰に気付く。
ちょうど釈迦の掌で旅する孫悟空を見ているかの如くに。

然り。
軸中軸を見ている人達自身が軸の一部なのである。

夢から醒めて「ああ夢で良かった」という経験をされた方は多いだろう。あるいは逆に「なんだ夢だったのか」と思った事もあろう。
また、夢から醒めたと思ったのに、それがまた夢であった経験をされた方もいるだろう。
3歳か4歳の頃、私はそうした夢をよく観た。
しかも時折り、それが5回以上続いた時があった。
つまり醒めたと思った夢からまた醒め、が何度も何度も繰り返されるのである。
さすがに子供でも醒めたあとで「これもまた夢に違いない」と思う。自覚夢(覚醒夢)である。
けれどもあまりにリアルなので疑いはするのであるが…
而してやはりそれも夢であった。
無限に続く夢…正に「夢中夢」である。
その内、夢であるならと、夢中で自由に遊ぶ事を覚えた。
自覚夢と言うものであるが、自由に様々なしたい事を行い、様々な所、宇宙の果てまでも旅した。
その後しばらく経ち、10台前半は夢日記なども行い、夢の神秘と時空との扉を味わったが、15歳の時、野口整体に触れてからは後頭部の萎縮を避けるためと、既に存分に味わいつくした為、10数年の自在な夢遊戯、夢修行にピリオドを打ったが、
3歳の子供でも、醒めても醒めても夢であるという夢中夢の経験をして思わざるを得なかったのは、最終的に醒めた確認が出来なかったという事である。
当たり前といえば当たり前であるが、何度醒めてもそうなので諦めざるを得なかった。
多くの方は「ああ夢だったのか」と現実に醒めて思うわけだが、私にはそれが出来なかった。
その保証がどこにも無い事を知ったからである。
そして、この現実をも夢ではないか、否、現実こそ夢なのではないか、と思った。
白陰がニヤリと笑う。
そして、私は、この事、殆どの人間は気付いていないのではないか、そしてだからこそ、この現実から醒める事こそ「悟り」と言い、それを「覚醒」と呼ぶのではないか、と子供ながら思った。
また夢がそうであるように、現実もまた夢であるなら、全ては夢を創っている自分の責任である。
私は氣道創始以前から「全てが自分の責任である。それどころか更に全てが自分の現れである、何故なら…」とよく言うが、この夢の譬えでもそれがよく判ろう。
夢の中で相手のせいにしていても、その夢を創っているのは自分なのであるから。
現実も夢なら、当然全てが自分で創作主演しているに過ぎない。
現実を夢と悟り、醒めてゆくにつれ、その事は実感出来るが、逆に全てが自分の創った戯曲に過ぎない事を実感しだすと、その夢から覚醒する契機となってゆく。
(後年それが出来る設定愉氣を創った。名称は「夢∞現(夢外夢)」。)

また、子供の頃の私はそうした経験からか、夢を観ずとも、毎朝、新しい人生を生きている可能性があると如実に感じていた。
眠りは死であり、そして起きた時には再生し、その時には昨日までの人生ではなく全く新しい人生で生まれ直している。
たとえ何十歳であっても、それまでの過去の記憶がその都度創り直されている。
毎朝、新しい舞台を途中から演じている、と。

その後、数十年経ち、それは眠りから目覚めた後だけでなく、毎瞬間、それが行われていると感じた。
そして、それだけの時間と空間が常に同時に、無限に用意されている事を知った。(感じた)
私たちは瞬きをした瞬間に別の宇宙に移行し全く別の人生を感じている。否、瞬きをせずにヂッと目を見開いている間にも様々な別宇宙の人生を歩んでいる。
即ち宇宙は無限に存在し、私たち自身も無限の人生を歩んでいる。
その無限の可能性を知り愕然としたのである。

 (この日記にこうして書く事は全て私のオリジナルな考えであって誰かの考えを踏襲は勿論の事、参考にも全くしていない。単に私個人の氣道を歩む過程での実感に過ぎない。
  特に今回は荒唐無稽と思える考えかもしれないが、正に夢どころかのクリアで確かな実感故、少なくとも私の中では真理と言っても良い程の真実の感覚である。
  それ故、この夢と現実の話は、そろそろ話してもいいかと思い、昨年スタッフにだけ「とっておきの事を伝えます」と言って話した事なのである。(これを裏返すととっておきの願望実現になる。それを現在は更に発展させて【氣道の学校】(心の学校)で伝えている。
 ともかく今や理解して戴ける方も多くなったのでこのように公開している次第である。)

息を吐ききった時や吸い切った時に訪れる死と生の狭間、死でも生でもない沈黙(瞑想)は、実は吸っている時や吐いている時にも背後に存在している、と私は言うが、それはまぎれもなく思考が働いている時にも常に瞑想、いのち、神、道(タオ)、氣が偏在している事に他ならない。
白陰や孫悟空を見る釈迦を見る某かもある。
私たちはこの現実という夢から無限に醒める事ができる。(夢外夢)
そして、実は、「それ」は、常に偏在している。
常に醒めているのだが、それに気付かないだけなのである。
瞑想は「今」「ここ」に常に偏在している。思考が静まった時、「それ」は現れる。
瞑想は至る事ではなく、逆に、禊ぎ剥ぎ取り即ちクリシュナムルティの言う全てを否定する時に訪れる。
即ち、全否定は、「今」「ここ」に在る「いのち」の完全肯定でもある。

さて、ここからは少し具体的、形而下の話に戻そう。

瞑想は真の己れを探す内なる旅である。
(なおここで言う瞑想とは、上で言う意味ではなく瞑想「行為」を指す。
 また、その瞑想の行為は氣道でよく行うsimpleな瞑想方法を指す。
 それは全てを否定するところに本当の自分は何かが分かる(自己発見)と言うクリシュナムルティにも倣った座禅の如くの瞑想法であるが、ベンジャミンクレームも推奨されていた事はクレーム氏の伝導瞑想の著書紹介にて会報内に書いた通りである。)
つまり瞑想とは軸中軸を無限に進みゆく旅である。
そして瞑想をマハリシ宜しく徹底的に行うとどうなるか。

随分も以前の話になるが、横浜道場の夕瞑想会にてWhere is God?という瞑想法を紹介した事がある。(ちなみに先の瞑想はその行程通り英語名はWhat am I?である。マハリシもまた「私は誰か」だけの瞑想で大悟された。)
ひたむきな座禅修行に困難さを覚えたり、無(ディヤーナ)よりはその前段階である何かに集中(ダーラナー)するほうが相応しい人もいたせいか、そうした拡張瞑想法は喜ばれたが、その為、宿題を出した。
「眼を開いたまま、このWhere is God?つまり感覚的身体を最大限まで拡げようとする瞑想法を行うとどう感ずるか?」

What am I?の瞑想法とWhere is God?の瞑想法は片や内なる旅(軸中軸)、片や外なる拡張(軸外軸)で全くの逆の方向性を持つが、それを生死をかけ(もとより瞑想は命懸けで行うものだ。それはいわゆる気合気迫を込めてでは無く、限りなく力を抜く事を決心するという意味である)て、究極まで実践する時、私の中で両者は相まみえる。
0=∞=1=∞。
微分は積分であった。

瞑想の深い状態への旅は、逆に全てを意識化する事にも通ずる。
その瞑想法を全感、風の瞑想と【氣道の学校】では呼んでいるが、それは1を明確にする作業である。
1=∞=0

意識、思考を持つ人間にとって、自然に生きる(=氣道)ためには瞑想が不可欠であり、だからこそ自動運動や内感運動など体を整える事が必要となり、個人指導という整体の意義が浮上する。

(話が少しズレるので( )書きにするが、
運命がどのように在るのかは、既にこの日記でも様々な形で書いた。
運命を変える可能性があるとしたら、運命という流れが何処にあるのか、同時にその流れを変える部分を把握した上で変える方法を模索すると良いだろう。
その為には運命の流れの外に出ないと運命の流れが見えない。
仮に、軸を運命とするなら軸の外に出るしかない。
そして軸の外に出るためには、軸中に軸が在る事をまず認識感覚しなくてはならない。意識で運命と思っている事は運命自体でなく観念の所産である事も多い。
作業としては単純であるがそこまでが困難な方が多く、それ以降は作業こそ多いがそこまでが上手くゆけばスラスラと進むのは、ちょうど即興演奏や愉氣の感覚を掴むのと似ている。
きっとあらゆる芸事、仕事はそうなのだろう。

運命のありかが分かった後は軸中の軸を無限に探す内なる旅、即ち瞑想(What am I?)行う。
(なお、これには内感が大変に役立つ。ヨーガの恩師成瀬雅春師が言うように身体感覚は瞑想にとって最大の試金石である。基本はそのまま奥義にも繋がるといっても良いのかもしれない。)
その上でWhere is God?(軸外軸である拡張瞑想)を行い(それには自動運動が役立つ。なお最初にこの瞑想を行うと失敗する事が多い。ただ実生活にはこの瞑想法のほうがすぐに顕著な瞑想効果が現れる。)、更にAR(all recognize=全感)を行う。
これらは運命をモチーフとした瞑想活用法の一端であり、同時に瞑想を真に深めたい方の順でもあるが、体癖によって若干異なる面もあるのであくまで基本的な流れと思って戴きたい。)

瞑想と生活とは本来一つである。
氣道での分類で言えば0と1になろうが、その統合こそ自然に即ち溌剌と生きる道である氣道の根幹である。
赤子の無心(0)のままでは愉氣は出来ない、俗心多い大人(1)が無心になろうとするところに瞑想の意義があり、H師の言う愉氣の出来る理由がある。
人間にとっての自然、斯くの如し。

生死一如。
私たちの生の目的は今生きている事のみである。
「今!」
(これを何百年後に読んだとしても)

その「今」を軸中軸(限りなく微分化)する過程に「永遠」が現れる。
(1=0 =∞)
これは先で言えばWhat am I?の瞑想法と相似象となろう。

(もっと抽象度を低くした視点で言うと、
 人は産まれ、そして死ぬ。ショウジョウバエは14日を平均として生を全うする。
 先述したように、個体としては、生の目的は無くただ今生きているという事が在るのみ、と氣道では言うが、
 抽象度を低くし、時間軸を客観視した観点から言うと、私たちは某かの意思を続行し育むためのゲーム?として生死を繰り返しているとも言えよう。
子供が産まれ、そして私たちも死に、そして子供も死に、そして…(これまた軸中軸)

私がこのように講座でも言っているのは、子供の子供の子供の…ためだ。それが数百年、数千年であってもいい。(軸外軸)
然し、大人の中には子供があり、同時に未来の子供に繋がる子供の部分もある。
軸内と軸外は、常に同居している。

そして、私たちが認識しているこの全ての宇宙は自身の反映に他ならない。
そしてまたその自身は全ての反映に他ならない。
(少なくとも自我の範疇での自由意思は無いのは、この日記でも再三書いている通りである。)
「軸中軸=軸外軸」=「微分=積分」=

その上で私たちは何をすべきなのだろうか?

 「氣道(自然に生きる道)」、そしてその個人指導である
「体を整える事(整体)」、は私個人の回答である。
 
  運命のままで良いと無意識から完全に得心した人にこそ運命の流れから離脱するからである。
 
 釈迦も孫悟空もいなく、演ずるのみ。
 (軸中軸=軸外軸=0=∞=1)

 而していのちは無限であり、その現れである生は限りなく拡がる満天の映しであり同時に即興である。
 燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや
 鴻鵠驕らんぞ燕雀の詩を知らんや
 双者与えらん命の意志を知らんや
 命、双者生み、双者も命輝かさん
 而してその時、双者、命産まん
 (軸中軸=軸外軸=0=∞=1=∞) 

 これが氣道であり、私たちの整体である。
  (今まで一万人以上の赤子と亡くなる方を診た。しかし数では無い。恩師やH師は遥かに凌ぐ。
   しかし、一人一人一生懸命診た。
   それだけが、私の唯一の誇りである故書いた。)

 私達は、常に生死と共にあり、その背後の瞑想、いのちは、常に「今」「ここ」に在る。
 それを現してゆく楽しき自然な旅が氣の道である。
 そして人は自ずとそう出来るように創られている。
 何故なら、そのように要求し、その氣の結果、そう出来るからこそ体を纏い生まれて来たのであるから。

  氣道 (「釈迦の指は、実は孫悟空自身の指であった。」「太陽や星は地球の周囲を回っている。」白陰1 (軸中軸) )
Date: 2009-02-15 (Sun)
孫悟空が釈迦との問答の後、遥かな旅をして、この位なら良かろうという所に印を付けたという。
旅から戻ったら、その印が釈迦の中指にあった。

孫悟空にとっての遥かな旅も所詮釈迦の掌の範疇を出なかった。
感覚的身体や抽象度の高い知覚領域が広い釈迦と孫悟空との違いを語る話であるが、裏返して氣道的に言えば、
「釈迦の指は孫悟空自身の指なのである」。

 これは、今回の「氣道指導法連日講座」で言った白陰の『軸中軸』、青木宏之師の言う合わせ鏡の向こうに何があるか、と同じである。
 (なお、同講座では、「無、空に至ろうとする事自体が瞑想の意義であり、それがそのまま「整体」の原点である愉氣を深める事に繋がる」と続け実習を深めていった。)
 この日記では繰り返し言っている事だが、氣道的立処に於ては「全てが内」だからである。
 (その意味でもD先生の内観を19年前から賛同し実践していた。(その頃の講座CDは現在でも販売している。) 
 またごく最近ではホ・オポノポノも同軸の主旨であるが「全てを自分の責任とする」という『表現』は甘い。それでは「他は鏡の如し」の延長である。そうではなく他は無いのである。
 けれどもヒューレン博士自身はその事をも分かった上でのような気がする。それ故、会報ではDVDのほうを「これこそ氣道」として紹介した次第。)
 私はよく「地球は回っていないよ。星や太陽が回っているだけだよ。」と天動説を主張するが、その理由も何となくご理解頂けるだろう。
 しかし重要なのは知的理解でなく感得する事である。
 なぜ、氣道の指導法が整体という体を整える事が主体となっているのか、の理由でもある。(そうは言っても今回の連日講座は、ミルトン・H・エリクソンのエッセンスを、その代表的アプローチを体癖別に分類かつ優先順位を付けたりという事だけでなく、心理的技法と整体技術の統合主体であったが。)
 それは、体を整えるとは、感覚的身体を整える事であり、否、感覚的身体を整える事によって相手の潛在意識の声を発露させ、それにより「いのち」を十全と浮かばせる事だからである。
 その過程は真の即興演奏と同じである。(クラシックも名演は即興演奏である)
 同講座では「私たちは、私がある、と思っているロボット、コンピューターに過ぎない」と、中学の時に知った「自由意志は無い」という事は中学の数学レベルが分かれば誰にでも分かる、という飯島貫実恩師や晴哉先生のエピソードを語ったが、今回の拙文は「自己が在る」という知覚を持っているという事を前提としての深まりとして氣道で常に言っている事を書いたに過ぎない。
 氣道家にとっては、耳に蛸だろうがご寛容戴きたい。

 

  (-_-)  幸せとは何か?
Date: 2009-02-15 (Sun)
 初めて顔文字を題名に使ったが、それは、またもたった一つのミスタッチで、全ての文章が消えてしまった故。

 (内容は、D先生とR先生の手法の統合という夢が昨年より実現した事についてと、それを包括する視点について。
  その視点の説明に必要な事として、H先生、D先生、R先生それぞれが大天才であり、それらを統合するとなるとこういうゲシュタルトになる、抽象度をこのようにする、という事、
  そこから派生する事として、成瀬先生とD先生との相似性、瞑想と内観の違いや、青木先生の「新体道よりも短く端的に現す名称」と「氣道」の事、青木先生との繋がり、H先生の視点、感覚的身体領域、そして、氣道という名称故、その視点は、それらをも包括しなくてはいけない事、など(あと幾つかあったが)を書いていたのであった。)

 河崎純さんとのデュオの後、独白めいて(もとよりこれはブログでは無く日記であるが)書いていたのであったが、
膨大な文章が全て飛び、その為、晴れやかな気持ちで、ここに向かっている次第である。

 ※そう、お蔭さまで、【整体法修得講座】は、全く新しい形でしかも、今までの【氣の学校】など全てを(【心理の学校】も含め)包括する形となった。
  一年に数回そして今までの17年間の経験があったからこそであるが、船長役としては本当に驚きである。
  この9日間の準備により、私自身はH先生の凄さを思い知った。
  その立処にて行ったが、その立処に対する感覚もどんどんと変わる。
  変わる毎に、クリシュナムルティ、ベンジャミンクレーム、そしてH先生の凄さをより感じ、また理解するのは、凡人の所以だろう。

  今回の【整体法修得連日講座】に出られた方ならお分かりだろうが、
  私たちは相手のいのちを十全に羽ばたかせる事にのみ、でき得る限り自分のいのちを向ける。
  それ故、周囲との関係性に於てそれは邪魔されないようにしたい。
  冠婚葬祭はその第一だが、それは形式的な事であり場合によっては断っても良い。
  最も大事なポイントは、周囲、他の人と争っている暇は全くない、という事である。
  (相手の体(潛在意識)をどれだけ深く把握するかに於て、家族システムつまり相手の周囲の方の関係性を鑑みる事は重要であるが、ここで述べているのはその意味ではない事勿論である。)
 (自然に生きるに当たって、
   動物ではなく人間にとって自然に生きるに当たって、
   思考の重要性があるが、それをどの方向に向けるかであろう。
   私は、私の進歩のために、そして皆の進歩がそれに繋がるなら、否、逆も然りで、そのためにこそ「私」を用いたい。)

  そして、今日も、演奏、氣道の指導(=整体)があった。
  
  懸命に生きる歓びは、   
     幸せである。    (^-^)
  

  【整体法修得講座】。(校正しました。講座の紹介文章ですが、氣道の整体の醍醐味を既にご参加の方にこそ知って欲しく残しました。)
Date: 2009-02-06 (Fri)
  (スタッフのゆうさんこと佐野裕子から、急遽メルマガを出したい、と言われた。(その後、「会員用掲示板」への投稿の聞き間違えと分かる。)
   月曜日から6日間連日で行う「中等」の事であるが、
   そこで援護射撃宜しく、この日記に向っている次第である。)

───という訳で、もし整体にご興味のある方は、ぜひご参加下さいませ。
詳細?については、以下をクリックの程。
http://npo-kido.com/tokubetu.html#seitai_c

(これでは全く援護射撃にならないか…
 特に、上をクリックすると「○将来プロを目指している方」と出てしまいますので勘違いされてしまうかも、ですが、
 プロを目指さない方も、少しで整体に興味のお有りの方は遠慮なくお越し下さい。
 もう少し、思うところを幾つか箇条書きで書き添えます。)

★一生心に残る充実した6日間になる事でしょう。
  (これは本当です。
   今までも、こうした「整体法修得」の連日講座は何回か行いましたが、
   参加者の皆さんも非常に喜んでおられました。
   日に日に技術もupし、技術だけでなく氣が練られ、自分自身の感覚も変わっていくのですね。
   それで、本当に私も楽しみにしています。
   (そのため、既に近くのホテルにinしてスタンバっております。この日記も其処で書いております。)

★ですので、少しでも整体に興味がある方はぜひどうぞ。
   一緒に6日間の旅を過ごしたいと思っています。
   迷っている方はぜひ。
   プロでも通用する技術を身に付けられますが、プロとか関係なくとも、ぜひお薦めします。
   …というのは、整体の技術というのは、ともかく「感ずる」事なのですね。 
   で、その「感ずる」訓練を、技術の練習を通して行っていくという感じなので、技術を修得するというよりは、「感覚」そして「手」を磨いていく、というのが真実です。
   なので、どのような仕事、お稽古事にも「感覚」と「手」は大切なので、整体を生業にしたい、という方でなく、むしろ「私は書道を究めたい。」とか「踊りが上手くなりたい。」という方にこそお薦めできます。

★心理面のアプローチの基礎も整体と組み合わせて(統合)して行っていきます。
   整体には少ししか興味がない、けれども、趣味が上手くなりたい、自分の健康を高めたい、という人こそ、と書きましたが、
   実際に中等で愉氣や技術を学ぶと、家族の方への手当てはもちろん、開業できる位のレベルに以上に万全になってしまいます。
   (これは本当です。実際に一回の受講だけでもそうなった方が何人もいらっしゃいます。)
   そして、今回は、心理指導も組み合わせながら紹介していきます。
   (あと設定愉氣の伝授も今回の特長でした。)
   ですので、家族以外に於ても、人間関係を円滑にする方法や友人へのご援助、サポート方法を今回はご紹介します。
   
 「主人が我が儘なので、それを変える方法を…」「息子をどのように変えたら…」というのはちょっと…
  ───と言いたいところですが、それも大いにOKです。(内緒)

 なお、私たちの行っている整体に関しては、この日記でも何度も、つい書いております。
 近いところでは、■書き溜めていた事11(恩師、岡島先生へ)
とか、このぺーじの一番下には、■つづき。身心を育む事。自然に沿って生きるために。(=氣道)があるはずですし、その前の日記でもかなり書いていると思います。
 よろしければ、ご参照くださいませ。

(なお、会員でない方は、明日直接いらっしゃって、その場で入会する事も可能です。
  (以前、会員だった方は、現在は再入会の場合、入会金免除なので年会費の6千円のみで入会できます。
   また、18年前から行っている【氣の学校】参加者、一昨年の「初等講座」参加者は再受講料金で参加できます。
   久しぶりに良い意味で大きな変動ある一年の始まりなので、古くからの方も、迷っていたら遠慮なくいらして下さいませ。))

※以上、つれづれに書きました。 
  (他にも魅力はいっぱいありますが、今思いついた事だけです。)
 これで援護射撃になっているのかナ。
  (願わくば、この日記を見て、「あら、そういう事だったら…」と、かえって「予約取り消し」など無い事を祈っています。)

 けれども、私自身がこの講座をとても楽しみにしているのです。
  (そのため、今も、準備のため近くのホテルでスタンバっております。)
 もし、この日記を見て、少しでもピンと来た方やモゾモゾと来た方?は、遠慮なく、直接ご参加下さいませ。
 (そして、その場合は、私の日記を見て参加した、と一言、受付の方に仰って下さいませ。
  そうした感(勘)の良い方を祝して、ご参加の方々も喜ぶだろうプレゼントをさせて戴きます。
  (これで援護射撃になっているかな…私はプレゼント分大変だけど… (少人数大好きですし…)
   しかし、この日記を通して、ご覧になる方々が幸せになって戴けたらと思っていますので、
   繰り返しになりますが、迷われている方や、ピン(モゾモゾ含む)ときた方はどうぞいらっしゃって下さい。
   共に、幸せになりましょう!
   (再受講の方も、
     「以前と違うので」、目が点でビックリも…という感じで、面白いですよ。  

   
      …それでは、お会い出来る事を楽しみに。

http://npo-kido.com/tokubetu.html#seitai_c


  立春  (或る二人の方へのメールより転載)
Date: 2009-02-04 (Wed)

「昨日は、あれから色々な事がありました。
 そして今朝からの整体も充実しておりました。
 東京道場は、ご存じのように5時間とか遠方の方も多いですが、今日は珍しく少なく、その代わり「立春」のためか凄いタイミングで皆さんいらっしゃいました。
 私としては、一人への整体で10人分位の事をしなくてはならない、つまり来年までの変化として、この人の体(心)はこうなる、というのも出来る限り全て観るわけです。
 現在は、2月しか骨盤の調整が難しいと氣道メルマガにもあったように、内側の動きが激しいのです。
 (植物でもそうでしょう?芽が出るまでが一番大事で、それが上手くいくと、箱根神社のような杉の木になります。だからこそ母体の中にいる時が大事で、その時のケアをしると、人間として「生かされている」事の「全てが分かる」わけです。それが春になる前、つまり今というわけ。
 これが3月になると、春爛漫で外側の動きがメインになっていくので、段々と微調整になっていきます。)
 人間の潛在意識(体)の一年の流れの話でした。」

「今日は、久しぶりに○さんのお身体とデュオが出来て嬉しかったです。
演奏時の○さんのように、○さんの身心は、私の氣を暖かく吸収してくれ、デュオ(整体)後に「随分と何年かの疲れが様々な硬直になって…」と言いましたが、その『全て』を吸収してくれました。
 凄い包容力ですね。
 私も、それに任せて、今日の○さんのお身体の限界まで、自分が出来る事をさせて戴きました。(途中、今となっては違うのでしょうが、私の中では泣きたいような?感情も浮上しました。(それは言わなかったですネ。デュオ(整体)後の今ごろになってかえって浮上しているようです。私の中で。))
そして様々な宿題も出してしまいました。
さすがの○さんの潛在意識(=身体)でも飽和状態「かも」しれないと思って自分からは決してしないメールをしてしまいましたが、今日の最後にオマケをしたのですが、それについては今度の演奏の時にでも教えて戴けたら幸いです。
立春。
今日の演奏も、有難うございました。」

淨潤 拝




  妹よ。
Date: 2009-02-03 (Tue)
私には三人の妹がいる。
真ん中の妹である晴美の結婚式の時の事は、以前、ここで書いた。(ラヴレターなので、恥ずかしいので会報では削除した覚えがある。)
昔「淨潤先生は、妹さんの事があるから、こうして私たちに愉氣を惜しみなく行うのですよ。」と他の会員に言われていた言葉を耳にした。
きっと下の妹の事を何処かで知ったのだろう。しかし、それは違う。少なくともその時には意識化出来ていなかった。
けれども無意識ではそうだったのだろうか、その言葉を聞いてから意識化するようになってしまったのか、今は確かにそうした思いもある事は否めない。

今日、私は40数年ぶりに上の妹に対峙した。
彼女は、今はもういない。
そして私は彼女を殺したとずっと思っていた。たとえそこまでではなくとも、彼女の死は私に起因するものであろうと確信していた。
ずっと、それを抱え、それを個人指導(整体)への原動力としていた。
キネシオロジーには様々な行い方があるが、どこでもその事が出る。
ずっと抱えたまま長い年月が経ったが、先ほど、父から40数年ぶりに真実を聞いた。

キリストは原罪と言う。
その真意は深い。
気付いてしまった拭おうとも拭えない罪に気付く。

反省しようにせよ仕切れない。
反省は甘い。
人を殺したのは一生残る。
おそらくは戦争を経験された多くの方はそうなのであろう。
ただただ、一生残る。

反省も責任も取れない。
しかし、だからこそ、私たちは、いつも、より良くなろうとする働きを見つめなければなるない。
たとえ、それが死に値するものであっても、私たちは今を十全と生きなければならない。
それが真の責任を取る事であろう。

この日記は私の独白故、自然に生きる道としての「氣道」という言葉を使わさせて戴くが、氣道家とは、正しく「ただの人」になろうとする事だ。
氣道のmethodは今現在考えられる間に於て正しく最有効の幸せの道なの「かも」しれない。
しかし、自然がそうであるように、氣道は固体ではない。
懸命に生きようと、自然に沿って生きるにはどうしたらいいかと懸命に生きる、その中にこそ「氣道」が浮かび上がるのだろう。

今、私は亡き妹に改めて懺悔をしたい。
そして私という小さな折れそうな部分を、最後に折ってくれた、真実を言ってくれた父に感謝したい。

この慟哭は、今後も更なる原動力になる事だろう。
私に関係する全ての悩みよ、私に訪れよ。
全て、cleanに、clearにしてゆく。

今日は節分だ。
氣道での豆まきは、「福は内。鬼は外。」ではなく「鬼は内。福も内。」と蒔く。
卑弥呼の鬼道に肖り、氣道と名付けた所以であるが、鬼門は素晴らしい神氣(鬼の氣)の通り道なのである。
今日だけが、数十年続いた仕來りが出来なかったが、私の中での豆まきは40数ぶりに行われた。

妹へ。
お兄ちゃんは、一生お前の事を抱えて生きていくよ。
そして、今日言ってくれたお父さんや、皆の事も。
そして、皆を幸せにするよ。
有難うね。

  書き溜めていた事11 (恩師、岡島先生へ)
Date: 2009-01-27 (Tue)
 私は、弟子時代に恩師の整体を良く受けた。
 一カ月のお給料が5万円位の時でも「受けて宜しいでしょうか」と許可を受け(注/弟子は安易に指導を受けられない)、多い時は月に三〜五回、つまり毎週以上に受けていた事もある。
 それは私だけの事で同期の弟子達や兄弟子、姉弟子達は殆ど全く受けていなかった。
(その頃は何故なのだろう、と思っていたが、今思えば、経済に対する順位付けがあったのかもしれない。
 しかし、あれだけ才能のあった方たちと、その後大きな差が出来てしまったのは(大変失礼な言い方なのだが)、「その為」以外の理由は見つからない。)
 別段、体調が悪いわけでなく(注/その理由では逆に許可されない)、生活が貧困な中、なぜそんなにも整体を受けたかったのだろうか。

話は変わるが、その後、私は恩師の許から独立した。
最初は門前仲町であったが、その後、浜町に本拠地を置いた。(注/現在は菊川に移転)
その浜町道場時代や、その後、横濱道場が設立しての数年間は毎晩のように深夜まで稽古や質問責めの日々が続いた。
深夜の指導が終えた後、質問を待つ方が自宅で10人以上待っていた事も週に何度もあった。
その後、今から5年くらい前からだろうか、相手変わっても主変わらずの状態に疲れ、一旦廃止し、ごく一部の人達とのみ歓談をする事が多くなった。
今も時折りそうした時間も創るが、この数年はめっきり減った。

そうした変化に伴い、質問の内容も変っていった。
以前は、「焦りを無くすには胸椎9番でしょうが、それと左のアキレス腱との関係は?」というような指導する面での質問や、「自然農法を行っているのですが、その際の注意点や、また土壌や植物に対峙する際の体や心の使い方については?」とか、あるいは自分の事であっても、どのように自分をより良く変えていくべきか、そしてそれが社会に繋がっていくか、などの真剣な、切実な、そして面白い質問が多かった。
その為か、場もいつも賑わっていた。
それが5年位前の一旦廃止してから、私が誘う時だけになってからは、うって変わってしまった。
そのため、基本的に講座やライヴ出席者以外は懇親会の出席は無しとしたが、それでも時折り、
「先生、最近、面白い本がありますか?」と言われる事もあった。
あまりの質問に、「失礼な!」とも言えず、思わず目を見開いしてしまう事もあった。
(八百屋さんに行って、「ここらで、どこか美味しい野菜を売っている所を知っていますか?」と質問している図であろう。)
その延長として「最近、何かいいCDありますか?」という質問もあったが、これには苦笑する以外無い。
私の最近の演奏を聞いた事があるのかナ…と思って分かったのは、そうした質問をする方たちはライヴは元より、講座や個人指導(整体)などの現在の氣道に触れていない人に限られていた。
仕事が終えた後に、毎晩質問責めというもう一つの仕事に疲れて、あまり疲れない方たちをととったスタイルが、結局、せっかくの懇親の場を、氣道の研鑽での時間ではなく、単なる飲み会になってさせてしまった。
これは私自身の責任だと思った。
(何故なら、そうした方々にも、「そうね…今、面白い本と言えば。」とか「このCDも面白いよ」と他の人のを渡す愚かしい自分がいるからである。
 そうした本(やCD)は全て「折込み済み」で、現在の氣道の講座(指導)が在る。
 紹介した本は、たとえそれが一カ月以内のものであっても、私にとってセピア色のものだ。貴重ではあるが過去の糟ではある。
 以前も書いたが、高村光太郎の言う「私の前に道は無い。私の後に道が出来る」は、この数年間心底実感する。
 もしも、そうした方々が現在の整体(氣道の個人指導)や講座に出られれば、感覚の良い方は瞠目するに違いない。 
 しかし人は、その人の以前の印象で相手に名札をつけて接する。
 それこそ感覚の良い方のみが、匂いを感じて受けられるのだから、まずそういう機会も無いのかもしれない。
 人、自らの道を確立し歩むべし。
 其の方にとって必要な所のみ合わせ、伸ばすべし。
 全てが内。それ故、これは自戒である。

 さて、氣道協会会報の中では「整体の可能性」という頁があり、その中では、ここでつれづれ書いてきた事が別の表現で書いてある。
(確か一年位前に横濱道場で佐野にインタビューを受けた、そのテープ起こしが連載されている「整体の可能性」である。)
また、今年より表紙の裏の漫画(氣の道のために)の代りに私が巻頭言を書く事になった。
 時間のある時に書き貯めていこうと思っていたが、次回の3月号は、おそらく1月のエアジンライヴの直後に書いた文章になるだろう。そしてそれは長文なので何ヶ月にも渡って分割して掲載される筈。)
 以下に載せるのは、その後つまり半年後位かに掲載予定のものである。

「整体とは幸せになるために存在する。
 整体とは自然に生きる道、つまり氣道の個人指導の事を指す。
 頭頂部が固い人は何かにつけて心配し、足の甲が狭い人はついカチンとくる。
 全ての感情は身体に現れている。
 そしてまた身体を調整することによって感情は調整出来る。
 体は表出した脳であり、潛在意識そのものであると言っても良いだろう。
 書家の吉田花莖先生は「瞑想は体が全てである」と仰ったが、
 人が自然に生きるには、持って産まれたこの身体を如何に扱うかに関っている。
   …………………………………………
 限られた人生の中、自らの能力を発揮して惜しまない充実した生活をおくるためにこそ整体は在る。
 このままで良いという人には敢えて薦めないが、より自らの能力を発揮されたい方には、整体以上のものを私は知らない。

 苫米地ワークス、ディクシャ、クリシュナムルティ、アバター… 素晴らしいものは枚挙に暇が無いが、どれも身体との連動性が些少なのが残念だ。
これは氣道のmethodや、その結晶である個人指導つまり整体が素晴らしいという我田引水では無い。
 せっかく野口晴哉が創り、その後ミルトン・エリクソン達との統合を通して発展させてきた文化を、私たち一人一人の真の健康の実現を通して存分に味わって欲しいという想いだけによる。
 氣道は幸せになるためにこそ存在するが、その最短距離が整体であろう。」

 恩師の整体と現在の氣道の整体とは年月も離れており、それがそのまま適応出来るかどうかは分からない。
 しかし、私をして、何故、恩師の整体を、生活が逼迫していた中でも受けたく思ったのか。
 ただ私は、ほんとうに自分が変われるなら、これが一番である事を知っていた。
 6歳から医道の旅をし、10歳からは日々、東洋医学、ヨーガ、禅、東洋思想、心理学に邁進した。父の言葉を借りれば「気狂い」であったが、今は自分でもそう思う。あの頃は凄まじい集中力であった。
 そうして様々な医道、心理学、心理療法、もちろん野口整体も含めて20年間近く学んだ私は、「自分を最も自然により良く成長させてくれるものはこれだ。」とまでは意識化していないにせよ、潛在意識の中で統合された結晶としての直感で、無性に恩師の整体を受けたくなったのだと思う。

 ……………………………………………………

(さて、この文章を投稿する今日の事。
 二つのメールが来た。
 その返信メールから抜粋。

 「>さて、先日は大変お世話になりました。
  >先生に整体をお願いしてからまだ1週間半ぐらいしか経っていませんが、
  お陰様で、○○は、希望していた通り、ほとんど出来るるようになりました。
  >先生は、私にどんな魔法をかけて下さったのでしょうか??!!
  >心理的に、急に脱皮した気分です。(にっこり。)

・嬉しいです。
  私がした魔法?の一番は、○○さんが整体を受けられる時に、3月の本番の氣(エネルギー)を呼び出したところ(怪しいですネ。そういう事も以前以上に最近は確実?に出来るようになってきています故)、その日の氣が有ったので、それに磨きをかけるという事でした。
  近い未来の事は「ある程度」決まっている(これは算明学など巷で言うのとはまた異なりますが)ので、あとはご本人が努力なさるよりも、決まっている未来の変更できる部分をどんどんと変更してしまったほうが、ご本人自体がシフトして、努力も効率良く最小限で出来るかな…と思ったのです。
 いつも言うように、私が歩く、移動するのではなく、私が歩くとは大地をこちらに移動させる行為である、というのと同じ意味です。
 あとは身体(つまり潛在意識)の調整(チューニング)を愉氣させてもらって行ったくらいです。(いわゆる整体ですネ。これも工夫しましたが)
 
 会報の「整体の可能性」にも書いていますが、病気治しよりも、夢の実現のためというか、目的に効率よく向っていくための潛在意識(体)の調整として整体を活用して下さった事が、
 整体の、氣道の真意を理解して下さっていて、何よりとても嬉しいです。」

 …………………………………………………………

 二つ目の返信メールは事務局からのものでした。

「>久しぶり16日に受けたのですが、次回はいつ受けたら良いのでしょうか。
 
 ・前回から打撲の影響が無くなっているならば、2月3日以降が良いです。
  なお、現在差し当たってすぐに改善する必要性を感じない人には、会報にも書いてあるかと思いますが、4月までは月一回のペースが理想と、どなたにも言っています。(春にきちんと体を整えると一年が過ごしやすいので)
 今年は、もっと生活あるいは心身を変えたいという希望があるのなら、もう少し増やすほうがいいでしょう。
 なお、その場合(打撲以外の場合)でしたら、私の整体で無くとも構いません。
 そろそろ他の方の整体も如何でしょうか。
 …とお伝え下さいませ。」  )

 ………………………………………………………

 整体とは、生きている身心のチューニング(調律)である。
 (身体に働きかける事が有効なので、つまり体を整える事が有効なので、氣道の個人指導を整体と呼んでいる。)
 楽器も生きているであろうが、生体はそれ以上に変化が速い。 (否、楽器も同様なのかもしれないが。)

 自然に生きる道を歩むためには、ほんとうの意味での調律しか必要が無い。

 会員の或るジャズピアニストが言っていた。
   (その内、会報でも登場予定。素晴らしい方です。)
 「ピアノを購入するなら、どんなピアノでもいいけど、良い調律師を知っているのでご紹介したい。」
 その方に言うと、その調律師にかかればピアノが生まれ変わると言う。
 人間にとって大事なのは、産まれる前である。(それ以降ではDNAが決まっている)
 次は、母の胎内にいる時である。
 決まったDNAでも、それ以上に変えられるのが素晴らしい。
 私たちに必要なのは、自然に沿った真の調律なのである。
 その代表が風邪である。
 風邪は自然の整体調律である。
 自然農法の福岡正信氏は、一度人為を加えた植物は任せられないと言っているが、限りなき深い観察眼を持って生体を観る時、人為を加えていなくとも、人為が必要な事が分かるであろう。 
 それは、人間だけが他の動物と異なり、13ヶ月早く産まれ、人為の必要性があるだけでなく、人として、手を当てたくなるという人間の本能に根ざすものだと私は思っている。
 
 ……………………………………………

 整体とは、調律である。
 それは幸せを目指した調律である。
 人間という楽器を、どこまで限りなく幸せに出来るかを追求した技術の結晶である。
 そしてその技術は本能(手当て)からただ導かれたに過ぎない。

 世には、先に掲げたもの以外にも、修験道、K先生、レイキ、神道、ヨーガ、禅、その他、何千何万のもの手法がある。
 おそらくはそれらも人間にとっての自然に根ざし独自のものになっていったのであろう。
 しかし、ここらでそれら全てを集結して統合、つまりそれらの独自性を持ちつつ成長させる時期にあるのではないか。
(もちろん、それには、それらの本質を深く知っている人が担当するべきであろう。)

 氣道

 さて、師匠亡き後、現在地球上でお薦めしたい整体指導者はD先生、R先生含め6名だけである。
 その内、責任もってお薦め出来る人は3名である。もちろん私は除外。機会があったら直接聞いて欲しい。)

 しかし、それらの全ての契機となった恩師の整体を何故私はお金が入ればと受けたくなったのだろう。
 もちろん先に言ったように、自分を成長させるものはこれが一番最短距離だという潛在意識的な要求は理解出来る。
 しかし、今、こうして書くにつれ思い出すのは、一つ事である。
 美しいのである。

 今日、R先生に5種体癖について伺った。
 しかし、恩師の美しさは、単に前後の美しさだけではなく、そこに命をかけるとも言うべき、美しさがあった。
 今、鑑みれば、それが捻じれ的な命のかけ方でない分、恩師の姿に私は哀しい美しさも観るが、そんな曲の調べは別として、
 永遠に遺る真剣で真実な響きが在った。

 限りない感謝を込めて。

 合掌。 
 

  書き溜めていた事10 (東京道場の整体中にて)
Date: 2009-01-19 (Mon)
とにかく限りなく時間を微分化する。
すると現れるもの。

限りなくリラックス、脱力するのだが、ぼーっとするのではない。
逆にリラックスするほどに意識は明晰になる。しかし思考は鎮静する。
言葉で書くと矛盾するが、それが氣道で言う「瞑想」という事である。(=0への道)
【氣道の学校】や瞑想会にいらした方なら体感を通して矛盾では無い事をご理解頂けるだろう。

そしてそれは瞑想時だけではない。
否、私の場合は、仕事中にこそ随時現れる。

整体時に現れた感慨であるが、逆に言えば、如何に一秒を何十何百と微分化するかが、整体の鍵であろう。
即ち、愉氣を深めることが瞑想を深めることと同義の証でもあろう。
そして、これは氣道個人指導、整体だけの事ではないだろう。
どのように皆仕事に生活に向っているのだろうか。

  書き溜めていた事9
Date: 2009-01-19 (Mon)
出産は誕生日のための儀式でもある。
出産後で教育はもう遅い。
それ故、数え年こそ真実である。
実際、私も出産までに大袈裟であるが数十年以上過ぎた感がある。
親も同時に産まれ変わるのであろう。


  書き溜めていた事8 (健康と美)
Date: 2009-01-13 (Tue)
 常々言うように、美は現れるものであり、現すものでは無い。
 
 健康は真であり善であり美である。
 同様である。
 そして健康は、空、いのち、宇宙生命、ブラフマン、天真と同義でもある。
 健康の延長に悟りがある。
 …というか、氣道では理想の健康を悟りと捉えている。
 それは、氣道設立当初か何千回も言って、そして現在も資料請求の方に氣道とは何か、健康とは何かで伝えている通りだ。
 そうした「健康」の時に訪れるものがある。

 クリシュナムルティは「瞑想は窓からふと吹いてきたそよ風のようなものだ」と言った。
 そのように偶然に大悟する事もある。
 
 しかし人が作ろうとする美は偶然では許されない。
 現そうと思いつつ、それからの過程を通し更に深奥の調べに出会った時、美は自ずと現れる。
 それは人の運命と同じである。
 その過程が真の生の謳歌と同じであることに氣道家なら気付くはずである。

 それ故、毎瞬、吸っているこの息、吐いている息、その意味に「真に」気付くことこそ氣道なのだと真に思う。

(投稿時… 今現在、この地球という惑星で一番凄いことを行っているのはD先生だろうと思っていたが、先生は20年間の結晶の公開講座を行ったと、と或る方から伺う。
 私もまた常識的に考えても残される時間は5分の一は無く、つまり晩年に入ったと思い、遺す人に打診をしているが、
 そのため蝋燭の最後の灯火も燃え盛らんとしている。
 野口晴哉、成瀬雅春、ミルトン・H・エリクソン、苫米地英人、クリシュナムルティ、石井宏之、林輝太郎、、
 それら偉人の「融合ではなく」、私の中で統合されたmethodを既に去年末から公開している。
 だからこそ、燃え盛る火の中に人、沈黙をも感ずる…
───そして何時の日か、それらの波をも俯瞰する真の沈黙を感ずる事も訪れるのだろう。
 それ故、氣の道は基本的には0=1というよりは1=0である。
 夜熟睡すると翌日の爽快な動きが誘われるように、深い瞑想がその後の真の躍動を醸すように、0からも1を産み出そうという萌えの働きはあるが、基本的には0=1が彼(木内鶴彦)のように判然とするまで、私たちは1という現し世の世界を溌剌と生ききらねばならない。
 …というのが、「氣道」協会会報の2月号巻頭言でもあった。

  書き溜めていた事7 (氣道の最初に近いボタン。  (或る方への返信メールより抜粋(相手の呼称など若干校正しました))
Date: 2009-01-09 (Fri)
(私(以下、メールのまま●で記す))
 貴方が昨日だけでなく、このところ毎晩クリーニング(氣道の言葉では「禊ぎ」)を行っているような感じがしていました。
 >(笑) 確かにこの数日やってます。
でも、あまりにもクリーニングすることが、多すぎて、しょげてまして、『あ〜、これだと救われないな〜』っ感じ。(笑)。
それにめげず、淡々としばらくやってみようと思っておりますです。

●素晴らしいですね!
 クリーニングすること、どんなに、どんなに少なくとも一日数千個いえ数万個はありますものね。
 瞑想の雑念みたいなもので、雑念にきづく事ができるのは深まった証拠なのでしょうね。
 ただ、ホ・オポノポノの場合は、淡々と言葉を繰り返すだけですが、心象内感(以前の氣道流フォーカシング)として「ごめんなさい。ありがとう。愛しています。」の言葉の背後にある『感覚』を向けてゆくと、どんどんと軽くなりますよ。
 (氣道で言う心象「内感」内感ですね。身体的にも一緒にクリーニングするわけですが、貴方なら出来るはずですし、全くもって効果が違いますよ。ヒュー・レン博士はコンピューターの譬えで、ごみ箱に移すように、と言いますが、そのため、そのごみ箱を更に空にする作業も必要だとの事。何千回も行っていくと、その空にしたためのバグもデフラグではないけれども空にしなくてはならない、という無限の作業に気付くものです。身体感覚と連動させれば、どこまで感覚出来るかは人によって差はあるけれども(貴方は【心の学校】も出たし大丈夫)、そういう繰り返しは必要無くなります。)

 なお、ホ・オポノポノでは、ブルーソーラーウォーターを薦めていますが、今の時機なら貴方の場合、そして更に潛在意識(内体)の浄化という意味では、一日2リットルは少なくとも飲むといいでしょう
 (ちなみに比較ではないけれど会員にはお薦めしている「太古の水」のほうがクリーン力ははるかに強力です。私は両方併用する事もあります。
  ともかく随分と、実験しました。)

それよりも、前にも何回か言いましたが、行う前のモード(接続)がとても大切であるという事と、
上で言った繰り返しになるけれども、特に日本人の場合は内的な身体感覚が優れているので、内感で行う、つまり言葉だけでなく、あるいは言葉を用いなくともそれに伴う感覚つまり氣として向けるのが素晴らしく有効である事は、ともかく強調させて頂く。
 (グッズはあくまで補助品ですし依存もあり得ますからネ)

 そして、瞑想が深まるにつれ、個々を対象にしなくとも、オールクリーニングに近づくし、また逆にホ・オポノポノ(心象内観行氣も)などの禊ぎを行うと瞑想も深まって、どんどんと相乗効果が出て軽くなってゆく
 私の場合、現在では日常のことではあまり出ず(といっても数十個は出ているのだろうけど)、個人指導(整体)時に、まず相手のカルテを見て行い(以前はホ・オポノポノでしたが、現在は今述べたホ・オポノポノ+身体感覚もクリーニングしていく作業+○+○を行っています。)、
 そして指導中も行い(一人の方でも多いと数十から100近くは出るし、一つのものがなかなか消えなかったり変化したりもとても多い)、そしてまたカルテに記入時にも行い、夜も行ったり、としているのがメイン。
 (以前日記にも書いたことがあるので貴方も知っている事だろうけど、単純なホ・オポノポノを数年間続けていて、現在はこのようにさらに発展させて行っている。)
 
(私が日常ではあまり処理する感情が生じないというのは、私の場合、周囲の人(スタッフ)が全員ホ・オポノポノというか、それ以上に、全てを私と捉えて、禊いでいく、を常時行っているせいが大きいと思います。
 そういう意味では、貴方の場合、仕事場やご家族全員がホ・オポノポノを常時、毎瞬間、現在の段階では、行っているわけではないでしょうし、
そしてお客さんもたくさんいる訳だし、私とは比較にならないほど大変だろうなと思います。
 (実際、フォーカシングの仲間やアバターマスターの仲間(皆ホ・オポノポノも実践している)に「正直言ってどうですか?」と伺うと、ホ・オポノポノで言うラヴとの接続がとても上手くいっている方たちでも、「いくらクリーニングしても切りがない。」と嬉しそうに語る人もいれば、「結局、自分や周囲の問題がクリーンになってくると集合的無意識のところをクリーンし続けている事になっています」との事で、まさしく禊ぎの先達である川面凡児と全く同じですね。 しかし、それが地球にとっても大切だし(まさしく「太古の水」の人間版ですね!)、それが楽しいことだと私は思っています。)
 実際、内観(ホ・オポノポノも含め)を行っていると日々心身が軽くなっていきますものね。
 (そしてそうなっていかないなら内感が上手くいっていないという事ですし、そのポイントは先述しましたが、一番は、内感(ホ・オポノポノを含め)を行う時、のモードです。
 その時が観念の塊ですと、作動しませんし、それでも行うと無限地獄が始まる事は、御存じの事でしょう)
 
 ともかく、真の内観者である貴方に今生で出会えたことが何より嬉しいし、道場で指導まで行う以前に、これだけでも横濱が変わるきっかけになると思っています。
 そのためにも、まず私たちが変わっていきましょう。
 メール有難う。

※皆さまへ
  なお、この日記に「少しでも」興味がある方は、ぜひ【氣道の学校】(心の学校)のご参加をお薦めします。
 (ホ・オポノポノにもご興味のある方は、【氣道の学校】ご参加前にヒュー・レン博士の講座を受講されたら、より深まると思います。)

  書き溜めていた事6
Date: 2009-01-06 (Tue)
 何時も言うように、私は無い。
 私が有る、と思っているだけ。

 それ故、自分の事は分からない。
 
 その自分も、私と思っている自分が認識している私でしかない所以。

 (ホ・オポノポノ的に言うなら記憶に過ぎない。氣道的に言うなら、
  記憶であり、なおかつ、そう思っている現在の自分に過ぎない。)

 同時に、すべては私である。

 
(これは言葉だと矛盾であるがそうではない。
 ほんとうに正しくそうなのである。

 今、見ているこの画面、触れている足元以上のその数百倍もの譬えられない程の確かな臨場感ある現実なのである。)

 なお、野口晴哉師は「俺の世界は…」と様々な文章を残した。
 その世界を味わえるのは、どうしたらいいのだろう… )

 それを得るための最も近い答えを、青木先生を初め、現存してお世話になっている限りない師匠のいる前で、私はそれが【氣道の学校】にあると断言できる。
 
 (私は恩師二人にこそ紹介したかった。
  【氣道の学校】に出れば絶対に治った、とは言わない。
  しかしそれを知るからこそ、来なかったのかもしれない。
  大概の私たちは悟りたく無いのである。
  現在のコンフォートゾーンを潛在意識による現状維持、つまりリソース(自然治癒力)によって変えたくないのである。)

 恩師には厳しいが、だからこそ、青木先生のような方々は、参加するであろう。
 (そして、した。)

  書き溜めていた事5  (瞑想)
Date: 2009-01-06 (Tue)
 ともかく「今」、
 「ここ」を、切り取る。
 
 (最細の微分化。)
  これが、最大の積分化にもそのまま繋がってしまうことは、氣道の瞑想を行った人には分かるだろう。
  (これはかなり「毒」だが。
   毒とは…
   完全に体感していない人にその後の体感を言う事を言う。
   まあ以前テキストにも書いた事であるようなので書いてしまった次第。)

  なお現在では初等クラスでも体感できているよう。
  (指導者がいる時でそれを体験しない場合は仰って欲しい。
   その意味ではこの数年がウソのようだ。
   ぜひクリシュナムルティの世界に。)

  書き溜めていた事4 (今=永遠) (これは、かなり前に書き溜めていた文章である。)
Date: 2009-01-06 (Tue)
瞑想会では、よく吐く息と吸う息の狭間をみることを言う。
それこそ、0、00何秒かわからないが、狭間がある。
そして、「そこ」こそ瞑想である。

連続した動きが止まった時、何かの衝撃があった時、私達に訪れる
時間と空間を超えた無であり而して有でなく在である絶対無という沈黙だ。

そして瞑想が深まると、「そこ」は、吐いている最中にも、吸っている最中にも、綿々と存在していることが感じられる。

私達は有という1の世界にいるが、常に0と共に在る。
元より1=0であり、道(タオ)は常に在る。
故に、1という現実世界は様々な仮象を帯びる。
パラレルワールドは概念だけでなくあるのは、瞑想に慣れてくると、まず夢に対して抱く感慨がら実感になって出来てくる。
(なお、身体的には夢を観ないほうが良いのは常に言っている通りである。夢分析などを行っていると後頭部が弛緩しその結果日中も白昼夢的になり、真実の瞑想も深まらなくなるが、ドラッグ同様、瞑想の深まりを促す一時的活用という意味では氣道でも批判はしていない。)

陽は陰より生ず。
万物は無という絶対有(在)から生ず。

氣道は瞑想を深める道であるが故に瞑想道であるが、それは必ずしも仙人になるということではない。
眠っては瞑想が出来ないように、酔っていては白昼夢の如しである。
限りなく醒めて限りなくリラックスする事を瞑想という。
その時、思考は自らの範疇にあり、そして限りなく閑かになっていく。
その時にこそ「そこ」は「現れる」。

だから体を持っている人間にとっては、体を無視して瞑想の道は難しい。
健全なる身体を持っていながら、透明である身体を持つことが瞑想の理想であり、そのためにヨーガでは瞑想(ディアーナ)の前に、集中(ダーラナー)、そして感覚訓練(プラティヤハーラ)、そうして呼吸法(プラーナヤーマ)、体位法(アーサナ)という身体感覚を鋭敏に、そして統御していく段階を設けてきた。(野口整体でも私達の言う自動運動を参禅の準備として薦めている。否、野口晴哉に言えば、自動運動の目的は無であり、それは動禅である。)

私たち氣道の指導者が、整体を行っているのもその意味である。
(場合(人)によっては、そのまま瞑想に移行するが。)

陽という現実、身体が、陰という無、絶対在から始まっているとするならば、
瞑想という陰、0に戻る作業は人間にとっての自然な道の道程であろう。
氣道は自然道である、というが、それが瞑想道でもある、という理由である。

そして、その瞑想とは単に座って無になろうとすることではない。
自動運動がそうであるように、どのような生活の断片を通してもそれを得ることは出来るだろう。
そして技術(それは音楽でもパチンコ台の調整であっても)を通し、私たちはそこに浮かび上がる「型」と集中を経て、自ずと無心への道が開かれる。

私たち人間にとっての自然は、常に自然である。
もとより私たちは自然である。
そしてそのための道も自然なのである。
自然であらねば、自然に生きようというところで、既に自然であることから離れてしまう。
自然な道は、自然であり、常に用意されている。
自然な要求を、体(心、魂)の声に従うだけでいい。
そのために、余分なものを剥ぎ取ったり、あるいはその勢いの交通整理をしたり、またあるいは、その勢い自体に火を灯すために、整体を含めた指導を行っている。
またあるいは瞑想(0)とはこうなのだよ、と実感させるためのこともある。

自然であるのに、自然に生きようとする必要は無い。
しかし自然に生きよう。

いかなる時にも息深く心閑かになれる「からだ」を持とう。

───随所作主 立処皆真。(臨済)

       閑 (雲門)

  書き溜めていた事3 (自動運動)
Date: 2008-12-22 (Mon)
氣の道(氣道)とは自然に生きる道であり、つまり自然の道であるが故に自然道であり、同時に健康道である。
最も推薦する行法として自動運動が掲げられるが、これを徹底して行うと、瞑想に至る。
絶対無、空に至り、また或る時はクリアな頭脳と身体を得た「有」も表現される。
野口晴哉師は自動運動の目的を「無になるため」と断言するが、病気が治ったり、様々な能力が開発されたり、健康になったり、
心の囚われが無くなったり、等ということは、無に比べれば些細なオマケに過ぎない。
無は絶対の自由の根源である。
自動運動の事を気功では自発動功と呼ぶらしいが、
自然の道は自発より始まる真の自由の道である。

明後日24日より、その道の入門会、そして学校が始まる。
真の自動運動を通して如何に人間が自由になれるのか、これは徹底して味わったものしか分からない。

(明後日から準備のために観た成瀬雅春先生(先述した昨年対談させて戴いた恩師)のヒマラヤ修行DVDも活きるだろう。ヨーガや内感、行氣と自動運動は両翼である事、なのに自動運動を徹底するとそこにヨーガや内感が現れる事。
 これは不思議であるが、其処にこそ他の動物と異なる人間の自然が有る。)

人は常に生まれ変われる、それも望むように。
(誕生した我が子を抱きつつ)
明後日からの入門会〜初等〜中等が楽しみである。

  書き溜めていた事2 (健康の自然法)
Date: 2008-12-22 (Mon)
 自然に生きると健康になる。
 自然の道は健康の道なのである。
 故に氣道は真の健康道である。
 そして本来、逆も然り。
 つまり健康を求める事が自然に生きる事に繋がるだけでなく、自然を求めることが健康に生きる事に繋がらなければならない。
 故に当然だが氣道は真の自然道である。
 
 健康と自然との両者に跨がる最奥の通奏低音は氣である。
 そしてまたそれらを実現する要も最奥の氣である。
 生在るものは氣が有り、そして氣によって生まれ、死によって大いなる在氣に還ってゆく。
 氣道という名称の所以である。

  書き溜めていた事1
Date: 2008-12-22 (Mon)
浜町時代より全ての著作やビデオを見ている桜井章一氏の新しいDVDを観る。
私は麻雀はしないが、裏勝負で20年間無敗の桜井氏の技術と言う事は面白い。
協会の会報の「氣道紹介」の頁でもお薦めしたい本があるが、今回のはそれには当たらないので、この日記に留めておこう。
最近ではダン先生(野口晴哉先生のご子息)も注目されている桜井氏であるが、このDVDの最後巻では、桜井氏の20周年記念としてトイレ掃除で有名な鍵山社長や、古武術家の甲野善紀氏、心理療法家の名越氏との対談があり興味深かった。
(なぜか個人的な事も同時に感じたのであるが、ダン先生もそうだろうし、また去年対談させてもらったヨーガの恩師、成瀬雅春氏もそうだが、私がこうして公に出る事は今後無いだろうな、とも思った。(以前はTVやラジオにも出たが。)
 老荘の現代版として自然に生きるための氣道を紹介するなら厭いたくは無いのではあるが。)

 さて、鍵山さんの話は良かった。
 続く甲野さんのも面白かったが、特に桜井さんの話を入れるタイミングが良かった。
 (それが出来るのが氣道家。甲野さんと桜井さんの関係は青木先生と私との関係性、特にタイミングがそっくりであるのに驚いた。)
 最後の名越さんの話も良かった。
 一人に対して全力を尽くす、という事。
 思い出すのは、長野の仙仁温泉。
 ここは、毎年、日本の宿ベスト3に入っているが、外国の方も来日した時に泊まりたい宿の最筆頭に挙げられるという。
 私たち協会スタッフも、その接客を学ぶため、正月は毎年行っていた事があった。
 たとえ数分間の氣道指導(整体)であっても、一人のclのために真剣に全力を尽くすのと同じ形がその宿にはある。
 このDVDより、仙仁温泉の紹介になった感があるが、氣道が深まる宿である事は確かだ。

  色々な事があった。
Date: 2008-12-18 (Thu)
久しぶりにこの日記に向う。
師の49日の間にも書きためたものがあった。
今、一つずつ公開しようと思ったが、全て確認するに、たとえば、昨日再放送があった或る医師の事などを含め、書き留めてあったものをそれぞれ時間をとって校正しなくてはならない、と思い断念した。(昨日久しぶりに読んだ水木しげるの戦記も皆さんにお薦めしたいが正しくその医師同様に被ろう。)
そしてまた書きためた事だけでなく、書くよりも前に去ってしまうメッセージを留めるため10数年用いているヴォイスレコーダーの愛機へのメッセージも聞いた。
あまりに、この49日の間に自分自身が変化している事を今もって感ずる。
多くのここに書く予定の事は削除せざるを得ない。
それでも残るものは、出来得るだけ今後に生きるよう、しかし過ぎ去った事である故、走馬灯の如く、今後書いていこう。
(なお今回の以下の文章は以前と重複だろうし、またヴォイスレコーダーに録音してから随分と時間が経っての文章であるが、
 前の日記の最後の文章と共に、正直な独白として掲げたく思った。

「互いに相手の幸せを心から祝福できる事を信頼関係と言う。
全ての人の幸せを、自分を手放し、心から祝福できる状態を自然体と言う。」

  喪があける
Date: 2008-12-02 (Tue)
恩師が亡くなり、49日が過ぎた。
自分の日記ではあるが公の場でもあるため喪に伏させて戴いた。
その間、恩師について様々な事を聞いた。
もとより恩師も兄弟弟子も酒席などでは他の方の批判も仰っていたので、その延長のようなものかもしれないが少し哀しかった。
私は、そうした噂話が大嫌いで、またその人のいないところでその人の評価をするのが大嫌いだったので、恩師の元より離れ独立した。
それが氣道協会であるが、その時、噂話やその人の前で言えないことは決して話さないような掟を作った。
17年経ち、今や、それは当たり前となり、掟も要らなくなった。
陰口や噂話、つい否定的な事を言う方は離れていった。

そういう体(即ち潛在意識)があるのである。
だからこそ、私たちは氣道の中で、体(潛在意識)を育む事を大事に扱っている。
「すべては自分の観念(フィルター)を通して見ている現実」だからこそ、すべてが一人相撲なのである。
それ故、体(潛在意識)を育む必要性は何か?

この49日間、毎晩のように先生の夢を観た。
互いに稽古し合い、或る時は微笑み、或る時は叱咤ではないが、俺はこう思う、と是正された。
その毎晩の夢の感じは、お通夜の時にも掲げてあった月間ユイに用いていたあの先生のアイカニック的な微笑みであった。

私は、幼き時から医道に関心があった。
6歳の時に人体解剖図を書いていたというのは、先週母に聞いたところ4歳の間違いであったらしい。
そして、10歳の時に麻原先生に出会い、先生がユング心理学講師であり、シュタイナーの高橋巌先生の一番弟子であった関係で、医学や、心理学、東洋医学に邁進した。
10年前までの氣道は、私の小学そして中高の結実でもある。
そんな事は色々な事で語っている事であるが、お伝えしたかったのは麻原先生と岡島先生との師匠の交替劇の事である。
これは、「師と弟子の関係」というCDが協会(mail@npo-kido.com)で販売されているので、御存じの方も多いと思うが、
10数年経ち、私が野口整体を学ぼうという決心が定まり岡島先生の内弟子となった後、鎌倉光明寺にて岡島先生の合宿があった。
 そこで、麻原先生とお嫁さんは、羽織袴で「今後は、宜しくお願いします。」とご挨拶にいらっしゃっした。
 岡島先生のその時の顔は今だに忘れられない。

 ───そして、その麻原先生も今はいない。
 一昨日、麻原先生の番号に電話をした。
 「あーら、潤ちゃん。」という数十年変わらぬお嫁さんの明るい声も岡島先生の訃報を伝えたところ涙していた。

 皆、いなくなるのである。
 生まれるという事はそういう事だと、常々言っている。
 私はそれを六歳の時に言葉化だけでなく実感した。早熟だったのだろうが、その時の感覚は今だに忘れない。
 生まれるという事は、当たり前であるが、死ぬという事であり、そしてその生に価値付けをしてはいけない。

 噂話の話に戻るが、その人の目の前で言えない事は言ってはならない。
 たとえ言えたにせよ、深く自観して欲しい。 
 そして、言わなくとも思っただけで同じである。
 (キリストではないが本当にそうなのである。)

 もちろん、亡くなった人を勝手に評価してはならない。
 生きている人をも評価してはならない。
 そして私たち自身をも評価してはいけない。
 勝手に、私がこれ、と思っているに過ぎないのだから。

 今日、岡田さんのお父様の事をずっと思っていた。
 ずっと整体していた方であった。
 見事な逝き方であった。

 私たちは、何のために生きているではなく、ただ生きている事を十全と全うしよう。
 

  無常
Date: 2008-10-13 (Mon)
恩師が亡くなる。
先週の木曜から感ずるところあって覚悟はしていたが、今朝訃報を聞き様々な想いが募る。
小学生の頃から20代前半までお世話になった別の恩師も数年前に亡くなったばかりだ。
師匠の交替挨拶を鎌倉光明寺で行なった後から8年近く内弟子同様でお世話になっていた。
その後、独立してからは、ライバルのいない私にとって、恩師は目標であり同時に刺激を受ける同志という存在でもあった。
今は、ただただ寂寞たる想いにひしがれている。

(でも、先生よく頑張ったね…)

謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げます。

  ホ・オポノポノ(直さん、拓さん、 凄かった。)
Date: 2008-10-12 (Sun)
 ただ、言葉だけ繰り返す事にも意味がある。
 ホ・オポノポノに関しては、その上で書いていた。
 今日、直さんが仰る統合こそ重要。

  芸術の秋
Date: 2008-10-10 (Fri)
明日は、久しぶりに直さんとの演奏。しかも愛知から依田さんもラップトップを抱えていらっしゃる。
体の心まで響く直さんの音と、コンピューターを駆使した変化自在の依田さんの即興が横浜道場内で燃え上がる初共演だ。
(午後5〜7時)

明後日は横浜がジャズ一色になる日。
同じく依田さんと共に、繊細な倍音が実に美しく幻想的なコントラバスの河崎純さんに、躍動的なエレキベースによる即興を行なう中村大さんを加えた「新生淨潤カルテット」が三ヶ月ぶりにエアジンで燃える。
(午後4時〜5時半。)

どちらのライヴもお見逃しなく!
詳しくは、下記ホームページ(音楽掲示板)をどうぞ。

http://6901.teacup.com/kidomusic/bbs


  くまくま農園からのお便り
Date: 2008-10-08 (Wed)
長野小淵沢に移ってから無農薬の自宅菜園に励んでいる会員の方(最初は周囲のお百姓さんに「素人が…」と馬鹿にされたのだそう。しかし現在は、そのお百姓たちが驚いているとの事。そして、私たちはもちろん毎回驚いている)
より、素晴らしい秋の子供たち(野菜)が今日届いた。

今日いらしてくれた方々にもお裾分け出来たのは嬉しい。

今日は他にも寄付のお願いがあり驚いた日でもあったが、そういう気持ちが嬉しい。
真心こもった設定愉氣(=祈り)。

その真心の愉氣を皆にもお裾分けしたい。
届きますように。



  つづき。 身心を育む事。自然に沿って生きるために。(=氣道)
Date: 2008-09-21 (Sun)
今日の氣道指導(整体)中。
「娘たちは自立し、ペットもいなくなり、今育てるものがないのです。私は育てることが生きがいだったのに。」と或る方。
「自分の身体を育てるのは如何です?」
「先生。。 良いことを、仰いますね!」

自然に生きる道を氣道と言っているが、自然に生きるためには自然に沿って生きなくてはならない。
そして自然に沿うには、まず内なる自然に沿って生きるべきであろう。
もとより自然に内も外もないし、また内と外に跨がり相通ずるものが本来の自然であるのだが、外の自然というといわゆる大自然を想起するのと、そしてそれに依存してしまう事によって自らの生命力を喚起出来ないため、内なる(裡なる)と言っている。

そして裡なる自然に沿うためには、息深く心閑かでなくてはならない。
一言で言えば瞑想が現れている状態である。
そのために瞑想「法」を行なうのや動く瞑想である自動運動を行なうのも効率の良い方法である、と紹介している。
すると身体が精神が、自然な形で育っていく。
もともと身心は、私たちが生物である限り、より良くなろうより良くなろうと限りなく進歩している。
筋骨は年と共に衰えてゆくが、それでも死ぬ4日前までは限りなく進歩しようとする方向性がある。
その進化育成を自然な形で援助していくのが瞑想(法)であり自動運動などである。
植物や野生の動物たちはそんな事を行なわなくとも良いのだが、頭脳をもった人間故、余程の環境、教育をされない限り、それらが必要な事が多い。
自らの手で自らの育成を援助するわけである。
芽が出た苗を引っ張るのが育成ではない。
右に曲がっているのを左に添え木をするのが育成ではない。
その裡なる自然が存分に発露するように、ある時は周囲の障害物を取るように余分なものを取り除いたり、ある時は水を与えるように力を与えたり、というように整理充足させてゆく。
これが「身体を心を育む」という事である。
それ故、知識での健康法はかえって自然から遠ざかる事が多く、それらが自動的に行なわれるよう、あるいはそれらが自然に行なわれることを手助けする感覚訓練として自動運動を初めとする方法を推奨している次第である。

ただそれ自体が上手く出来なかったり、そのために私たちは氣道塾(ヨーガ・コース、体塾)を初めとする集団的指導を行なっているのだが、それでも中々上手くいかなかったり、我流に陥ることが多い。
そのために、個人別の指導(=個人指導(=整体))を行なっている。
つまり整体(氣道個人指導)は、身体を育むためのお稽古事(レッスン)と言っても良い。
ピアノや書や絵の先生が最初は手本を見せたりして、手取り足取り(足は取らないが)教えるのは整体で言えば治療的な段階である。
そのうち自分で練習する事ができるようになれば、レッスンはそのチェックとなる。
宿題も与えるようになる。
かなり上手くなると教え方もまた変わってゆく。
まさしく個人指導(整体)は、他のお稽古事と同じレッスンである。

ただ他のお稽古事と異なるのは、私たちの身心という楽器は、それ自体が、より良くなろう、と自然にしているという点である。
ほおっておいても、風邪を引いたり、下痢をしたり、湿疹が出たり、と自動的に調整し、さらに身心をより良い段階に持っていこうとする。
機械と違って、ホメオスタシス(恒常性)がある故、自動的にメンテナンスできるというだけでなく、そのホメオスタシス機能は、更により良くなろうともしているのである。(この点、苫米地氏や石井宏之氏を初めとする考え方と異なるようであるが、常々言うように好転反応も悪化の反応も実は同じであるのと同様、長年の細かい身体の観察に於て、恒常性を保とうというホメオスタシスの原点の力は、身心をより良くしようとする力と同じである事を私たちは確かめている。)
 なので、芸事のお稽古事とは異なり、レッスン(指導)をする側は、相手の現在の身心がどのようにより良くなろうとしているかを把握していなくてはならない。
 ここが曲がっているから、と矯正するのは下の下である。
 黙っていても背骨は死ねばまっすぐになる。
 まっすぐにする事を目的として整体するのは本末転倒で生きているというのは個性の発露であり、歪みの全うなのである。
 食べれば胸椎6番は右に倒れ、一時間後には腰椎1番が左に倒れる。
 それが自然な身体の理というもので、生命は常に歪みを生じて進化している。
 そして、歪みがあった時に初めて生命が生まれるとも言う。
 シンメトリックの中には生命は生まれない。
 なので、私はこれだけ一回の施術で背骨をまっすぐにした、という宣伝を見ると、一回でこれだけ殺しましたという宣伝に見えるのだが、不思議な事は、まっすぐにする事を目的としないで、今必要なところだけ調律をすると、自然とまっすぐに近くなってしまう事である。
 おそらくは、他のどんな方よりもとは思わないが、短時間で背骨をまっすぐにする事にかけては私は非常に上手いだろう。
 しかし、それを「全く」目的としていない。
 なのに、まっすぐに近くなってしまうのが、ずっと不思議であった。
 それで、一つの考えを出した。それは、「おそらく生命というものは、十全と生ききってゆくと、自ずと死に向ってゆくのではないか」というものである。
 生きる事は「そのまま」死ぬことなのか、と感じた。
 
 話を戻すが、そうした生命自体のより良くなろう、という自然な力があるところが、他のお稽古事と身心のレッスンと異なる点である。
 そのため、整体(氣道の個人指導)を行なう者は、相手の身体状況を的確に観察し(特に波)、今はここが動こうとしている、ここを活かしていかなくてはならない、そのためには、と「その時」に応じた指導をしなくてはならない。
 尊愛する指導者であるミルトン・H・エリクソンが常々言っている事であるが、指導は固定化されたものであってはならない、その時その場の相手に即したものでなくてはならない。
 自然に成長するその姿を適確に観察し、それに応じたアプローチをするべきだろう。
 育つ苗をさらに伸ばそうの引っ張るのもいけないが、牛の前に草を差し出すのもいけない事がある。
 
 思えば、高校時代の私のピアノの指導者はその意味で素晴らしかった。
 私は小学時代からバッハが好きで、それを弾くのも好きだった。
 (私がピアノばかり弾くので、あまりの事と思ったのか、高校受験の際には、麻原先生(私の家庭教師、シュタイナーの高橋巌さんの一番弟子)がもうピアノには触れるな、というのを最後に一曲だけ弾かせて欲しいと平均律の一番最初の曲を弾いたところ、「お前は弾いて良い。あとの責任は俺が持つ。」と許してくれた事もあった。)
 ところが、その先生は、バッハだけを弾かせてくれない。
 子供心には、こんなの僕は弾きたくない、なんだかドラマチックすぎて、とか思うとバッハに戻ったり、次はナヨナヨし過ぎて、と思うと、別の曲になったり、と、先生は色々な曲を知っているんだな、とは思ったが、その頃はなぜそのような選曲をしたのか分からなかった。
 気付いたのは最近の事である。
 その時、その時の私にあてがわれた曲と身体、精神の状態を思い出して符合させて、ほんとうに驚いたのである。
 その人の身体(心)が求めている事が、その人の意識とは不一致の事もあるのである。

 そして、その人のその時の身心に適切な指導が出来れば、その技術は(私たちで言えば身体が、瞑想が)、飛躍的に向上する。
 先日「晴哉先生の整体を受けた有名な書家が、一度で何十年間日々修行していた円相が書けて悔しい思いをした事を私をして味わいたくないから」整体を受ける事を私は修行にしていると書いたが、まさしく整体は理想的な瞑想や自動運動、否、それだけのレッスンではなく、身体(精神)という楽器を育むための最良のレッスンと言えよう。
だから、「まだ身体が変化する内に、瞑想を深め、夢を現実化を円滑にし、日々の生を十全と全うするために整体(を受ける)修行に勤しむのである。」
と書いたが、それは真実であるが、その後に書いた「この一年間の事を考えても、先の書家の何十年分までいかなくとも受ける以前の何年分の深化、変化が生じ、日々の充実度は目覚ましい。」
スタッフも…という件(くだり)も正しくそうである。
生を十全と発露させゆくために(特に瞑想などの氣道メソッドや何かのお稽古事をされている方は)、氣道の指導(整体)は本当にお薦めしたい。
私自身、そうであったように、受けてから一日が数日分の楽しさを味わっている。
(正直に言うと、受けずに「我流」のままつっぱしる勇気というか度量は「今は」無い。
 
 先日の青木先生の日本刀演武のあと、私が座頭市演舞をしたが、もっとこうすると良くなると指導を受けたように、餅は餅屋である。
 その後、別の餅屋として、氣道指導をさせて戴いた。)
 
 私は、人が自然に生きるために健康は必要なものだと思っている。(そして自然に生きると健康は付いてくるが、先の背骨と違うのは、逆も真なりというところである。)
 その健康は、いわゆる一般的に言われているものではない。
 いつも風呂上がりのようなサッパリとした感覚、身体も心もなく、あるとすれば氣だけであり(なので「氣道」と名称した)、生きている自体でそのまま楽しい、幸せ、というのが真の健康であるが、逆に症状があっても、それが健康でない、とは言えない。
 悪いものを食べれば吐くし、下痢をするのも健康の証である。
 前者は、健康の度合いであり、後者は健康の内的状況であるが、ともあれ、私たちはそうした健康を自ずと求める身体という楽器、道具を持って生まれてきた。
 これが「より良く生きよう」という一つの具体的証である。
 何が正しいかは、そのそれぞれの視点によって異なる。
戦争が正しいとされた時もあった。
ただ、そのわけ分からない中で、身体がより良くなるという力を発揮出来ているものを正しいとしたい、というのが私たちの観点である。
 (それは1970年代に身体への回帰、フィードバックが多くうたわれたがそれに戻ろうという事ではない事は勿論である。)
 先述したように、身体は、精神は生きている限り、成長する。
 その成長し育つものを、ほんとうの意味で「育む」技術を私は知らない。
 あったとしたらそれは貴重なものであるのではないか、そして私たちはそれを実際に行なっている、という事を言いたくこの文章を書いているのだろう。
  
 個人的に言えば、私をして人生を数万倍、数億倍、充実させ楽しませた修養である。
 そして、いみじくな私の中で現在知る限りの最良の指導が整体(氣道の指導)だと思う。
 餅は餅屋である。

 瞑想、自動運動の援助、つまり人間の身心の成長を育む「氣道」にとって、もしもこれ以上の個人的指導があったらぜひとも教えて戴きたい。
 頭を垂れ学ばせて戴く。
 (なお、このところ氣道個人指導(整体)や、その指導法の推薦文章になっているが、決して整体(指導)受けろ、とか指導法を学べという意味では無い。
  これはご縁のある事故、ピンと来た方だけという表現もしたように、決して無理には薦めたくない。
  
 (ちなみに、以前の日記を読んで整体(氣道個人指導)を受けられたい方がいらしたと書いたが、この日記はそのためのものではない。
  この日記を読んで氣道指導を受けられたい方は、申し訳ないが、他のスタッフにして戴きたい。
  なお、この数ヶ月、継続してレッスン(整体)を受けている方や初めての方は別。(但し11月からは会報にも告知されるように個人指導を受ける条件は厳しくなるが、ご了承戴きたい。)
  
  長々となったが、最高の指導を提示したく、全ての自然に行きたい方、全ての氣道家に捧げる次第です。

  これを読む全ての方の明日が素晴らしい一日になりますよう。(なりました。)

  指導法を学ぶことについて。( 『「氣道」指導法(整体)中等講座』 が明日より始まる)
Date: 2008-09-19 (Fri)
数年ぶりの中等講座である。
自然に生きる、つまり「氣」の道 の指導法を学んでいく「氣道」指導法講座である。
氣道の指導法と言っても、自然に生きるためにはまずは真の健康を、と氣道では考えているので、そのために重要な「心」の部分、そしてその「心」を創り出し、かつ固定している「身体」の部分のチューニング法(調整)をメインに学んでいく。(そのため「整体法」修得講座とも言っている。)
 その講座が明日から始まる。
 玉川温泉合宿を終え、今だ青木先生との睦日々が身体に残っているが
(ちなみにこの日記でも合宿前は青木先生とは公開せずA先生と記していた。昨日整体を受けられていた方からもご指摘があったが、青木宏之先生と書くと、それが宣伝効果になる事を恐れたのである。
(先生ご自身は純粋に湯治と整体で「骨休み」をしたくいらっしゃりたい、と電話で仰っていたので。)
A先生が青木先生だったら参加したかった、という声を何人の方から聞いたが、その事、一言弁明させて戴きたく申上げる次第である。)、
 その睦いだ氣のまま明日からの準備にかかっている。
 
 昨日のインナーマッスルの達人(希有な指導者)への指導、そして私自身のインナーマッスル体験で、完全に大腿二頭筋その他の剥離が出来(たのか?)、
そのせいか(身体が変わると現実が変わる(他との関係も))、今日は、久しぶりにこの日記でも何度も書いた事のある私が20年近く前からお世話になっている野口晴哉師の一番弟子のJ先生の貴重な話が伺えた。
 (明日からの講座にそのまま活きる話であった。
  そして皆さま。 J先生はとてもお元氣でしたよ! ご安心ください! )
 その後、銀座ライオンに直行し、お気入りの左袖片隅にて明日のレジュメを作った。
 この後、念願のすきやばし次郎(本名は二郎なのである)の技を学びに行く。
 明日からの講座に繋げるためにこそこのスケジュールにしたのであった。

「9/20のレジュメから
  ・話@(ほんとうの「幸せ」とは? 
  ・未来を変える最も良い効率的な方法は何か?
  ・過去をなぜ変えられるのか? 
  ・ホ・オポノポノの本質的指導とは。 
  ・いのちのtuningとは?
  ・J先生の言葉。(真の整体とは?)
  ・一生涯残る愉氣とは?
  ・次郎寿司には無かった真の日本文化とは?
  ・生き方が身体をそして心を作る───自然の道とは?
  ●実技 (氣の誘導〜設定愉氣〜初等の技術を個別チェック・初公開整体各種 ・
   (今回は少人数なので個別チェックが出来ると思う。
    受講者が今後指導する時に必要な技術が出来る設定愉氣。(椎骨その他の個別調整ではなく、整体(氣道)指導技術向上のための設定愉氣、その他。)

 ともあれ、指と氣による技術は全ての技術の原点である。
 氣道指導法(整体)の技術は、もし皆さんが某かの芸術、仕事に携わっているとしたら、この技術を学べば数段に向上する事は断言できる。
 (私個人の体験でも、整体を行なっているために将棋を初めとする趣味や音楽や相場の技術が向上しているのだと常に確認出来ている。)
  
 そして整体を受けるだけで、全ての仕事、芸術は進歩する。
 それは、体を通して脳が変化するため、自身の稽古が飛躍的に(本当に「飛躍」的に)効率よく進歩、深化するからなのだろう。
 
 整体(氣道の個人指導)を受けるばかりでなく、「ご興味のある方」はその指導法も学ばれたらと思う。
 整体の醍醐味を味わえるだけでなく、そして互いに稽古する事によって受けつつ変化するからだけでなく、指と氣を用いる根本的技術や身体の基本的動作の型を身に付ける事によって、あらゆる仕事、趣味、稽古事の技術が革新し、進化深化してゆくからである。
 (前には「一年間、ピアノや書道等、実際の練習をしなくとも、数十年間分の深化をこの6日間で確実に味わえるだろう。これが大言壮語だったら金額は全額お返ししたい。」と書いた程である。)
 今回は別としても、いつでも個人レッスンは承っているので、ご興味のある方はどうぞ。
  
 これを読む全ての方の明日が素晴らしい一日になりますよう!

http://npo-kido.com/tokubetu.html#chutou


  つづき。 (校正済)
Date: 2008-09-17 (Wed)
…と書いたら、今日の「氣道塾」後、合気道の師範から、「先生の日記を読むと整体を受けたくなってきますよ。」と。
「貴方はそんなに受けなくても大丈夫ですよ。お好きな時だけでいい。」
「長年自分自身で様々な身体の修養を行なっていましたが、やはり整体を受けるとその突破口になるというか。
ともかく先生の整体を受けると、いつもその後で周囲が良い方向に変化していくのです。」
そう仰る方は多いが(暫定で半数位だろうか)、この方の場合は、その長年の修行の賜物があるからこそ余計に「自覚」できるのだろう。 さすがだな、と感じた。(そして私だけでなく他のスタッフの整体も薦めた。)

さて、今日の氣道塾には横濱からも嬉しい方がいらっしゃい、つい高揚して青木先生の話やいつも行なっていない事も行なってしまった。 行なった内容は次の通り。
(行なった順序はほぼその通りだろうが、漏れている実習もあるだろう。また話は他にも多々してしまっている。)

[ 9/17「氣道塾」内容 ]
・バックミュージック無しでの自動運動 ・自動運動を静め、内感し最後に動きが残ったところを更に内感。
・その内なる動きを作っている部分を探す。(〜そして更に探す〜そして更に〜 次第に無にまで深まっていく) =「内感瞑想」(瞑想@)
・〜瞑想 A (丹田(丹田微分化)瞑想) 〜瞑想B (源の瞑想=What am I?)
・本来の脊髄行氣法(自分が行氣しているその場処になる)
・そのための準備(頭頂部触手〜外への押圧〜「感覚的身体」の頭頂部を感じ、それを大きく広げる(場合によっては深くも行なって可) ・眉間と頭部第五に触手し、その間の線を感ずる〜頭頂部から脊髄の線との交流点を見つける。〜柳田利昭先生の伝えた脊髄行氣二種)
・青木先生の行なった背後からのナイフ突きをその瞬前で止める技術 ・その技術を向かい合って稽古(相手の思考を読み、その動作の前で、瞬時に止める)。 ・青木先生のように背後からで稽古。
・瞑想C (Where is God? =拡張(拡散)瞑想) 〜その感覚のまま覚醒(つまり全てになったまま身体を自分の一部として持った感覚となることを実感させる)
・ホ・オポノポノとは? ・修験道のお経の順番と氣道での夢実現(【心の学校】)とホ・オポノポノとが同じ事(懺悔&感謝&愛)
・心象内感(氣道流フォーカシング)とは?
・ホ・オポノポノを愉氣、行氣として進める(ホ・オポノポノで用いている言葉を、言葉だけではなく実感(身体的感覚を伴ったエネルギー)にし、愉氣として用いる〜心象内感(氣道流フォーカシング)で扱う対象(つまり気になる「全て!」のものに、ホ・オポノポノの言葉の真実の感覚を愉氣してゆく。
(前の日記に書いたようにホ・オポノポノの言葉の前にLove(God)に繋がる事が第一のポイント、もう一つのポイントはそれぞれの言葉を言葉だけでなくむしろエネルギー(氣)として扱うという事、3つ目のポイントは対象であり、何にその氣を向けるかという点がかなり重要なポイントになる。単に相手や自分、神というイメージでは効果が乏しいのである。
 ・瞑想D(ABで行なった丹田微分化瞑想〜源瞑想)により無(空)を目指す)

───塾後、参加者との冒頭の話となるが、その方が「Hさんはご存じですか?」と仰る。
「ご存じも何も以前のスタッフで、会報を作ってくれた方ですし、多くの講座にも出席され…」とその他面白いエピソードで盛り上がる。そう言えばHさんは…
と思い、ダン先生が甲野善紀さんに見せられた写真で「この人は本物だ」と仰った合気道のS師に実際に学ばれていた少数の方であったと言うと、S師の事はよくご存じで驚いていらした。
そしてまた私が今日受けた或る施術者はダン先生同様、S氏の足運びに感銘を受けた方だっのである。
なおかつ今日の私への施術は、S師の身体感覚、意識を一生涯再現出来るようなものに、それこそ偶然になった。
(以前、『相手に合ったエネルギーの愉氣に自動的になる施術』を受けた事があり、それも一生涯残るものだそうだが、今回の施術を受けるのは私が初めてであったので(そして最後なのかもしれない)、先生は「淨潤さんはモニターという事で」と言われ、ともかく内緒でと約束させられた。(こうして公開してしまっているが、先生は会を運営しているので会の内部者には…という事であろう、と曲解させて戴く。
 なお私の場合は、相手のリクエストがあれば出来るだけ応じている。
(ちなみにそうした一生涯残る目的別施術が出来る人は限られ(当然だ)しかも今日の先生のように安価な方でも一回5万円以上である。私は通常の整体の中で行い始めたので基本的に定期的に氣道指導(整体)を受けている人に限っている。 ───ちなみに今日のリクエストは「我欲ではなく真我に向っていく事が出来るように」というものであった。私は我欲が変容し真我の実現に繋がっていくものになれば良いと思い、若干改良すると共に「その時その場で○さんにとって最も自然で相応しい形で現れる」という設定にして施術をした。)
閑話休題。
 偶然は続く…その後、先生は母親の胎内を遠くから觀て「とても素直な子ですね」と仰った後、「おや?」と仰るので私が「なにか?」と聞くと「いえ、この子も受けたいと言うのです」(中略)、結局、私が受けた施術をその子も受けたのであった。これで最初で最後の施術を受けた者が二人になった事になる。
施術を受けた帰り道、これまた青木先生の影響かも(青木先生は彼に触れた場合の事を色々と仰っていた)と思いながら東京道場に向ったのであった。
今日、合気道師範の方や横濱からの嬉しい方がいらっしゃり、このような事になったのも何だか偶然のようには思えない。

この世が全て夢であるという事を「真の意味」で体感、感得出来た時、ホ・オポノポノはそのまま作動する。
 私という意識は水面に浮かぶ一つの波紋であり、私は有るが無い。
 そういう事を「氣道」を通して身体から実感出来るのが嬉しい。
明日は、関西から数年間ダン先生の講座を受講され、私が思うに非常に共通した事を行なっている内部筋(インナーマッスル)操作の達人と個人レッスンを行なう。

これを読む皆さんの今日一日、明日一日が、本当に素晴らしい日々になりますよう。
(そして、なりました。)

  瞑想A (C) 再校正
Date: 2008-09-16 (Tue)
先程、玉川温泉合宿より戻る。
遠方のため最初で最後であろうとチラシにも書いたが、実際、全員の身体を三日間の合宿で変えるために整体や講座を行ないつつの合宿は、この人数が限度であり、そしてまた今後の開催は困難だとスタッフとも話し合っていた。
ご参加された新体道創始者の青木先生の存在は大きく、その意味でも、そしてまたそれ以外のあらゆる意味でも、一回の操法(整体)がそうであるように、この数日間はまるで一回の整体の如く「一期一会の合宿」となった。
今、思うに初日の事がはるか遠く昔に感ずる。
一カ月前といっても近い。もっと遥か遠くである。
その後、今思い出すまま順不同で書いてみる。
 田沢湖駅前に響く青木先生の声に呼び止められての喫茶店での話から始まり〜バス中での話〜レクチャー〜今回の参加者に合わせた運動〜各々の方が今回の合宿で得たい目的に照準を合わせる〜現時点での物理的身体と感覚的身体の観察チェック〜玉川秘湯(私が命名した玉川温泉の効果を倍増し玉川温泉の欠陥を補う自然湯への誘導、そこでの脚湯〜玉川温泉の全てを知るセンター〜青木先生との深夜2時間(スタッフが計っていた)に及ぶ密談〜勤行〜貫地通天瞑想法その他の瞑想法青木先生による小講演(日本人の美意識その他)〜忘れがちな玉川温泉蒸し風呂(入らないほうが良い人も指摘)〜岩盤浴の是非〜岩盤浴脇の様々なspaceでの日本刀演武〜様々な撮影〜全員に見られた中での青木先生と私だけで玉川秘湯でのデート入浴
 〜玉川秘湯を「淨潤の湯」と青木先生に命名さるる〜その脇にて居合演武〜ホ・オポノポノの話〜遠当てを行なう極意
 〜Sさんの左脳が劇的に改善されつつある(Nさんの心臓も)〜自己紹介〜料理の鉄人との勝負に勝った和食数々〜素敵なギャグ満載〜結婚祝演武〜素敵なステッキ隠し芸〜岩盤浴(オンドル)〜座頭市居合披露〜居合教授
 〜玉川温泉の仕上げ湯としての後生掛温泉と広大な大地(すぐ脇で数十カ所湯煙が吹出している)蒸の湯〜〜ピストルと勝負する時のコツと実際にナイフでの勝負
 〜青木先生その他全員と共ににある露天風呂にて信じられないほど光々たる満月の中での瞑想入浴(深夜数時間)〜ゆん君のご両親と新玉川温泉で再び出会えた事(合宿後数人はその後も新玉川温泉に滞在した!)〜皆さんの真心

今朝の事も本当に数ヶ月前のような感があり、これら以外にも数十倍、数百倍の事があった。
この場を借りて、今回の合宿に同行された方、そしてそれを遠くから見守って下さった方々に、心から感謝をさせて戴く。
本当に有難かったです。

行きたかったのだが、どうしても日時の都合が付けづらく行けなかった方には申し訳ないと思う。
さて、今回の合宿の目的は単に玉川温泉の紹介ではない。
(玉川温泉の事を知っている人は、特に難症の方なら殆どであろうから。それだったら一人や家族と共に行けば良い。)
今回の合宿の目的は、玉川温泉の活用法を紹介するためであった。
 個々の身体に合わせた入り方や、期間中に行なって欲しい瞑想法や運動、押圧ポイントなどを個々に合わせて紹介するだけでなく、
「ここのポイントを知らないと効果が半減する」「こういう入り方でないと危ない。こういう入り方だと効果が倍増する」など様々な事を、お伝えするのが一番の目的であった。
 (それは玉川温泉や新玉川温泉の宿の方や、そこで常在している看護婦の方も知らない事である。またその方々の仰る事に誤っている事が多いのは大変残念な事である。
  風呂場にある飲泉の配分も誤っている。(%により湯の活用法が違うのに、1990年代から濃度が異なっている事を知っている常在アドヴァイザーがいない(!)事「も」大きな理由だろう。)

 最初で最後の合宿になると思うが、それだと今後、玉川温泉を上手く活用する方法を皆さん知らないままになってしまう。
 今回どうしても行けなかった方にも申し訳ない。
 そういった意味で、今回はそのエッセンスのみを録画録音した。(そのため前述の内容の殆どは割愛されている。)
 鉄類がすぐに錆びる猛烈な場所のため精密機器はあっという間に故障するのだが、それでも期間中だけはもったらと遠路はるばる持っていったのである。
 今回、行きたかった方、あるいは今後、玉川温泉に行かれたい方はぜひ活用して欲しい。
 (興味のおありの方は、事務局までご一報の程。玉川温泉についての「自然掲示板」http://8003.teacup.com/joho1/bbsにいつの日かアップロードされると思うレジュメも付けてご送付させて戴く。)

数年前、会員の或る素晴らしいヒーラーからホ・オポノポノを紹介された。
全くその通り!
その頃この日記でもいつも書いている視点と全く同じであった。
そしてそれをホ・オポノポノの視点のままから具体的な技術に発展させ、クリシュナムルティと統合させていったのが【心の学校】(【氣道の学校】advance=中等)であった。
現在では、数年前よりも更に【心の学校】も深化、進化して
しまったが、
その【心の学校】が円滑に出来得るためにこそ【氣道の学校】basic(=【体の学校】=初等)があるという位置は同様である。
それは、ちょうどヨーガが身体(アーサナ)→呼吸(プラーナヤーマ)→心(プラティヤハーラ〜ダーラナー〜ディヤーナ〜サマーディ)と進行するのと相似象である。

「どんな事であっても、それが健康に繋がらない限り、それは善では無い」という事を晴哉先生は仰っていたが、身体が変わらぬ精神修行はたとえ本人に効果が認められていても野狐禅の如く修行にはなっていないし、ビックリしたと言っても胸椎1番と3番の変動が無ければそれは嘘である。
逆に、そこに変動があれば驚く癖が出来るし、左の足首が故障すれば雷が怖くなり、胸椎8番が左転移すれば閉所恐怖症になり、11番が飛び出せば恐怖を感じ、其処と9番が捻じれれば嫉妬をする、というように例を出せば本当にキリがないが、身体がそうなると心もそうなる。

 その意味でも、今回の合宿に参加された書家の吉田先生が仰った「瞑想は全て身体なんです。」という言葉は今でも胸に刻まれている。
 
  ヒューレン博士も言う前にLove(God)と接続する事が重要であると言うが、自動運動を行なっている人が瞑想が深いように、たしかに、整体を受け幸せになると、ホ・オポノポノの全てのフレーズが「意識して言おうと思わなくとも」自然に沸き上がってくるのが実感できる。

真の氣の道であるホ・オポノポノのためにこそ、私たちはヨーガコースや自動運動会などの氣道塾や整体を行なっているのである。
 (そして各々の身心に合わせてホ・オポノポノ自体や、その後進化、深化したmethodも合わせて施術そして身体(心)の遣い方を提示している。 We are ki(body &soul) tuner. )
玉川温泉合宿の最後、東京駅で昨日が満月であった事、ホ・オポノポノの真のphrase]非公開)を青木先生にお伝え出来た事を懐かしく思う。

明日から更に素晴らしい日々が訪れますよう心から祈りつつ。

  瞑想
Date: 2008-09-11 (Thu)
今日の氣道塾では貫地通天瞑想法を初公開。
(通天貫地気合法とは異なる。その意味では陰陽ではなく陽陰瞑想である。)
地球をも遊びに用いる瞑想法はこれからも紹介したい。
整体は瞑想を深める最も有効な手段であるが、瞑想や自動運動もまた整体を深める。
するとまた瞑想も自動運動も深まる、という好循環が生ずる。
下でも書いたように私が整体を受けるのは、単に体調が良くなるとか気持ち良い日々が過ごせる、という意味ではなく修行としてである。(これは決して言い訳では無い。)
晴哉先生の整体を受けた有名な書家が、一度で何十年間日々修行していた円相が書けて悔しい思いをした事を私をして味わいたくないからだ。
理想は胎児の時からだろうが、若ければ若い程、身体は変化する。
まだ身体が変化する内に、瞑想を深め、夢を現実化を円滑にし、日々の生を十全と全うするために整体(を受ける)修行に勤しむのである。
この一年間の事を考えても、先の書家の何十年分までいかなくとも受ける以前の何年分の深化、変化が生じ、日々の充実度は目覚ましい。
スタッフもその如く整体を活用され、生まれた好循環によってぐんぐんと伸びている。
果たして「持てる者は更に持ち、持たない者は奪われる」というのは聖書だけに限らない。
単に症状の改善という事ではなく、瞑想、精神統一や夢の実現、あるいは日々を楽しく楽に充実させる事のためにこそ、そのための最大の武器である整体を活用して欲しいし、また整体指導を行う方は、その視点で技術を磨いていって欲しい。
身体が変わると脳は変わる。故に世界は一変する。

  六度目の正直(礼と礼儀、礼節。型と形。)
Date: 2008-09-10 (Wed)
礼、礼節、について、様々に書いたが何度も消えてしまった。
そして今朝、全くもって自分の礼節の無さに憮然として、今度は自分から消してしまった。

  正体術3 
Date: 2008-09-07 (Sun)
(正体術2のつづき)

 そして、それを他動的に行うのが、整体である。
 整体とは氣の道(自然に沿って生きる道=氣道)の個人指導の事だが、正体術と異なり他動的故、受け身になれるので(受けながら内感や瞑想をする稽古でもあるが)、その分、強力に身体が変わる。
 ただ、整体は、毎回、正体術のような矯体を行うわけではない。
 ある時は愉氣によって脳(潛在意識)内プログラミングを変えたり、またある時は滞っている処を整圧によって変化させて氣の巡りを良くしたり、ある時は元気の無い処を活性化させたり、直接脳に施術をする事もある。
 また、整体は他動的な分、効果は高いが、逆に自分の二の足で自分の健康を培うという面では、正体術のメリットもある。
 どちらが良いという訳ではなく、その両者を組み合わせる事によって相乗の効果が得られるのである。
 その意味でも、今回、神崎先生と横濱道場に並んで、整体をさせて戴いたのは象徴的でもあったのかもしれない。
 片や自力での体操設計を教わり、片や他力での施術。
 私は以前、全ての方に、「あなたは数週間この体操を行うといい」とその方に合わせた体操設計をしていた事があったが、今回を節目に、必要な方にはそのように指導していこうと思った。

 節目と言えば、昨日、神崎先生は寝れなかったのだそうだ。
 朝、「よく眠れましたか?」と伺ったら、興奮して寝れなかったとの事。眠りについたのは朝だったらしい。
 そして、今日もまた二人横濱道場に並んで互いに指導をし、私のエアジンでのライヴにいらっしゃった。
 
 今日は、久しぶりに坂本さん(チェロ)との共演。
 弦楽器の個性的な演奏家として、いつも共演している河崎純(コントラバス)さんと坂本さんとをぶつけたらどんな音楽になるのか、と長年思っていた。
 そういう訳で、共演者というよりは企画者の視点で今回のライヴを実現させたのであった。
 その意味では、いつものライヴ(このところは本当に自分が行いたい音楽を目指してlaptopの依田さんと行っている。今度は竹内直さんと依田さんと私だ。10/11横濱道場。)
とは異なり、ちょっとしたエポックの月でもある。
 「音楽掲示板」http://6901.teacup.com/kidomusic/bbsでは、今日、以下のように紹介されていた。
「秋風が吹くこの頃ですが、今日のエアジンは熱いです!
 逝く夏を惜しむ花火… ではなく、本物の「火花」がエアジンに出現します。(たぶん…)
 坂本弘道さんといえば、“知る人ぞ知る”チェロ奏者。時にそのチェロにチェーンソーが当たり、火花が舞うのです。
 いつも繊細かつ多重的な演奏を聴かせて下さる河崎純さんと、どんなコラボレーションになるのか?
 そして、時にダイナミックに、時に深みある美しいメロディーを奏でる淨潤先生との音の響き合いは?
 ぜひエアジンで、生のドラマを体験致しましょう!」
───そして、エアジンでは以下のようにマスターから紹介されていた。(なんと私たちのは赤色にて)
 「◆あのお、初めての方はきっとライブ中のどこかで仰天すると思います。」

 前半は、3分間の爆発的演奏の後、member紹介。
 その後、それぞれのソロ。そしてトリオ。
 もちろん、どれも即興だ。
 後半は、デュオを交え、様々な形態で。
 …ところが、途中、純さんとのデュオのところで坂本さんの弦が切れてしまう。
 急遽、私が入り、そこから予定していたデュオやトリオの順番が完全に狂う。
 それぞ、即興演奏の醍醐味なのである。
 しかしその後ピアノソロになったあたりで二人ともこれで終える予定と思っているらしく下を向いたまま全くもって演奏の氣が無い。 
 これではマスターが書いてくれた「仰天」は無いと思い細工して坂本さんに顔を上げてもらう。
 それでも大変であったが、更に細工の連続で坂本さんが盛り上がった頃、純さんもリズミックなベースになり、そこで後半のモチーフ的なテーマになっていたCmajorの旋律を重ねたところに…
 
 そう、火花は実現したのである。
 そして、その背後では、私たちの完全にリズムに乗った冷静なアドリヴが展開され、ノコギリ、花火はクライマックスになっても、その裏では正確なリズムでCmajorの旋律、そして肘打ちと早弾きがされる。
 これは、依田さん同様、一番演りたかった事だ。
 単なるフリージャズではなく、完全に明確なものがどこかにあった上でのフリー。
 そして、何よりそれ、そうした事が「即興で生まれる」という事。
 それが実現出来、私としては、本当に嬉しかった。
 純さん、坂本さん、そして今日いらして下さった方々のお蔭である。
 私たちをして、このような音楽を即興させてもらった事に感謝。
 (私たちは聴衆者の一人一人の氣を感じつつ、真剣に音を選び、現せてもらっているのだから。)
 
 坂本さんが火花を散らした丁度その時、外で豪雨、そして雷が!
 いやいや実に上手く雷さんも計らってくれるものだ。「音楽掲示板」に書いてあったように「まさに生のドラマ」である。
 (そう言えば坂本さんの頭は雷小僧のような…失礼!)

 いらして下さった方から感想も戴いたので、ついでながら公開。(なお数人のみの抜粋。その代わり?コメントも付けましょう。)
「ピアノとチェロとベースというトリオははじめてです。以外な組合わせのように思いましたがスゴイです。
 ライヴハウスで大工道具や火花を見るのもはじめて、ビックリしました。」(コメント…それはそうでしょう。何十年慣れた私も今回は、それが「自然」に出た事にビックリしました。)
「ピアノの音色がなんとも云えず良かったです。ぐいぐい引き込まれ、魂が目を覚ます様にと云われている様でした。
 来て良かったです。ありがとうございました。」(コメント…30年間ずっと聞いているキースの演奏をこのところ修行として聞いていました。エアジンではキースの音色は出せませんが、私は私の音色は今日は出せたと思いましたので嬉しいです。そう言えば、ここでは取り上げませんでしたが、「ピアノの鍵盤が動くの!」と言う聴衆者がいらして、家族の方に「そんな事があるわけない。」と馬鹿にされていましたが、良く見ていますね。グランドピアノの場合、左のペダルを踏むと3本の弦ではなく2本の弦をハンマーが叩くように鍵盤がズレるのです。
 これも日本人では辛島文男はやることがありますが、私が特にエアジンやピットイン(新宿)のピアノでは多用する技術で、その事を分かってくれた方は嬉しい。実はピアノは手よりも足のほうが数段、数十段忙しいのです。)
「野口晴哉先生を尊敬しているので、整体の方はどんな音楽なのか興味がありました。(中略)あれを演った後に先生たちが普通に話しているのも驚きです。(笑)凄い衝撃です!!
 すごく素晴らしいです!!また来ます。」
(コメント…ありがとうございます。チャンネルを切り換えるというか…、野口整体で言う活元運動(私達は自動運動と言う)もそうでしょう?そして習熟すると逆にいつもその感じがあるように(私のように数十年かかる人もいるかもしれませんが)、いつも音楽が鳴っているのです。
 私は中学2年の頃からそうでしたが、たぶん今日の共演者はもっともっと幼少の頃からだと思う。いつも鳴っているのを取り出すだけなのです。日経新聞で或るご高齢の俳人が書いていたように、合わせれば澱みなく浮かんでくる。私の大好きなピアニストであるディヌ・リパッティが死ぬ30分前に「私たちはバッハやモーツァルトの純粋な媒介者にならなくてはならない」と言っていますが、私たちが真に媒介になった時、音は生み出すと言うよりは現すという感じになるのかもしれません。でも、媒介になろうと、イタコみたいな事では駄目で、自力で演奏するというのがありながら、それを虚にする、というか、丹田は実で鳩尾は虚というか、言葉にすると矛盾ですが、それはハッキリとした感覚があって、先述の竹内直さんが私と実に様々な実験を『音と身体のワークショップ』で一年間行った結論として「結局は音楽を演ればいい」と言われたのもその事なのです。
 自力と他力との合一と言えば格好いいですが(あ、そう言えば「かっこよかった〜。又聞きたいです」と書いて下さった方もいらっしゃいました。)、これは、「どんな分野でもそれを道として行?として行っている限り」味わっていることではないか、と思います。
 ともあれ、自動運動を今するとなったら、元々ある動きがスッと出るように、チャンネルを変えるという表現よりすでに出ているものがスッと出るが如くに慣れている人はなるのですが、同様、どの分野でもそういう事がある訳で、ライヴが近いと、ずっと身体(頭も含め)の中でとにかく音楽が生まれるので、それを止めないと寝れない、という感覚に大概なります。私の行っている氣道の個人指導(整体)も同様で、夢を覚えている時は、その中でもずっと両者を演っています。これはどんな仕事をされている方も同様だと思います。
 長くなりましたが、皆さんの参考にもなると思い、つれづれに書きました。)

 外の雨は閑かになり、時折り誰かのお腹のような雷の音が聞こえる。
 今日のライヴで嬉しかったのは、マスター(うめもとさん)と握手をした事。
 「良かったよ。」
 思えば、この27年間、うめもとさんと握手の記憶がない。
 していたとしても、演奏後、帰り際にしたのは初めてだ。
  
 来月は依田さんといつもの…と言ったら微笑みながら強く握り返してくれたが、さて地球唯一の正体術の指導者のアンケートはどうだったのだろう。
 「生まれて初めてのジャズ・ライブ。
  美しい… 眠い … ねちゃうと失礼では… (段々と文字が小さくなり、しかも判読しにくくなっている。そして最後は)
  浅い眠りの中でも極だけは  ずっと  」
 ───ここで、神崎先生のコメントは終わっておりました。
  そう言えば、神崎先生は昨日「私は眠ろうと思えばですが、幾らでも寝てしまうのです。きっと今日はぐっすりと、そして明日も…」と仰っていた事を思い出しました。
  きっと、ずっと氣が張っていたのでしょうね。
  ほんとうにお疲れ様でした。
  良い眠りであったと思っています。
  そして、この数日間で、音楽が整体、正体術と全く同じだ、という事を感じて戴けたと思います。
  皆さんにとっても!


   ………………………………………………………

 私は、上記したその整体を皆様に伝える講座(整体法修得講座(中等))を20日から行いますが、(宣伝では無く、お薦めします。)
  その前に、○先生らと共に、秋田玉川温泉にて真の地獄修行をして参ります。(委しくは「自然掲示板」http://8003.teacup.com/joho1/bbsの玉川温泉の項をご覧下さい。)
  參加者は、先生方を除けば5名。修行としても嬉しくて溜まりません。(どんな滝行よりも、断食よりも、優しくそして真から変わる修行です。)
  「最初で最後の玉川温泉合宿」とゆうさん(佐野裕子)が書いたら、それに相応しい人達が集まりました。
  有難い事です。
  (相応しい人という意味以外でも、色々な意味を含めて今日のライヴの如くです。)
 これを読んでご参加したい方もいらっしゃる「かも」しれませんが、宿の手配もあり、もう無理だと思います。(申し訳ありません…。)
 ただ、ピンと来た方、どうしてもという方は、9日(火曜日)にご連絡下さいませ。
 (私としてはこのメンバーですので、この自然に生まれた縁起を大事に、その方々(先生方)に、一生一度と伝えようと思っている事があります
ので、このように紹介しておきながら申し訳ありませんが却下する事もありますが、ご了承下さい。)
 なお、整体(氣の道の指導技術)はまだ空きがあるようです。
 ご連絡は、メールmail@npo-kido.comにてお願いします。

 ………………………………………………………………

 そして、最後は空。(liveも玉川も、そしてその中心を得る整体講座)
 だからこそ、楽しい。
 私は、今まで色々な方を不幸にしたのかもしれない。
 けれども、それを全て幸せにするために生きている。
 そして、残り短い生命であるが、そのために生きる、 
 正しくホ・オポノポノである。
 技術として「現在の」(数日前でも無く)氣道を観て戴きたい。

 ………………………………………………………  

http://npo-kido.com/tokubetu.html


  正体術2
Date: 2008-09-06 (Sat)
いやいや凄いものであった。
この凄さは、神崎先生の素晴らしさと共に、正体術つまり体操設計の凄さでもある。
(その意味ではやはり、正体術を日本で唯一継承されている神崎先生の凄さでもある。)
「初めての參加者としては、限界的な情報量」と神崎先生が仰っていたように、実際に混乱していた方も数名いらっしゃった。
しかし、それ以上に、そしてそれであっても、「自分はこの体操で変わる」というのを伝えて戴けたのは嬉しいことであった。
神崎先生も「理屈は分からなくていいです。これで、ご自身が変わるという事を知って欲しい。」と仰っていたが、
単なる勉強だけでない講座が実現させたのは素晴らしい。
氣道の身体観察を知らない人も多いので、簡単な動診を幾つかしたのであるが、実際、「えーっ、どうして!?」という声が多くあがる。
一回の体操で、さっきまでの痛みが無くなってしまったからだ。
ある意味、これは非常に怖い事である。
一瞬で効果があるものではあるが、間違えた場合は逆効果になる。
ところがその点は、神崎先生が継承されている技術は素晴らしく、その逆効果が無いように作られていると思っていた。
(実際今回も皆無であった。)

身体の構造を変えれば体質までもが変わり、その結果、感受性が全て変わるので、脳内のパラダイムシフトが起こり、思考や感情のパターンも変化し、内部表現の書き換えも自然に深く生じてしまう、
…という事までは昨日も書いたが、
今回この日記で言いたいことは、それが瞬時に行われてしまう、という事である。(身体の構造が瞬時に変わるからである。)

「受けて本当に良かった。」とは神崎先生の個人指導を受けられた
方々の言葉。
 氣道は自然に沿って生きる氣の道の事を言うが、(その為に健康が必要であり(だから脳のパラダイムシフトが起こる))、
 そのmethodの中でなぜ身体の調整なのか、(それによる身体感覚の変化がなぜ重要なのか)、皆さんが理解して下さったことが何より嬉しい。
 (劇的な形での皮切りとなったが、神崎先生には『個人指導(自分に合った体操を指導してもらえる)』だけでも年内にもう一回と頼んでいるところである。)


  正体術
Date: 2008-09-05 (Fri)
 明日は唯一、正体術を継承する岡山の神崎崇嘉先生が横浜道場にて講座を行なってくれる。
 (ぜひご覧になって下さい。→ http://npo-kido.com/tokubetu.html#diy )
 定員まで残り数名の盛況ぶりで、博多など遠方からの方も多くいらっしゃる。(神崎先生直々の個人指導は既に二日間とも満員で、新たに時間枠を増やして戴いているところ。お蔭で私の受ける枠が…)

体の骨格を変えれば体質はガラッと変わってしまう。
食事の好みも変わる。
そして体は脳の根本というか表出した脳(潛在意識)であるため、感情や思考のパターンもガラッと変わる。
だから音楽や絵、人の好みも変わる。
物事の捉え方が根本的に変わってしまうからだ。
イメージすれば願いは叶うとか内部表現の書換えをすれば良い、というが、その元である身体が変わらなくては、甲野善紀氏が言うように、幾らイメージしても、その氣になったとしても(フェイクイット)、それは表層で終わり、続かなかったり、続いたとしても、すぐに元の木阿弥に戻ってしまう事が殆どである。
そして「ああ、やっぱりそんな虫のいい事は無かった。」と呟くのである。
イメージやその氣だけでは駄目なのである。

ところが身体を変えると、脳のパラダイムシフトが起こり、内部表現の書換えが根本的に自動的に行なわれてしまう。
私は20年以上前からその事を強く主張し、そのため「氣道」を興した。
2年前にはフォレスト出版の方や石井宏之先生にもお伝えしたが未だ公表の機会は訪れていない。
しかし今回の神崎先生の講座に興味を持つ方の多さを觀て、
「脳(潛在意識)を変えるに一番良い方法」を皆さんが分かって下さり始めた、あるいは感じ始めた、ことを本当に嬉しく思っているのである。


http://npo-kido.com/tokubetu.html#diy


  少なくとも
Date: 2008-09-03 (Wed)
事象を数百年のスパンで見た時、薦めたいものは何であるのか。
私は、そのスパンで薦めたいもの(物品も然り)を推薦しているつもりである。
近視眼的になるのも面白いが、もっと大きな波や、更に大きな波を観るのも面白い。
それはどちらも感じられるものである。
生命が生まれてから、ずっと続くもの。
私たちは、それ調律する者として、役割だけでなく責任大きい。
そして生命の調律は常に健康(美)を現し、生命はそれが生まれる前の空を目指そうとする。

※下の日記で書いた○師は玉川温泉後もスタッフ温泉に同行すと事務局より聞き驚く。
 この日記を読む方の今日、明日が、ほんとうに素晴らしい日々でありますよう。(そして、ありました。)

  夢現(40年前に私が日記で書いた言葉だとの事)
Date: 2008-09-03 (Wed)
志高き者、自ずと言葉慎まざるを得ず。
  (人ではなく鳥のように感性は豊かだが、ピーチクパーチクと、「つい」言葉を喋ってしまうのは誰かな。
   人間のように、話す前に一秒の中で何度も何度も吟味するなんて考えもつかないのかな。)

夢豊かなる者、自らが観えるが故也。
 (客観的という言葉は無く主観による客観の想像であるが、真に夢豊かな者、観るでなく体感する也。)

而して志高し者、夢、現実と成る。

(───これを弟(幾人か契りある弟はいるがの最初の弟)は、器として返す。
 今日、N先生の映像を数年ぶりに観る。
 どちらも美味しかった。)
 …それ故、明日もまた、日々の滝行に明け暮れん。)

 滝は人生。
 荒波の人生の中、限りない沈黙を得る旅が私たちの1から0を求める旅だが、もちろん逆の0から1も真なりで人生も滝行。
 …となると、何とこの世は天国か。
 
 何の修行も、何でもそうだが、どのように価値づけるかだけ。
 滝も然り。
 故に然り。

 真に志高き者、夢を現実に既にす。
 
 病、悩みある者、反省すべしであるが、人生はそれ自体が病である事を真に気付く時、あらゆる病や悩みは好転反応でしかない。
 (是れいみじくも拙たる者が、9歳より真剣に観察した数十年の結果である。)

  瓜生良介先生
Date: 2008-09-02 (Tue)
横濱道場にいたら瓜生先生(快療法主催。横濱道場でも連日講座を行ってくれた事がある)からお電話があった。
お元気そうな声。
来週、玉川温泉に行く事をお話したら先生も一週間徹底的に入ったとの話で盛り上がる。
今度の日曜はエアジンにて坂本弘道(本当に火花を散らすチェロ)さんと数年ぶりに共演と言ったら、「なんだ、それは残念だ。早く教えてくれなくちゃ。」と言われた。
久しぶりの先生の懐かしい声に嬉しく話し込みそうになったが「近々お会いしましょう。」という事で幕が閉じた。
今日も素晴らしい一日の始まり。
これをお読みになる皆さんにとっても素晴らしい今日、明日になりますよう。

  地球交響曲(ホ・オポノポノB)
Date: 2008-08-30 (Sat)
氣道の原点。
これを観て、玉川温泉にいらっしゃるA師は、ダン先生やロイ先生は何というだろう、成瀬先生、苫米地さんなら、と思う人もいるだろう。
「岳」という漫画を会報(氣道協会http://npo-kido.com/会報)で同じ原点として紹介した。
この映画はあまりに氣道の原点過ぎる。
しかし16年たった今でも訴えるものあると思い岳同様紹介する。
私たち氣道家は其処を正確に確かめ、そして技術を磨くべきだろう。
実際、その映画にある全ての(全ての!)言葉が、整体を始めとする今現在の私たちに活かされる。

磨かれた自然と言えば言葉だけの事になる。
自然は磨かれない。
ただ自然に触れる者が磨かれた時、真の自然に近く味わうだけだ。
それは、自然への回帰であり、それは真の意味での創造である。
真善美が一つであることは以前に書いたが、そこに結果として美が生まれる。
それが技術、あるいは生、生活という事である。

一所作に全てがある。
あなたの所作、言葉は身体だけでなく瞬間の思考であっても真の意味で美しいであろうか。

一秒は長い。
大事なのは、一秒の中でも生まれるマイナスである。
これを業と言っても良いだろうが、それは身体に刻まれている。
それ故、私たちは整体を氣道の個人指導にしているが、
まずは、自身の言動をきちんと見て欲しい。
これを自観法と言う。
(なお、上の「あなたの所作、言葉は身体だけでなく瞬間の思考であっても真の意味で美しいであろうか。」以降の文章は、現在、真剣に障害身体を育むために氣道の指導を定期的に受けている人への文章ではない。)

  役者、揃い踏み (…という題名に一昨日はしたかったが、全て消去)
Date: 2008-08-29 (Fri)
当分、日記は書かないつもりであったが、一昨日の夜、驚くべき事があったので記す。
(なお、昨日も整体(氣道指導)を受けられた数名の方から「日記、楽しみにしています」と言われ、「人の日記を読まないように。」と伝え、笑いと共に、日記が月記である事も伝えたばかりではあるが。
 そして、ずっと横濱は豪雨。
 実は、4時間程前から、日記にどのように書こうかとタイミングを見計らっていたのであった。
 しかしこの天候では、関西の方々も、今日読まれる方にとっては…と思い、ずっと待っていた。
 とても、新しく素晴らしい事を報告され、それを聞ける身体状況ではないのではないか、と思い、ずっと待っていたのである。)
 しかし先程から雷も鳴り、いやいややはり、今日は日記で報告は難しいかと思っていた。
 
 俯瞰すれば思わせぶりの口調であるが、決してそのつもりではない。
 この雨により、多くの方々の心身が拭われる感が、この一週間の指導での観察でも思うからである。
 「良い日というのは、からっと晴れた晴天の日の事を言う」と数年前に聞いた時には、外の天気に左右さるのか!と驚いたが、熟年でなくとも生物が天候に左右されている事は否めなく、その為、季節の体操を毎朝行っている

 そんな訳で、一昨日書こうと思った文章は控えておく。
 …というか、その文章は、宮家の方ではないのだが、プライバシーの侵害というか、その方も人に知れず参加されたい、という想いがあるかと思い、一昨日書こうと思った文章を掲載する前に先方に伺ったのであった。
 そんな訳で一昨日の勢いはなく、そして今日はこんな感じになっている次第である。

 数年前までずっと身体を観察して明日以降の天気を予測し「会員用掲示板」に書いていた事は以前この日記でも何度かか書いた。
 テレビの天気予報は知らないが(ご存じのように私はテレビも新聞もとっていない)明日は晴れると思う。
 (「思う」というのは、今日は指導日でもなく、そしてまた外に行っていないので、観察したのがスタッフだけ、つまり5名だけであったからである。今日は年末、そして来年以降の根本的な事を「三者会談」として話合え良かった。皆さん、今後の協会は乞うご期待である。)

 そうしたタイミングがあったため、この本当の一期一会というか、一生に一度の合宿について言うのは、明日以降にしたいと思ったのである。
 そう、言いたいことは合宿の事である。
 最初で最後とチラシに書かれてしまった玉川温泉合宿の事である。

 ご存じののように玉川温泉は世界でも他に一つしかないホルミシス効果のある日本随一の湯治場であるが、一人では行きにくいだろうという思いと、効果を増す(というかそこを活用しなくては効果は半減する)スポットを殆どの方が知らないので、「氣道」協会で、玉川温泉合宿を行うことにしたのであった。
 (そのスポットは「自然掲示板」http://8003.teacup.com/joho1/bbsで書いている「仙仁温泉岩の湯」のあの胎内スポット(地獄)や天国スポットである山上の真空スポット以上に探すのが難しいというか、見つけても意味が分からないであろう。
 仙仁温泉のスポット探し同様、氣の道を深め(瞑想&自動運動など)ないと、なかなかあのスポットは見つけられないと思う。
 ────ただ、あの人だけは、見つけてしまうかもしれない。)
 
 まあ、そんな人は来るわけはないし、(いらしたら氣道の合宿どころか…になってしまう。普通だったら。)
 と思っていた頃、一昨日の夜電話のベルがなったのであった。

 (まるで以前の氣道協会のテキストのセリフのようだ。(イギリスから見ているBPさん、こんな日記をごめんなさい。またこの日記を守破離で臨書している方々ごめんなさい。今日は、臨書しないように!)私の今日一日は大好きなSKさんの事で本当にお詫びその他で動けなくなっていたのだから。
  この数年間、日々、カルテを見て「ホ・オポノポノ」の徹底版(以前日記にも書いたように、整体(個人指導)を受ける方にそれをを行っているので、結局、一回の整体で遠隔を含め3回以上(多いと6回)は確実に整体を受けている事になっている。)自分としては、否、それでなくとも、SKさんには本当に申し訳なく思っている。)
 
───ともあれ、一昨日電話が鳴った。
 その時に、まっちゃんが「留守電にするタイミングを逸してしまったのですが」と言った。
 電話の鳴り方が良く(ピュアでかつ燐としていた。なお「氣道」協会を興してから、初心会などでいつも言うように、私は電話の鳴り方でどなたかからかかって来たのかは、8歳くらいからは100%外れないが、このところは会員も数千になったので、この人ではないか、とは思っても知らない人が殆どで当たる確率は5割を切っているかもしれない。皆さん!こんなのは子供は皆出来るのですから、そうした感覚を、電話以外にも大事にしてください!!
 これこそ今日一番言いたいことです。)

───で、留守電にするはずの電話にまっちゃんが出たら、その人が正に「ただ、あの人だけは、見つけてしまうかもしれない。」という方であった。
 
 …そのように、この日記も冒頭に、まるで太極(陰陽)のマークのように繋がるわけである。
 (…と誤魔化すのはいけないので明日以降、実は誰がいらっしゃるか(先述したように)、ご本人の承諾も得たので書こうとは思っているが、おそらく今日、こんなに書いたので実名は遠慮して書かないだろう。
  宮家の人ではない、とも書いているし、たとえ、去年対談した成瀬雅春先生やその繋がりでそのあと私になったという苫米地英人さんがいらしてもいいではないか。(ちなみにそれらの方々同様に懇意にしている方で成瀬先生同様、尊愛している人であり、その方がいらしたから「氣道」という名称、そしてそのmethodや根幹も創られたとも思う。
 私はその方に初めてあったのは20年以上前であり、その時にも様々なのアドバイスを頂いた。それは心震えるような今思えば逆説的なアドバイスであった(私の文章を評価し(まるでオジイチャンの高橋巌先生のようだ)色々なコメントを下さった)が、オジイチャンと違って痛切であったため、私をして懸命に努力したのであった。)
 ともあれ、その方が地球に生まれて良かった、と個人的にかもしれないが、そういう人の事を言っている。)

 そういう人たち(知っているので、あえて「たち」と言う)が「奇跡の玉川温泉」にいらっしゃる。
 一人部屋をとられた。
 しっぽりと、ゆっくりと数十年の疲れをとって欲しい。
 16年前にお会いした時には、「ここには○○さんがいらしているね。」と言われた先生(○○は淨潤)であるが、その時の講座は心霊治療の体験談であった。
 本山博先生の著書に初めて触れた時は、興味はあったが心霊治療は確かであってもどうか…という感じてあった。(現在までの前世の捉え方と同じであろう。この違いを詳説に言うのは止めておく理由はさておく。)
 その後、本山先生の弟子となり、毎朝、午前4時過ぎに置き、いのがしら公園に毎日行き、ヨガと道教の修行に一年以上勤しんだのであった。
 心霊治療を現在の地球上では、その頃から厳密に、経験し、科学的に分析した本山先生の偉業は、ヨーガや、チャクラ、あるいはその他のスピリチュアルなものを、実際の身体あるいは論理と共に解析、解説したことと同時に、正に偉業に他ならない。

 そういう方も玉川温泉にいらっしゃる。
 
 皆さんは、自分の事をどういう位置づけにいるのだろうか。
 成功本が書いているように、その位置づけは、自己評価にある。
 しかし、自己評価を高めようと思っても(この一週間、苫米地さんを初め素晴らしい本は続出しているが、しかし根底は変わらない。その「変わらない」という事に気付くかどうかであろう。そうでなければ、面白い本がでました、になる)、
なかなか出来ない。
 その意味で、聖書は面白い。
 
───そういふ事。
 聖書の面白さ、老荘の面白さ、晴哉氏とエリクソンの共通項の面白さ、クリシュナムルティの面白さ、
  それを感じてくれたから「その人」は一期一会の旅として玉川温泉にいらしてくれるのであろう。
 
※なお、「氣道」協会で行う「最初で最後の奇跡の玉川温泉合宿」については、ここで紹介している。
 http://npo-kido.com/tokubetu.html#tamagawa
 協会に電話(045-261-3300)かFAX045-261-3304すれば、更に委しい資料(といっても上述の「自然掲示板」のものであるが。)を送らせて頂く。
 
 「氣道」協会はNPO法人である故、お金はともあれ、こうした事を広めることを趣旨としている。(お金はともあれ、という意味は鑑みて欲しい)
 博士号祝賀会やそれ以前にも驚くべき事が怒ったので、「去る者追わず、来る者拒まず」でなく縁少無き者は去るようと、関東の感覚開発講座で紹介した技術を行った。(その後、更に徹底させ、縁濃き人のみ残るようにした。)

 その結果、ふっと来なくなる人が多くなり、スタッフも驚きの数週間〜一ヶ月以上があったが、逆に縁ある人は強くアクセスするのは本当に驚きであった。
 今回はまさにそれであった。
 
 ところで、
 あと数十年、皆さんは生きるつもりだろう。
 氣道には延命という概念は一厘も無い。
 癌やエイズで玉川温泉に行くのも良いだろう。
 しかし、全く健康体であってもそこに行く意味は一生に一回はあるとは思う。(但し日本人に限る。)
 最初で最後の玉川温泉合宿とチラシに書かれており、そしてその中で、玉川温泉を「ここを知らなくては、玉川温泉で癌を治そうと思っても難しいかもしれない」という上述のスポットの事も書いた。
 昨日もそうだし、いつもそうだが、横濱道場(東京もそうだ)には、遠いと沖縄、青森という、遠方の方ばかりが、私たちの5分足らずの事もある整体(氣道の個人指導)を受けにいらっしゃる。
 (そして遠いので心理的に効果があるという事を私は使わない)
 私は別としても、私たちの整体は、玉川温泉以上に効果があるであろう、と思うが、それでも、その貴重な機会を大事にして欲しく思うのみである。

 最初で最後の玉川温泉であり、玉川温泉にある秘湯(上述)を紹介する最後の機会かもしれないが、私の母を含め、本当に万難を排して行きたくとも行けない(他の生命がかかっている)人もいると思う。
 誘うのはこちらの勝手であるが(なお皆さんご存じの如く、もちろん私の収入には無関係である。念の為)、そんな言葉に惑わされず、どうか自らの生を全うして戴きたいと正直思う。

http://npo-kido.com/tokubetu.html#tamagawa


  真の整体… (ホ・オポノポノA)
Date: 2008-08-25 (Mon)
配偶者や両親にも導かれた事のない意識世界を体験させてくれた感謝を私の整体を受けた或る方から頂いた事があるが、真の整体を受け今まで経験した如何なるドラッグよりも意識変性を起こした事が何度もある。
それは天心による愉氣の為せる事だが、苫米地英人流に言えば、限りなく抽象度の高いエネルギーによる内部書換えの結果である。
同時にそれは、当人の氣の流れに連動する身体修正技術にも依る。
或る有名な書家が晴哉先生の一度の整体で今までどうしても完全には書けなかった円相が書けるようになってしまい、今までの数十年の努力は何であったのかと地団駄踏んで悔しがり苦情まで晴哉先生に言ったと言うが、変化するのは身体や技術に留まらない。
身体が変化する事により自動的に深いレフレーミング(心理的枠組み変換、メタ・モデル)が生ずるため、あらゆる事象の捉え方が数分前とは全く変わってしまい、視覚的にも物の見え方が変化する事も多い。
私はこの37年間数多くのセラピー(ミルトンヒプノシス、NLP、現代的催眠、ユング手法、音楽療法、ホ・オポノポノ、絵画療法etc.)やチャネリング、リーディング、ボディワークを受けたが真の整体はそれらを遥かに凌駕する。おそらくはそれらやそれ以外を全て包括する、太陽系を包括する大宇宙の如くの感があり、それ故、同時に次元の違いを感ずる。

変化を実感するという事は細かく深い内感作業と透徹した微細な意識の現れであり、その能力は呼吸の統御力に比例する。
一言で言えば、息深く心閑かな状態をいかに深めるかが変化を感ずる尺度であり、それは同時に変化を誘う原動力でもある。
それ故、内感や自動運動、瞑想等の氣道methodに修熟する者こそ変化を迎えそして感じ易いが、真の整体は逆にそれらの質を根底から揺すぶりまるで魂までもと感ずる質的変換を及ぼしてしまう。
真の深さはそのままに究極の広大さに繋がる。
ありえない深さを味わうと意識は無限に拡がるのである。
深きは広きに通じ、内は外に他ならなく、否、内外は基より無い事が分かる。    整体。
天地を繋ぎ、天地を越え、超えた自をも越え、その外をも越え、越える動きをも越え…そして今ここにも還るという、物理の一瞬間の中でも幾重もの輪廻をも経験させてくれるもの。
あるいはその契機となるもの。
そして自らと現実を育て、明日を育むもの。
(所以に自然なもの)

  或る方への返信メールより
Date: 2008-08-24 (Sun)
Nさんへ
お便りありがとうございます。
お久しぶりですね。
先日の滝行ではお会いできず残念でした。
洒水の滝は県の調整で年々入るのが難しくなっているので、来年あたりが最後なのかも、と思っています。
ぜひ来年どうぞ。

>ちょっと聞きたいことが一つありまして、友人(の友人)が病気になって代替療法を探しているようで、淨潤先生のところを紹介しようかと思っているのですが、ただ、その病気が淨潤先生のところにおいて適応といえるのかどうかがわからず、事前に聞いておこうと思った次第です。

・了解しました。
(私たちとしては扱えない病気というのは基本的に無いですが、効果が薄い場合もあって、それは1、抗ガン剤などの免疫力を低下させる療法をしている場合、2、強い薬を長年飲み続けており、しかもそれが減らせない場合、3、治療者との相性が悪い場合(特に私たち東洋医学的な趣旨に賛同されない場合)の三つがあげられます。)

>情報が少ないので(^_^;、完治をお望みなのか、それとも症状は残っていいけど苦痛を軽減し少しでも楽しく生活できるようにしたい、というような意図なのか、今のところ分かりませんが、とりあえず、この情報だけで、、どう思われます?
お手すきのときでかまいませんので、返信いただけたら幸いです。

・「○○」は最近認められたやっかいな病気ですよね。
 「○○」と分からないでいるケースも結構多かったですし、現在でもそうだと思います。
そのためもあり私は数人しか「○○」の方は観たことがありませんでしたが、それぞれ身体が異なり、ちょうど更年期障害や自律神経失調症ではないですが、かなり個人差が身体にはあります。
その意味でも、この人が「○○」なら、あの人もあの人も検査をすればそうなるのかも、とも思っている次第です。
また逆に「○○」であっても全く普通に生活している人もいる可能性は大きいとも思っていました。

「○○」の方に共通する身体特性は、大きく言えば延髄の機能低下と脊髄の弾力がないこと。
細かく言えば、なぜか胸椎4番左の硬結と胸椎10番の捻じれがある方ばかりでした。

現代医学的には、以下のホームページがあるようです。(Googleでトップに出てくる二つをご参考までにコピーしました。
 注/ここではカット)

「○○」に限らず手術を薦められているどんな方にも言うことなのですが、
もし東洋医学的なやり方で身体を改善したいと思っているなら、数週間〜数ヶ月、手術を延期してもらって、その間にやる事を行なってみませんか、とお伝えしています。
その「やる事」とは整体やプハンによる身体の他動的な調整と共に、ご自分でも運動、呼吸、皮膚(温熱療法)、食事などの健康法を総動員して活用して戴くという事です。

ただ大事なのは、前述したように、その前にご本人が私たちの趣旨(東洋医学の考え方、氣道(自然に生きること)の趣旨)に賛同しているという事で、この最初のボタンがかけられていないと、後々、着れる服も着ることができなくなってしまいます。
(そのために私たちは滝行同様、会員制度をとっています。
 また「身心を育てる(簡単に言えば改善する)ことによって自然に生きよう」という氣道の趣旨により、治療、代替医療ではなく指導という文脈で様々な施術をさせて戴いています。
 結果的には改善されるケースが多いので本人にとっては代替医療的な位置になっているのでしょうが、どうも代替医療と考えるのを止めて、ともかく身体を総動員で楽しく変えよう!と決めるとかえって良くなるようです。)

また、慢性病や重患の方には、食事療法の指導に0リングテストを活用しますが、その際に私たちは基本的にサプリをお薦めしないのですね(マコモは除く)、その意味では、たとえば快療法ですと、運動療法や整体、プハン、呼吸法については私たちのほうが詳解できますが、その人に合うサプリをその都度提示してくれます。
そのため合うサプリの提示をお求めの方には快療法をお薦めしています。

───以上、お役に少しでもなれば幸いです。
もしも私たちのことに興味がありそうでしたら、パンフなどお送りしますので、mail@npo-kido.comまでご連絡頂けたら幸いです。
 
では、まだ残暑は続きますが、Nさんもご自愛くださいね。

(昨夜の関西支部5周年企画を終え、横濱に戻る新幹線より。
 今日はこれから整体(氣の道の個人指導)そしてマコモ風呂講座なのですよ。Nさんもいずれぜひ!
 入浴後は美味しい生ビールが飲めますよ! 淨潤 拝 )
 

  芦屋にて (礼節)
Date: 2008-08-22 (Fri)
東京道場での指導後、芦屋へ。
(東京駅までのタクシーは、昨年、成瀬雅春さんとの対談の時にお世話になった運転手であった。
 彼はまたしても、否、それ以上に「最近信じられなくツイていて…」と。その話が終える頃東京駅に着く。)
今日、K本さんが、この日記を読み感動した、と仰ってくれた。
私としては、自分の正直な想いを吐露してしまった感覚があったため、その翌朝から日記を再読するのも恥ずかしく見ていなかった。
「人の日記を見てはいけません。」などと、訳の分からぬ言葉を整体中に言いながらも、Kさんの生命そして魂の美しさに感動した。
思わず、今も仕事中であるが、日記を点検…
そして冒頭の文章に続く訳であるが、真に正直すぎる独白に恥ずかしくなり、同時に不適合な言葉も目立ち、若干校正し、今を迎える。

明日は関西支部、ティアラの5周年の日。
今日はここでは珍しく赤ちゃんや妊娠中の方が多かった。
滝行の時、M本さんが「祝福」の意義を仰っていた。
彼は自身の誕生日であることも内緒にしていた。
私もそうだが、きっとはばったいのだろう。
あるいはそうしたきちんとした祝福をして下さる方、ご祝儀を下さる人に、お返しはどうしたら、などと考えるのかもしれない。(?)

人に体癖あり。
否、体癖あって、私たちは生を選ぶ。
シンメトリックなところに生は生まれないという。
個性生じ、生命(イノチ)生ず。

一つでも嫌な想いをすると、それが数十年前の事であっても昨日の事にように感ずる体癖もある。
損な身体だが、逆もある。
その構造は単に骨盤の開閉度ではないが、私をして言えば、祝さない方だけでなく、祝してくれた方を一生忘れない。
きっとM本さんもそうかもしれないと、その時思った。
そうした事がなぜ日本の常識となっているのか。
日本の身体感覚としてその体癖があるのかもしれない。
一生残るものを日本の常識として礼儀として扱っているのだろう。
そして、その中核は礼という互いの生命(イノチ)を尊重する調べであろう。

(現在まで、数十人、晴哉先生の整体を受けた方の指導をした。
 最初は怖かった。
 そして、その方々の身体に晴哉先生の氣を感じたく思った。
 様々な講座でその事について数年前まで言っていた。
 現在、その共通項がやっと分かった。しかし前の日記同様、それが何なのかは敢えて言葉化はしない。
 しかし、たとえと言うなら、一つは個を真に認むる自由であり、一つは礼節なのである。)
 それは、感情に任せて言葉を発声する人(自我の個)や、ざあます言葉(礼節の形骸)が嫌いであった晴哉先生の裏返しでもあろう。
 まず初心者は、その後、瞑想を氣道を深める旅のためにも、自身の言葉を見つむるべきだろうが、そういう人に限って私はいいのよ、と言うのも微笑ましい。
 苦労するのは配偶者や家族であるが、動物のほうが人間の心が分かると思い、精進するのも良し、分かれるのも良し、しかし人間になりたき動物はもっと人間になるべきであろう。
 そういう方は自動運動は得意であるが本当の瞑想は不得手である。しかし徹底した自観法(自分の思考を見つめる)を行なうのと、それを見つめる自分…と人間のみの感覚を目指すのも一法だろう。

 人はいつも、その人の物語りの中で生きる。
 それ故、こちらの物語りを語り過ぎてはいけない。
 同時に、人はいつも自分の物語りを創ることが出来る。
 ミルトン・H・エリクソンの流れで20世紀後半に出たナラティヴセラピーではないが、もっと氣のレベルでもそれが実証できるし、皆さまにも紹介したい。

 今、M本さんが明日いらっしゃるという情報を伺う。
 このタイミングで聞けたこと嬉しく思う。
 
 人に「おめでとう」と言わなくてはいけない時はキチンと言い、そしてもちろん言う自分になっている事を創る作業をするためにこそ、氣道はある、と前述の文脈で言うが、
 (言えないのは自身の或る部分を否定するのは知っての通り)
 
 明日は、心からおめでとう、と言いたい。
 (あ…、関東からもまっちゃんがそのためだけに日帰りで来てくれると言う。)

 生まれたものは必ず死ぬが、生まれることが尊い理由がある。(礼)
 

  【氣道の学校】終える。 (I.m tuner.)
Date: 2008-08-20 (Wed)
皆さまの美しい旅にご一緒させて戴き有難かった。
前回のゴールデンウィークの反省により、【氣道の学校】basicと連続して行なったadvance(【心の学校】)であった。
今回は私自身が砂浴、滝行という海による大地の禊ぎと山による水の禊ぎという「氣道」の二大禊ぎの前に、再度【氣道の学校】を行ないたいと思っていたのであった。
その間、自身としてはすぐに【氣道の学校】に向いたいエネルギーが他に放出されたのか、様々な所で様々な事を学び、installされた。(XPサイレンスをはじめとするものだが、その現れとして感覚開発コースも行なった。)

今回【氣道の学校】(basic&advance)を行ない、参加者が本当に変わっていくことを感ずるにつれ、「氣道」の主軸を明確にする事を講座後の反省会でも確認した。
曰く、advanceという表記やはり無しで、また、このマンツーマンコースこそ【氣道の学校】ではないか、等々。
名称を変えるのは、会員の方を惑わせる故、据え置きたいのではあるが、今回の【氣道の学校】advance(【心の学校】)が、真の「氣道」を伝えるコースである事は他ならない。
何十年もの想いや、過去の大きなトラウマが一瞬で溶ける事もあり、逆に大したこともないと思っていた事が時間がかかる、というのは、身体感覚を重視して行なっているが故の事である。
何にせよ、自分の人生を決めうってはいけない。
それは変化するものである。
そして、変化しないことは変化することしか無い。

そのように【氣道の学校】advanceでは身体感覚を重視するが、それは一言で言えば、行氣という内感であり、その意味では、ダン先生の内観技術を徹底して行なう方は見事に成し遂げる。
では、ダン先生のところに行かねば行氣は完全に出来ないかと、逆の問いもあるだろう。
答は、そうではない。
しかし、緻密に自身の身心を感ずる尺度に於いては同じである。
その意味では【氣道の学校】はやはりadvanceなのかもしれないが、しかし、これこそ【氣道の学校】なのである、という事を今回再び感じ、advanceという言葉を取りたく思った訳である。

「整体」は「氣道」の個人指導である、と言い続けても、それが言葉としか響いていない方が殆どであろう。
今述べた【氣道の学校】もそうだろう。
 運を良くしたい、仕事も金運も…
 ならば、私だったら整体(個人指導)を受ける。
 これは真の実感である。

 治療の文脈で整体を活用するも良し。
 しかし、整体で身体が整うと(整い安定するのが数日後になる事が多いが(それはpianoの調律もそうだろう)、場合によっては数週間かかる事もある)、どうなるのか?
 そして、健康な人が整体を定期的に受けるとどうなっていくのか?
 つまり、その都度に「ほんとうの自分の身心を目指す椎骨(身体)状況、身心状況に調律されるとどうなるのか?」。
───答は言わない。
 しかし、その答を、毎日、毎日、私はその方々の身体に触れるつれ知らざるを得ない。
 貴方の目指す目的は、貴方の運命は、そしてそれを改善する努力は…と。
 それは野口整体の技術、というか「氣道」の指導技術を持てる人は皆分かる事である。
 私たちは身体を通して生命の運びを調律する。
 
 さて、整体の活用の仕方は、人それぞれであるが、「限りある人生を十全と全うされたい方」にはお薦めしたい。
 それのみである。
  
 頭が良くなりたい、仕事を良くしたい、人間関係を良くしたい、お金回りをよくしたい、夢を見つけたい、夢を実現したい、
 私が知る限りには、「氣道」(自然(裡)にそって生きる)以上の答えが無い。
 そしてその為の具体的な方法を言えば、【氣道の学校】であり、「氣道」の個人指導(整体)である。
 
 (どうぞ遠慮なく、今回の整体(個人指導)は「これを目的」と仰って下さっても構わない。
  たとえば私は或る方に整体を受けているが、受ける以前は依存と思っていた。
  全く違う。
  整体(氣道の個人指導)は、人を溌剌と十全と命の全き全焼させるものである。
  
  ピアノ、書道、華道、その他、何かお稽古事を学ぶ方は月に二回でも受けたら分かる。
  その技術がどんなに格段に進歩することか。
 
 私たちは、延命を目指していない。
 限られた生命の中、十全に羽ばたくだけだ。
 安穏として生きるのも良し。
 しかし、ほんとうに生きたいのなら、そしてもしも、あなたがその事に賛同するなら、整体(個人指導)を活用するのも良いだろう。
 
 このように、ここまで個人指導(整体)の事を言ったので、今後はあまり言いたくないが、あまりにあまりに残念なのでつい長くなった。
 (そういう感覚的な事を理解する即興演奏の音楽家でもそれを痛感する。
  人として生きるということ、その時に身体のチューニングを通し、様々なことが(運命までも)変わってゆく、としたら… 
  わたしは、現在、これ以上のことを知らない。
  10年以上の歳月をかけミルトン・H・エリクソンと野口整体の統合をした後は、その主軸を基に、家数軒分以上のお金と時間をかけ、それらの結晶として氣道の(個人)指導(整体)がシンプル出来上がった。
  (その過程では、今まで6分で行なったのが20分枠になったりなど、学んだことを吸収、統合するために指導時間の変遷が幾度もあった。「もしかしたら」今後もそうなのかもしれないが。)
  しかし、もしこれ以上のものがあったら教えて欲しい。
  頭を垂れ、学ばさせて戴きたい。
  今後も、氣道の指導(整体、そしてそれに限らず)は野口先生やミルトン・H・エリクソンをたたき台としているのは述べた通りであるが、限りなく進化、深化してゆきたい。
  それこそが、私が遺すものなのだから。)

───話を戻し
 ともあれ、自然という氣に沿って生きる氣道を伝えるには、整体という氣道のマンツーマンの指導と、講座という形を協会ではとっている。
  そして、講座の中核の流れは、初心会(氣道入門会)から【氣道の学校】となっている。

 運命を変えるほどに受講される方が変わるなら、それをどなたかに伝えたい。
 私しかまだ出来ないなら、まだ行なうが、どなたか行なってほしいし、また、このように私が言うのが、単なる矜持であるなら然るべき立場にありたい。

 今日は、美しく有難いひとが氣道塾にいらした。
 驚いた。何より有難かった。
 そして、真剣に、ほんとうに真剣に「いのち」、「生命」の道を目指すその立処に、感動した。

 私は、どんなことがあってもそれがある事を守り、育てたい。

http://整体(氣道の個人指導)とはと何か?


  楽しみ
Date: 2008-08-08 (Fri)
明日から【氣道の学校】である。(そして【氣道の学校】advanceにも続く)
「氣道」って何?
の答えは、言葉としては自然道である、と定義しているが、言葉としては自然道である、と定義はしているが、
いつも言うように、各自の氣道経験の中で浮き彫りになるもの。
「初心会(入門講座)」に続き、氣道を学んでいく講座である【氣道の学校】、そして続くadvanceは日進月歩で行なう私をして楽しみである。
青木先生から新体道の会報が届く。
いつもながらに冒頭の文章は身に響く。
今回は瞑想がテーマであったが、まさに氣道。
さて、明日からどのような旅が訪れるのか、乞ご期待の楽しみなのである。

(なお下記について。
 昨日は朝から大勢の方がいらっしゃり、本当に貴重なそして恵まれた一日となった。
 舞踏コース、氣道指導(整体)、ライヴ、その後の打上げも充実し、今後の皆さんの充足と発展が期待できた。
 写経については、ある人から「“辛さ(苦しさ)” の文章、よくぞ見つけて下さいました。 噛みしめています。」 というご感想を戴き、下記したようにその文章が取り上げられた事だけでも嬉しかったが、このように実際の感想も聞くと、皆のためだけにと書いた文章ではあったが、それが灯火が多くの方に伝わることが嬉しい。)
 
 これを読む皆さんの明日一日、そしてそれ以降も素晴らしい日々になりますよう、氣をこめて。 (淨潤拝)

  責任重大…
Date: 2008-08-06 (Wed)
今日は今月初めの「氣道塾」。
多くの方々がいらっしゃり皆さん自動運動と瞑想の醍醐味を味わって戴けた様子であった。
氣に沿って自然に生きる道を世界に伝えたい、と改めて思った。
明日は大野一雄さんのお弟子さん(芝崎さん)による舞踏コースが朝からある。
これは自動運動が中心で、舞踏のワークがあってもテーマのある自動運動という感じ。
先月からはBGMとして即興演奏家として著名な尺八とsaxの松本健一をお呼びして(私もピアノで参加)の贅沢な時間。(午前10時半〜12時。会員2000円一般3000円。予約不要。)
夜(午後5時半〜7時)は、松本健一と私に、コントラバスの河崎純が加わっての「即興ライヴ」。(予約不要。同料金。)
これまた先月も皆さん大喜びであった。(道場二階での打ち上げもまさに天国であった。
「この幸せ。。世の中、何か間違っているよ。」は、その時のマコモ風呂後のマツケン(松本健一)の言葉だが、參加者全員、その場のほんとうに限りなく閑かで居心地の良い雰囲気に同感していた。
さて、明日はどうなることやら。

それが終われば、土曜日からは氣道をお伝えする【氣道の学校】が東京道場で始まる。
続いて月曜日からは、行う私も楽しみの、毎回深化&進化しているそのアドヴァンスコース(【心の学校】)だ。
氣道の真髄を伝えたく、今日から生れ変わったつもりで臨んでいる。
(私は今年はこれが最後の予定ですが10月には佐野も【氣道の学校】とアドヴァンスを行うので日時の都合がつかない方はぜひ。)

それと今日は驚きの事があった。
この「日々是好日」が大学入試問題となるのである。
…とは嘘であるが、それに近い?事があった。
セールスレターの教材で菅野一勢さんという方は「文章が上手くなるには夏目漱石などをとにかく書き写すように、毎日マーケティングの神田さんなどの文章を書き写す事。これを写経と言うが、それを続けるだけで良い。」と言っているが、
と或る団体のと或る方が、『もし、あなたが変わりたいのなら』という事で、この日々是好日を挙げられているのである。(!)
ショックであった。
しかも、その方は、野口先生の文章(特に偶感集)も薦めている。
責任重大とタイトルにしたのはその意味である。
以前、私の好きな将棋指しである先崎学が自身のエッセイが国語の教科書に載った事に驚いていた経緯を書いていたが(文春文庫だと思う)、それ同様の驚きで、それでもこうして書いているのも彼同様の思考メカニズムなのかもしれない。(彼とは同じ体癖が入っている。)
そんな訳で、今も彼(先崎氏)と同じような感じの文章になっているが、更に驚いたのは、その人が、この日々是好日の中でも、これとこれは特に…と薦めている文章である。
それは二つあり、2007年3月18日の 『整体』と別日に連記した『辛さ(苦しさ)』という文章であった。
(あと2007年4月28日の 『心理指導法講座(潛在意識へのアプローチを学ぶ講座)始まる。』も 「段落ごとに主題がハッキリしていて判りやすい構成になっている」ので続いてお薦めとの事。)
 驚いた。
 しかし嬉しかったのは『辛さ(苦しさ)』の文章が取り上げられた事。
 実はあの文章に対して或る会員から意見があって、懇意にしている方であり、だからこそ私の抱えている辛さ(苦しさ)と合わせて考えたのか、その頃は、「以前の事、人はとにかく忘れなさい」などと、ご夫婦合わせて懸命な助言を戴いた。
 今もって読むそれらの助言(多数ある。全て上記の事を繰返し仰っている)は大変有難かった。
 それを心底信じ、私は新しい道を歩もうと決心しようとし、そして実際そのようにした。
 (その時には、「これで間違っていたら、後で責任をとってくれるのか?」とずっと(一年以上)思っていた。今でもそうである(笑))
 ともあれ、その頃に書いた文章であるが、その人に私は後日、こう言った。「色々と心配をかけさせて済まなかった。そして、私はそのようにする。もう心配しなくていい。ただ日記に書いた「辛さ(苦しさ)」の文章に関しては後日もう一度読み返して欲しい。私は当分校正しないよ。(※事実、全くしていない)」と。
 (彼にはその後も一昨年かな、滝行の時に「ほんとうに大丈夫になった。お蔭さまです。」と文覚荘での夕食時に言った事を思い出す。)
 そう「辛さ(苦しさ)」の文章について伝えた時の彼の表情は、ムーと頬に皺よせ頸椎2番と胸椎5番(6番まできていた)が苦しそうであった。
 これだけイメージが出来上がってはきっと読み返すことは無いだろうが、私としては今後、ほんとうに苦しい時、辛い時、どなたかがあの文章を読む事で救われたら、という思いで書いたので、不思議な戸惑いを覚えたのであった。
 更に言うなら、限りない絶望の時には、あるいは痛みの極致の時には、声は出ない。まして言葉にはならない。
 氣道家として、つまり生きている事だけが生きる目的である者であらんと、だからこそ生きている事だけが真の幸せに繋がっていくようとする者にならんと努め、その文章を書いた。
 そうした経緯故、感慨深いのである。
 そしてまたその彼がその頃常々言っていたのが臨書という事であり、それは今回の写経の意味と全く同じである事も不思議である。
 
 而して、その彼も、その頃の私も、もういない。
 人は6ヶ月で殆ど全ての細胞が変わる。骨でも一年で変わる。
 徒然草ではないが、行く川の流れだけが変わらない。
 そして、その流れの変わらない何かが氣道であり、それを伝えられたらと思う。

  追記
Date: 2008-08-05 (Tue)
ちなみに「グスンと泣いていた。」のは野菜たちがである。

  無題
Date: 2008-08-04 (Mon)
大好きな人には中々好きとは言えないもの。
夕べ持っていって欲しい二本の極上酒を忘れて行ったので電話したのだが朝起きたら、それ以外の持っていったであろうと確信していた最高の野菜たち(青木先生にご家族そろって懇意ある古くからの新体道実践家が作ったもの。長野小淵沢くまくま農園。)が忘れられていて、グスンと泣いていた。
その彼も大峰山の行を終えて今頃新幹線の中か。
ずっと応援していたぞ。
万感を込めて、ようこそお帰り!

  結果…
Date: 2008-08-02 (Sat)
「数千年前に生まれた風水を、現代社会にそのまま当てはめてしまうと、環境そのものがかなり変貌しているために、ほとんどの家のどこかの部分が『Bad風水!』に当てはまってしまい、それなら学ばない方がマシということになってしまいます。」(大道かほ莉先生)

 驚くべきことにそれ以上というか、その数十倍であった。
 苫米地メソッドの最先端(極秘だそうです)も公開。(彼女は苫米地さんの一番弟子?でもある。)
 「風水」をきちんと完全に把握した上での「完全風水マスター」が仰ることは、正に氣道。
 特に、最後の「なぜあなたの願いは実現しないのか」は、この数日全く同じ事を思っていたので、かほり先生とも驚きであった。
 今日のかほり先生は、以前同様、様々な情報を公開していらした。いつかこの講座の録画は販売したいと思っている。
 
 以前にも書いたように、何かに反駁を感ずる時はそれが自分の中にある。
 今日も新スタッフに「守破離」の事を言った。
 ほんとうに破り離れるという事とはどういう事かと。
 その答えは以前に書いたのでここでは省く。

  滝行
Date: 2008-08-02 (Sat)
「滝行」
何でもそうであるが、それをどのように活用するか。
氣道では1の中で0を実現させるという瞑想の訓練として行っている。
どれだけ荒々しい滝であっても、その荒々しさを全て受け止め、そして流し、同時に自らも消すという生きながら死ぬ方向性。
それはクリシュナムルティの言う沈黙への道程であり、彼が言うようにそこに美が現れる。
(もちろん美を求めるのでは決して無く。雪の結晶にも自然の摂理が現れるように。生命をも捨てる真の解放を通しそこまで行を深めてゆく。肚ある者が禊いで禊いで限りなく息深い真の静けさに至ろうとする過程にそれは現れる。その時現れる美は形骸的な美でも単なる静けさでもまとまりでも無い。雪の結晶。もしその美が結果として観ている人にも感じられる程に現れていたならそれは文字通り有難し。
 野口先生の操法姿を思い出す。)

  ………………………………………………………
(これを書いた12時間後、珍しく道場(横濱道場)に入る。
 目的は青木宏之先生の書。瞑目し、自身を何度も回転させ感覚を頼りに一度で書に触れなくてはならない。
 求めた書の脇にいつも置いてある青木先生の言葉を以下掲げる。)
 「愛も信仰も超え無に到達した者には無なる神が無なるエネルギーを間断なく与えるであろう。神に愛も信仰も持ちこまない真空の世界、私はそこから生命の力を得たいと思う。」
 この言葉に触れ、私は無を求め、そして氣道を興した。
 様々な旅があった。真空を感じて思うに、
 最後の「思う」という言葉は、青木先生をして遠慮だったろう。(既に先生は実現されている。)
 
 ───今回の滝行の感触を思い出し、つれづれに書いたが、その後、參加者が撮ってくれた写真を見ると、一部を除き、まだまだ甘い。
 上記した事が方向性としては現れているものの(その意味では今回の合宿は一つのターニングポイントになった)、美が現れるに至っていなく、書いた事が恥ずかしくなった。
 多く荒々しい。特に入滝時の思考が。写真とは怖いものでそれが如実に記録されている。
 もっともっと自然に、つまり余分な思考を捨てなくては。 滝行は瞬間瞑想行でもあると言うが、逆に言えば日頃の瞑想の成果が滝行に現れると感じた。その意味で滝行は生活の現れであり、それが写真に出ている。
 私は瞑想会でよく、命懸けで瞑想する(心、思考を鎮める)、という表現を使うが、滝行はその訓練としてとても良い。
 美はいつも其処ではなく此処にある。

  明日の事など
Date: 2008-08-01 (Fri)
久しぶりに横濱に戻る。
伊勢佐木町を歩きながら、ずっと一緒であった父を思い出す。
(以前にも書いたが父が青江美奈を呼び「伊勢佐木町ブルース」を歌わせた。この町は父の薫陶を受けている事を、私は挨拶される毎に負えない責任と共に、私もまたこの街に対して父のような表面的ではないが恐ろしい程の炭を埋めそしてそこで愉氣を行うという場にする事によって潜在的に引き継いだ事を思う。)

さて、下に書いた人生かかったライヴから既に数週間。
またもエアジンにてライヴを行う。(8/3)
委しくは、「音楽掲示板」http://6901.teacup.com/kidomusic/bbsなどをご覧になって戴きたいが、人間が全てを終わりにしよう、これを最後にしよう、もし万が一上手くいった場合は、しばらく生きようと命懸けの時には奇跡が起こるのだろう。
いらした方は少なかったが音楽的にはそう思う。
最愛のキース・ジャレットが来日しても、自分の音楽のため行かなかった事が続いた。
偶然に音楽的に世界でも全くオリジナルなものが出来たが、明後日は愛する松本健一(尺八等)も共演してくれる。
まるで聴衆の如くに、今から楽しみである。
(演奏者としては同時に、厳しくも楽しみの時間である。)
前回のライヴの時には、「ご縁のある方のみどうぞ」という感じで告知したが今回も同様。(このところハッキリと毅然として縁無き者を拒絶しているのは以前にも書いた如し。唖然とする程色々な事があった為、愉氣を活用し完全にそうさせて戴いた。)
ただお知らせしなくては、ご縁も出来ないため告知する次第。)
 生命をかけた演奏を今回も行う。
 
 さて、明日は、風水の講座。
 世間では風水のことはハヤリではあるのだろうが、明日の講座はちょっと違う。
 横濱道場も風水の恩恵を活用しているが、その私をして驚きの風水である。
 講師の大道かほ莉先生は私の幼なじみの方だが、明日の内容を聞いて思わず言ってしまった。

 「ええっ、それは物凄い。
  私も様々な風水、気学に触れてきたが、原点のチベットのものを、そんなにシンプルに?!」

 かほりちゃん先生(私はそう呼ばせて戴いている)は、「そう、これは物凄いのよ。」との事。

 私は、以前、カタカムナの楢崎先生の一番弟子の宇野多美江さんのご自宅に招かれ、場のエネルギーの流れを色々と教わった。
 それは修験道で学ぶ様々な技術を超えるものであった。
 その後、20年間さまざまな土地、家屋を観、そして実際に御祓いや注意点などを述べてきた。
 しかし、今回のかほりちゃん先生の講座では、それらを包括する感があった。
 
 今日戴いたメールにこのような言葉があった。

 「目に見えない事を伝えることは、とても難しいことだし不可能に近いことですよね。。。。
  伝えたい側がそれこそ「目に見えない形」として、受講生のみなさまに伝授する事になります。
  (言葉と画像以外にも苫米地流??みたいな内部表現を使って教える)
   そうすることでしっかり自分のものとしていただけます。
   参加してくださった方の『視点』を少しでも高めたいです。」

 まさにカタカムナ的、氣道的。
 (ちなみに苫米地さんとは、現代心理療法の大家ミルトン・H・エリクソンのメソッドを日本に最初に紹介し、警視庁に依頼されオウムの脱洗脳を行った方。)
 その意味でも楽しみであるが、ただ一つ最後に。

 「大道先生のところに行けば、自分の家屋についてコメントを聞けるのでは?」
 ───それはありません。
 会員の方から似たようなことを伺ったのですが、それはありえません。
 大道先生は、「今回の講座のためだけに」外国に行き、再確認と
共に講座の充実を図って来ています。
 午後1〜6時の5時間で二万円とは一般的には高いと思うかもしれませんが、本当に信じられない程の準備をされていらっしゃり、その意味だけでも、この金額は安すぎるほどなのです。
 (頭が下がる思いです。)
 
 今回の講座は、ほんとうに貴重な機会だと思います。
 ご自身の場を観て戴ける機会も、現在のところ參加者が10名ほどですので、「もしかしたら」あり得ると思います。
 (繰り返しになりますが、この講座を出ないで、それはあり得ません。)
 上記のように參加者が少ないため、当日突然での予約も承れる状況です。

 「ご自身の住まいに少しでも不安な方」(ご存じのようにマンションでは3階以上、特に7階以上は絶対駄目と20年前から私は言っています。グランディングが出来ないため奇形児が産まれるなどありますし影響強くそれだけは私も難しいと思っていますがその意味でも期待しています。)
 「住む場所をより良くする事によって心身を育みたい方」は、二度と無い機会だと思いますので、ぜひお薦めします。

※以前から、ここで紹介すれば良いのに間際になって申し訳ありません。

  感謝。
Date: 2008-07-22 (Tue)
音楽人生のかかった大挑戦のライヴ終える。
途中、背中から、ああ今、この人が帰ったと分かった。
このところロイ先生が実は内感を行なっていたことを知る。
ライヴ時には様々な方が様々な想いでいらっしゃったが、それ以上に、私たちは音楽を命懸けで創る、という四人の想いが集結した。
研ぎ澄ませた感覚だと騒音の中でも針一本落ちただけでも分かる。
私の行ないたい内感的演奏の一つの節目であった。
ダン先生の行なっている内観に限りない賛同をしつつ、自らの音楽や整体を創る私にとって、この日の演奏は、結果的には今までの集結でありながら、初めての雄叫びを上げたのかもしれない。
第三者的というかジャンル的にも、誰も行なっていない音楽にはなっていたらしい。
エアジンのマスター(梅本さん)が今回のライヴ前から心配していた。
最先端のコンピューターを駆使したラップトップとフリージャズとの組み合わせは、音楽的に初めてであり、まして私の演奏は単なるフリージャズと異なり細かい生音ならではのものがあるので、これは冒険というより無謀だ、と。
 しかし、私はこの冒険を20数年前から演りたかった。
そして当日は梅本さんも音量調節をはじめ本当に氣を使い、仕上げて下さった。
単なる現代の音楽の象徴であるラップトップ使いでないことは、前回、依田拓さんの演奏を1分くらいだがピットインで聞いた時から感じていた。
この人こそ20数年間の想いを実現してくれるのでは、と。
(そして実際演奏し、そして話しも出来たが、本当に素晴らしい人(男)であった。)
一緒に行なっていた中村大さんのエレベもほんとうに素晴らしかった。
「これだ!」と見つけて、長年(そうツノ犬にだけはずっと前からこういう組み合わせでいつか演りたいと言っていた)の夢が叶うかもしれない、と思ったのであった。

演奏後、私たちは終電まで、深い、細かい、即興演奏の談義を行なった。
大さんと河崎さんが帰られた後も、依田さんと様々な話を、そして今日の演奏をかけながら反省し、気がつくと3時を回っていた。
(依田さんは愛知からわざわざいらっしゃり明朝も朝早くであった。大変申し訳なかった。)

音楽の上での新生淨潤も今後ご期待頂きたい。
(次回は8/3にエアジンで、大さんは参加出来ないのだが、新たに松本健一(尺八その他)が参加し、そして依田拓さんは出演する。今から本当に楽しみである。)

内感と内観は相通づる。
先にライヴ時に様々なエネルギーについても触れたが、
「或る現場は、その人の全ての現れ」なのである。
(それをどのように捉えるかは、常に言っているように、私たちは全員、個々それぞれの「観念」という色眼鏡を通して現実を見、そして解釈したり感じたりしているので、現実自体を味わっていないのであるが、ここではそうした意味を含めて、その人の観念が作りたい現実(そう自分が捉える現実)を創っている、という意味である。)
自然に生きるということを氣の道として提唱しているが、今日読んだ甲野善紀さんと桜井昇一さんとの対談にも自然に生きるというフレーズが書いてあり、大変嬉しく思った。

自然に生きていれば、様々な想い、思考、氣に気付く。
だから、武道なり麻雀なりにも活くる。
逆も真なりだが、それには真に内感そして外感(これは造語であるが、単に方向性その他が違うだけである。ちょうどダン先生とロイ先生がそうであると私が感ずるように)も出来なくてはならない。
何かを評価する時は、全て自分の評価である、という事を常に言っているが、今日、中川一政のエッセイを久しぶりに読んで得心した。
そして彼の言う、ただ「見ることが出来れば良い」という事。
私も10歳の時から麻原先生(美術評論家。シュタイナーの高橋巌先生の一番弟子)に「先生、どう描けばいいの?」と聞く毎に「描くな。ただ見なさい。」と長野の自然の中で教わってきた。(何十回どころではない。)

「見る」は様々な定義がある。そうしたように先の観念のカラクリからしても「全ての言葉は禅問答」なのである。
 実は互いに自問しているに過ぎない。

 ここで書きたいのは、その自問した答えで時に傷ついたり、時に嬉しくなったりするだけが殆どの私たちの「生活」であり、それは甲野さんの言う定まっている運命(というか私の身体感覚での絶対的運命のこと)から自由になれていない姿なのである。
 よく、他人は自分の鏡とか言うが、そうした知識でなく、それこそ、自分の前に鏡を創っているのである。

 それ故、運命から自由になるには観念から自由にならねばならない。(論理的飛躍があるが、その間を埋める言葉を書く余裕が無い。それこそ禅問答として?ご寛容頂きたい。)
 全てに気付くには観念から逸脱されていなくてはならない。その時、運命の位置も分かるのかもしれない。
 観念から真に自由になる事は運命からも自由になるということであり、それこそ「自然に生きる道」なのではないか、と思った。
 否、逆に言えば、自然に生きる事により、そういう事が可能なのではないか、と思った。
───ならば、自然に生きるにはどうしたらいいのか。

後年、無重力状態だと殆どの人が思考停止を味わう事を知り(まるで羊水の中の胎児のようだ。その意味、言いたいことはお分かりだろう。)、私は、観念(運命)の呪縛を解く鍵を握り、なる程、、、

───そして、先人の紹介していた滝行や自動運動、瞑想、その他行法の意味を知らせて戴いた。

一昨日、ライヴ後に四人で真剣に音楽の事を語ったと書いた。
それは、命懸けで即興に取り組む者たちの会話であったろう。
「この会話をCDにしたいものだね。」と冗談で私が言うと、その言葉が冗談である事も多重奏の深みで分かってくれる、一瞬一瞬を大事にしている方たちであった。

 皆、当然の事ながら、身体感覚をとても重要視している人たちであった。
 (その意味でも、8/3のマツケンも加わるエアジンでのライヴは興味深い。)
 かけがいがない。

 その時にも語ったが、私をして整体をする事と音楽を行なうことは同じである理由、そして様々な音楽的試みを竹内直さんと行なったが(数十種類以上ある。観客を無視して、丹田を意識して、互いの演奏位置を、その他考えられる事は全て行なった)、最後に私たちは結論を得た。
 その結論は理屈ではない。
 身体いな身体を越える身体感覚であり、その時に直さんは「音楽をやるしかない。それでいいのです。」と仰った。
 …その意味が、分かった。
 二人で、あるいは一人で行なう時も、音楽と共にあれば良い。 それは、この文章を読んだ方の捉え方とは違うかもしれない。
 しかし、私は直さんの言葉が痛烈に響いた。
 …というのは、結局、「これ」に乗っていけばいいのだ。
 「それ」は直さんの言う「音楽」だ。いわゆる音楽ではない。
 それは中川一政の言う「見る」と同義語であると、今日思った。
 そして、「これ」なり「それ」なり、言葉の領域ではない。
 それを、このように伝えたく、という意味で書いているが、その意味でも先述したように、私たちの会話は禅問答なのであろう。
 (ここで一つ素晴らしき書を書けば言葉要らないのであろうが、それが出来ないからこそあえて言葉にするのは造語であるが「筆を濁している」。)

 しかし、その意味では矛盾を矛盾のまま置こう、そして…という甲野善紀さんの言葉と同義であろう。
 一昨年の【心の学校】でも、「どんな素晴らしい防御をも破る矛と、どんな素晴らしい攻撃も防御する盾は両立する」
 ───と言った。
 明確な「矛・盾」こそ、真の道への門空けなのかもしれない。

 さて、今日、ある有名な禅師の話を読んだ。
 その人は、以前より、禅の道を歩みたいと思いつつ家族の関係で許されなかった。
 江戸時代の事である。
 一年に一度、名僧が訪れるので、その時に入門したいと思った。
 一年前から酒びたりになり、皆に迷惑を敢えてかけた。
 そうでなくては、入門する機会を得ないのではないか、と思ったからである。
 当日、名僧が言う。
 「お前は色々な方に酒で迷惑をかけているらしいが、今日は、私がお前の酒の相手をしよう。」
 「老師。その言葉、ウソじゃありませんね。」
 飲みに飲み、翌朝、老師が籠に乗ると、その男が付いてくる。
 付いてくる。
 必死の形相で、江戸まで行かんと付いてくる。
 「何だお前は! お前との酒席は終えたではないか。」と籠を止めた老師が言うと、
 彼は土下座し、
「この日を待っていたのです。今日から入門させて下さい。」と言った。
 
 今となっては、どちらも歴史に残る名僧である。
 時に彼、47才であった。

 私たちは常に一番若い日を過ごしいる。

 常に日々新たに生きようではないか!
 
 

  明日…
Date: 2008-07-19 (Sat)
明日は久しぶりに大挑戦のライヴである。
20年以上前から、こうした試みをいつかしたかった事を行うのだが、その意味だけでなく、大袈裟な言い方ではあるが、私の音楽人生のかかったライヴである。
もし「今後いつかは私のライヴに行ってみたい」という方がいらしたら、是非ともいらして戴きたい。
(委しくは「音楽掲示板」http://6901.teacup.com/kidomusic/bbsに書いたので、ご参照の程。)

先日「育児講座(妊娠中の注意点)」を行った。
下でも書いたように、恙なく迎えられ、氣道の立処から妊娠についての捉え方、その期間の留意点その他基本的操法をお伝えした。
しかし、その後、妊娠出産に関わっている整体指導者の知識や技術の未熟を知る機会があり驚く。
もちろん前記講座はプロの為の講座ではなく、あくまで現在妊娠中、あるいは今後予定の方やご家族の方を対象にした講座であるが、それでも後日重要な8ヶ月目の腹に風を当てる事を知らないプロの方がいらした事を知る。
まして、胎児をめぐる人間関係の重要性を具体的に知らない方や、これは今後、整体を学ぶ方のため、あるいは妊娠を妨げる腰椎1番5番の下がりや、流産癖の腰椎5番陥没と骨盤の開きとか胸椎4番や腰椎4番の習性的以上とか、基本となる胸椎4番左一側〜胸椎9番、10番の処理の仕方をも知らない事(ツワリの胸椎左一側に硬直の場合と右二側にも硬直が出ている違いも知らない…まして右二側の硬直直だけの場合も)、そしてまたさらには妊娠初期には母体を中心に中期は胎児を中心に愉氣をするのであるが後期には母体を中心にするという明確な区別を知らない事に、愕然とした。
 これでは、再度というか、そうしたプロの為に、あるいは整体を勉強する方の為に講座を設けないといけない、と思った。
 しかし、数年前、氣道の定義を自然に生きる道、氣の道と変えてから、私は知識や技術を伝えるのから今までよりも増して離れたくなり、まして現在では以前にも増してその感が強い。
 けれども、こうしたプロの現状を見るに、それでもその方々はそのまま妊娠出産指導をしている訳であるので、どうしたらいいものか本当に困ってしまう。
 おそらくはそうした方々は野口晴哉先生の著書を習熟してそれだけで完結しているところもあるのではないだろうか。先生がそれ以外にきちんと伝えている知識や技術を勉強せずに、一般レベルの知識技術の段階でプロとして生業を立てているのではないだろうか。
 もしもそうだとしたら、それでは野口晴哉の知識や技術で生計を立てている(そういう人が多いと思う)にも至らない。一般の方でも購入出来る本の知識を自分の体験と照射して紹介、提示しているに過ぎない。
 
 会員の方ならご存じのように私は妊娠、出産、育児に関しては20数年間、全く語らずにいた。
 氣道そしてその他者へのアプローチである整体という文脈に於ても最も重要な問題と捉えていたからでもある。
 それ故、何千人の妊婦や赤子を整体しても約束は守っていた。
 
 どうか、上記の言葉は、その言えずに言えなかった20数年の憤懣と捉えて欲しい。
 (それがたまたま昨日今日とそうしたプロに出会っただけだろう。)
 上述した理由で私がそうした講座を行うのも荷が重い。(考えてはいる。)
 どうか、プロの方はきちんと学んで欲しい、と切に願う。
 (知識や技術を知らなくても感覚があればいい、とも言えるのであるが(大賛成である。そこまでの知識や技術をも即興的に産み出す事は可能であるし先人もそうていた)、しかしそうでも無いからこの拙文を書いている。)
 私に関わるプロの方から一際に嫌われ引かれそうな事を書いたが、どうか、いのちはともあれ生命への、そして赤ちゃんへの感覚は高めて欲しい。
 最低限の知識、技術のレベルが低すぎるため、その感覚自体が乏しい方がいらっしゃる(「型と即興」という芸術(整体も芸術だ)で常に現れる相補性)、という事を言いたいだけである。
 皆が頑張っているのは分かるが、上にも申し上げたように晴哉師の纏めたものを自らの食いぶちにするのは小汚い。
 この拙文は自分自身に言っている。
 0さんが離れる前、どうしても赤ちゃんの気持ちが分からなかった。
 それを指摘しようとしたら、その前に上塗りされた。
 今日も、そのような嫁姑の間があることを或る会員の方から聞いた。
 言葉は言葉であるが、赤ちゃんはそれ以前の事で生きている。
 そのためにも、私たち(この場合は指導者という意味)が万全と期するためには、医師以上の知識はなくとも、プロとして本当に最小の最低限の知識は必要だろう。(それが本に載っている事ではとんでもない事は既に書いた。)
 今、ここに晴哉師がいらっしゃると思うと悔しくてたまらない。
 全て自分に言っている事ではあるが、互いに精進しようではないか。
 (繰り返すが20数年間の想いがせききった独白としてご寛容戴きたい。)

 明日、姫路からライヴにいらっしゃる方がいる、と十数分前に聞く。
 いのちの調べに身を虚にして、そして実にして向かう。

http://6901.teacup.com/kidomusic/bbs


  祝福
Date: 2008-07-14 (Mon)
久しぶりに酔う。
しかし、ここにどうしても向かいたくなってしまい書く。(なので、明日は消すかもしれない。なんだか、さっきまでは日記に書くぞ、であったが、こうして向かうと色々な方が見ていることを意識してしまう。当たり前なのだが…)

いやいや、今日は、本当に本当に、うれしかった。
そして、有難かった。

それだけのことをどうしても書きたかった。

そう、昨日の一生残る経験(今日も話した)をしのぶさんとも共有できた事や、ちかさんや岡田さん涌井さんとの歓談も嬉しく、また自分なりに懸命に頑張った二日間の講座ではあるが、ほんとうに皆さんと共に楽しく行えた事、昨日の打ち上げでもあったように「うさんくさいどころか、本当にこう感ずる」という『感ずる』を仰ってくれたのは嬉しかった。

ともあれ、今日、7/14は記念日にしたい如くに嬉しい日であった。
有難い日であった。
今後とも宜しくお願いします。

ここでは書けないが、○さん本当に有難う。
後からいらした○さんにも感謝。

  運命  (七夕の神へ)
Date: 2008-07-07 (Mon)
貴方の願いを数分間イメージし、その後はただ感じなさい、と言われる。
坐姿瞑目すると大きなエネルギーが訪れた。
数分後、その氣は更に大きくそして透明で限りなく透明なものになってゆく。
それが秒単位で増し、正に木内鶴彦が臨(?)死体験で味わった私達の源である「意識」(氣道で言う宇宙の息)とはこの事かと感ずる程、圧倒的なエネルギーとなった。
時折り、脳の数カ所が軋み緩解したのは、そのエネルギーの通りの悪いところが修正されている過程なのだろう。
時計の時間では数十秒位経っているのだろうか、身体の感覚はとうに無く、思考も働かすことは出来なくなり、私という個体、自我は消え、そのエネルギーそのものになってしまう。
もはや味わう事すら出来なかった。
たとえて言うなら川の流れに沿っている内に死に、川そのものになってしまった。
ちなみに意識、宇宙の息は私が味わった無や空では無かった。
(そう言えば木内鶴彦氏もその事を著書に書いていた事に今気付く!)
またアガペーでも無く、まさにブラフマン、梵、神という表現がピッタリくる聖なる宇宙意識の集合体のようなものだった。
そしてその香りは厳粛たる愛であった。
数十分後、時折り思考のスペースが戻り思考をほんの少しは動かせるようになってきた。味わえるようにもなってきた。
(この時に瞑想つまりWhat am Iをして感覚しているものの更に源にいけば、いつもの無や空に至るのかもしれないが、と思った。
 しかし今考えるとこれは個人の中での作業(正に私は何か)になってしまい、そしてそれもまた木内氏がそのような事を書かれていた事を思い出す。
 私は無(空)が絶対であると感じていたので、その部分の著述について「だけ」は、?が付いていたのであった。
 そうではなく(比較ではなく)、感覚するものへの意識の向け方、方向性、行い方の違いという事であり、少し語弊のある譬えだが、相手に手を当てている時にその全部あるいはそれによって去来、生ずるものも含めて感ずるのか、それとも自分の身体にのみ意識を向けるのか、目の前にトマトがある時、トマトになる(トマトを感ずる全てになる)のか、トマトを感ずる自分とは何かの方向に行くのか、のようなものかもしれない。)
 さらに数分たって身体を動かそうと思えば動かせそうになるが、動かしたくなく、またエネルギーを味わう方向にいってしまう。
 一瞬、サックス(尺八)のマツケン(松本健一)が言っていた「自分の出す音が眩しくて演奏中は目が開けられないのです。」という言葉を思い出した。
 (その言葉はこの前のライヴの時であったが、それが3日前であったことに今驚く。すでに一ヶ月は経っていると思っていた。そう言えば今思うに昨日の事はさすがにやはり昨日の事だと認識できるのであるが、しかしこれまた遥か以前、数週間前のように感ずる。感覚とは面白いものだ。)
 
 今日のような体験は初めての事ではないし、またこうした大きなエネルギー(氣)に触れるという機会は高校になってからは何度かあった。
(師の麻原先生にその体験後「先生、このままいくと僕は完全に悟ってしまう…」と何度も変な事を言ったことを思い出す。こうして言葉にすると実に変だし、そしてその言葉を聞いた先生も実に困ったことであろう。或る時は長野の自然の中、ある時は禅の帰りに鎌倉材木座の透明な夕方であった。そう、鎌倉の時は先生はブランデーを私にニュッと出し、そして複雑な想いと共に私は暫しその香りと対峙し、そしていつものように飲む事を決意し、いつものようでありそうでないような夕食を向かえたのであった。)

アメリカでのテロ事件があった30分後、私は確かに今日のような氣を感じた。
悲惨な事件で多くの方が慟哭に陥っている最中、猛烈な聖なるエネルギーが訪れたのを感じ、報道する画面を見ながらも、ただ涙し手を合わせていた。

私はよく「息を吸っている間にも、吐いている間にも、吸いきった時、吐ききった時に訪れる沈黙(瞑想)が常に存在しているのですよ。」と言う。
また「リンを鳴らした時、この音はどこから来るのでしょうか?」とも聞く。
答えは同じで、音はもともと在ったのである。
それは、ちょうど押しては返す波の源のようなものだ。

だから、私たちが身体をつまり心を閉ざさない限り、「それ」を感じられる。
常に在り、そして常に訪れようとしているのだから。
そして、その感じ方は身体(心)の精妙さと比例する。
大音量が鳴り響く部屋では、同時に鳴っているかすかなオルゴールは聞けないように、自分の感情をそのまま言葉に出す人に他人の本当の真意が分からないように、悲嘆にくれて過ぎている時にそよ風に気付かないように。
聖なるそれが圧倒的に大きくとも、それは限りなく微細な調べであり、それを受取る度合いは私たち自身にかかっている。

氣道(氣の道、自然に沿って生きる道)で、自動運動をはじめ身体の感覚練成の重要性を言っているのはその為である。
個人的には8月の【氣道の学校】そしてadvance(【心の学校】)が楽しみであるが(技術的にも15歳の時にハタヨーガを一つに纏めるとこれになるのではと創った方法を今日その応用と共に発見したものを紹介する予定)、
何よりこの拙文がご参考になれば幸いである。
聖なる調べ、意識、神に限りない感謝を込めて。

  音霊
Date: 2008-07-03 (Thu)
チッツタッツ タッタ ンツッツタッツ
今日は、横濱道場での初めての河崎純さんとのライヴであった。
午前の芝さんの「舞踏コース」(舞踏と言っても自動運動や設定ある内感運動をするだけだが)の時から、マツケン(松本健一)とのデュオ。
夜はマツケンと共に河崎さんとのトリオ。
生音で河崎さんが横濱道場で演ったら、と思っていたのが実現できた。
横濱道場は14歳になったが、道場開きの時には、日本を代表する(というか世界的にも代表する)ビィオラ・ダ・ガンバの平尾雅子さんとご主人の山岡さんに演奏して戴いた。
 「ちょうど、初めて日本にバロックの演奏が伝わったのは織田信長の時ですが、ちょうどこんなような状況なのでしょう。それと同じ感じを味わっています。」
というコメントを戴いた。
 カザルスホール(7,5秒)よりもエコー(余韻)が長い空間らしく、ヨーガの成瀬雅春師も、この場はチベットよりも響くと、倍音声明をして下さった時に仰っていた。(そのCD(DVD)は協会で販売していますので、ご興味のある方はどうぞ。ただ倍音声明まで入っているかどうかは覚えていません。)
 マツケンも横濱道場の音響をとても気に入ってくれ、そして今日初めてここで演奏して下さった河崎さんも気に入ってくれた。
 ライヴ後の閑かで気持ち良い打上げでは、マコモ風呂に全員入り、その感覚から、身体感覚の限りなさを感じたのだろうか、マツケンを主体に、とても興味深い話が様々あった。
 私はダン先生とロイ先生との統合が夢であり、それを私をして具現化したく、この限られた命を燃やしてはいるが、マツケンや河崎さんの仰る事はまさにそれであり、話は一貫したテーマで続き結ばれていった。

 今日の前半(舞踏コース)でも、前半と後半があったという事だが、その意味では今日の夕方のほうのライヴでは
 そして、今日の話題にもなったが、演奏者と観客の違いは無いのである。
 (続いて、時間、空間、重力についても今日は結論まで話しが続いていったが、それは録音したかったほどであるが、いつも私が言っているような事なので無くても良かったのかナ)
 この演奏は…という名前付けの事も、まるで瞑想中の雑念の如く話題に昇った。
 
 今日、私を、そして私たちを通して現れた音に祝福を捧げます。
 本当に感謝を。
 
 そして、いのちの原点との繫がりをも。
 (だからこそ整体と音楽を私は行っている。まるで7/13と12日の講座内容の繋がりのようだ。技術の問題だけが異なるだけ。全てがいのちの原点からすると相似象であり、技術や知識だけが違うだけ。桜井昇一と甲野善紀の対談は面白い。)

 今日は本当に有難かった。
 

  研究
Date: 2008-07-01 (Tue)
元々在る関係性の「氣」というものが確かめられ、砂浴前夜から、それを自然に沿って還元、修正していく技術を活用している。
大変面白いので翌朝は海を前に砂で半身浴をしながら数名の方や組織の氣で研究実習。
最終日は雨であった為、対外関係では無いのだが、自身の心理的問題を解除してゆく行氣法(氣道流フォーカシング)で内感したものを体外に出して取扱う方法の基礎バージョンを初公開。
全員がはっきりと感覚され「これは本当にスッキリする」「顔が変わった」「丹田の氣がここまでも」などの声が相次ぎ、たとえ砂浴や自動運動や合掌行氣の後とはいえ、參加者の感性の素晴らしさに驚いた。
これらは7/12の公開稽古会にて紹介する技術の応用であるが、その為の準備研究は面白く、私だけでなくいつの間にかスタッフも研究に勤しんでいる。
何より確かに実感して確かめられる点、そして生活での応用が無限にある事や、他の方々に還元できる事、行う程に自身の感覚、感受性が練成されるところが魅力である。

  感謝
Date: 2008-06-30 (Mon)
今年もまた、自分の棺桶を自ら堀り、大地に身を帰す儀式が終えた。
砂療法(砂浴)と言われるこの健康法は東条百合子さんの自然療法で、フグ中毒や末期ガンなどにも卓効ある健康法として有名であるが、私たちは身体の健康向上だけでなく「禊ぎ」として毎年行なっている。
私たち自身が大地に還ろうという日。
ご存じのように海辺では鳥の死骸もあっと言う間に大地に還る。
私たちの中の死に逝くもの全てが大地に還るのだ。
そして数時間後、私たちは新たに生まれる。(あるいは死ぬ。今まで死んだ人はいないが。)

氣道では、この海による大地の禊ぎと、翌月行なわれる滝行という山による水の禊ぎの陰陽をもって、晦日と元旦という別の意味での新年を迎える。(その為ちょうど半年後に設定している。誰もがまだ入っていない初めての砂を味わうという意味だけではない。)

東条百合子先生がずっと砂浴の際に活用していた民宿「綱吉屋」に私たちがお世話になって17年が経つ。
当然であるが、いつの間一番の古株となった。
そして昨日も話していたが、協会のご縁で活用する方々も増えてきた。(ただ砂浴のためにの場合は協会主催の日程でお願いしますね。その為、6月と7月とで講師を変え二回行なっていますので。)
それは知識としてのためではない。
また時折り起こる激しい好転反応に対するケアのためでもない。
それは、七夕会(これも10数年になってしまった)同様、その歴史の力が生む一つのエネルギー体の力であろう。

 私はいつも砂浴合宿の後の二日間や時期をずらして数日綱吉屋に泊まることが多いが、今回は、その後、どんなにGoogleで調べても104で調べても見つからない(その点では以前からこの日記で紹介しているK先生やTさんのようだ)玉響の小林純子さんのところが

 …………………………………………
(あとがき)
 「……」の前の部分だけ残り、その後、2倍以上書いた文章も全て消えてしまいました。
 (ご存じの方もいらっしゃるように、親指シフト入力の唯一の欠点(サイトでの投稿の場合の)であろう。)

 私たちの砂浴で効果が上がる理由(なぜ個人で行った時と効果が違うのか)と、何故か願いが叶う七夕会の効果の大きさの理由の相似象について。
 (それは7月の公開稽古会に出席されれば分かります。しかし、←こういう言い方は宣伝のようであまりしたくありません。)
 今日行けたどんなに調べても検索できなかったmental healthy salon「玉響」の小林純子さんの施術やさまざまなセッションを受けた感想。
 ……その他、幾つかを書かせて戴いていた。
 そして何より今日、5時半より私をして気絶する程の氣を送って下さった皆さんへの感謝を忘れてはなるまい。
 その事と綱吉屋への感謝の気持ちでこの日記に向ったのであった。

  横濱道場の誕生日
Date: 2008-06-22 (Sun)
今日は横濱道場の誕生日だった。
他所での修養としては、19日の満月ディクシャに引き続き、この日は朝から八重洲ホールにて先月の二つに続いてコンプリート、パワーローディング、パワーブレイン、パワーカスタマイズの四種を直接身体と脳にinstallされる。(通常二種までなのを、何が起こっても良い、全て自己責任とするのでと無理にお願いをしたのも、今日の夕方に合わせるためでもあった。)
受けた影響は思っていた以上に強く、今まで味わった事のない馴染み無い身体感覚に驚く。
夕方6時より指導スタッフと共に今までお世話になった御礼と今後の祈願を込めて祝詞と勤行、瞑想をさせて戴く。
その後、二階にてささやかな誕生日パーティー。
ちょうど13年前の今日のような雨の中、閑かで暖かな氣の夕方。
電気を消しロウソクの灯の中ハッピーバースデーを歌う。
ロウソクの灯を吹き消し、乾杯をすると、港からポーッという汽笛の音が響く。
誰かが「まるで祝福してくれているみたい。」と言う。
確かにここでは初めて聴いた。
その後、食事をしながら、7月の公開稽古会にも通ずる愉氣の活用法を研鑽する(この日は珠利さんが垂直方向における氣の大きさによって正否(yesno)を判別する対話法を公開)うちに終電の時間となり解散。

横濱道場は会員の皆様への父からのプレゼントであった。
その後、道場の氣は会員の方々によって練成されていった。
より多くの方々がこの道場を通して元気になれるようにという会員の皆様の想いが集積し、現在の道場がある。
この場を借りて御礼申し上げたい。

また数々の会員の方々からお祝いの品々、お言葉を頂戴した。
そうした皆様の想いが今後道場を活用される方々にも届くよう、今後も責任持って道場をあずからせて戴く所存である。
この場を借りて深く御礼申し上げると共に、皆様にこそ素晴らしい日々が訪れますよう心より願っている。

有難うございました。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

  関西支部(芦屋)にて吹き込んだ事の校正。
Date: 2008-05-30 (Fri)
相手の幸せを互いに心から(手放しで)祝福できる事を信頼関係と言う。
全ての人の幸せを手放しで(心から)祝福できる状態を、自然体(健康)と言う。

  父の日2 (誕生日2)
Date: 2008-06-17 (Tue)
 或る会員の方から私の尊愛するD先生が主催する季刊誌を頂き、今日ようやく時間が取れて読む。
 以下、長い抜粋をしたのであるが、今、冊子の最後を偶然開き、そこにある「掲載されている文章は無断コピー、無断転載禁止です。」という文章に驚き、全て消す。
 偉大な先人の文章がそうであるように、読むだけで身体が変化する文章であった。
 その感覚は私の身体をして腰椎4番に集約そして其処から派生すくものであったが、それはD先生の稽古場での感覚と同一であった。
 また先生の文章は、根本的にある閉型的な集約感が快ちよく、それはともすると同体癖の硬直感に繋がるところが、しなやかな充足ある解放感も各人に与える印象がある。
 言葉の選び方、まさに身体をも変える言霊と言える言葉の選び方、漢字やひらがなの組み合わせは、閉的ではあるが、腰椎一番との素晴らしい連動を感ずる。
 其処には晴哉先生には無い詩としての真実の色気を感ずる。
 常にD先生の文章は斯く在る。
 奥深く内体を変ゆる美しい文章。(それこそD先生の言う美なのかもしれない。)
 真の「香」である。
 この冊子を渡して下さったS氏に感謝を捧ぐ。
 (なお興味があられる方は、ぜひ冊子をご購入頂きたい。
  注文先、〒158・0095 東京都世田谷区玉川2−9−15 
  身体教育研究所 出版部「独鬼」係。 500円。)
※追記。
 私は20年程前、誕生日に仙椎二番が変化する事を見つけ誕生日操法なる整体を設計した。その後、野口先生の創られていた季節の操法同様、個人による変化とその規定の操法との兼合いの調整が実際の現場では難しい事もあり、その為その頃感じていた誕生日の変化と満月の時の変化(どちらも仙椎二番と、裏として眉間に来る等)との相違)も細かく観る事も放棄し、誕生日操法自体は私の胸の内一つで終えていた。
 D先生の文章を読み、私の感覚があながち間違えではなかった事、また其処から波及する身体変化の可能性を感じ、皆にも伝えたく感じた。
 真に身体とは不思議である。そして私をして氣道的に言うなら何故それを持って産まれる事を選んだをも。
 世に天才は多数いるだろうが、D先生の内観は身体を通した真の瞑想の道である。
 同時に拮抗、充実の道でもあり、単に瞑想という0を求めるだけでなく陽である1をも孕んでいる。
 先生の伝えられている事はいみじくも氣道では自力での道と捉え、そして先生自身其れのみと断言され、其処から産まれる響きを確かなものとして身体の感覚を通し伝えていらっしゃる。
 拙著実践自然健康道で意識と無意識との双方からの方向性を述べたが、D先生の方向は意識からの方向であり、誰よりも自動運動(活元運動)を理解している先生であるからこそ、其処に触れず、最大限其処に近く至ろうとする動き(脱力動法等)がある。

 観阿弥を観る世阿弥の表現から、観阿弥の知られざる世界をもが繰り広げられ、私たちをして瞠目に至る。
 果たして、世阿弥を観る観阿弥自身の気持ちはどうであったかを、この20余年日々感じていたが、私をして其れを別にしたいとずっと思い続けていた以上に、D先生は父を愛しているのだろう。

  父の日
Date: 2008-06-16 (Mon)
以前、父は伊勢佐木町の町内会長として、青江美奈を呼び伊勢佐木町ブルースを歌ってもらうよう企画した。
そして私が育った頃は、ここ伊勢佐木町は5丁目からがアーケードがあり、東京の銀座以上に活性化した街であった。
父は横濱を日本に広めた人であった。

今でも伊勢佐木町を私が歩けば、古くからの人は「お坊ちゃん」と丁重に挨拶をくれる。
いつも恥ずかしいし、そうした父からの恩恵は別なのであるが、
今日だけは、4丁目の「青江美奈」の銅像(音も鳴る肖像?)は、まあ建って良かったのかなとか、伊勢佐木町や関内近辺で歩いて挨拶されても、
いつもだと、伊勢佐木町近辺は父のテリトリーという感覚であるので、何だかお蔭さまでとなるのであるが、
今日は、また別の感慨があった。

オウム事件があった日に横濱道場に炭を1トン近く埋め(その経緯はテキストに細かく書いた)、その時だけは、あんなに反対していた父が何故かここに来てくれた事を思い出す。
その頃は往年が嘘のように氣が枯れていた伊勢佐木町そして横濱の大地の全てを変えようという気概を持って、道場を作った。
穴の中に潜って大地に気合をかけた。
あまりの邪気に死ぬかとも思ったし、何度も気を失いかけた。
今日、網野さんという方が、この場所は本当にいいと夜道場を見渡しながら仰ってくれた。
そして、その時網野が座っていた場所は、ちょうどその場所であった。

私は、物心ついてから、いつも父の後ろ姿を見ていた。
常に燐としていた。
父が関内駅からここまで伊勢佐木町を歩くと、多いと何十人もの人に声をかけられる。
それは息子として誇りでもあった。
常に背筋は伸び、歩く姿は、ほんとうに燐として美しかった。

父へ
(今さっきもミナトのオジさんともお父さんの事、話したよ。
 伊勢佐木町の何かがあるとお父さんに電話をして申し訳ないと言っていたよ。まあ、お父さんが意見いうと、町内会長の山崎さんは何にも言えない事を知っているから、というその通りがこの14年今だに続いているよ。もう引退したというのに申し訳ないとも言っていた。)

私は父のように、多くの方にひっきり無しに声をかけられても、そして、かけられずとも、この街を堂々と、まるで「知られていない」横濱の城主であるかの如くに歩けるのだろうか。

お父さんは、ここの道場の開所式の時に「青木先生というのか、あの人だけはマシだな。」と言っていましたね。
(他の、あの有名な方々はどうなるのか…)
あとは、野口晴哉先生の写真を見ても、この人は癖はあるがいい、と言っていましたね。

そうした父の感性は私は10歳からヨーガや断食、禅などを行っていたため、分からなかったけれども、今はなんだか分かるような氣もする。

(伊勢佐木町を闊歩する父の姿を思い出しつつ。
 そしてまた、いつの日か、再び父が来ることを祈りつつ。 また限りない感謝を込めて)
 
 お父さん、有難う。

  芦屋(関西支部)でヴォイスレコーダーに吹き込んだもの。(少し校正)
Date: 2008-05−30(Fri)
相手の幸せを、互いに心から祝福できること、を信頼関係と言う。

全ての人の幸せを、心から祝福できる状態を、自然体(健康)と言う。

  一瞬で消えてしまった。
Date: 2008-06-14 (Sat)
消えてしまった文章を戻そうとCrrl+zやyなどを試みるが戻らず。
残念であった。
書いたのは、
・今日の地震の事。
・今日の整体と氣道塾の事。
・良い事がある時には必ずある「香り」の事。(成瀬先生の「魂を磨く」参照)
・今日一日の快ちよさと、それに伴う「そよ風」の事。(クリシュナムルティ)
 の内容であった。
 
 久しぶりにたくさんの文章が消えてしまったのは歯がゆいが、明日、横浜では(日本でも?!)初めて網野さんの講座があるように、全てが予定調和(←この言葉が私は好きではない理由はお分かりだう)のような、ひとときを一人靜かに向かえる。

  もし、あなたが…
Date: 2008-06-10 (Tue)
 もし、あなたが悩んでいるとしたら…

 その悩みが、たとえ誰かからのエネルギーなり影響だとしても、あなた自身が創っている事を知りなさい。
 被害者こそ救われない、と何度も私は師から言われ続けてきた。
 あなたが自分を被害者だと思っていたら、あるいは迷惑を受けていると思ったとしたら、十分に注意しなさい。
 どのようにして自分がその創造を創ったのか、あるいは創られているのか、その場を離れて沈思して欲しい。

 もし、あなたが、或る人のことを思って悩んでいるとしたら…

 それが、たとえどんな事であっても、恋愛感情と共通項である事に気づきなさい。
 そして、その感情の全く逆の感情に気づきなさい。(安易に行なうなら相手になったつもりでもいいが、)
 さらに、それらを創っている感覚に気づきなさい。

 (【氣道の学校】や【氣道塾】では、それをも創っている感覚…と続ける。そしてそれが氣道で最も推薦する瞑想(ただ無を求める)である。
  また、今回の「もし、あなたが…」は、以前に書いた事と重複している。その一つを別の言葉で分かりやすく言ったに過ぎない。
  どうぞ原典を参照にして戴きたい。)

  美樹ちゃんに会えた。 
Date: 2008-06-07 (Sat)
 何より嬉しい。(驚きである。昨日美樹ちゃんに愉氣したばかりなのに。)
 美樹ちゃんと実際に沢山話も出来て良かった。
 (身体に触れると変えられる部分もある。そこを焦点に今日は行った。
  しかし話忘れたのは、誕生パーティーは昨日だっただろうけど私は9時過ぎには寝てしまって、でも私の誕生パーティーは明日なんだよ、という事。(委しくは「音楽掲示板」http://6901.teacup.com/kidomusic/bbsに書いてあると思うけど、お父さんもいたし(そう言えばお母さんも今日は元気なかったね…)、だから話せなかったのかも。)
 
 パパの○さんは、この前(先月だとは…あれから二ヶ月くらいかな、と思っていた)数年ぶりに整体を受けてくれた。
 とても良い身体になりつつある。
 美樹ちゃんは色々言っていたけど、パパはパパなりにすごく頑張ったんだよ。
 前回が数年ぶりの整体だったけれども、その長い期間の私自身の変化よりも、違った意味で昨日脱皮した私の整体は如何だったかナ。
 私としては、以前の私が元気だったころ(お会いしていた頃)にある意味近い感じだったとも思っている。

 しかし、美樹ちゃんにまさか今日会えるとは。
 嬉しかった。
 お母さん心配だけど、大丈夫だよ。
 
───そうして今日の東京道場の旅も終える。
 今日は初めて角川さんが、このり君と共に受付引き継ぎにいらした。
 (ちなみに角川(すみかわ)さんは、十年年くらい前に、心理療法の吉本武史先生との「心と身体の学校」という講座の出席者であった。
  私としては心(魂)に残る人であり、それが昨年の整体法修得一年コースに久しぶりにいらして戴いたのは嬉しかった。(出席する必要が無い方なのに)
  本当に素晴らしい人です。
  (ゆん君(佐野裕子)もそうだが、何十年も鍼灸なり野口整体なりと、精進、求道されていらした方は、やはり違う。)
  
   ぜひ一度、皆さんにも、ゆん君と角川さんの整体を受けて戴きたく、心から思います。
   (今後、東京道場の土曜日は角川さんが受付ですので、どうぞお会いしにいらしてくださいませ。)
  
  今日も様々な方がいらした。
  私にとっては全ての方が美樹ちゃん。

  美樹ちゃん、おめでとう。
Date: 2008-06-06 (Fri)
今日は久しぶりの早起き。
その後、玉川学園前という所に行き、本当に貴重な体験をさせて戴いた。
「氣道」協会で紹介している幼馴染みの大道かほ莉先生が日本に紹介しているクレヤボヤンスを体験出来た。素晴らしかった。今まで様々な霊能者、超能力者にはお会いしていたが、そして受けられる方の多くは歴代首相とか、あるいは別では宮家の方々という方も多くいらしたが、今回の方はそうした方でなく、というかそうした方が来れないという 方であった。
 (同じ意味で前日記で書いたK先生もそう。
  なお、大道かほ莉先生の講座は8月2日に「風水講座」(一生使えるメソッドを日本で初公開)があるが(詳しくはmail@npo-kido.comか電話045-261-3300まで)、次回のクレヤボヤンス活用の講座(8月予定?)も楽しみにしている。)

先程、両親に電話する。
今日は、私の母にとって大きな日であった。
父にも今まで言えなかったお詫びと感謝を伝える。
本当に有難い。

今日はハーモニーベルの確認のためにもクリスタルボールも体験した。(やはり奏者によるのは音楽同様。同じ楽譜であっても違う。)
また、以前の日記で書いたディクシャも再体験する。
その後、また、ヒロ先生その他とも電話で交流
…など、様々な事のあった日であった。

また以前のような元気さを取り戻せるかどうかは全く別として、今の閑かなひとときに、今後浮かびそうな新たな興りに感謝。

※お薦め本について。
 以前言った「生き方は星が教えてくれる(木内鶴彦著、サンマーク出版)は「岳(講談社)」同様に面白い。
 昨日、今日読んだのはスタッフの間口の友人である望月俊孝さん(宝地図で有名)が以前紹介してくれた小林正観さんの「100%幸せな1%の人々」「宇宙を味方にする方程式」であった。
 (その他にも、昨日夜遅くは、大変お世話になった山岸隆先生のご著書を読んでいた。(その頃のスタッフや会員さんも山岸先生の所で事務局長なり働いていらした。))

セレブレーション(祝辞)は美しい。
私の40年の経験では、そこで語気を荒くする人はいなかった。(たとえ大きな声でも氣は細かい人は一人いた。)
今日は両親にであったが、常に、祝福の氣を持ちたいものだ。

 自分が変わるというのは面白い。
 ただ、自分の変化を感ずるのは難しい。
 感ずる自分が日々、そして時々変化しているからだ。
 自分の変化は自分では分かりづらい、のは言葉だけの意味では無い。
 
(だからこそ、昨日、そしてそれ以前にも言ったように「観察」というのは本来無い。
 その上で強いて言うなら、分からないという部分を正直に認める(観察する)のが本当の意味で観察なのだろう。
 すると観察のベクトルが多重奏になる。
 キース・ジャレットは3声までしか人間の耳は聞き取れないと言ったが、知識や体験でなく、限りなく高次に上げていくとその高次の自分とハイヤーセルフとも言うべき自分とが繋がってゆく。ただ、それとイエローグリーンが同じかどうかは別。)

 それ故、いつも言うように、
 観察は愉氣同様、数学で言えば微分化になるが、
 本当の愉氣は男女の如く必ず結合、そして統合過程では、「正」「反」の陰陽からアウフヘーベン(統合)され、一つの生命が「合」として生れる。
 その事は15歳の時から変わらない。それを悟りと言う人もあるが…
 (ほんとうの悟りは、いつも、ここにも在る。)


 話を戻し、 
 伝わるのは氣だけ。
 文間だけ。音間だけ。
 言葉、音などは、それを伝える記号、媒介にしか過ぎない。

  明日は
Date: 2008-06-03 (Tue)
皆さまも知っている、と或る私の大好きな方の誕生日。(誕生会は翌日になってしまうけど…)
そして新月でもある。
そのため「音楽掲示板」http://npo-kido.com/j-j.htmlでも急遽書いた。
(明日は朝と夜、ライヴなのである。朝は「舞踏講座」。
 自動運動を知っている人は、同じなので大歓迎。 ぜひ。
 細工するのは(このところちょっと面白い事にも凝っていて)夜のライヴ。
 一応、「音楽掲示板」に掲げた文章を以下、転載する。
「さて、明日は新月。
双子座の新月ということもあり、ちょっと夕方ライヴでは細工(?)させて戴きますね。
(もし、これをお読みになっていらっしゃる方は、今年(2008年)で叶えたい夢を、叶った感じを味わいつつ、叶ったとして書いたメモ(見ませんので何でもOK)と、何でも良いので葉っぱを一つ持っていらして下さい。)

特に七夕会にいらっしゃる予定の方は、ぜひ、ですが、そうでなくともかなり実現しますよ。」

 (なお、私の誕生日の事(6/8の誕生日パーティーライヴ)も下に書きましたが、
 その時はマスターのご許可を得てライヴ後、20分位の乾杯の時間を戴きました。
 また共演者は蜂谷さん(私と同じ誕生日)など日本を代表する音楽家なので、どうぞ音楽を楽しみたい方こそいらして下さい。)
 ちなみに夢実現の細工をするのは、明日のライヴと七夕会の時だけです。
 (明日は、新月&○さんの誕生日だからです…)

  日記
Date: 2008-06-02 (Mon)
昨日は嬉しき日であった。
久しぶりに朝横濱に戻り整体。
しのぶさんの整体のターニングポイントでもありそう。(今後私はあのような進化する身体にどのように自身が指導できるか(その後の講義でもあったように断ってしまうかナ)、楽しみ。
その後、とても繊細でしかも大きなエネルギーに包まれ誘導されつつ道場での整体が運ばれた。
そのあとは二階での整体であったが、いつもだと二階での整体の醍醐味もあるのだが、昨日は違っていてコーザル、カラーナレベルの氣と、昨日から訪れた氣は二階には無い。
それまた面白い。

1時には行くつもりです、と仰っていたヒロ先生(高澤博幸先生)はなんと遅刻。
超多忙の先生は選りすぐりのアシスタントと共にいらっしゃった。(ヒロ齒科のスタッフは全員素晴らしい。)
私も講座開始時に挨拶をし、また整体。そして対談。
(昨日は「歯の講座」であった。
 初めての方にとっては歯に対する考えが目からウロコであったかもしれない。
 なお録画したので、ご興味あられる方は、「氣道」協会事務局まで予約注文どうぞ。(045-261-3300Fax045−261−3304。料金は5千円)
 とっておきCDも付いているかもしれない。
 
 …というのは、チラシにも書いた講座後の「ビール対談」の後半には、講座にもご出席された私が日本一の眼鏡屋さんと思っている豊福さんが、様々な目の異常に対する見解(白内障や乱視、緑内障の事もそうだがコンタクトが癌の誘発という意見は同感)
 など本当に貴重な話を語って下さったからであった。
 (ちなみに豊福さんは、先々代が昭和天皇の眼鏡を作られた方で、様々な病院にもその視力検査の方法を提示しておられる方であり、また人によっては豊福さんの作った眼鏡によって眼鏡が必要無くなる方がいる、という昨日も言った「健康法は必要なくなるためにこそ存在する」という考えを実際に具現化されていらっしゃる方である。
  沖縄や北海道など遠くからの方が多いと聞くが、ともかく、私が日本で最も信頼する眼鏡屋さんである。)
  「氣道」協会会報では、その事を書いたが、昨日実際にお会いして、やはりこのような方であったか、と感動した。
  素晴らしき職人である。(しかも清々しい。)
  最後は、目の豊福さん、歯のヒロ先生、そして私との三者対談のような形となったが、うっすら願っていた事ではあったにせよ、皆さまにとってはありえない機会だったと思う。
  (私の話はともあれ、その時の録音がプレゼントCDになると思う、という事を言いたく書いた次第。
   なお、これを読む方々で、眼鏡に悩んでいらっしゃったらぜひ豊福さんを訪れて欲しい。
   先述したように遠方の方々が多いが、「氣道」協会の会員である、と一言仰って戴けたら(あるいは淨潤の紹介と仰って戴けたら)話が通りやすい「かも」しれない。
 
   その後、長年お会いしてお話したく思っていた方(そういう方は数名しかいないのであるが)である眞阪さんもいらっしゃったので、久しぶりにその長年の疑問をぶつけた。
   互いにアバターマスターであり、その後ディクシャに進まれた経緯を伺いたかったのであった。
   あり得ない事も実現するもので「受けて戴けませんか。」と仰って下さり、その後、先生には申し訳なかったが、先生はご自身を整えられ、道場にてディクシャを受けた。
  やはり行なう人によって全く違う事も伺い、得心を得る。
   先日は、村上龍との対談(「超能力から能力へ」角川文庫)をした山岸隆さんの後継者から、山岸先生依頼、再度多数のインストール等を受け、そして一昨日10年ぶりにレイキの最終セッション(ちなみにレイキは晴哉先生も若い頃行なっていた)を受けたが、やはり行なう人が全てであるのはディクシャも同様。
   ともあれ、数年前から変化のあった整体も、この一週間でまた回路が違った整体になってしまった。

 その後、ヒロ先生と二人で早朝まで対談。
 (ちなみに眞阪先生も身体が無くなる感じと仰っていたが、マコモ風呂は、やはりエーテルだけでなくカラーナ体にも影響があるようだ。
  ところでヒロ先生(眞阪先生もそうだけど)、どうしてお風呂のお湯をグビグビと飲みたくなるのでしょう。
  …で、今朝私も入ったら、あまりの清々しいマコモ風呂に私も飲んでしまった。(それが一番効果がある、とは聞いていたが、そんな事は心理的に抵抗があった。)
  飲みたくなって飲んだあと、ああ昨日ヒロ先生達がつい飲みたくなってしまった気持ちが分かったのであった。
  マコモ風呂もどんどんと成長し様々な回路が開かれているようだ。)

 昨日までの事で長くなったので、今日の事は手短に。
 今日は、早朝から20数年前から尊敬している整体指導者とお会いし、様々な情報(知識だけでは無く)を得た。
 中でも子宮筋腫を一回で変える操法は瞠目。
 その後、スタッフ以外ではリクさんと弟者とオラヌちゃんしか教えていない網野さんの所へ。
 私の前世の事と結婚の事を教えて戴いた。 
 前世は、今までもエドガーケイシーの後継者(ポールソロモン)や浅野信などにリーディングを受けており、それらが全て共通であり、死ぬ時期までも聞いている。
 それらと全く同じ事を言われた。
(エジプトでの時のミステリースクールのマスター。(ピラミッドの設計技術の教授など細かい内容は今日初めて伺った。ちなみに「そのように教えて戴く事が真実の場合は、その方(今回の場合私)の脳内(潛在意識)の回路がその部分も繋がる」のである。)
 他には、中国の山中で仙人であった事(少林寺のマスターは色々な方からも言われていたが、今回は道教のとも言われた。少林寺も道教と言われた)、あとは私のアジュナが幼少(4歳)から開かれているのはイラク(マチュピチュ)でのアセンションの為とか,以前にもハーモニーベル的な事(音を通しての癒し)を行なっていた、など同じ事を言われた。 野口先生とのご縁(先生は○海であり、その時私は一緒に修行をしていた)などは今回は出なかったが、特に今回必要な事だけ言ってくれたのだろう。
 妙な話が続いたが、氣道そしてもちろん整体は氣道の個人指導であるため、そうした前世の影響を開いたり修正したりする事になる、という話の繋がりがあるので書いた次第。
 (だからこそ会報でも「整体の可能性」を書いている。)
 
 なお聞かれたので、網野さんの前世を一つお伝えしたら、すでに網野さんは知っていらした。
 
 さて、昨日の事、今日の事が終わり、未来の事。
 明後日はスタッフの今野さんの誕生会。(スタッフミーティング会でもある)
 そして8日は、私が産まれた日の「祝賀ライヴパーティー」。
 (6年ぶりかな。私の件は、「音楽掲示板」http://npo-kido.com/j-j.html)にあると思いますので宜しければどうぞ。
  演奏後、20分位乾杯の時間をマスターにとって戴いた。なお予約は不要です。) 

 最後に。
 いつもこの日記をお読みになって下さっている方々、本当に有難うございます。
  これをお読みになっている皆さま方の日々の健康、幸せを切に祈っています。
  有難うございました。

  関西にて2
Date: 2008-05-29 (Thu)
関西で初めての「氣道塾」。
狭い芦屋支部に定員一杯の16名での自動運動も、その狭さを感じず。
瞑想は、まだ慣れない方の思考の氣もあったが、たおやかな氣が漂う。
いきなり外の音が気になった方も多かったが、さすが長年の会員、関西パワーは静けさもまた素晴らしい。
動と静が実に見事に区分される情景は目を見張る如くであり、それでいて背後の氣は繋がって一つ。
ここで氣道塾が出来て良かった。(来て良かった。)

「氣道塾」は、【氣道の学校】(basic=身体の学校)の短縮形の塾バージョンである。
 (【氣道の学校】は、大体12時間位かけて行なう。)

 【氣道の学校】basicのあとは【氣道の学校】advance(=【心の学校】)と進む流れになっている。
 講座中にも言ったが、是非とも次のステップである【氣道の学校】を、そしてadvanceも一生に一回はぜひ、いえ出来たら数回と申し上げたが、もちろん焦る必要は無い。
 (来年は関西(芦屋)でも企画している。)
 しかし、今日の方々の深まりを感ずるに、8月あるいは10月のゆん君(佐野裕子)担当の【氣道の学校】(心の学校)にいらして戴きたく思い、つい皆に伝えてしまった。
 
 ホテルに戻り、ようやく仕事に向う。(常々言うように、整体中が一番の安らぐ。)
 その中には今書いた8月の【氣道の学校】の校正もある。
 また、「育児講座」(「私が行なうなら必ず出席する!」と言っていた奥谷まゆみさんのためにも開催をしなくてはならない…)や、
これまた「是非とも行なって欲しい」と或る方に言われて悩みつつ公開する「愉氣活用講座」
(その中では14年ぶりにお伝えし、しかも初めて参加者も実習していく、死者やその他の魂を呼ぶ技術、そして様々な神々の氣を降ろす技術なども紹介するので、誤解を恐れ、さすがに公開するべきか迷っている次第。
ここ関西なら、そうした講座も出来そうなレベルであるのだが、やはり長年きっちりと学ばれている方が多いせいなのだろう。今年か来年ここ(関西)でも行なおうかナ。)
 …などの校正をしなくてはならない。

 今メールチェックをすると8月、9月のライヴ共演者がOKとのメールもあり、そのメンバーの凄さに、横濱道場(やエアジン)が、まるで日本中の即興演奏家の中心となる感じでうれしくもまた責任の恐ろしさも感じた。
  なお、先日書いた整体指導者(11月や2月に風邪を引くのは敏感な体である、と会員である別の整体指導者から聞いたの方)と今日も話合い、来月あたり横濱にいらして戴けるかもしれない事を伺い嬉しかった。
 
 様々な嬉しきドラマが皆さんにも訪れますよう。

 私も、今日はもう暫し仕事を続け、その後は、明日整体を受ける方々のカルテ(すでに夕方から3回目を通し愉氣もしています)を見ながら、今宵を楽しませて戴く。
  
  そして、これを読む全ての方に愉氣が届きますよう。
   

  関西(芦屋)にて
Date: 2008-05-28 (Wed)
芦屋に着く。
新大阪に着くと空気が違う。
多くの方々の身体は関東とは違い、かなり梅雨が進行している。
そして現在、そして今宵も低気圧の影響を受けている身体、その後でさっぱりしそうな身体は、捻れ型や左右型以外もそうなので一雨降りそう。
ホテルに着き、昨日の日記の文章校正をしたら、東京は曇りで晴れもあるだろう、芦屋は快晴とあったが、あらあら夕方までの事しか書いていなかったのかと反省。
昨日は、明日の芦屋は私が着くまでにパラパラと雨かも、と思いつつ寢ていたので。(まあ、それまでの予報は確かであった(当然だ)ので許して戴こう。なお昨日の日記はその部分は全く校正していない。)
これから一雨降りそうな身体が多かったと書いたが、関西と関東では、和辻哲郎の風土ではないが、身体が異なる。
そのため関西の身体特性(体癖)を踏まえて明日の天気、あるいはこれからその人に起こる事柄を読み取っていくのだが、それが中々に難しいので面白い。
直感としてこういう事が起こるという閃きが生ずるのは同様であるが、それでは観察という物理的身体に呈されている形而下の情報の読み取りにはなっていない。
その部分の難しさ、面白さが、私をして関西に来る楽しみの一番の点なのだが、不思議な事に二日目になると、その読み取りが非常に楽になる。
これは慣れて来たという事ではなく、自身の身体がここ(関西)の身体に馴染んだためであろう、と思っている。
そういう意味では、ここに来てすぐに整体というほうが本当は醍醐味があるのだが、さすがに東京で整体をした後では息切れがしそうなのと、それ以上に私の醍醐味よりもいらした方々に最も良い整体をという意味で、昨年からは前日に来て明日の整体に備えることにしている。

(その醍醐味の代わりに、今も変化しつつある自分の身体部位を観察する。D7は下がり一側(左)が緩み、同時にL2が落ち(=右腎臓がやや腫れる)、これは関東でも大雨の前の兆候であるが、これによってL5が更に変化するだろう。
 大阪から乗って来て目の前に座った開捻じれのお兄さんはD3と4がくっついていたが、きっと今頃ちょっと息苦しいか。
 でも明日は楽になるヨ。できたら今日寝る前に体を左右に捩じって、そして肩上げストンをすれば、寝汗はかくけど、明日は爽快… などと言う言葉は聞こえる筈も無く。)
 代わりに、明日いらっしゃる方々の身体を思い浮かべ、楽しもう。

  梅雨
Date: 2008-05-27 (Tue)
(今日は、大道かほ莉先生の内部書換え(苫米地さん技術含む)セッションや、K先生のセッション(おそらく地球上これ以上の心理療法?は無いだろう)を受けた。)

さて、今年の梅雨入りは早かった。
5/22と思った方も多いだろうが、実はその前から。
その前に親しい整体指導者が,まるで秋のようだと言っていた日々があったが、その間にも体は初夏から梅雨に向っていた。
11月や2月に風邪を引くのは敏感な体である、と会員である別の整体指導者から聞いたが、今年は、その文脈ではなく、以前から大きな清算が必要であった方が引いていた。
3年前にインフルエンザの事で様々な事を「会員用掲示板」に書いた。
その後書かなかったためここで纏めて触れておこう。
昨年、一昨年、一昨々年インフルエンザになった方は今年前半インフルエンザも風邪も引いていない。
4年前の方も同様だがその中には突如花粉症になった方もいる。
5年前の方は2年前(一昨年)大きな風邪を引いた方が多かったが、6年前の組は割と丈夫な反面、その後足腰に菌が転移している方々が多く、かえって免疫になって良いか、あるいはおそらく2年以内に大きな風邪を引けば良いのだろう、と観ている。
7年以上前の方くらいから更に面白いのだが、幾重もの波の重なりをここで説明するのは困難である。

以前、「会員用掲示板」では「心身気象観測台」として、毎日観る人達の体を観察して明日から数日後までの天気予報と過ごし方の注意を書いていた。
(地震や台風がそうであるように、それが起こる前に体に変化が訪れる(だから動物は先に逃げる)。
 明日以降の天候も同様。
 そういう当たり前の事(拙著「実践自然健康道」にも書いた)を繰り返し言うのにこの頃は疲れてしまったのは、いつも同様に、一つの事を語るのに、その前の前提をも語らなくてははいけない為。
それは天候と体の関係だけのことでは無い。
(ちなみに明日は曇りである。雨も降るところが東京ではあるが、実際に触れて観察している墨田区では晴れもある。関西(芦屋)は晴天。
 つい、口が滑って明日の天気を書いたが、これでは占い師に陥ってしまいそうだ。
 そして昨日書いた日記のモードに自ら戻ってしまう。)
 
 そうならない為にも、皆さんには、こうした予測は身体を観察するのに慣れると簡単に分かるという事を、どうかご理解戴きたい。
 更には、話が飛躍するようだが、いつも私が言うように、自らの生命が本源(自然、いのち)と繋がる事だけが、私たちの生が喜ぶ、という事。
 そして同時に地球や他の星たち、そして自然そのものが喜ぶということも知って(感じて)戴けたら、と切に願って、私は今だに氣道を伝えている。

 
Date: 2008-05-24 (Sat)
昨日、他所での指導も受けて良いか、という相談を受けた。
晴哉師なら語らず操法を終え「今日が最後の整体です。」と答えるのだろうか、あるいは「お帰り下さい」と只一言言われるのだろうか。
そうした人は整体の何かが全く分かっていない。
しかし、私はいつも他所の指導内容、回数他を伺い、適切な指導スパンを提示する事が多い。
その方にもそうした。
私をして主治医と思ってくれるからこその質問なのだから。
しかし殆どの場合、寛容という言葉の隠れた自分の甘さに忸怩する。
お前以上にその身体を把握している人がいるのか、という上の声に、いやその人の自由意志を尊重して…、あるいは、他にも素晴らしい指導は多くあるから…という弁明を自らにする為である。

そして昨日は、他所でのヒーリングを止め整体一本に絞りたいという相談も受けた。
晴哉師なら無言のまま氣を変えるのかもしれないが、裕介氏では「ふーん」と一言違った口調で言われたのを実際に聞いた。
相手が指導の間隔をあけようとしている時は逆で、詰めさせなくてはならない時である、反対も然り、とは晴哉師が常々言っていた事であるが、これ又、私は正直に言う事多し。
これまた自分に甘いのであるが、それでも相手としては間隔が空いた間、他力に頼らず、自分だけの力で心身を日々管理成長させていかなくてはならない、その大きな決断を評価したい。
私は症状のある方は数日から長くて週に一回の指導間隔であるが(晴哉師は毎日も多かったが、私の場合は数ヶ月に一人程度)、そうした方が二週間以上空けるのはやはり相応の覚悟があると思うからだ。
(もちろん、その間に他所での指導を何か受けているなら、さすがの私も今後の指導はお断りさせて戴いている。)
そうした覚悟ある方々は特にであるが、私は日々指導を受けている方々に愉氣をしている。歩く時、目覚めの時、茶を飲む時。
しかし、それまた自分への甘えなのかもしれない。(愉氣をする事自体はともかく)

元より指導を受ける事自体が命懸けの事だと思う。
だからこそ私たちも命を懸けて対峙しなくてはならない。
中途半端な気持ちで指導が出来るわけがない。
整体は氣道といういのち(自然)に沿って生きるための個人指導であり、それは一期一会のひとときであり、それは藝術である。
その意味で、私にとって整体は命懸けの遊びだ。
なのに未だ自分への甘え多き事、自身の頭を壊したい程である。
更に深く、自然の道を歩まん。



  聖書
Date: 2008-05-23 (Fri)
ホテルに泊まる愉しみは聖書と出会えること。
朗読を聴くと、これはイエスが実際に言った言葉とは違うと思う事がある。
また、一般には捉えられている意味と別の意味を持たせたく用いている言葉もある。

聖書の素晴らしさは、その言葉の背後にある純粋な響き、即ち真の愛に出会うことにある。


  夢…について。
Date: 2008-05-23 (Fri)
起きて「あ、夢だったのか…良かった」と思う人は多いだろう。
実は、寝て「あ、夢であったのか…良かった」でもある。

幼き時より夢は面白いと思っていた。
9歳位までは自在に夢を操ることが楽しく、縁起の良い夢にさせたり、自在に楽しんでいた。
10歳より麻原先生に出会ってからは、先生がユング心理学を東海大学で教えられていた事もあり、夢分析や夢を記録する事も教わった。
その後、フロイト流の心理連鎖の技術も何度も受け、中学の頃は大学生に混じりユングの日本では未刊の本の翻訳作業も毎月会合の毎に参加させて戴いた。
大学生の国語の採点を一日数百もしたのもその頃だ。
(ちょうど私の読書感想文(夏目漱石、こころ)が神奈川県で一位となった事で以来されたことではあったが、その頃は、麻原先生に頼まれ、試験毎に、別大学での国語の試験をAからCダッシュまで細かく採点を毎回つけていた。
 その採点のつけ具合も含め、再採点する麻原先生だからこそ出来た事ではあろうが、中学生に大学生の採点をまかせる事は普通の人では出来ないだろう、とその頃も思っていた。
 時効故、書いているが、本当に素晴らしい人であった。)

夢の話から道が外れたが、その後、高校生になり、スエデンボルグや様々な方の著書に触れ、近辺の本屋はとまれ、藤沢市の大きな本屋での宗教、哲学、そしてその頃から始まった精神世界の本は「全て」読んだ。それ以外のコーナーの新刊本もチェックしていた。
(小学生時代よりはボルテージは下がったものの、かなりのオタクだったと思う。)
その後、弓道のあと麻原先生の家に行く前に寄った鎌倉の古本屋で野口晴哉の書によって、夢分析をする事が身体にとってどういう影響があるのかを知った。
驚き、色々と試す。
そして、実際、その通り後頭部や関連部を愉氣したり、生活すると現実が変わってくる事を実感する。
それで、その後また様々な経緯はあったが23歳の頃、岡島先生と7年の積る気持ちと共に実際にお会いし、(麻原先生との師匠の交代劇も鎌倉光明寺で行われた)
その後、夢については閉ざされていたままであった。

(なお、自伝的に言えば、山手国弘さんを始め、いつも言っている飯島先生や本当に真剣に日々修行した本山博先生、修験道の宮家先生など数限りない修行の日々があったが、それらはまたいずれ書けることがあるだろう。本当ならば、そうした素晴らしい恩師をそれぞれご紹介したいのだが、それは後日にとっておこう。
 そしてまた、その後も夢については、しかし眠りは未だに分からないところがある、という謎解きのような晴哉先生の言葉と共に生きていたのか、私にとってパンドラの箱のまま、まさしく40年間以上の月日が過ぎた。)

以上の言葉は全て戯言であり、もとよりそんな言葉を言いたくこの日記に向ったのでは無かった。(冒頭のフレーズからこのような演奏になってしまったと勘弁して戴きたい。)

起きれば夢。

私は、この数年【気道の学校】の学校で、明日は違う(本当に全く。全生をも)が訪れる可能性がある、
そして、「ただ、現在が幸せでないとそれが訪れない」その理由は、そして、そのためにこそ、この【気道の学校】がある、と伝えているが、それと全く逆の事がある。(実は同じ事)

確かに眠りは神秘であるが、きっちりと現実に向かわぬ者の後頭部は貧弱である。

現実を現実と責任持てる者こそ夢に責任が持てる。

実は、昼間見る夢のほうが絵空事なのである。
時空を知る人にとって。

正夢が起こる時も必ず物理的身体が整っている時が多いのでも然ろう。
それは自力と他力(運命)との関係と相似象である。
而して晴哉師は自力を薦める事をこの日記でもその理由と共に紹介した。

ともあれ、ここでは、これ以上解説しながらの言葉は留める。

故に、

真実に生きる者、夢無し。

その者こそ、夢が真実になる。


  今日のこと。(つづき)
Date: 2008-05-22
本当に「私が呼びにくい神々」が呼ばれた。
「御霊へのコメント」は言わなかった。
それよりも弟者の充実が素晴らしく、二人の共鳴によって、いつも呼んでいる御霊の内の幾つかかが確かにここにいらしたからだ。
確実に霊の御霊(みたま)道での氣道を弟者は育まれている。

数カ月の勤行のひとときは暫し休みとなったが、これは真の意味で、積極的な休みである。
もとより、そのつもりで昨日で中断した。

珠利さん、初めての朝勤行にて、様々な通路を開いてくれたり、精霊の訪れ(ちょっと驚いていたね、その後は話せなかったが)も誘ってくれてありがとう。
この場を借りて感謝申し上げたい。

  明日こそ以前の神塾のよう。
Date: 2008-05-21 (Wed)
明朝は、一区切りの勤行。
元より依頼があってより始まったが、スケジュール表にも載せ、以前の
「神塾」のようにしようかとも思ったが、その半分も出来ず。
生まれの横濱に来て暫く行ってはいたが、今や中々に難しい。

冒頭で書いたように、今後は暫く行わないが、明日は芦屋より間口も参加され、私が呼びにくい神々?含め、面白い小一時間になるだろう。
以前の神塾よろしく願望実現は行わないが、しかしそれぞれの御霊へのコメントが訪れれば言わせて戴くかも、しれない。

  無題
Date: 2008-05-18 (Sun)
何故、あの方だけはピアノの椅子を引き出して?
と言われる。
…確かに道場の備品。
しかし講座内容に相応しいRゆらぎではある。

ともあれ、久しぶりに青木先生と歓談。
嬉しかった。

明日のライヴはフルメンバー。
(それも初めて。委しくは「音楽掲示板」http://6901.teacup.com/kidomusic/bbsまで。)
京都のクレーム氏、葉山のMさんを始め全ての方々に祝福を届けたい。

  明日の催眠講座@について。
Date: 2008-05-16 (Fri)
明日(土)午後4時から久しぶりに催眠講座を行なう。
(7時まで。委しくはhttp://npo-kido.com/tokubetu.html#saiminをご参照戴きたい。
 前回(7年前)の講座CDもプレゼントする。)
そこでも書かれてあるように、全国でも知る人は少ない言葉を用いないミルトン・H・エリクソンの催眠技術も幾つか紹介するのだが、
そのため(秘匿性が高いため)、講座参加者には内容を他出しない旨の念書を書いて戴く。
──その事、講座ちらしには銘記してあるのだが、ホームページや「会員用掲示板」では触れられていなかったため、この場を借りてお断りさせて戴いた次第。
 
(なお、関西や岡山からもご参加の方々がいらっしゃるそうで、とても楽しみである。
 たぶんこの講座に出ると催眠という定義がガラッと変わってしまうだろう。(それは今まで行なった私の講座に出た方であっても。))

 今回は、チラシでも書いたように次回以降の催眠研修会(今回も稽古会の公開版であるが)にお伝えする「内部表現の書換え技術」についても時間が許せば公開したい。
 
 全くの初心者をはじめ、自然なラポール形成技術やリラックス誘導に興味のある方には、ぜひお薦めしたい講座である。
 (特に愉氣(整体)に興味のある方には直接的に役立つだろう。
  なお次回の(催眠)研修会は、先に述べた内部表現の書換えその他の技術を公開するが、やはり当日念書を書いて戴く事と、今回の講座出席者(あるいは同CD(DVD)?購入者)のみの参加条件になる事を予めお断りさせて戴く。)
 

http://npo-kido.com/tokubetu.html#saimin


  「氣道塾」
Date: 2008-05-14 (Wed)
先程、氣道塾が終える。
早、十時になろうとするが、今日は特別。(もちろん参加者のご希望も伺っての事、念の為)
氣道塾とは自動運動と瞑想を中心に行なう講座であるが、言うなれば【氣道の学校】の、かなり短縮の実践版。
つまり氣道methodの最も重要な二つのことを中心に行なっていくコースである。(もちろん瞑想は自動運動の一部であるし、別の定義で言えば自動運動も瞑想の一部と言えるかもしれない。)

そのため【氣道の学校】やヨーガコースに出ていない方、拙著を読まれていない方には、いきなり座禅が始まるようなもので摑みどころが難しいかもしれないが、実際には氣道塾から氣道を理解して現在も歩まれている方もいらっしゃる。
横濱道場で定期的に行なっていた瞑想会も、純粋なる瞑想が多くの方には難しく、そのため「会員用掲示板」でQ崎さんが仰って下さったように、様々な工夫をして瞑想を深めようとしている。
…しかし、本来それは協会の中ではヨーガコース(体塾)の持つ役割で、瞑想会は純粋にただ座るもの。
そうは言ってもQさんなら良いのであるが、初心者ではなかなか難しい。また長年行なっている人でも数息観のほうが楽とも言われる。
つまり瞑想(ヨーガでいうディアーナ)の前段階の集中(ダーラナー)の段階になってしまう。
それではヨーガ・コースの役割と重複してしまうので、いっその事、瞑想会を止めるか、とも思ったが、東京道場にあやかり氣道塾という名称で横濱道場でも続けることになった。
(つまり、最重要氣道method、すなわち瞑想を深めるためのmethodであり、実生活も生き生きと出来る自動運動を紹介する時間である。)

氣道塾の説明が長くなったが、「氣道」を学びたい方は、初心会(入門会)か、氣道塾、あるいはヨーガコースに参加するのが良いだろう。
(ほんとうは、入門会のあとは、【氣道の学校】basicをお薦めする。そのほうが氣道の身体からのアプローチ、methodを説明を聞きながら体得できる。もちろん、個人レッスンも可能なので、その場合は事務局までお問い合わせ戴きたい。)
───色々とある「氣道」協会のシステムであるが、まずお薦めなのは【氣道の学校】basicであること。

…しかし、今日はそんな事を言いたく日記に向ったのでは無かった。
話をして、赤本の話、そして新赤本プロジェクトになった時、それは、この前の日記に書いてありましたね、と参加者のHさんに言われた事。
何より嬉しかった。

以前にも書いたし、このところいつも言っている事だが、茶道は何か、弓道ヴは何か、書道は何か、武道は何か?
その答えをきっちりと自問して欲しい。
(今日、氣道塾の前に少し空き時間があって、その間考えていたのは勾玉(陰陽の図形)は平面に表すにはそれしか無かったが、真の姿は、いえ3次元空間のレベルでも、どうなるか、という考えであった。この答えは、上記の●道の答えと表現形体こそ違えども同じになるだろう。その後、球体に勾玉(陰陽の図形)を書くとしたらどうなるか、も考えた。これは簡単であったが、これは心身の文法で言えば原則1のほうであり、空を知る者によってはパズルのようなものであろう。もちろん数学に詳しい方は空を知らなくとも出来るだろうが、しかし数学も分野によっては空を知る知的契機にはなる。)
閑話が長くなったが休題。

同様、氣道とは何か?

それは、「浮かび現れる」ものである。
それは茶道は何かがmethodの中で言えないのと全く同様である。
それは他の道もそうであるし、そしてどの道も目的は同じだろう。
どの「道」もそこを歩んで浮かび上がるものなのである。
そして、それらの道を纏めて氣道と称したに過ぎない。
氣道は浮かび上がるものである。

一昨日も芝さんが自身の紹介として踊りではなく、まず堂々と「私は…氣道家です。そして踊りも…」と語った事が嬉しかったと書いた。
 氣道という言葉が、ようやく長谷川という個人から離れたな、という今までの想いの実現が嬉しかったのである。
 そうして、芝さんが言っている氣道という氣の道に真に対峙している姿が、嬉しくまた美しく思った。

それは、ある自然の滝に接した時に感ずる感動と同じである。

邪気だろうがエネルギーのあるところに生物は集まる。
しかし、そこから、その対象ではなく、エネルギーの中核である部分に触れようとする方々の生き様は美しい。

そのために武道で言う守破離というように、守という模倣から入っていかなければならないため、そこ止まりになってしまう人はいる。

 しかし、それは1%に満たない。
 ほとんどが守の段階もが全く出来ていない。
 
 99%以上といっていいだろう。私の知る中では野口裕介氏という方がいるが、それ以外は守の段階を「勝手に」超え、独自のものを行なっている。
 大事な事なので再度言う。模倣をきちんと行なえて、次の破という段階にいった人は少ない。

 ───そのように、知識だけではなく学ぶという階梯は難しい。
 
 しかし、きちんと学ぶものには美しさがある。
 それは、誰もが分かる。
 赤本を知っていた、今日、氣道塾に参加して下さった方に限らない。
 真から謙虚な姿がある。
 
 そして私たちは実は一生学ぶ過程である、と最近常々思うことが、そうした美しい姿を見て逆に斯くありなんと思う。
 
 一生、守である人こそが、破、離という段階を、自然の道として通過してゆくのであろう。
 そして、その者は、未だに守の段階だと言う。

(蛇足) 
 然して、その者、その中心を観るが故、天(即ち天外、空)を模倣す。

  新「赤本」プロジェクト
Date: 2008-05-12 (Mon)
どんな事があってもやり遂げたいという事が幾つかある。
一つは20代前半から20年以上細々と続けている「野口晴哉資料」の完成。
その上で行ないたいもう一つの事は「新『赤本』」プロジェクトである。

───そう。
ニュージーランドから戻り伊勢佐木町が近づくにつれ、この件で津村喬氏と打合せをする約束を思い出し、私はなぜ身体などという下卑た仕事をしているのか、と思ってしまった事、それなのに何故今は身体の事を整体として氣道の個人指導で行なっているのかについては、毎月のように講座で話している。
 思い出話が続くが、私の手相が或る新聞に私の手相が載った事がある。
 手相鑑定家は、西谷泰人さん(一度観てもらい、また逆に妊娠中の指導をした事がある)どころか、何と門脇尚平氏で、
 西医学を伝承される方でもあり、中学の頃から、ずっと尊敬していた人であった。(モンゴルではジンギスカン同様の評価を受けているそうだ)
 面白い話は沢山あり、その殆どが的中であったが、新聞に掲載されていた文章(その前日が青木宏之先生だった。先生とのご縁も20年数年になる事に気付く。)は、その時の会話は全て割愛され、私の誕生日の事だけが触れてあった。
 19○○年、6月6日、6時6分生まれ。
 それは身体という形而下から、形而上にまでの道を創り、世に伝える役目を持って生れた人と書いてあった。
 役目という表現は別として、自分の行なっている事と同じであったので、まさしくそうかもしれない、とその新聞を見て思った。
 このところ形而上のほうが興味の対象になっている私にとって、こうして未だ完成していない事を思い出した時、この二つの事を思い出したのであった。

 さて、新赤本プロジェクトについてであるが、今後の世の中の為、ぜひご協力戴きたく願っている。
 (ご意見、その他はfax 045−261−3304までどうぞ。)
 
 なお、赤本の事は改めて説明する必要はないだろうが、出版以来、現在で数千万部のベストセラー。
 (正式名称は「実際的看護の秘訣」築田多吉著。なお最近、文春文庫で「「赤本」の世界」(山崎光夫著)」が出たので、それを先に読むのも一手かもしれない。)
  また「もしも」氣道家で、赤本を知らない方がいらしたら(そういう方は拙著の青本の意味も分かっていなかった事になるのだが)、この機会にぜひお求め戴きたい。
 (私の文庫が出る前までは「赤本と自然療法そして青本(実践自然健康道)の三冊あれば家庭での手当ては事足ります」と言っていた。) )

 この新赤本プロジェクト(そしてその前の野口晴哉資料研究)も、完成後、世間に成果が現れるのは、おそらく私たち亡き後だと思います。
 とれども、今後の医療の全てが、この点にかかっていると言っても全く大げさでは無い事、識者ならご理解戴ける事でしょう。
 皆さまのご協力をお願い申し上げます。
  
(※なお「形而下から形而上まで」という名称は12年前から会報で連載される予定であった自伝の題名である。)
 

  氣道家
Date: 2008-05-12 (Mon)
昨日のことを思い出す。
(三度消してしまった。)
昨年の誕生会、Iさん事件以来、今日まで感情を放ちづらいな経験もあったが、問題となるのは行為では無い。
そしてこれは私だけが感じた事ではなかったらしい。
(苫米地英人氏は、行為ではなくその状況にあると言うが、優れた脳機能学者らしい言葉である。しかしそれだと祝賀会という状況では更に。)
今日もある整体指導者に偶然すっきりと言われた。「理不尽な人とは付き合わなくていいのよ。エネルギーの使い方が違ってしまうから。拒絶しなさい。」と。
その事、つい先日もこの日記で書いたばかりだったので苦笑するが、その時は、自分のほうに落度があってという事でないなら、卑屈にならず、という意味で、離れなさい、と書いた。このように、それこそ同じ意味の「言葉」ではあろうが、堂々とした明るさは前日記には無かったものだろう。
そう、全く落ち度が無い以上、堂々としていいのは当然である。
この事、気弱な方のために、「もし、あなたが…」の続きとして書いた次第である。
(なお昨日の会が終えたあと、演奏をして下さった金剛さんと私とあけみさんとで何故か全く同じ話になった事を思い出しシンクロニシティに驚く。「教え子達の1%の人が色々と言うのだけど、それにこちらの生活全部が巻き込まれてしまいやすくなる。」という話が続いた。
 結論を求め「でも、そこからも私たちは学びますよね。」と言うと「そう、大事なのは、残りの99%にエネルギーを注がなきゃいけない、という事。」。
 私は今までもずっとそうであったように、私を求める人にのみしか語っていない。まして積極的な付き合いは音楽関係以外は無い。
 それは親兄弟でも同様であった。
 (最近では氣道ブログでも立場的にも同様な事があった。ブログが休止した理由になったある一言で傷ついた数名の方々に対してその後もやりとりがあったが、彼らの傷つきはまだ完全には癒えていない。まるで今日の私のようだ。私の甘い裁定と、そしてその言葉にも現れているそうした事を呼び込んでしまった甘い氣を改めて皆さんにお詫びしたい。)
 しかし今後は金剛さんや整体指導者が仰るように、こちらが公正明大である限り、毅然と、そして叱るべきは叱ろうと思った。(このメール自体その意味も持つだろう)その意味でも昨日得た事は大きかった。
 また、縁あってお会いした方には、それなりに援助するのは以前同様。
 人は役割というのが確かにあるのかもしれない。
 本田健氏が長年の調査で「一人として同じ願望を持った方はいなかった」と言っていたが、優しい人はつい日常の中でも相手に合わせ過ぎてしまい、それが自らの願いを閉じ込めてしまう事に繋がることに気付かない。
 夢を大事に、そして礼節も大事に。

閑話?休題。
ともあれ、大事な事は言葉や行為では無い。
言葉の背後にあるもの。
それのみが伝わる。

しかし、カザルスの演奏や晴哉先生の言葉は、CDでも本でも伝わる。
その言葉の背後のものが確かであるからだろう。
もちろんそれらを捉えるのは、こちらの観念形態を通してであるが、しかしそれでも変わらず伝わるものがあるのは優れた氣の特徴なのかもしれない。

その意味で、昨日の芝さんのつれづれなる祝辞の最後に自己紹介として
「俺は氣道家です。そして踊りも…」と仰って戴いたのは嬉しかった。

言葉は、その背後のものの結晶。
昨日は、前述のようなお茶目な方もいらしたが、しかしそれでも皆、氣道家というつもりで私あるいは私たちスタッフを祝するために、いらして下さったのだろう。

何よりその事が嬉しかった。

  伝導瞑想  (ホ・オポノポノ)
Date: 2008-05-10 (Sat)
以前ここで(3月号の会報でも)ご紹介させて頂いたベンジャミン・クレーム氏の講演会に行く。
今後にも繋がるとても安心したひとときを持てた。

多くの会員にもお会いした。
嬉しかった。
講演前のオーバーシャドウは、繊細で強烈、それでいてたおやか、自然。
ゴールデンウィークの【氣道の学校】の時に何度か訪れていた氣と余りに似ていたのにも驚くが(その時もクラウンチャクラで、その時はかなり身体と離れてしまった)、その順序だからこそ私のような者にも抵抗無く感じられたのだろう。
オーバーシャドウの後半、私達家族を以前慟哭に至らせたIさんが目の前の席に座る。
あら不思議、そしてそういうものだと思いつつ、時折りキョトキョトと、会場の中、只一人リスのように動くIさんを楽しく見つめながら講演も楽しむ。(きっとどなたかの待ち合わせもあったのカナ)
クレーム氏は、オーバーシャドウもそうだが、ほんとうに自然で、落ち着いていてユーモアもあり、如何なる意味に於ても自然で、だからこそ美しかった。
そう、私の好きな下町のオバチャンのようだった。

その自然な姿に氣道の先達だな思った。
(なお、氣道という言葉は、私が創った概念であり、それは巷にある色々な道を一つにしたいということから創った。
 そうする事によって、現在は無理でも数百年後は、という想いで「氣道」の定義も改めたのであった。
 そして、ゴールデンウィークの【氣道の学校】でも申し上げたように、氣道とは、methodは確かにあるのだが、それは氣道自体ではなく、氣道は実践することによって浮かび上がる道なのである。
 そういう意味では、武道や茶道、弓道と同じかもしれない。

※席の手配始めM氏には大変お手数をかけました。この場を借りて御礼申し上げます。
※話は変わるようだが、マコモ風呂の事。
 M氏には下位チャクラから…の文脈でお伝えしたが、繊細なエネルギーもあるので、アストラル領域以上にもいけると今日入って感じました。
 (クレーム氏とも全く矛盾しない感じがして、まるでクレーム氏を反芻するか如くでした。)
 ただ、これは私感にしか過ぎないこと、それとマコモ風呂の管理の問題もあると感じます。現在(5月から)の横濱道場のマコモ風呂は最高でしょう。今後さらに育って?いくのかを思うと興味深いです。)
※最近の私が愛読しているのは木内鶴彦氏です。
 【氣道の学校】にもご参加戴いたSさんからお送り戴いた「生き方は星が教えてくれる」という本を読み、とても納得。
 今まで会報で特に推薦した本は「伝導瞑想」「岳──みんなの山」でしたが、次なる一冊にしたく思いました。
 (おそらくこの文章のまま、8月か9月の会報に載るのでしょうが)
 私が、いつも、この人たちには言えるな、と思った時に申し上げるエピソードが幾つかあります。
 その内の一つで、「危ない!」という声で危機を脱したその声が未来の自分であった、というの話があります。
 その話の原典が、この著者の事であった事を知り、私は読みつつ、今までの人生がクルリと回ったような終着点を得たような感覚を味わいました。
 今日行ったベンジャミン・クレーム氏の講演の後で、このような感想をするのも一つの縁なのかもしれません。
 
 明日の皆さまの一日が素晴らしい一日になりますよう。

 ホ・オポノポノ  

  もし…A
Date: 2008-05-09 (Fri)
「もし…」の続きはあまり書きたく無かったのであるが、
(それは色々な理由はあるが、大きな理由は別として、既に書いた「もし、あなたが、今だれかと敵対していたり、嫌な感じで気になっていたとしたら…」と重複の内容でもあったから)
しかし日記とはいえ、個人の意思だけでなく、今までどなたも仰っていないと思い、伝えなければと思い、その理由のみで書いている次第。)

 もし、あなたが、どなたかに、いえ、何かに、たとえどんなことであっても、一言言いたくなった時があったとしたら…

 その対象が自分の照射である事は既に書いた。 (だから注意して欲しい…とも書いた。)
 そしてまた、その上の事として、「それには、裁判官の如く第三者的な冷静な眼で、しかも事実だけでなく互いの感情をも徹底して冷静に観なくてはならない。そのためには、心底から相手を許さなければならない。」とも書いた。
 結論は書いた。
 しかし、それでも、と思う時はあるかもしれない。
 その時に思い出して欲しく、蛇足ながら日記に向かう。
 
 何かに抵抗、批判がある時、それは自分の未熟さを知る時であるが(既にその理由は書いた)、
その時に、それでも言いたい時、それを言うと(書くと)、そのレベルに、あるいはそれ以下のレベルになってしまう、という事。
 
 即ち──言えないのである。
 
 しかし大概つらい。(既にそのレベルになっている故)
 けれども、言いたい気持ちが残っているなら、それは、あなたの中で氣の道を探し、其処に合わせて生きなくてはならない。
 高次の自分(そういう表現は好きでは無いのであるが)、つまり魂を超えた自然な自分の道に沿い、その立処から自分を見つめなくてはいけない。

 この事は、私がこの世に生まれてから何度も自省する実感である。
 そして、とても重要なポイントだと思い、日記の流れを中断させてしまうが、先述したように、何故か今日書かなくては、と思い書いている次第。

 繰り返しになるが、批判した途端、そのレベル(あるいはそれ以下)になってしまう、という事。
 冷静に考えれば当然のことなのだが、当事者になると感情に呑まれて中々気づきにくい。
 
 しかし、この感覚は確かというもの(自然に沿った感覚、自我の無い感覚)が、しっかりとあれば、段々にそうした事も無くなる。
 今までの自分が成長してきたように、他の方も、あるいは人間に限らず、それぞれ成長の過程なのである。
 高校生は小学生の失敗や学力の足りなさを怒らない。
 母親は子供の未熟さを怒らない。
 その成長を促す最も大事な点かと思い、日記に向かった。

 (なお、それと法的(六法全書は晴哉先生も言うよう良心の塊だ。いみじくも法学部に出た者だが、常に100%憲法あるいは主幹となる法律は私の裁定とこの26年間同じであった。
  客観性は、自己への正直さからしか生まれない。)な事とは話が別である事は既に書いた。
  母親も叱るべき時は叱る。
  ただ、そうした場合でも、事実を別として、相手(対象)は完全に許さなくてはならない。
 (許すというか、愛以外は全くないようにまで。それが出来た時ほんとうの許しだろう。)

 そして、そうした時、自ずと問題は解決する。

──これが、この20年間以上、常に言い続けている
 「問題の解決は問題の中には無い」
   の真の意味である。 
 
 問題は常にあなたの中にあり、
そして、それを問題と捉えた時、あなたはその問題を超える時に来た、ということである。

     禅
Date: 2008-05-06 (Tue)
久しぶりに弓道場に行く。
清澄な氣満つる中での動禅。
是れ又氣の道。
無、透明な時空間に、時を忘るる。

  【氣道の学校】後半終える
Date: 2008-05-04 (Sat)
…方がいらした。
スケジュール的には明日まで。
私たち居残り組は明日も行なっていくが、その方は前半も一日早く終了で、つまり計6日間で【氣道の学校】を卒業された事になる。
【氣道の学校】は、文字通り「氣」の道の学校なので、自然に生きるために、瞑想と現実との統合がテーマだが、今後、更なる瞑想の深みより現実をしてゆく存在になるためのアドヴァンスコースを設けようと思った。
(そこでは隠された透明な観念を探ったり、その為に三つ以上の内感を同時に行なったり、また処理のためにも意識の領域を超えたmakeit(断言法)を行なっていく予定。今回再受講された方には、その中から選出し、その立処を創って戴いた。)

悟りたい、という目的で様々な行を行なう方がいらっしゃる。
私も幼少時からその端くれであったが、ヨーガでも禅でも何年から何十年もかかる。
それを【氣道の学校】では5日間で旅しようとする。
「氣道」が凄いという事を言いたい訳では無い。
たしかに「氣道」methodではとても効率良い近道を提示するが(そのポイントは幾つかあるが、一つはイメージを前半では排斥する事。それと他に意識を向ける事。野口整体でも他に完全に意識を向けられる方が内の深行に入っていく。)、
その旅は、ある意味では無限に深めることのできる終着点無き旅のようなもの。
だから【氣道の学校】の前半でも、進行は個々に合わせてゆき、悟りのような終着点まで行かなくとも良い。

私たちの意識では気付かない心を無意識と呼ぶ。
そして、その無意識にも様々な階層がある。
クリシュナムルティは無意識は無いと言う。
魂、集合的無意識、そしてブラフマン、タオ、という深い部分の無意識をも意識化できる彼ならではの言葉だろう。

そして私たちは意識化していることも、すべて自分の観念(フィルター)を通してしか感じられていない。
いかなる意味に於いても、私たちは自分の現在の状態で、周囲の現実や世界や過去や未来を決めている。
「自分より、ちょっと上かな」と思ったら、その人は、かなりとんでもなく上である、と落語家内ではよく言われるが、自分を超えた存在を認識することはできない。
否、自分という観念(フィルター)がある限り、全ての事象を正しく認識することはできない。
自分が変わらなくてはならない。
自分が変わると捉え方が代わり、文字通り「見え方」が変わる。
自我での反応や思考ではなく、タオの道=自然の道(氣の道)を歩んでいくと世界は新鮮だ。
全ての抵抗を手放し、自分をも手放し、自然の息に生きるものは、全てを味わい愛でることができる。
逆に言えば、味わい愛でられなかったことだけが、私たちの観念を固定しフィルターを曇らせる。
自然の息に生きるものは、肉体や心や思考から離れているが、思考を持とうと思えば持てるし、肉体を持とうと思えば肉体にもなれる。
注意を集めた対象になれるので、注意を固定しなければ、氣そのものになっていく。

(これらの言葉を、どうか、頭や空想で捉えようとしないで欲しい。
 道途中の未熟な私の体感を綴ったに過ぎないが、しかし私にとってはどんな現実よりも遥かに確かな実感なのである。)

それは本源との繫がりの感覚でもあり、阻むものは何もなく、ただ佇むだけで、源に自然の息に氣に還っていく。
そしてそこから私は生れ、そこに戻っていくのだろう。
限りなく静かで落ち着いた感覚。
源の感覚は愛と表現しても良いかもしれない。
真の意味での心閑かで息深い状態。
何も要らない。
そして同時にここから創り出すという事が始まるのだろう。
私たちが生れた時と同じように。

おそらく私たちは、常にこの道を歩もうと欲しているのだろう。
そして、歩めていないと思っていても、実は歩んでいるのかもしれない。

ただ感謝…

  【氣道の学校】前半終える。
Date: 2008-05-02 (Fri)
現在休止している氣道ブログに以前次の文章を書いた。
「ダン先生が晩年の晴哉先生のある事を公開し、強い感情はずっと残るが、それと共に生きていくのです、というような事を以前仰っていましたが、非常に9種的な考え方だなと思いました。
同傾向の人、忘れられない嫌なことを早く忘れようともがき過ぎる人にとってこの言葉は役立つ事があるでしょう。
私は非常に共感したのですが、しかしそうでない人もいらっしゃる。
東京大空襲にあってもケロッと忘れている方もいらっしゃる。残らない人もいる。
どちらが幸せかはわかりません。
けれども、嫌なことを敢えて覚えておく、という必要はないでしょう。」

 「相手に反発する時は、相手の中に自分のその部分を投影している時であり、しかも、相手のほうが自分より大きく高い存在の時に生ずる」とは、野口晴哉師が喝破された事だが、過去を想うに常に然りと反省させられる。
(この事、下の「もし、あなたが…」にも加えたく思ったが、「敵対」という項目にも多く重複するので加えるのを省いた。)

今日で、【氣道の学校】の前半が終えた。
前半は、「風の学校」とも言うが、文字通り、風になる(風の当たる感触では無く)事を目的とする。
つまり、風の根源である息吹、感覚の源、命の本源に向かい、「私は何か?」を求める0(瞑想)への旅である。
今回も完全なる思考の静まりを得て、意識でも無い「空」を実感、体感、というかそのものになった方がいらした。
そのため昨日の途中で前半を終了し、今日はお休みの方もいらした。
言葉にすると、悟りとなるだろうし、大それた事のようであるだろうが、ただ赤ちゃんに戻る旅のようなもの。
それを「意識的」に行なえるというところが、旅の面白さ。
ちょうどそれは晴哉師が言う「俗心の多い大人が天心になろうとするところに愉氣の出来る理由がある」という言葉通り、愉氣にも通ずる。
だからこそ、整体を本当に真剣に行ないたい者には「氣道」を、そして【氣道の学校】を薦めている。
氣道において整体は氣道の個人指導であるが、その整体の原点が愉氣であるからだ。
愉氣の深さは瞑想の深さに比例する。
人間が行なっている限り。

(※念の為。
 なお、整体も技術がある。技術(現実)があってこそ具現化できる逆の過程もある。(だからこそ後半(夢の学校)を先にしようとも思っていた。)
 職人の道は、1を通して0を求める道であるという事。
 職人はともすると、その集中から排他厭世になるが、そこから0に至る。
 0だけを求める【氣道の学校】の前半に後半がある理由である。また現実生活こそ【氣道の学校】の始まりと言う所以である。)

晴哉師(今回は晴哉先生の名前ばかりで恐縮である)が言う「宇宙意識」と完全になった感覚が、風の学校の目的である。
そこには思考は無い。
あっても、思考を把握している。静める事もできる。思考モードになることも出来る。(しかし深まった状態では、したくはならない。)
意識をあえて肉体や心、魂に向ければ、それも浮上する。
問題は一つとして無いし、この感覚を言葉化は難しい。
もちろんそれは、頭での空想でも自己催眠でも全くなく、現実以上にリアルな感覚である。悟りを「覚醒」と表現した人は素晴らしい。)
10年以上前、ある受講生に「それを敢えて言葉化すると?」と伺ったら、「甘美な香り」と言っていた。
芸術家らしいな、と思ったが、私も同感した。
現在の私なら、限りない安らぎと平穏だろうか。
そう書くと、現実レベルのその感じになってしまうのが残念なのだが、完全に一つになった感覚はどのように表現しても誤解を生ずるだろう。
言葉が現実レベルに戻らないと創れないので仕方無いのであるが。
──つれづれと書いたが、受講されている方々が、その微笑みの(そう微笑みの感覚でもある。それは純粋なる「愛」そのものだ)タオを感じられている姿を見るに、ほんとうに嬉しく思う。
何より嬉しく思う。
ここから私たちは生れ、そしてここに戻っていく。
そして、それ(ここ)は、いつも、如何なる時にも、今、ここにある。
それは時間や空間を超え、いつもどこでもある。
そして、私たちはそれである。

明日からは再生の旅が始まる。
【氣道の学校】の後半は、夢の学校とも言うが、0になり、無に空になっていわば真の意味での死を生きながら経たあと、新たに生れどのように現実を創っていこうとするのか。
今回、昨日の半ばで前半を終えた方は、「もう何も要りません。今、以上の幸せはありません。」と仰っていた。
「後半もお休みしましょうか?」と意地悪な質問をしようかとも思ったが…
 その方を含め、明日、皆さんがどのような生を創られていくのかとても楽しみである。
 
 数えればbasicからでも、まだ一週間。
 遠い昔のような気がする。
 
 どうか、この日記をお読みになる方々にも、皆さんの感じられた真の意味での愛が届きますよう。
 そして、今日、明日も素晴らしい日々になりますよう。
 

  【氣道の学校】始まる。
Date: 2008-04-28 (Mon)
一昨日、昨日と【氣道の学校】basicがあった。
久しぶりに北海道の知栄ちゃんとも会えた嬉しさ共々、熱心な参加者と充実した二日間を過ごす。
今日からは【氣道の学校】。
関西からもホテル連泊での出席者も。
皆さん、静かに深い滑り出し。
深き楽しい氣の道の旅立ち。
本当の旅は学校終了後であるが、まず出航は、瞑想を深め、その深度に合わせて、過去現在の捉われを無くす道順。

船長の私も、「氣道」を伝えるためだけに生き、そのために存在する嬉しさをいつも以上に味わっている。

  もし、
Date: 2008-04-25 (Fri)
もし、あなたが、噂や陰口を多く聞いているとしたら…
いつの間にか無意識的に影響を受け、知らずに翻弄されているのに気づかない。
それは、あなた自身の本源、真実の氣の道から最も遠ざかっている状況である。
周囲を抑止し、そしてそれらに抵抗し、かつ欲する自身の内奥にある二つの感情を処理しなさい。
そしてあなた自身が同じようにしている日常の言葉、口癖を探し、それに伴う感情を見つめなさい。
その感覚こそがそうした状況を引き起こした根源である。
すると、必ずやそれは無くなる。あるいはあなたかそれらの人がその場から離れることになる。
もし、あなたが逆に噂される立場であってもそれが負担であるなら同様。
立場の違いは氣(エネルギー)の質と大きさによって生ずる。
それ故、あなた自身が噂や陰口を確かにしていないのなら、それらに惑わされず、堂々と前を向き、魂に沿った清々しい真実の道を進みなさい。

もし、あなたが、今苦しんでいるとしたら…
必ずや道は在る。
そしてそれは、必ず更なる飛躍に繋がる道である。慌てず道見つけるべし。
時間のかかる事もある。焦らず待つべし。春までの冬を短くする事は出来ない。
けれども、踠(もが)くのでは無く、可能性への道を歩み、正しく待つことが出来た時、あなたは冬の愉しさを知る。

もし、あなたが、今どなたかの援助を求めているとしたら…
それが本当に求めるべき援助なのかを見極められん事を。
自慰は次の自慰を生む。投薬も加減を知らねば然り。
しかし、自慰も投薬も必要な事はある。
人はいざという時にその本性が現れる。
あなたにとって本当に必要な人は誰か見極める機会だと思いなさい。
然して良薬時に苦し。

もし、あなたが、今だれかと敵対していたり、嫌な感じで気になっていたとしたら…
気になっているのは誰か?
あなたが、それを気にし、それを創りだし、そしてそれに抵抗しもがき無くそうと、相手という「鏡」に移った自分に対して一人相撲をしている。 あなたがいなくなければ全てが無くなる。
あなた自身が変わる以外には無い。
そして、さらに瞑想を深めると、相手と自分とが、あなたの中にある二つの対峙する側面である事が分かる。
理不尽な相手は、それを求めるあなたなのだ。
しかし、先同様、直接的に相手に行動しなくてはいけない事もある。
それには、裁判官の如く第三者的な冷静な眼で、しかも事実だけでなく互いの感情をも徹底して冷静に観なくてはならない。
そのためには、心底から相手を許さなければならない。
すると相手と相手の行なった事が分離される。これが現代催眠で言う意図と行動との分離である。
相手は認め、しかしその行動には判断出来る、そうした位置にあなたの意識がある時(そして、その時は幸せであろう)、その行動へのジャッジが初めて出来る。
それは感情を捨てるという事ではない。
そうした客観、冷静を持ちつつ、激怒する事が出来るのは、その人の常なる息の深さと閑かな心に依る。

もし、あなたが、確かに自分のstageが上がったと感じたとしたら…
注意しなさい。
それが錯覚でないか、どうかは、あなたが今、どれだけ人や事象を許せるかで判断出来る。
つまり、先の敵対や気になるの真実の処理は、あなたのstageが「それ」よりも上でないと出来ない。
多くstageが上がるのは、大きな悩みの後か、風邪の後。
しかし、人は、それを実感せずとも日々上がるstageの渦中にいる。
それを求めて、私達は生れ、そして今も生を送っている。
けれどもstageが上がった事を、あなたが正しく実感した時、
注意しなさい。
必ずや離れる人が出る。そして何かの出来事が生ずる。
それは、あなたの過去の投影である。
去る時には淋しさが訪れるが、そこで戻されてはならない。
相手、あるいは事象の気持ちを尊重しなくてはならない。
あなたは気付くだろう。
そう言えば、一番最初の頃に、この人、この事に対して、直感的な違和を覚えたという事を。
真に全てを許せる人は、そのまま進みなさい。

もし、あなたが、世界や人類の貢献に目が向かないなら…
あなたの現在の生活があなたの本心と一致していない。
自分の魂に沿った生活、真の願いに沿った生活をしている限り、たとえそれが実現出来ていなくともその方向で生きている限り、自然と他への慈しみの感情が生ずる。
ボランティアや寄付をしなさい、という事ではないし、それが現在のあなた自身から真に生れない限り、それはかえって欺瞞になり新たな分離を生む。
ご縁ある心理療法の吉本先生、ヨーガの成瀬先生、書道(新体道)の青木先生、MRAのK先生、最近では苫米地先生、その他、諸先生は、皆、それぞれに個性も仕事も異なっているが、共通するのは、皆、地に足がしっかりとついている事。自らの本源と一致した生き方をされている事。
それぞれ天才的な能力を発揮されている方だが、その理由こそその点にある。
そして、皆、世界への貢献を自然と考え行動している。
私が真の意味での願望実現を強調するのはその所以であるが、けれども欺瞞でなく、人のために生きると自分が生くる、という逆も歴然とある。
その両者を鑑み、何にせよ人の本質は善であろう、と思わざるを得ない。

周囲や、好嫌いや、信仰や、健康に、、
迷わず、自らの魂の真に求める道を生かん。
その時、あなたは天国に生きていることを知るだろう。

───好きな下町を闊歩して。
      (↑その下町の情景は以前にもここで書いた。
        ちょうど(氣道)協会会報6月号に掲載される。)

  或るブログを思い出し。
Date: 2008-04-22 (Tue)
経絡や漢方は、実は長年の歴史によって築かれたものではなく、たった一人の天才によって生れたものではないか、と思っていた。
昨年、鍼灸の天才、久保啓先生にその私感をぶつけたところ同感との事、我が意を得る。
日本の古神道、療術界も、松本道別という天才によって纏められ、次いで野口晴哉が深く大きく発展させた。

たった一匹の白蟻が家を壊したり、たった一度の言葉で心が崩れる事もあるが、
一人の意思で世界が変わる事もある。
一つの意思や言葉で人生が変わる事もある。
──私たちの深遠が連なっているが故に。
それ故、私たちは自らの意思や空想の方向に注意し、言葉や行動に顕れるようにしていきたい。

  二カ所だけ()内で補筆。
Date: 2008-04-12 (Sat)
今日はマコモ講座、明日はフィシオエナジティック講座が東京道場で行われる(予約はまだOKなので当日でもOK)ことは下に書いたが、何とK崎さんは、その連日に岡山から参加された。
(しかも、今日は横濱道場でマコモ風呂を体験&瞑想会も出席!)
そのあと歓談が出来なかったのは残念であるが、この連日の講座に出席されたこと、宝になったらと願っている。)
 
 逆にどうしても別方向として死に向かっている人はマコモには関心があったにせよ積極的にならない。
 温熱療法もそう。
 生に向かう方向を何故か拒絶する。
 そうした人がこの一ヶ月でも数多くいる。
 「あなたは本当は良くなりたくないのですね。」と言うことが相応しいこともあったが、「まかせているのであまり良くしたくないのですよね。」と申し上げ同感を得た今日の数人目の方もいた。
 そういう方の想いを知るに、下の日記で「お馬鹿さん」と書いたのも一概には言えないことを知る。
 その人は、病気を治そうではなく、ともかく流れにまかせようと、そのために気道の個人指導(整体)を受けているのだから。
 しかし、そうした延命でなく自然に沿った道のためにもマコモたちは存在する、ということ。
 私たちが行っている事が、もとより延命でなく、ただ自然に沿って生をまっとうすることにあるということ。
 (そのためにこそ今を充実させることが重要になってくる。)
 その事を知って欲しかった。

 縁無き衆生は度し難しと釈迦は言ったが、度さなくとも、理解をするだけでも大変だ。
 今日も瞑想会においても本当に理解された方はただ一人だった。
 (それは阿南の捻華微笑という意味であり、理解、そして理解を深める、あるいは体感を深めるという意味では全員されていた。上記誤解を招く表現を申し訳なかった。そのため校正した。)
  あまり言葉を用いたくない講座なのであるが、その言葉の場面でもある人は別の事を考え、ある人は… そして、その人が言葉のない瞑想に入った時も同じ形が訪れる。)
 きっとその方は私が外国語を話しても理解していたかもしれない。

 この日記ではすぐ下でも、そして何度も紹介している「岳(みんなの山)」は、今度賞を貰ったらしい。
 私はこの本を毎日読んでいない人とは話したくも、まして会いたくもない、と最近勝手な事を言っていたが、毎日はともあれ実感である。
(きっとそれは一生続くだろう。岳が通奏低音にないと氣道が浮かばない。そういう意味で気道家必読の書と何度も書いていた次第。(昨日は弟からの言葉を受けて「いえ読んでいない方とは話しも会いもしたくない、もちろん読んでいてそれを根っ子に結実させていない方も同じ」と横浜駅のプラットホームでギャグの如く言ったが、半分は真実。ちなみにその後、弟の滝行を見させて戴いた。
 素晴らしかった。 岳の三歩の愛する自然が其処に在った。)
 スタッフでは出来るだけ一日一話以上読まないようにと掟を作ったが(殆ど一話完結)、
 皆さんも読みたい気持ちが募っても出来るだけそうして戴きたい。

  4月13日、東京に素敵な「香り」が初めて訪れます。
Date: 2008-04-04 (Fri)
下の二つ目「弟を待ちつつ」にも書いた通り、明後日(4/13)13〜16時は、「フィシオエナジャテック講座」http://npo-kido.com/tokubetu.html#physioが、東京道場で初めて開催される日。

あっと言う間に定員になってしまうと思ったら、まだ余裕があると今日、事務局から伺い、びっくりして日記に向った次第。

昨日のマコモ講座http://npo-kido.com/tokubetu.html#makomoもそうだが、いらっしゃれなかったのは惜しい。。
ご存じのように、私は病気を肯定する者であるが、録音不可でとっておきの内容、たとえば「絶対にガンにならない法」その他聞けないのは可哀相とも思った。
(受講料が五百円と安かったからかえって不審だったのかな…。
 まあ、特に現在なにがしかの症状をお持ちの方がご家族にいたり、あるいは健康や食事療法に興味のある方は、もう一回、今度は東京で行なうので、ぜひいらっしゃったらと思う。
 (4月12日(土)13時〜15時。東京道場にて。委しくは前記ホームページにて。)
 
 きっとそれと同じなんだろうな、と思うのが明後日の大道かほ李先生の講座。
 
 (こうして宣伝しているのは、本当に皆さまのためだけに押しつけがましく申し上げている次第で、いつも言っているように私個人には一切のお金の関係もありませんので。
  ただ今回のマコモ講座もそうですが、(整体もそうだけど)
  言葉は悪くて申し訳ないのですが、参加されないのはお馬鹿さんと思うだけです。
  (色々とご都合もあられるのに、しかも汚い言葉を申し訳ありません。)
  
  私は、今後も身近な方々には現在旬のものを会報などで提示していくつもりですが、この日記ではご紹介しきれないため、ご興味のある方は、「氣道」協会のホームページをご覧になるか、ぜひ会員になられて会報その他をご参照戴きたく思います。

※なお、下記http://omichi.jugem.jp/?day=20080305では、「母と赤ちゃんの時の私の写真まで…」と書きましたが、母が抱っこする赤ちゃんは私ではなく下の妹の有希だそうです。(母said)
※今後、同ブログも更新(写真まで!)する予定で、私は興味と恐怖でおののいております。

  Celebration
Date: 2008-03-30 (Sun)
祝典後、着替える前に弟に電話し久しぶりに弟夫妻の家に伺う事になった。
「自然掲示板」やメール返信を口頭でさせて戴きながら、音(叉)と体との関係の話で盛り上がった。
ご夫婦で見送ってくれ申し訳なかったが、とても嬉しい。
そして、おみやげが嬉しかった。

今日も様々な事があった。
全てがCelebrationであった。

(───きっと全ての皆様にとっても日々はそうなのだろう。 たとえどんな事があっても。
 本当は。)

http://8003.teacup.com/joho1/bbs


  弟を待ちつつ。
Date: 2008-03-26 (Wed)
弟が数分だけ久しぶりに訪れてくれると言う。
今日は東京道場のあと、ここ(横濱)に戻り明日の審査問題を作成していたのであるが、ここに紹介したいと思ったことを思い出し、僅かな時間をぬって書いている次第。

先ずは先日のBPさん、カナエさんの壮行会の事。
愛に包まれた素晴らしい会だった。
BPさん、カナエさん、これはもう最高の旅になるでしょう、というかそれが決定済みのようなひとときであった。
(また参加された方々のこれからの人生の旅も。)
「それ」を企画されたリクさんに感謝!

さて、
「氣道」協会会員の方なら、ご存じだと思うが、4/6(横濱)と13日(東京)は、「フィシオエナジャテック講座」http://npo-kido.com/tokubetu.html#physioを初めて行なうのであるが(本邦初公開かナ)、
「氣道」協会ホームページはともあれ、http://omichi.jugem.jp/?day=20080305を見てびっくり。
 (母と赤ちゃんの時の私の写真まで… 私は初めて見ました!)

───今、弟者が、約束通り数分後に帰られる。嬉しいひとときであった。

 なお、先のブログを見て、赤ちゃんを抱いている私のお袋に会いたい方は、毎週木曜日朝のヨーガコース(横浜道場)には来ているので宜しければ。(明日も来ます)
 ともあれ、貴重な機会である4/6か13のフィシオエナジャテック講座のご参加をお薦めする次第。

  ───今日、整体(氣道の個人指導)を受けられた方、そして、この日記を読まれる方全ての方々に祝福が訪れるよう祈りつつ。  

http://omichi.jugem.jp/?day=20080305


  「氣道」とは?
Date: 2008-03-17 (Mon)
人間だけが二本足で立ち、その結果、思考を得た。
その思考を嫌なことではなく楽しいほうに、過去の後悔ではなく其処からの教訓を活かして未来に向けて活用したらいい。

…とは言っても、ガッカリすれば胸筋が縮み前屈するように、体状況によって変えにくい事もある。(そしてその為に氣道の個人指導(整体)を行なっているのだが)

しかし、自分の心、思考は自分で選択出来る、という事実をもう一度確認して欲しい。

その大前提こそ思考を持った生物に得られる最大の特典でもあるのだから。
(そしてその上で敢えて無意識に任せる必要も生れてくるのだから。)

───昨日、今日、私は嫌なことでは無いが残念な事もあった。
 久しぶりにシールシャアーサナの完成版(手を使わずに頭だけで倒立)を写真に残せなかったとか、まあこれはいつものことだが、いつからお給料を貰えるかなどの下世話な事(ご存じのように私は整体や講座をしようが何をしようが一円も貰っていない。ただこの十数年の間、一年位貰っていた事もあるので「全く」では無いが…)も思い出した。
 斎藤一人氏が言うように、「幾らstageが上がっても、それでも問題は訪れる」そして、それでも「困ったことは起こらない」。(この言葉の真実の意味が分かれば、本当に起こらない。)
 そして、私たちは、それらをも自由に選べる。

良い事もあった。一年コースの皆さんと会えた事(残念ながら最終回であった)
そして、こうして嫌なこと良いことと分けている私自身が、昨日という記憶の中で、つまり、昨日の体で選択しているに過ぎない。
この文章を書くまでの間にも(そして書いている間にも)その違いがどんどんと変わっている。
(※一日経ってこの文章を見た今は、まるで昨日が遥かな過去のようだ。昨日の東京大空襲のTVが大きかったのだろう。)

『全て』自分で選んでいる。

私たちは、その意味で、ほんとうに自由だ。

※最後に。
 「全て自分が選んでいる」のと同じ理由で、他の評価も自分がその人に下した評価の部分でしか味わえない。
  その意味で、限りなく自由ではあっても、相手(人間以外でも。そして実は自分自身についても)のことは全く分かりようが無い。
  鏡を見ているが如くで、否、自分の照射ではなく、自分の中での屈折した思考、観念を、再度、自分で感じたに過ぎない。
  つまり、どうあっても、相手(他人)のこと、人でなくとも他のことは、分からないし、またそれが特に感情に触れることならなおさら自分の裏返し(表返し)であり、また他ではなく自分についても実は同様なのである。

 その事は、今まで何回もこの日記で書いてきたことであるが、となるとどういう結論になるのか?
 小学生高学年でも分かる結論なので、答はここで書くが、当然、
 結局は自分(思考を含め)しかない、という事になる。
 では、その自分とは何なのか?
 …これは宿題にさせて戴きたい。

 ヒント/合わせ鏡の向こうに何があるのか…の答と同じだろう。
     また、これは「氣道の学校」(旧「心の学校」)の前半のチェックアウトの質問と同じでもある。
     何にせよ、「氣道」の原点である。

  皆様へ(翌日(15日)午後に校正しました)
Date: 2008-03-14 (Fri)
 その後、コンピューターは復調しました。(してしまいました?)
 ただ、メールアドレス変更の件は同じですので、以下の前日記をご参照下さいませ。

 10日の日記では、様々な日々の足跡を一部公開してしまいましたが、今日までも実に面白いことが多くあった。
 11日も出無精の私なのに幾つかの所に行ったが、特筆すべきは遠隔の音叉セッションであった(大阪で多くなさっている方。遠隔なので、これは行かないで受けたのであった。出無精の私にはピッタリである。)。
 私の体感と後での先生の報告とが一致していたので驚き、今後お会いしたく予約させて戴いた。
 翌日、水曜日は初めての東京道場での氣道塾の後、親友の望月を含めリクさんなど參加者と私の部屋で一献傾けられたのが嬉しかった。
 木曜日も様々とあったが、特筆すべきは銀座での個人的な事なのでこれは割愛。
 全てが分単位ではなく、秒単位で進み、シンクロ以上の多重シンクロになると、その時はもう焦る必要は無くなるし(そうした感じに自ずとなる筈)、運命の真実の意味も、そしてその上での努力のありかも、如何に鈍感な私でも分かってくる。
 それを特にこの数週間は教えてもらったような感じだ。(思い返せば、実は今までもそうであったのだ…と気づき、ああ、何ということ…と驚く。)
 時間は一見静止したように見える大河の如くゆっくりと流れている。

 今日も早朝から様々な事があったが、特に面白かったのは四つ。
 (なお今日は恩師岡島瑞徳先生の生誕日。先生おめでとうございます!心よりお祝い申し上げます。)
 一つは、昨日届いたCDの音源元がすぐ近く(元町近辺)であったため、それに同封されていた面白そうなセッションを駄目もとで受けられるかと電話したらOKであった事。
 (キネシオロジー(筋反射)を用い、身心の状態や過去現在を調べていくのだが、体はよくこんな事まで知っているものだと改めて驚いた。また、今後何を行って行くべきかも知っている点が面白い。
  興味のある方は、其処の紹介ではないが、その道のプロフェッショナルである大道かほ莉さんが、「氣道」協会横浜道場と東京道場で講座をしてくれるので、ぜひhttp://npo-kido.com/index.htmlをご参照に。
  (4/6の横浜での講座では、ホームページには書いていないが、ちょうど新月なので講座後の打ち上げ時に数分だけ瞑想と夢実現のアドバイスも私が行う予定。)
 
 今日の特筆すべき事のもう一つは、恥ずかしい事でもある。
 …なので、公開を迷っていた。
 しかし、ついに受諾を決心し、授与したのだから、これを喜ぼう、と思いつつ、お風呂(これは後日紹介しよう)に入ると、それがまた実に素晴らしく、
 「ああ、この決心が祝福されているなら良かった。」と思う。そして、
 「これで雷が来たら…天からもで最高の祝福なのだけど、さすがに無理に決まっているナ。」と我が儘な想いが浮かびながら、入浴していた。

 浴後、まずは、竜一さん(「氣道」協会のホームページ&会報担当者&伝導瞑想紹介者)に、そして次はスタッフにとメールを送る。
 (以下、そのメールを転載する)
「ついに、超えてはいけない一線を超えてしまったかと思いつつも、我欲に負け(?)、肩書を増やしてしまいました。
 本日付けで博士号の学位を授与してしまいました。
今、これを書いていて、ふと右を見たら、野口先生の写真がニッコリ微笑んでいたのですが、
まあ、これまで数年間、有難いことに推薦、推挙されながらも、ずっと辞退していたのだし、
また、これで会員の方々への不安解消にもなれば(本来、そんな肩書なくて説得力が無ければいけないのですが)、などと良く解釈して、
せっかくなので戴いてしまった次第です。
(今回は今までと異なり、複数の学位が推薦された(初めての事だそうです)のと、特例の学位もあったので、ともかくその特例の学位だけ授与させて戴きました。)
これまた皆さんのお蔭と思います故、とり急ぎ、ご報告申し上げさせて戴きました。 淨潤 拝」

 続いて真っ先にスタッフ以外に伝えたのはエアジンのマスター。
 (26年間気にかけてくれお世話になっているので。祝賀会を行うなら其処で行いたい。マスターは、お世話なんかしていないよ、と言われるだろうけど…。)
 次に弟者にご報告させて戴いた。

 三つ目は、貴金属や宝石等の吸収した邪気を簡単に抜氣できる物が見つかった事。
 (清水や天日、あるいは愉氣で今までは抜氣していたが、御祓いに用いる錫杖や数珠などは砂に埋めたりもしていたので、これは本当に有難い。きっと今後は今までの20年間の苦労が嘘のようになる事だろう。)
 四つ目としては、40年前の事や妹を亡くした事などが、浮き彫りになり、その解消の為の一歩が踏み出せた事があった。
 きっと、人は、いつからでも変われるのだろう。
 (もちろん年をとれば変化の限界はあろうが、マズローの言うように死ぬ三日前までは変化自体は起こせるのだろう。)
  私は、先月で、ようやく「氣道」(自然に生きる道)をある程度全てを伝えたかな、と今朝思っていた。
  体や心の統合的健康法については元より、そして、昨年末から今年に於ては、お金から完全に自由になる氣道methodと、さらに現実的にこの手法を行えば必ず億万長者になれるという情報(ただしこれは現在2008年の情報)まで紹介した。
 それによって「形而下から形而上まで」の流れが実現出来た感がある。)
 ───気功協会の天野さんが「『氣道』は数百年後に「おおっ、こんなのがあったのか!」と驚かれる存在」と以前仰っていた事を思い出す。

 そして今、突然の雷雨。
 その訪れに驚き喜ぶと共に、今朝思っていた事を思い出す。
 それは野口晴哉先生が雨男であった事と、横濱道場の開所式は偶然にも野口先生の命日と同じなのだが(伊勢神宮の神官で占者でもある方が横濱道場開所式の月日を指定して下さった)、晴れ男の私なのにその日が雨だったのは、実はそれこそ晴哉先生からの授与であり薫陶だったのかもしれないな、と言う事。
 再度、晴哉先生を観るに微笑んでいる。
 これから実父に名誉医学博士になった事を電話しよう。
(ちなみに祖母は父に博士のようになって欲しい希望があったと聞く。またその父も実際、当時著名な沖中教授に「博君、きみ医師にならないか。才能がある。」と言われながら家業のため断念したと言う。)
 一つ正装を新着したというか、新しいストラップを入手したというか、ただそれだけのことであるが、そうした因縁があるので両親が喜んでくれれば嬉しい、とも思って授与した経緯があった。

★今日の日記を読まれた方へ。
(森田健さんは、喜びや笑顔を見たり触れたりするのは、これから素晴らしい事が起こる外応(外の反応)なのだと言います。
 この日記をお読みになった方々の今日以降の日々が、素晴らしい日々になる事を心から祈り、そして確信しつつ。)

  皆さまへ (特に、スタッフ、事務局、音楽関係者の方々へ)
Date: 2008-03-11 (Tue)
 一ヶ月前よりコンピューターが不調になり、メールの送信が出来なくなっていました。(修理が不能だと言われました。)
 それからずっと、携帯しているノートパソコンにて対応していました。
 それが先程、ノートパソコンも不調になり立ち上げる事が出来なくなってしまいました。
 
 そうした次第ですので、今、他の方のコンピューターをお借りして、緊急、この文章を打っております。

 ノートパソコンが修理から戻るまでの数週間、メールでの応対は勿論、各々の掲示板での投稿も出来なくなりますが、どうかご寛容下さいませ。
 
 なお、ちょうど一週間前位にメールアドレスを変更しようとしていたところに今回の事が起こりました。
 スタッフ、音楽関係者、その他仕事での諸々のメールが出来ないのは、かなり大変な事ですが、現在、一日数百通来ていたところでしたので、暫し休息も無意識の求めるところなのかも知れません。
 ともあれ、関係者各位には、この場をお借りしてお詫び申し上げます。
 
※メールでの連絡先は、mail@npo-kido.com(「氣道」協会事務局)にて、そして電話は045-261-3300(なお私は携帯電話を持っていません)、FAXは045-261-3304にて、お願い申し上げます。
 大変申し訳ありませんが、どうか宜しくお願いします。

  週記。
Date: 2008-03-10 (Mon)
前の日記の翌日は、「なぜ明日が、そんな事に」という奇跡を朝から午後5時過ぎまで味わったあと、タクシーを飛ばし新宿ピットインに。
羽野昌二(drum)の誕生日ライヴのゲスト出演であった。
(ギタリストの0lafとのセッションも素晴らしかったが、そこでbaseの中村大さん、tapの依田拓さんの音に初めて触れ感動。今後共演をする約束も交わし(人格的にも素晴らしい方々だった)とても嬉しかった。
また、織田るみ子さんの歌声は素晴らしく(皆さん、必聴です。)、ピットインのピアノの引き心地は懐かしく、横濱ゲーテ座のスタィンウェイのようであった。)
 演奏後急いで戻り(羽野さん私のスケジュールに合わせてもらって申し訳なかったです。聴衆の皆さんにも、私のスケジュールの為と仰って戴き、汗顔です。)、別仕事。
 翌日は、氣道の個人指導(整体)、そして関内エアジンでのライヴ。(先月同様、直さん(sax&フルート、竹内直)と河崎純さん(base)とのトリオ。昨日のピットインとは打って変わって、鎮静の響き。その後今日まで色々な音楽を聴いたが、こんな音楽は現在ないだろうなぁ、(コンセプトが違う)と今もって思う。)
 エアジンのライヴ後は、野口整体の天才指導者と合う。(「ライヴ後に云々…」など初めて爆笑の時。)
 そして、翌日もその先生と合い、昼は音叉療法(これは、その内、「氣道」協会で最も良いものを紹介する)のセッションを受けて終えてすぐ六本木(リッツカールトン)に。
 翌日は、現在の日本を裏(素粒子レベル、そしてそれ以上にも)から支える加藤先生とのセッション、から続いて、また横濱にすぐに戻り別療法とセッションそして、夜は常に仕事。
 翌日の水曜朝は「舞踏のワークショップ」にて即興、そして整体〜一年ぶりの横濱道場でのソロ・ピアノライヴ〜そして仕事。
 翌朝は10年ぶりに龍野さんがヨーガコースにいらっしゃると分かっていたので、母と共に嬉しいヨーガ。その後、整体があり、時間が数分でき二階に行くと、時間が余り、掃除が出来る。夜のミーティングを含め、のんびりとした時間であった。
 翌朝(金)の仕事のあとは、武蔵小金井のヒロ齒科に夕方まで。6/1の対談の件も話合う、そこで久しぶりの出会いも合い嬉しく思う。
 翌日は東京道場にて氣道の指導(整体)で昨日の日曜日は久しぶりに和田さんがいらっしゃる。
 ───などなど、前日記からは割と健やかな日々であった。
 (昨日の夜10時以降がエアポケットだったかもしれないが。あ、エアジンライヴあとは、弟者ご夫妻とも合った。出張指導の件、今後の関東の自身の件、癒すオーディオの最高の件、などなど、かなり抜けている上記の報告↑であったが、まあ、たまには日記らしく書いてみた。
 ちなみに、今日は「氣道」協会の仕事〜青葉台での仕事〜関内に戻り、5/22にも共演する以前からの盟友であり素晴らしい即興演奏家である松本健一氏(尺八、サックスその他)と、TV番組でも自作曲が多く使われているvocalの蜂谷真紀さんとのデュオにゲスト出演し、これまたピットインの羽野さん時と同様、あとに控える仕事のためセカンドまでばいれずfirstにて失礼したのであった。
 (この素晴らしいお二方を紹介したく、今日は日記に向ったのであった。)
 それなのに、前の日記を読み、その後の経緯が長くなったが、また忙しそうね…と思われるかもしれないが、以前に較べれば、本当にノンビリしたもので、今は忙しい時でも数秒の余裕は充分にあるが、以前は「一秒」の余裕も無い時があった。
 今は、そうした余裕があると、つい整体を受けている方々、そして講座を受講している方々を思ってしまうのであるが(今だと関西の一年コースに参加されていた方々)、これからは今以上に充分に余裕を持ちたく思っている。
 
 最後に、この日記をお読みになった方々に。

 皆さまの、明日一日がほんとうに素晴らしい一日になりますよう。
 (そして「なりました。」 ←弟から教わったフレーズ)

 
 さて、私もまた仕事にかかります。
 これを読む皆さんに、大いなる自然なエネルギーが訪れますよう。
 靜かで、たおやかな陽気と共に、星たちの響きが味わえますよう。
 
 

 

  閏年
Date: 2008-02-29 (Fri)
昨日の公開稽古会あと久しぶりに楽しく呑み過ぎた。
朝起きて、ポカッと不思議な感覚。
ユン君と出会い、珈琲を入れながら思うに、今日の一日の予定が無い。
(多くのメール返信や校正、弁護士と合うetc.の仕事はあったが、それでも昼過ぎからは予定の無いモリケン状態。その電話を待つため留守番電話を解除したら、なんと○○さんから電話が。その後電話は鳴らず、○○さんの電話の為に留守電を解除したという、ここら辺から始まっていた。)

ふと浮かんだのが、
神さまが一日くれたのかな、という想い。
「残りの人生に一日プレゼントしよう」としてくれたのかも、と思ってしまった。
そして、今日は2月29日。
暦でも4年に一回のプレゼント。
きっとそうだ、と思いつつ午後を迎える。

ある弁護士と会い、仕事の話はとまれ、あまりに投資の事を知らないので唖然としながらも、少しお伝えだけした。
(納得しないのは残念。皆、本当の真実を知らないのだな、と改めて思った。証券会社の方々もそうなのだから、弁護士で知らないのも仕方ない。彼が扱っていた判例についても多く伺ったが、一般の常識の裏にこんなに素晴らしいことがあることは誰も知らない、のは、甲野善紀の「表の体育、裏の体育」という文庫ではないが、現代医学と野口整体との対比のようだ。
 投資も99、99%は失敗するか騙されるかなのだろう。
 知れば驚きなのに。(ちなみにインサイダー取引はそれには入れていない。)
 「人の行く道に裏あり。花の山。」とは相場の格言であるが、相場自体でなく、それ以前の投資という概念の中にもあるのである。

 さて、信じられないような事はあるもので、「なぜ明日が、そんな事に」という感じであった。
 (読者には何だか分からないであろうが、上記の件は複数のメディアに関係し、最後の一つは「これは本来あり得ないのですが特別に。しかしどなたにも仰らないで下さいませ。」と言われたので、分からないままになってしまうが申し訳ない。)

 
 仕事のため(その仕事も上述のように偶然入った)、途中、新橋駅におりるが、そこでも素晴らしいひとときを得た。
 そこから、初めてゆりかもめという電車に乗るが、そこまでの経緯も何かに操られているようで(そうでなくては、こんな偶然の百乗のような事は去来しない)、
 瞑想して、そのありかを探したくも一瞬思ったが、それもしたくない感じであった。
 ゆりかもめの途中も、台場という場所も、まるで手塚治虫の世界のようであった。
 (そしてまた、ここには、今もって未来の氣がある。)
 それは心の角度を変えると同じ風景を見ても違った印象になる(今、海を見つつである為)、という以上のものである。
 
 私は夜景を美しいと思ったことが無い。
 星や、 星が無くとも夜空のほうが、 山が、 そして蛍は夜景の何千倍も美しい。
 蛍のような自然でなくとも線香花火のほうが断然夜景よりは美しく感ずる。
 
 しかし、ここで私は初めて夜景の美しさを覚えた。
 それは、先述したこの場の氣のせいなのか、それとも海や東京タワーを含めて俯瞰するこの景観に私をして観念のフィルターがあるせいなのか、おそらくは前者なのであろうが、それはまだ分からない。
 また、ここでは、あまり瞑想する気分にならないと書いたが、それは、この場所と現在の自分とが一致し過ぎるからだと思った。

 その場所名は今後アップロードする予定の「自然掲示板」ストックに既に書いたが、神さまから与えられた残りの人生の一日追加、ほんとうに嬉しく思った。

 そして、おそらくは、私たち生きているものの毎日は、その連日なのであろう。

 日日是好日。

 私たちは、毎日、プレゼントの一日を生きている。

 この貴重の日々、時々を、
 ありがたく迎える歓びに感謝と共に、また、皆もそうなって戴きたく思う。

 そのため「氣道」を創った。
 いのちの運びが私をしてそのように示しているのでは、という一日であった。
 願わくは、私自身がさらに氣の道、自然の道(神の道)を歩まん。

  合宿にて、その後。
Date: 2008-02-11 (Mon)
 瞑想の深さと夢実現能力の大きさは比例する。


 (l今回の合宿では様々な情報を提供させて戴いたが、一番言いたかったのはこの事。
  なお、青本(実践自然健康道)か何処かに「瞑想の深さと愉氣の深さは同じである、と書いたが(それが浸透するまでに10余年以上かかったが、現在ではそれは当然となっている(捉えて下さる)のが嬉しい。)、そういう意味では無いのは勿論。)

───ともあれ 「心外無法」

あなたが思っている相手は、あなたがそう思っているだけで、実は全くそうでは無い。

「瞑想は命がけ」である、とこのところ申し上げているが、その事も、命がけで捉えられるのだろうか。
 
 海は飲み込む、山は蹴落とす、然して自然の道は常にそのままである。
 

  立処
Date: 2008-02-05 (Tue)
私が別件で訪れる毎に恩師の○先生は自室よりわざわざお出でになられ話をして下さる。
今日も数度目のそういう時であった。
以下、先生のお話を覚えておきたい為、要約する。
「整体操法の目的は何か? 体癖修正とか健康増進というが、では健康とは何か?
 野口先生は整体協会の前は自然健康保持会という名称で指導をしていた。 
 病気にならないのが健康とは言えない。鈍っていれば病気にもなれない。
 痛みがあっても健康であることもある。その場合はほおって良い。必要な痛みなのだから安心してまかせて良い。
 自然な痛みなのかどうかだけが問題だ。
 自然な状態であれば、あとはまかせられる。
 その自然な状態をどうやって見極めるかだけが問題だ。
 自分は50年間指導を続け、ようやくその答えを見つけた。
 この一カ月、毎日のように家族に操法し、それを確かめてきた。
 今は、自分の体を通してそれを立証している。
 定期的に一度病院に行くが、これは現代医療でも自分が現在行なっている事が正しいかどうかの検証に行っているだけだ。
 実際、癌の数値も一桁下がり、カテーテルも取れ自然放尿ができるようになった。(注/前々回は数十mなら歩くことも出来るようになった。しかし骨の転位の痛みは辛いがネ、と仰っていた。前回は銀座にまで出られ食事や買い物まで出来たと仰っていた。今回はその二週間後に当たる。)
 野口先生は、様々な言葉でそのことを言っている。
 しかし、その場処は書いていない。
 それは秘伝なのだろうが、言ってしまえば、なあんだ、という事だ。
 世阿弥が風姿花伝で言う「秘すれば花」だ。
 それがようやく分かった。
 もっと若い頃に、整体を初めて間もない頃に知っていれば、とも思ったが、やはり若い時では駄目だ。
 若い時は自分でも痛いのは痛いだけになってしまい、その痛みを何とかしようとしがちになる。
 今だからこそ分かり得た。
 操法も復帰しようと思っている。
 もう少しです。
 私の体を貴方に観せ、そして教えましょう。 
 それまで、もう少しお待ち下さい。」

先生は、限りなく澄んだ目で私を見つめ、一言一言、厳しく燐としたそれでいて暖かい語調で、噛み締めるように仰って下さった。
私は、その一つの蔭りもない透明で静謐な佇まいに包まれながら、何度も身の震える感動を覚え泪で頬を濡らした。
先生は最後の言葉を仰いながら優しく微笑まれた。
その姿は、今も焼きついて離れない。

  ツノ犬より、続 八王子市長選
Date: 2008-01-25 (Fri)
こんにちは!ツノ犬です。
先日お知らせした(してなかったり、大変ご無沙汰な方、突然ごめんなさい!)
八王子市長選、投票日は27日、あと三日となりました。

昨日、葉山町長選では、箱物行政を批判した環境派の候補が勝ちました!
東海村では、反原発の議員が当選しています。

このあと岩国市長選と並んで、
八王子市長選が、高尾山が守れるかどうか、
開発型か自然保護か、と注目をあびています。

ぼくは、橋本さんに市長になってもらって
高尾山も守り、八王子にも仲間が増え、新しい社会に向けて、
日本中で頑張っている仲間たちと協力しあいたいと思っています。

高尾山の問題だけでなく、
橋本さんにはたくさんの素晴らしいブレーンがついており
地産地消によって八王子農業を元気にしたり、
エコ住宅への助成金、など地球温暖化への対策など
実現したい内容にあふれています。

そこでみなさんにお願い!

以下の文章をコピーして、どんどん転送してください。

八王子市民でない人でもOKです。
送るときは、相手に必ず転送するよう伝えてください。
とにかく、【転送歓迎】、【転送おねがい】という言葉を
入れてくださいね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

♪どんどん転送歓迎♪

【八王子の人、八王子に友達がいる人へ】

いま、八王子が市長選をめぐって大変なことになってます。

8年間、市長をつとめてきた現職の黒須隆一さんと
高尾山の自然を守る活動を長年してきた橋本よしひろさんの
一騎打ち!!!

と〜にかく、対照的な二人なんです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高尾山トンネル工事をすすめ、圏央道早期完成をめざす黒須さん。

ミュシュラン三ツ星となるほどの高尾山の自然を破壊するのは、八王子市にとって大きな損害だと、迂回路の検討もふくめた環境保全をめざす橋本さん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
川口町トラックターミナル構想による八王子の物流拠点化や、
八王子駅南口開発などの大型開発で経済を活性化させようとする黒須さん。

環境にやさしい企業の誘致や、地産地消・地域通貨で、八王子農業や商店街を重視した生活型で経済を活性化させようとする橋本さん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
都立八王子小児病院の廃止を進めている黒須さん。

子供の医療体制は重要と、ぜったい存続を求める橋本さん。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現職の黒須さんが有利か?と思いきや
この市長選で、高尾山の運命が決まってしまうこともあって
坂本龍一、サエキけんぞう、川田龍平、大貫妙子・永六輔など
多数の著名人が、橋本さんを応援。
若者もどんどん橋本さんの支持に回っているもよう!
おもしろくなってきました!

橋本よしひろさんのHP要チョック
http://www.project8.jp/

八王子市長選がどうなるか、これは見逃せない状況に!

どっちが市長になるかで
八王子の市制も、東京や日本の地方自治の流れも180度ちがってしまいます。。。

今回は、ぜったい選挙に行かなくっちゃ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


そして、先ほど書いた葉山の方が応援メッセージをくれました。
とても元気が出るのでよかったら読んでください!!!

【葉山から八王子へ】
こんばんは、なつかしい未来ネットワークの帰山です。
先日の葉山町長選にお手伝いとして関わったので、今回の八王子市長選へのエールとみなさまへのお知らせもふくめて、葉山町長選について簡単にご報告させていただきます。

まず、八王子市長選挙に関わっている方々へ、
残り3日間がとても大事です!
葉山でも4日前の演説では、まだこちらは劣勢だったような気がします。
演説のブラッシュアップや告知強化をはかり、最後のおいこみでグーーンと浮上しました。最後まであきらめないこと、たった3日間でも土台さえ できてれば世界は変わる、ということを実感しました。

寒さも続き疲労もピークと思いますが最後の大つめ、がんばってください!
葉山の仲間も私も、八王子市民の友人知人を棚卸して、援護射撃に力をつくしています。


さて、葉山町ではさる20日の町長選挙にて、私たちが応援する「自然を守り循環型の町にしよう」という政策を主張する無党派候補が、開発や経済の発展を声高に説く自民党、民主党公認の候補者をやぶり、町長に当選しました。


近年ますます過熱する乱開発により葉山の山や海が壊されていくことに業をにやした友人たちが、「政治や人のせいにするのでなく、まず自分達から行動しよう」と立ちあがったのがはじまりでした。
地元のサーファーやアーティスト、漁師さんなど様々な人たちがつながって、環境ウォークやライブや環境パーティを企画し、「開発反対」ではなく豊かな自然を守ろう、というビジョンを共有しました。

葉山をどんな町にしたいかをとことん話しあい、皆でマニフェストを考え、ちらしもポスターも全て手づくり。演説内容も皆で考え、どうしたら伝わるかを何度も練習したようです。
でも、他候補は政治のプロ集団だし、正直当選するのは難しいかなと思ってました。
ところが、町民の方々はみせかけの美辞麗句には惑わされなかったんですね。
自ら現状を変える、開発より循環、政治家におまかせでなく自分たちで未来をつくる、という道を選んだのです。

「このままでは何かおかしい、ここで変えないとまずいよ」という無意識の領域にあったものが、今、どんどん意識化してきているのだと思います。
これは葉山だけにかぎらず世の中全般にいえることなんでしょうね。

おもいがつながれば現実は変えられる、そういう時代がとうとうはじまった、 賽は投げられたんだと、肌感覚で強く実感しました。
やっと種から芽がでたこの動きはまだよちよち歩きの赤ちゃんです。
これからが最も大事なときだと思います。力強い本流になるために、全国のおもいを同じくする皆様たちと心をあわせて、この動きを増幅しつつ、地に足をしっかりつけて歩いていきたいと思います。

長文失礼いたしました。

きやまやすこ

エコアクション虔十の会(けんじゅうのかい)http://www3.to/kenju
 もみてね!   ツノ犬拝

  ツノ犬より緊急速報!八王子市長選
Date: 2008-01-18 (Fri)
 親友のツノ犬より上記のような題名のメールが届いたので、応援したくここに掲げる。
 なお私は政治のことは非常に疎いのであるが(下記アドレスもここにご紹介する手前調べたのだが、まさしくそうだ、とは思うが、私の事であるから果たして正しいかどうかは分からない)、
しかし、ツノ犬が古くから高尾の自然を守るために懸命に活動していた事は知っているし、何にせよツノ犬の事は信頼しているので、少しでも役に立つのなら、という思いで、日記に掲げさせて戴きたい。
 (なお私は20日は仕事のため行けず大変残念であるが…)

 ………………………………………………………
こんばんはツノ犬です。
早速ですが新年早々凄いことになってます。ぜひ力をかしてください!
八王子市長選に高尾山の自然を守る市民の会の事務局長、橋本よしひろさんが立候補予定です。
高尾山天狗裁判では酷い結果になりそうなので、これはもう最後のチャンスと言えるかもしれません。
高尾山の貴重な生態系がこの圏央道トンネルによって大打撃を受ける前に(せめて山を避けて建設してもらえるよう)、演説ばかりでなく音楽のちからで賑やかに明るく、鳴り物いりで盛り上げたいと思います。
途中からの合流でもOKなので、お時間ありましたらご協力ください。
そして27日の投票日、市民のかたはぜひ投票所に足を運んでください!
市民でないかたも、八王子市民のお友達に知らせてくださ〜い!!!!!
まじで勝てる可能性がでてきました。
http://www.project8.jp/
環境問題のほかにも良い事だらけです。とてもブレーンの多い方なので、素晴らしい市長さんになりますね〜。
そして!プロの音楽家、歌手、ダンサーの方には裏高尾のご老人達からお手当とお弁当を出していただけることになりました。
基本、選挙の応援は何をしてもよく、路上パフォーマーには天国かも?!街宣カーの上で思いを爆発させ、聴衆の足を止めたい人。連絡ください!!!!

キャラバン隊のスケジュールです。
【20日(日)・告示・出陣】
★裏高尾9:00  JR高尾駅北口集合 チャーターバスに乗り込む
9:15  バス発
9:30  裏高尾の蛇滝バス停着、摺指(するさし)峰尾豆腐店まで練り歩き。       裏高尾の住民たちが温かく迎えてくれます。
10:00 市長候補、橋本さんの演説開始。
10:30 キャラバン隊は、八王子に向けてバスで出発
★八王子
11:00 八王子駅北口着、準備が出来しだい盛り上げ演奏開始。
11:20〜45 街宣カー上でバンドさん達の演奏。     (この時間は千人以上の人出が見込まれます。マジで応演急募!!)
11:45〜12:00 HANAH(女性ボーカリスト)演奏。弾き語り。
12:00 出陣式開会 川田龍平さん他、応援演説開始。橋本候補演説。
13:00 バンドさん達演奏で八王子駅前終了。・・・・移動&休憩・・・(お昼ご飯は、裏高尾のお母さんたちが、おにぎりを差し入れてくれます)
★南大沢駅(京王線)
14:30 南大沢駅着、盛り上げ開始。
14:45〜15:00 バンドさん達演奏。
15:00 開 会、川田龍平さん他、応援演説。橋本候補演説。
15:30 バンドさん達演奏で終了。・・・移動・・・
★みなみ野駅
16:00 みなみ野駅着、盛り上げ演奏開始。
16:30〜開会、応援演説。橋本候補演説。
17:00 バンドさん達演奏で終了。※交通事情などにより、変更もあると思いますが、常に先回りして路上ライブを展開したいと思います。
【21日(月)・22日(火)】
11:20  八王子駅北口、東急スクエア前集合
11:30〜12:00 鳴り物などで盛り上げ演奏、ビラまきなど
12:00〜12:10 Otoさん演奏
12:10〜12:30 橋本さん他演説
12:30〜  ジャンベ隊などで駅前から商店街を練り歩き。

そしてそれに先立ち、緊急出動!天狗フェスティバル@南大沢

高尾山が、小さいけれど大切な命たちがこのままでは消えてゆく…お山を救う道あり!!天狗たちよ、緊急出動せよ!!!

【日時】1月19日(土)16:30〜18:30 雨天決行
【場所】南大沢駅(京王相模原線)南口2分 中郷公園(円形イベント広場)
【出演】渋さ知らズ
入場料無料! 応援に来てください、よろしくお願いします。
http://www3.to/kenju  もみてね〜        ・ツノ犬拝

  つづき
Date: 2008-01-13 (Sun)
(※なお、上の文章を書いた翌朝(1/12)、同著の200頁を開いて驚いた。
  何と…この数年、氣道で瞑想会や心の学校、ヨーガコースで行なっている瞑想(What am I?)の手順と同じなのである。
  少なくとも私自身はこの瞑想が「いのち」に触れる最もシンプルで簡単な方法だったので紹介し続けていたのだが(Where is God?というこれと陰陽の関係にある意識を拡大する瞑想も紹介している)、上記の眉間の件同様、それで良かった、という安心を得させて戴けた今日であった。)

  「氣道協会」会報内『今月の一冊』に投稿予定の文章。
Date: 2008-01-11 (Fri)
 私は氣道協会にて「氣道」という自然に(沿って)生きる道を指導させて戴いていますが、氣道協会の会報(月報)の中に、今月の一冊(一枚)という頁があり、時折り、そこにも投稿しています。
 今回の日記は、その文章を掲載させて戴きます。
(3月号に掲載予定。なお前回は「岳──みんなの山」でした。これまた手塚治虫以来の感動する漫画で現在もビッグコミックで掲載中です。)
 氣道協会会員向けの文章ですので、分かりづらいところがあるか、と思いますが、その点はどうぞご容赦下さいませ。
 (なお氣道や氣道協会について、ご存じの無い方は、http://npo-kido.com/までどうぞ。
  その右上から登録できる無料メルマガは、とても役立ちますし、執筆者の雰囲気(エネルギー?)が伝わって、とてもほのぼのとさせてくれますので、ご登録をお薦めします。ちなみに私も毎月読んでいます。)
 
  …………………………………………………………………………………………
 
「伝導瞑想──21世紀のヨガ──」(ベンジャミン・クレーム著シェア・ジャパン出版)

 氣道の個人指導(整体)の後や自動運動、瞑想の後など、体(物理的身体)の感覚が希薄になり、愛とも言うべき、淡くしかしとても確かなやすらいだ氣(エネルギー)と共にただ一体感を感ずる時、私はなぜかベンジャミン氏の本を手に取りたくなる。
 そこから何かを得たい、いうわけでなく、ただ本を手に取り頁をパラパラとめくり視線を移すだけが殆どなのだが。
 (もとより、そういう時は文字を読みたいという気分でもない。)
 そういう時には、いつも本棚にある他の本の色合いというか粒子というかその違いがあって、ある関係の本は荒く黒っぽく感じ一瞬目を放したくなることもある。(次の瞬間は、それはそれで大事な役割の本だな、と感ずるのだが。)整体関係の本であっても触れる氣にならない。
 何故なのだろう。
 (今、もし彼の本が無かったらどんな本を手に取りたくなるだろう、と考えたが、思い浮かぶのは「あるヨギの自叙伝」(ヨガナンダ著。これは20歳の時から枕元にずっと置いていた本だった。)そして次が聖書だが、しかし、やはり彼の書の代わりにはならない。)
 ベンジャミン・クレームという名前は30年位前から馴染みのある響きだったが、直接、存在と、そしてこの本を教えてくれたのは会報の編集をして下さっている竜一さんこと森崎竜一氏からである。
 博多在住なのだが、昨年上京された折り、道場に寄ってくれ、彼の話を聞けた。とても嬉しかった。
 その間ずっと、私は10歳位からずっと眉間に氣が集まってしまう体質で、その後それがアジュナチャクラ(印堂)であると知り、10代後半には、眉間行氣をすると早死にになる、という野口晴哉師の言葉に触れ、ああどうもその口だな、と思い、その後は体に不自然な癖のようだから是正しなくては、と思っていたのだが、竜一さんと会ってからはその癖との長年の戦いに終止符が打てた。(ちなみに竜一さんは、今書きながら思い出しても涙が出そうになる程、とても暖かく美しい人である。会報にこの文章が載るのは嫌がるだろうけど、どうしても書きたい。)
 余談が長くなったが、彼から戴いたクレーム氏の「マイトレーヤの使命」も、先のような感覚の時に手に取りたくなる。(クレーム氏の本に近づきたくなるのであって、どの本が、ということでは現在では無い。ちなみに今日は「伝導瞑想」であり、そしてこの書は今日電車内で読み、まとまっている感じを受けたのでご紹介した次第である。)
 そういう訳で、私にとっても読むというよりは、共有感覚のものに触れたいという感じの物質、とでも言うべき本なので、ここで(本として)ご紹介するのも変なところがあるのだが、特に、霊的向上や奉仕、他への貢献にご関心あられる方にはお薦めしたく思う。

http://npo-kido.com/


  全ては言葉。
Date: 2008-01-08 (Tue)
 今日は新月。
 無から言葉を通して新たな生を創れる日。
 月の流れで言えば、わたしたちは新月毎に誕生日を迎え、満月毎に再び「いのち」に触れることが出来る。
  
 人の夢観る力は素晴らしい。
 それは赤子の誕生の力と同じ根を持つ。

  明けましておめでとうございます。
Date: 2008-01-07 (Mon)
 皆様、明けましておめでとうございます。

 年末〜年始の【心の学校】〜スタッフ合宿〜昨日の道場開きと続き、ようやく昨日の新年会から、ほっと一息ついたところです。
 道場開きにいらっしゃった方々、本当に有り難うございました。
 夕方からの開始のため数人の参加かな、と思っていたのですが、弟者ご夫妻、渡辺暁子さん、牧姉、梅さんをはじめ、今西さん、三保さん、ひろみさん、ママさん、BPさん、松浦さん、ゆうじさん、箕輪さん、寺辺さん、寺沢さん、岡林さん、格生さん、ノリさん、純さん、小泉良子さん、小山さん、マミエル、芝さん、、
 そして途中からは和田(ワダモ)さん、道場開きの最後にはカナエさんさんもいらっしゃった。
 ほんとうに嬉しかった。
 この数年、いらっしゃると一年「ツク」という噂を耳にしていたのだが、皆さん、そうした噂ではなくただいらして下さった感じで、ほんとうに嬉しかった。
 (きっと、だからこそ、それ以上に絶対ツクと思う。)
 私やスタッフ、そして道場も、神様とのご挨拶、そして皆様との道場開き(気合入れ)、そして新年会と、ほんとうに得難い時間を戴いた。
 今日は、いらした皆さんの顔を全員思い浮かべ、感謝の想いを捧げずにはいられなかった。
 そして思い浮かぶ限りの会員の方々も。

 「氣道」創始から17年。横濱に来てからも干支が一巡以上になったが、ようやく今年は落ち着いて「氣道」を紹介できるようになった。
 こうして今思うと、昨年までが総まとめだったような気もする。
 そして、氣道ネットワーキングも含め、今年からは新たな一歩を、会員の方々はじめ紹介できる年になりそうだ。
 (私自身は、今年の予定としては、整体(氣道の個人指導)と【氣道の学校】に全力をつくしたい。究極は真の深い瞑想誘導になるが整体(=氣道)の可能性は無限にある。剥ぎ取っていくという瞑想が、どうしてこんなにもかえって得られることになるのか…)
 スタッフも、それぞれの夢を持ち、協会の方向性と統合して実現されてゆく姿がとても嬉しい。
 また、横濱道場は、昨年に引き続き弟者(張良)が書いてくれた書が昨日より飾られた。
 素晴らしい書である。横濱道場を照らす愉氣ならん。

 そうした事が、会員の皆さんにとっての恩返しになったら、と切に思う。
 
 皆さま一人一人にとって、実りある素晴らしい年になりますよう。 

 心からお祈り申し上げます。
 

  今年一年ありがとうございました。
Date: 2007-12-31 (Mon)
 久しぶりに横濱に戻り、そしてまた自分の日記に戻ることが出来た。
 おそらく現在あるいは今日【心の学校】を受講された方は、この日記は来年になって見ているのであろうが、今回の皆さまはそれぞれ素晴らしかった。(明日からは瞑想を深め、0、絶対無という完全なる思考停止を目指す方向ではなく、現実に再生していく日になく。)
 そうした感慨を込め、久しぶりに横濱に戻り、多くの郵便物を見て二つの心留まったものがあった。
 一つは、或る会員の方からのもので、もう一つはS協会からのものであった。
 ここでは後者のほうの感想を述べさせて戴くが、いつもはその発送物に対して、そしてそこで行われている事、S協会自体に対しても何かライバル心のようなものが数十年間あったのであるが、今日はそれが殆ど無い事であった。
 それは、気道協会でお伝えしている氣道というものが、そこで行っている事と違う点、同じ点がはっきりと見えたという事でもあろう。
 その他さまざまなことがあるし、また私が分析出来ていないことも、そして意識下に現れていない事もあるだろう。
 ともあれ、私はその感じが初めてであったので驚いた。
 氣道の、そして氣道協会の意味も味わえて良かった。

 今、二行前の文章を書いていた時に思い出した事があった。
 それは数年前の事であるが、晴哉先生のご次男さんが、以前は親父が歩く時の袴をする音が時折り聞こえてきたのだが、この所聞こえなくなってしまった、それは私の中に…、というくだりであった。
 もちろんご次男さんの仰っている、そして感得されている感覚と先に言った私の感覚とは異なるのであろうが(またそうであって欲しいとも願う自分がいるのであるが)、何故か浮かんだ事であったので、この日記自体も同様の想いで書いている故、書かせて戴いた。

今日は大晦日。
現在、進行中の【心の学校】(自然の学校=氣道の学校)にとっても明日からが再生の時を迎えるが、皆さんにとっても、新しく生まれ直したつもりで新年を迎えて戴けたら有難い。
会員の皆さんには、関東在住など近場の方とは6日の5時半からの「新年会」でお会い出来るとは思うが、遠方の方であっても当日の響が伝わりますよう。
 旧年の衣を脱ぎ捨てて、新たな自分や環境を創る事に迎えますよう。
 心よりお祈り申し上げます。

 今年一年有難うございました。
 また、来年もよろしくお願いします。

  自然の学校2
Date: 2007-12-26 (Wed)
 いよいよ明日から自然に生きる道(氣道)を旅する8日間の連続講座(【心の学校】=自然の学校=氣道の学校)が始まる。
 今度もまた美しく暖かい旅になるのだろう。楽しみである。参加ご予定の六名も今同じ気持ちなのかもしれない。
 (※なお、下記には今日までが予約締切日と書いたが、最受講の方は東京道場(03−5600−0242)までご連絡戴ければ途中からのご予約も承れるので希望者はどうぞ。)

  自然の学校
Date: 2007-12-24 (Mon)
 本来、生きていること自体が無上の幸せ、であるのが自然である。
 自然は快であり、真であり、そして現れたところは善であり、美である。

 それを得る講座がまさしく下記の【心の学校】である。いよいよ締切は明後日までとなったが、以下ご参照下さり、このチャンスをと思われる方はどうぞ。
 (また最受講の方も大歓迎である。特に今回は静謐でクリアな場になるだろうから、参加に当たっては許可を得させて戴きたい。申込みはmail@npo-kido.comあるいは下記まで。)

  転載。
Date: 2007-12-18 (Tue)
 今、「会員用掲示板」を覗くと、
下で述べた【心の学校】のメルマガ通知があった。
 有り難い…。
 今回は最期かもしれない、という想いからだけでなく(少なくとも年末年始はおそらく最後であろうと思うが)、今回は、それこそ最後だと思って行ないたい。
 その意味でも今まで寛容にしてきた受講生制限であったため、今回は最受講の方であっても、お断りする可能性はある。
 真剣に愉氣を、空を求める方にこそいらして欲しいが、下記の日記でも書いたように、何かピンと来た方は、最後(だと思う)の機会なので、遠慮なく下記まで連絡して欲しい。
 
 以下、転載する。

【 心の学校 】 をご紹介したメルマガはこちらです。 長谷川先生のインタビューをお読み戴けます!
   前篇 http://blog.mag2.com/m/log/0000126622/109208241.html
   中編 http://blog.mag2.com/m/log/0000126622/109214524.html
   後編 http://blog.mag2.com/m/log/0000126622/109222465.html

http://npo-kido.com/magazine.html


  「未来を変える最も有効な方法とは何か?」
Date: 2007-12-15 (Sat)
「未来を変える最も有効な方法とは何か?」の講座(公開稽古会)が先程終える。
2時間という短い時間であったに関わらず、岡山、京都など遠方からの參加者も集まり、充実した講座となった。
野口晴哉師は「他力に自己の将来を求むる勿れ。自己の未来は自力によりて開発し創造世羅。自己より出でたるもののみが自己に帰る。(偶感集)」と言っているが、果たしてそうなのかも含め、
今回の講座チラシにも書いたように「未来とは何か?」「未来は変えられるのか?」他の様々なディスカッションと実技を行った。
甲野善紀氏の「運命は完全に決まっており、同時に私たちは完全に運命から自由である」という話や、「未来は実は無い」という話、「あなたが存在しているというのも私が認めたから存在している。感じるものだけが存在している。自分だけが在る」という視点の話や「催眠の最終段階と遠隔操法の紹介」「からだは全て(未来も他人も)知っている」話、「宝くじを当てる法」から「外れた宝くじを当選に変える法」つまり「結果を変える方法」の紹介に至り、一晩で別の人生を歩んでいる可能性と「それが出来る時に共通したポイント」というparallelworldという概念にも関わる話や「来年の身体状況を知る方法」「他人の(未来でも)身体状況を遠隔で知る方法」「未来の夢が叶うかどうかを知る方法」「それを叶えさせるアドヴァイス」などの実技と共に、では「未来を変える再有効な方法とは?」という事で、それは年末から行う【心の学校】http://npo-kido.com/tokubetu.html#kokoroで詳しく紹介する事でもあるがと申し上げた上、エッセンスを紹介させて戴いた。
(なお、他にも素晴らしい話(桜沢如一の「食が運命を変える理由」その他、信じられないような話などもあったが、それらは割愛させて戴いた。)
密度濃い内容のためもあり終了時間も30分延びてしまったが、私が嬉しかったのは、遠方からいらして下さった事もそうであるが、何より、未来を変えることの出来るエネルギー(氣)に後半包まれていた事(それは參加者も感じられていた事と思う)、そしてその氣は今の中に「すべて」が在るという氣であり、その氣は多重層の如く様々な次元、位相レベル(まさにparallelworldの如く)に跨がっていた、という事である。
そして、それはライヴ同様、私だけではなく參加者全員で創られたものなのである。
また、ごく個人的な事で言えば、最近体験している或る技術を運用し、未来は一瞬で変えられる(数秒〜十数秒。変化が現れるのは数日の事もある。現実に具現化されるのはもっと遅くなる事もある。)、という事を確かめられたのも技術者の立場としては大きな収穫であった。
「過ぎゆけるもの風。 止まらざるもの風。
  風の中に浮かぶ者。流される者。止まらんと努むる者。
 しかし過ぎてゆく。」 (「風」野口晴哉)


    ………………………………………………………

※なお上記に関して興味のある方は、年末に【心の学校】を行うので、上記にも掲げたhttp://npo-kido.com/tokubetu.html#kokoroをご参考の程。
 (上記以外にも数多くの事が得られると思うので、「未来に関して運命に関して興味ある方」「自分の未来を変えたい方」「身体や心を変えたい方」「人生に真剣に向かいたい方」「自分とは何か、生(いのち)とは何かを感覚されたい方」「道教のタオを感じたい方」「仏教で言う空や(絶対)無を感じたい方」「本当の愉氣を行えるようになりたい方(整体に興味のある方)」「意識と無意識の流通を良くしたい方」「夢を叶えたい方」も、ご参考にされて下さい。
 質問etc.ありましたら気道協会事務局mail@npo-kido.comまで遠慮なくお問い合わせ下さい。)
 なお来年以降、このスケジュールでは行なわない予定です。
 ですので「少しでも」興味のある方は今回の機会をご活用下さい。(最受講の方もどうぞ。)

  今=永遠 3  (明日「未来を変えるために一番良い方法は何か?」の講座を行うため書いた。後日、この「3」は消そう。)
Date: 2007-12-14 (Fri)
───随所作主 立処皆真。(臨済)

      閑 (雲門)

 肚が出来ていない人だけが、未来の不安を感ずる。
 
 (肚の創り方は下で既に述べた。自然の道への道しるべ。氣道。)

  今=永遠 2
Date: 2007-12-14 (Fri)
今=永遠 2


瞑想会では、よく吐く息と吸う息の狭間をみることを言う。
それこそ、0、00何秒かわからないが、狭間がある。
そして、「そこ」こそ瞑想である。

連続した動きが止まった時、何かの衝撃があった時、私達に訪れる
時間と空間を超えた無であり而して有でなく在である絶対無という沈黙だ。

そして瞑想が深まると、「そこ」は、吐いている最中にも、吸っている最中にも、綿々と存在していることが感じられる。

私達は有という1の世界にいるが、常に0と共に在る。
元より1=0であり、道(タオ)は常に在る。
故に、1という現実世界は様々な仮象を帯びる。
パラレルワールドは概念だけでなくあるのは、瞑想に慣れてくると、まず夢に対して抱く感慨がら実感になって出来てくる。
(なお、身体的には夢を観ないほうが良いのは常に言っている通りである。夢分析などを行っていると後頭部が弛緩しその結果日中も白昼夢的になり、真実の瞑想も深まらなくなるが、ドラッグ同様、瞑想の深まりを促す一時的活用という意味では氣道でも批判はしていない。)

陽は陰より生ず。
万物は無という絶対有(在)から生ず。

氣道は瞑想を深める道であるが故に瞑想道であるが、それは必ずしも仙人になるということではない。
眠っては瞑想が出来ないように、酔っていては白昼夢の如しである。
限りなく醒めて限りなくリラックスする事を瞑想という。
その時、思考は自らの範疇にあり、そして限りなく閑かになっていく。
その時にこそ「そこ」は「現れる」。

だから体を持っている人間にとっては、体を無視して瞑想の道は難しい。
健全なる身体を持っていながら、透明である身体を持つことが瞑想の理想であり、そのためにヨーガでは瞑想(ディアーナ)の前に、集中(ダーラナー)、そして感覚訓練(プラティヤハーラ)、そうして呼吸法(プラーナヤーマ)、体位法(アーサナ)という身体感覚を鋭敏に、そして統御していく段階を設けてきた。(野口整体でも私達の言う自動運動を参禅の準備として薦めている。否、野口晴哉に言えば、自動運動の目的は無であり、それは動禅である。)

私たち氣道の指導者が、整体を行っているのもその意味である。
(場合(人)によっては、そのまま瞑想に移行するが。)

陽という現実、身体が、陰という無、絶対在から始まっているとするならば、
瞑想という陰、0に戻る作業は人間にとっての自然な道の道程であろう。
氣道は自然道である、というが、それが瞑想道でもある、という理由である。

そして、その瞑想とは単に座って無になろうとすることではない。
自動運動がそうであるように、どのような生活の断片を通してもそれを得ることは出来るだろう。
そして技術(それは音楽でもパチンコ台の調整であっても)を通し、私たちはそこに浮かび上がる「型」と集中を経て、自ずと無心への道が開かれる。

私たち人間にとっての自然は、常に自然である。
もとより私たちは自然である。
そしてそのための道も自然なのである。
自然であらねば、自然に生きようというところで、既に自然であることから離れてしまう。
自然な道は、自然であり、常に用意されている。
自然な要求を、体(心、魂)の声に従うだけでいい。
そのために、余分なものを剥ぎ取ったり、あるいはその勢いの交通整理をしたり、またあるいは、その勢い自体に火を灯すために、整体を含めた指導を行っている。
またあるいは瞑想(0)とはこうなのだよ、と実感させるためのこともある。

自然であるのに、自然に生きようとする必要は無い。
しかし自然に生きよう。

いかなる時にも息深く心閑かになれる「からだ」を持とう。

───随所作主 立処皆真。(臨済)

      閑 (雲門)

  今=永遠
Date: 2007-12-12 (Wed)
 一音、一音。
 一つの音を出すのに、即興演奏家は、一秒が限りなく微分化される。
 たとえば今先日のcandyの演奏を聴くと、この一音を出すために去来した様々な想いが浮かび上がってくる。
 そして次の音、そしてその間についても。
 一秒はあまりに長すぎるし、もちろん0,1秒をも。
 いつも言っていることであるが、音楽とはそういうものであろう。
 (ちなみに、これまたいつも言っていることだが、音楽はclassicだろうが全て即興だと思っている。
  ────そして、それは音楽のことだけではない。)

 上手くいっている時は、その一秒の1000分の一までを認識しなくても良いほどのっている。
 (センサーはそれ以上ある、のだが、そこでの様々な思考、思考の残骸は無い。)
 きっと直さんは、それである。
 直さんついでに思い出したが、上記を書いていて私の足らないこと、それは○○である。
 ここで書いたことは、上記したように音楽でも整体でも野菜屋さんでも墓堀りの職人さんでもどこでも同じ原理が働いていると思う。
 ただ、その中には、それぞれの技術というものがある。

 (ちなみに私は20年位前か、自分の40年間以上行っている三つのこと(氣道、音楽、将棋)について考えたことがある。
  自分の中で、どの技術が一番長けているのか、と。
  正直に考え、なんとその時は○○であった。(ちなみに「氣道」とは「心理療法、整体、瞑想、ヨーガ、」それぞれの部門の総括と共に、哲学、宗教、精神世界的なことを含めていっている)
 
  ───今日、久しぶりに神社に佇んだ。
  心地よかった。
  少し思い入れもあったせいもあり、瞑想まではいかなかったが、その場に慣れてきた感じのまま暫しの時を過ごした。
  上を見れば、木々の様々な葉と、それぞれの、そしてそれ以外の音が心地よかった。

  自宅に戻る途中、様々な人を見た。
  時折りあるのだが、また、まるで蟻が困っていたり考えていたりするかのような感覚を覚えた。
  
  その事は、以前にもこの日記で書いたと思う。
  きっと人も、蟻の如く、 ある蟻は考え、ある蟻は…  
  そして、多くの蟻は、ただ…。
  その中で悟った蟻がいたとしたら、その蟻が説法をしていたとしたら、と書いた。
  
  そして、そうした蟻を見ている人、その人を蟻の如く見ている存在にとってはどうなのだろう、とも。
  ああ…人間がこうやって、と蟻を見つめるのと同じように見つめる。
  
  そして、その存在をも見つめる存在がいたとしたら。
  そして、その存在をも更にみつめる存在があったとしたら。
  そして、その存在をも…。
 
  釈迦の掌の上の孫悟空、釈迦自身がある存在の掌の上であり、その存在をも、更なる存在の掌の中なのである。
  …無限。
  しかし、その無限を超えたところが確かにあることが感じられる。

  横濱に戻る。
Date: 2007-12-09 (Sun)
 稲毛candyより横濱に戻る。
 新体道の青木宏之先生の紹介で、世界的な活動をされているドラマーの羽野昌二さんとのデュオであった。
 遠方からも(京都からも!)様々な方がいらっしゃり、そしてまた、ご紹介して下さった青木先生、そして師範の吉田先生までもいらっしゃり、恐縮と光栄の想いの中での一期一会のライヴであった。
 今、想うのはまるで夢のようなひとときであった事、そして、それは、たとえ喧騒の中であっても、夜空に、かそけき瞬く一筋の星のようであった。
 そしてまたcandyは温かい場所であった。
 
 今年も残り僅かとなった。
 私は、年末年始と【心の学校】という、表現は悪いのであるが、これに参加せずして氣道を語るなかれ、という氣道の真髄である講座を行う。
 (時期もありチラシを送ってからも開催を躊躇していたのであるが、或る方が申込みをされ、プレッシャーと共にいきなりやる氣になった。まるで今日の青木先生のようだ。ちなみに今日のライヴはずっとやる氣満々であったところは違うが。)

 今日のライヴを行い、そして今こうして書いて突然想ったのは、星は「いのち」に近いのだな、ということ。
 その閃きが正しいかどうかは分からないが、私達は今も生き、そして同時に生かされている、ということを、そしてまた、その背後にあるものが一点として永遠に繋がっているような、さらにその一点(星)が、永遠、をも超えた何かに繋がり、そして同時に全てに繋がっている、と感じるのである。
 そしてまた、それらの旅を踏まえた感覚を伴って、今というこの瞬間にも戻るのだろう。
 
 今も、そうした旅をさせて戴き…
 考えれば【心の学校】はその階梯と全く同じ構造だな、と思う。

 今日いらして下さった全ての方々に心から感謝申し上げます。
 
 ありがとうございました。

 

  久しぶりに、指の動くまま、つれづれに。
Date: 2007-12-05 (Wed)
 そう言えば、その語に触れたのは、整体協会本部の三階であった。
 野口晴哉先生の書展をダン先生が開かれ、日時を小杉先生から伺ってはいたのであるが、まさか当日お会いするとは思わなかった。
 私は、
 書展に入り、様々な晴哉先生、そして奥様の書を閲覧しながら、最初は箱根記念館に訪れたに近い、いえ、それはありながらの清々しさを感じていた。
 おそらくは、この場を用意されたダン先生の想いなのであろう。
 娘さんの写真が箱根にはあったかと思うが、其処には、その経緯の御夫婦(晴哉先生と昭子さん)の書があった。
 いえ、経緯を説明しているわけではない。
 それが「浮かぶ」ものであった。(他の方の書や説明もあったかもしれない。)

 様々な書を利き、そして聴いたところで、小杉先生と会った。
 …といっても、先生は、奥間というか、ちょうどロイ先生がいつも操法をしている真上のところで、ずっと鎮座していらした。
 その空間が特別違うということは、今考えれば、設計的にそれを考えられていた、そしてその上で、他の書を配置されていたとも思うのであるが(それだったら、最後の「無」の書の置きかたは変である。あれは体癖で言えば、9種(少し4種がかっているがこれは体癖ではなく体勢かもしれない)のなせるわざであろう)での設定であろう。だからこそダン先生だな、と実感としても思うわけである。)、それでもあの空間は特別であった。
 
 私は、そこで小杉先生とご挨拶をし、(先生は淨潤さんもいらしたの…と思ったのかもしれない)
 その偶然に私は驚きつつも、上に上がり(そういう場なのである)、晴哉先生の書に向かった。

※ここで、またいつものように、書いた文章が消えてしまった。
 かなり、その語、書き続けていたのであるが。

 その後の経緯(私のその後だけでなく)をかなり語ったのであるが、今となっては、だからこそ消えてしまったのかもしれない、とも思うしかない。
 そうでなくては、なぜ、こんなに久しぶりにその時のことを書きたく思うのか。
 いつの日かまた、この続きがあるのかもしれないが、
(ここまで書いて思い出した。
 その晴哉先生の書は、ロイ先生も、この書はちょっと…ということを兄も思ったらしく、会報でも書かれてあったような書であったらしい。)
 先程書いた文章とは違うが書く。

 ともあれ、私は座った。

 そして周囲が気になり立った。

 その後、一巡し、再度座った。

 二時間近く経っていたらしいが、申し訳ない。
 
 野口晴哉の氣は、人が想うものとは違うと想う。
 先日、芦屋でKさんが仰っていたのと同様、「峻烈な清々しい氣」なのである。
 昔、晴哉先生の魂をよんだ事があるが、(抜魂の術。松本道別の技術が出来る人には簡単に出来る。)
 誰もがその魂の領域が分からなかった、というか、私達までもが晴哉先生の魂の領域の中であった、と数日前の瞑想会でも言った。
 その事も含め、色々とあるが、今宵はここまでにする。)

 ともあれ、私は翌朝のライヴで和敬静寂の音も紡いだつもりである。
 ───それは、去年の6月22日以降の音であった。(ちなみにそれらの音が残っているかは分からない。)
 
 

  その後…
Date: 2007-12-02 (Sun)
 ライヴ後は、必ず一人だし、それが快ちよい。
 以前の日記でも「独り」という題で、その事は書いた。
 独りは一人でも、ひとりでもないのが、私の場合、充実したライヴあとだと身体に戻ったあとでも味わえるのである。
 …そういう事を先日、ライヴの聴衆者からも同じことを聴いて驚いた。
 同じ感覚を共有できて有難い。

 今日は、気道協会の仕事も忙しく、私達の後には巻紙公一であったが20年ぶりのご挨拶だけして自宅に戻った。
 スタッフと仕事。その後、嬉しき来訪者。
 今日のこの時間は数ヶ月以上ぶりの久しぶりの休日時間だった。
 明日は、N先生との一期一会である。楽しみだ。

  ありがとうございました。
Date: 2007-12-02 (Sun)
今日ライヴにいらした方々、本当にありがとうございました。
(また、いらっしゃりたかったのに、どうしてもご都合が合わずいらっしゃれなかった方々、そのお気持ちが嬉しいです。ありがとうございました。)
ハイジさん、ユウジさん、リクさん、ヒロミさん、山田さん、渡邊さん、寺沢さん、気道協会スタッフの方々、名前の知らない一般の方々、ありがとうございました。
この場を借りて御礼申し上げます。
(また、私が、想いを込め本当に真剣に呼んだ時、いらして下さった今日の貴方を本当に大事にします。
 その代わり、御礼としてですが、今後式典が行われる場合は、今日の方々のみ声をかけようと思いました。
 今まで、私は、弟者に明日一分でいいから来て、と言った以外、一回も他人にお願いをしていなかったのです。
 どんな式典かは別ですし、「思いました」です故、今日の感慨ですが、来て欲しいと思った時にいらして下さった方の事、忘れないようにしたい。)
 
 

  どなたがいらして下さるかも楽しみ。(続)
Date: 2007-12-01 (Sat)
瞑想会なのに、久しぶりに浮世に出た、という表現も変だが、いつもとは異なり、それこそ久しぶりの、一人が数十人分位の方がいらっしゃると雰囲気も違う。
その後、スタッフ、そしてこうさん、牧姉、続々と来訪があり、今日は浮世の日なのだろう。
受信は出来るのであるが、コンピューターからの返信出来ず、マユミ先生、ハラダさん、その他、音楽含め仕事関係の方々にはお待たせしてしまっている。(弟者にだけは子機より返信したのであるが、そういう事情である事、皆さんここを見て戴ければいいのだが。)

さてさて、明日は先月以上に今年一番のライヴである。
いつも一番なのであるが、明日のライヴが終われば、今年はプレッシャーから開放される。(もちろんライヴ自体は来週含めてまだ幾つかあるのだが。)

  どなたがいらして下さるかも楽しみ。
Date: 2007-11-30 (Fri)
 今日も自分で吹き込んだ「お金の学校名言集」を聞いて学んでいる。

 明後日(2日)はエアジンでのライヴ。
 久しぶりのpianoトリオ。(base河崎純・drum池澤龍作)
 …今から心踊る。

http://6901.teacup.com/kidomusic/bbs


  2007-11-08 (Thu)
Date:
 和やかな風が裡にも吹き抜ける。
 操法はスラスラと流れ、生活もまた。
 そして息し佇むだけで嬉しい。

  心外無法
Date: 2007-11-08 (Thu)
 如何なる意味に於ても、人の世は全て一人相撲である。
 苦しみも楽しみも全て己れの肚三寸。
 だから生は愉しく美しい。

  触れるということ。
Date: 2007-11-07 (Wed)
麻原先生に以前言われた。
「潤、お前はとても原初的な事を行っているよ。素晴らしい。触感は何より重要だ…」

先程、氣道ブログに久しぶりに投稿した約束で、ここに投稿している。
今ごろ、今日、整体を受けられた方は…、そしてマユミさんはY君は、OさんTさん、Rさん、皆さんどうしているかと頭が巡るが、
これは今日も日記を書かせて戴く時間があったから。
(スタッフの○さん、△さん、もしまだ仕事があったとしたら許して下さいませ。電車中は仕事スペースなので頑張りましたよ。)
 …ということで、ブログで約束した文章を以下掲載する。
 なぜ整体をよく受けている方にしか繋がらないのか、という事だ。

「カタカムナの楢崎皐月もそうした道でしか伝承しか出来得ないことを仰っていて、実際そうであったが、つまり良く合っているからという意味ではなく、きらりんさんが仰っていくように、本当の意味での「良く氣が巡っているかどうか」なのだろう。
整体を受けていると、と言うのは、その「本当の意味」が松本道別などの霊学で言う『伝想法』(氣道でも伝想法はよく講座で実習していますネ)として、言葉にならない部分、氣でももっと細かい部分や特異な部分までも伝承(伝想?)出来ることを如実に体感しているからなのです。
(まあ簡単に言えば、整体を受けなくとも分かる人は分かるのだろうが、やはり伝わっていない事が多い、
という事。というか全員かな。)
 青木宏之先生が新体道を興した時は、相手の手を握っただけで、その人を悟らせた、と言う。
 なぜ、実際に触れなければいけなかったのか、の理由は分かる。
 そして、その前に愉氣は在る。 」

 明日は、今年の冬の整体ポイントの講座、そしてそのまま夜は新幹線で関西だ。

  偶然とお歳暮。
Date: 2007-11-06 (Tue)
柴崎さんと会った。

いずれ「自然掲示板」http://8003.teacup.com/joho1/bbsでアップロードするであろう文章(玉川温泉、そしてその後の新玉川温泉に続いての順番であろう)
を以下掲げよう。

「動機/放射能は体に有害とされているが、玉川温泉のように微弱な放射線はかえって人体に有効とされている。
 氣道の整体を受けられている方に玉川温泉を薦めたところ、こういうシンポジウムがある、とチラシを下さった。
 それは放射線ホルミシス国際シンポジウムというもので、その時は、ああ、やはりそういう時代になってきたのだな、程度の関心だったのだが、その一週間後、舞踏家の芝崎さんが雑誌のコピーを下さった。
 見ると「玉川温泉に行かなくても、治療ができる?」との表題。
 ああ、湯河原オアシスにもある玉川温泉の人口岩盤浴のことだろう、確か関内駅近くにあった、と思いつつ読むと、そこではなく、別場所にもっと本格的な施設であった。
 読み進めてみると、先日渡してもらったシンポジウムにも講師として参加される工学博士の服部禎男氏が解説されている。
  これはまた不思議な縁と思い、氣道協会にいらっしゃる方に推薦出来るかもしれないと思い、体験しにいくことにした。
※なお、ご興味あられる方は、mail@npo-kido.comまで連絡して欲しい。
 [紹介する場合の決まり事とかがあるので、「その点は必ず」宜しくお願いします。]

  (当日談(↑上記は昨日書いたもの)/
       なんと、その日、近くのローソン前で、「先生!」と声をかけられる。
       見るとバイクに乗った方。
       なんとなんと柴崎さんであった。
       「どうしてここに?」
       「今、入ってきたんですよ。」
       「ええ?!私はこれから入るところなのですよ。」
       「ヨーガ、速読法講座、夜中の舞踏、そしてその翌日のライヴと、4日前から毎日、繋がっていますねえ。」
       「いやいや。もうシンクロニシティは慣れっこで、毎瞬ですから驚かないですが、凄いものですね。」
       「せっかくだから、場所まで道案内しましょう。」)

  そのあとの経緯は、前述「自然掲示板」にゆくゆくアップロードするが、
  たしかに芝さんが仰るように「繋がっている」とそういうことがある。
  それは私の場合、手紙やメールでの仲がある方は少ない。
  むしろそういうことが(少なくとも最近)無い方で、整体や講座にいらっしゃるというケースだと、そういうことがあり得ていた。
  (ただ、メールでも即刻に返信するような方々は別なのである)
 
  どういう変化がその方々の中に起きているのだろう。  
    
  もとより人は生ある故、繋がっているが、なぜ「そうした」人とこのような連続になるのだろう。
  そして、なぜ、その場合は心地好いのであろう。
  
  私としてはもっと深い何かが共有できている感覚がある。
  そこまで考え、
  互いに好きで、真のラポール(氣の感応)が得られている状態か、と思ったが、好きを自覚しない場合もあるのかも。
  芝さんと好き合っているようだが、もしそうだとしたら、それは互いに尊重し合っているからだろう。
  …そう、それだけは、常にあらゆるコミュニケーションで言える。
  だからこそ、礼儀や格式が生れたのであろう。
  (下らないことなのだが、お中元、お歳暮の形でも、その人の全てが感じられる。
   この二十年間、大変素晴らしく、その方々の想いを受け取る事が出来る。
   既に若い人たちには無視されている年二回の儀式ではあるが、そこに想いを籠めようとする日本的感情は美しい。
   ただ年賀状や誕生カードもそうなのかどうかは分からない。)
  
  

  指月
Date: 2007-10−24
某かの指導をする人は、その道を示さねばならない。
 しかしその人が道なのではない。
 そうであったら理想であるが、指導者は月を指す指であって月そのものではない。
 それは古人は指月と言った。
 しかし、指に指導力がなくては月も指せない。
 そして指導力は丹田の力故、吸引力もある。
 昭和の指導者では、野口晴哉を初めとし、皆そうしたカリスマ的な吸引力があった。
 そのため、逆に月よりも、彼(彼女)である指を見てしまった。
 しかし、それは昭和の事だけではない。
 指月には、そうしたアンビバレンツが常につきまとう。
 ────と、このことは20年前から時折り講座で言っている事であるが、今回は、具体的な目安を一つ。
 
 もし、あなたが指導をする立場とするなら、よく合う人、手紙、メールなどに注意しなさい。
 あなたの指が指し示すことよりも、あなた自身が好きな人は、その関係を求めるからだ。
 (もちろん、あなた自身がその人と「月」を抜きにした単なる個人的な関係を求めている場合は別だ。)
 そして、そうした人は、あなたとの個人的な近しい接触を求めるくせに、あなたの指導する現場には、あまり来ない。
 ここが見極めのポイントだ。
 それは不思議なほどはっきりとしている。
 指さす月を求め、そしてそれだけなのに自然と近くなる人を大事にしなさい。
 
 もし、あなたが学ぶ立場であるなら、その人の目指すものに向かいなさい。
 もし、あなたがその指導者を同性にせよ異性にせよ愛していたとするなら、なおさらそうしなさい。
 それ無しに、手紙その他個人的な関係を親密にすることを止めなさい。
 よほどあなたが個人的に好かれていたにせよ、そうしない場合の結果は遅かれ早かれ確実に一つである。

 それは、学ぶものと教えるものの関係だけではない。
 学ぶは究極の教えであり、教えは同時に学ぶである限り、これは夫婦、友人、兄弟、その他、関わりあるあらゆる親密な人間関係に共通していえることである。

 指だけを求める限り、望んだ結果は得られない。
 なぜなら指は月があるからこそ存在するからである。

 私たちは相手の指さす月を見よう。
 氣に入ったら同じ道を歩もう。
 その上で指を見よう。
 それも氣に入ったら某かの形で共に歩もう。

  氣道家の条件0
Date: 2007-11-06 (Tue)
自分と同じところが相手にあり、それを伸ばして自身に照射されると嬉しいのは何故なのだろう。
  
   「勉強しなさい」と言われるとカチンとくる。
 しかも勉強したい時に言われると。
 もちろん言い方の問題ももちろんあるが、

 自分と同じところが反面にあるとカチンとくるのは何故なのだろう。

  氣道家の条件
Date: 2007-11-06 (Tue)
たとえば、何かを言われて(あるいはされて)嬉しいことがあったとする。
 なぜ嬉しいのか?

 何かを言われて(されて)カチンとすることがあったとする。
 なぜカチンとくるのか?

  「すべて自分に言っていること」
Date: 2007-11-06 (Tue)
 …まるで鏡に向かっているように。

 青木先生が昔(去年かな)、合わせ鏡の向こうには何があるのか、という問いをして下さった。

 その答えは、常に言っていることだが、いみじくもここまでの答えは、合わせで無くとも鏡には他なるまい。

  生きる=生かされる
Date: 2007-10-23 (Tue)
最近とみに偶然と必然との境が無くなってしまっている。
もともと論理的にも偶然が有り得ない事は高校時代にアーサーケストラーを拝読して知っていたし、整体や演奏時に感ずる主体と媒体との統合感覚からその事を如実に感ずるのであるが、日常生活でもその感覚が続くと、現実と夢との境が無くなる(現実はよりクリアになるのに。ちょうど瞑想が睡眠ではなく、限りなくハッキリと鮮明な意識になるように。)というか、現在と過去、未来との境が無くなり、同時に存在しているような感を覚える。
 (「気をつけて!と声がして振り返ったら、それは未来の自分であった」と、10年程前ある方が話をしてくれたが、ようやく感覚的にも分かるようになってきた。)
 まさしく運命は既に完全に定まっていることが感じられる。
 そして、同時に更なる自由の新たな扉も開き始めたところだ。
 いつも色々なところで書いていることだが、まさしく生きていること自体がシンクロニシティなのだろう、と実感する日々である。

 <現実生活のアドバイスとして言えば…>
  だから、あまり余計に頭を使ったり気遣いせず、流れにまかせても大丈夫。
  そのためには、まずは自発。
  裡なる促しに沿って自らが流れや風を興し、楽しく自然に顔晴ること。
  この繰り返しが、実に美しいまでに快ちよい。
  決まっている運命を羽ばたかせられるのは、私たち一人一人の権利なのだ。
  そして、そのために生まれてきたのかもしれない。

注/
・演奏時や整体時の統合感覚については以前にも書いているが、再度触れるとなると、自分が行おうとして行っていながら、行わされているような感覚であり、またその結果、行ったという感覚と、これは既に決まっていたという感覚とが同時に在る感覚である。
・その感覚は、シンクロニシティが永続する感覚と同根である。
 (限りない今の連続に於て。だから多発では無い。シンクロニシティは感情の高揚でも生ずるように、身心の或る波が高まった時に生じやすい。ここでは低まった時にも生ずることと、(それには表面的な波をクリアする必要があり、そのためにはその部分での身体感覚レベルをクリアする必要があり、そのためには簡単に言えば瞑想を深めることであるが、その合理的方法については氣道で紹介しているので割愛する。)
・瞑想時に意識が鮮明となると述べたが、思考は停止してゆく。だからこそ意識が鮮明になってゆくのが瞑想の階梯。

  慎みびやかな音。
Date: 2007-10-22 (Mon)
 午前中は様々な懇談。
 その頃、道場では、毎回、前日からホテル宿泊で準備をしている、まっちゃん(松岡)が稽古会。
 続いて、このり君の「呼吸法講座」。
 成瀬雅春師や、以前の呼吸法講座を含め、二ヶ月以上準備していた。
 そして引き続き私の初等講座。
 しかし内容は高等講座的で、昨日の公開稽古会も0リングで未来を変えてしまうとっておきの方法をご紹介したが、今日は心理整体の究極の手法をご紹介した。(どれも全てオリジナルの技法である。)
 夜はBPさん、Tさん達と打ち合わせ。
 そのお開きの時に、久しぶりに真剣師が突然の来訪。
 朝になると昨日の玄関のベルの鳴り方が懐かしく思う。

  意味。
Date: 2007-10-20 (Sat)
 現在の状況もそうだが、未来の状況を知る(見ず知らずの他人を含め)ことも何事もなく皆当然のように受講される。
 つつがなく進行するので、12月に行う予定であった未来を変える技法もお伝え出来たが、みなそれも当然の如くに受講される。
 未来の状況を克明に知るということだけでも驚きのはずなのに、その状況を変えるということがなぜ可能になるのか、運命があるのかどうかまでかかってくる作業であるはずなのに皆何事も無かったの如くであった。
 途中、5月の新月瞑想会で伝えたとっておきの願望実現法や、幾つか口外して欲しくない事を伝えたので、録画はしたが公開はしない事にした。
 …と、ここまで書いていると、珍しく気持ちの籠もった遠慮がちな玄関のベルが鳴る。
 良い氣の音である。
 明日もある故、玄関には行けないが有り難い。

  波〜(運命)
Date: 2007-10-20 (Sat)
 風邪や反応は高潮期の証故、まず安心してみていい。
 それ故、相場でも押し目で買う、あるいは売る。
 そうした戻しの反応が更なる順行を呼ぶことを、どの分野でも、プロは体験的に知っているからだ。
 そういう意味では、罫線より視覚的に、そして金銭も絡めて生業にする真の相場師は氣道家に限りなく近い。
 またその訓練は「整体指導者になりたければ、classic音樂の通になり、そして出来たら将棋か相場を行うか、無理でも小豆の罫線をつけなさい」と私が言うように本当に身になる。
 実際、林輝太郎師は気道家だが、ただ「限りなく近い」と言ったように、技術者として限りなく気道家に近づくが真の気道家になるには、やはり一つの何かはあろう。(その意味でも高田智也は気道家とはまだ言えない)

 話を戻すが、そうした戻しの時に怯えると、その逆行がそのまま順行に転ずる。
 「このままで大丈夫なのかしら?」という怯えが余計な変動を生む。
 「寒い。風邪引かないように…」と思う人が風邪を引くように。
 (実際、1970年代には寒いことと風邪との関係性は全く無い、ことがデータ上実証されているというのに。)


  さて、先日のライヴで、ある參加者から「どうして宣伝しないの。なんで、こんなに素晴らしいのに。(←私としては恥ずかしいが)」という言葉をマネージャーが聴いた。
  まあ、実力と私は思っていたが、先日行った【お金の学校】もそうであるが、やはり『波に乗る』方は参加する。
  乗らない方は無視で、そのほうがこちらも、別に私たちが波を作っているわけはないが、とても有り難い。
  また近親者のご不幸、合宿その他、時間の都合がつかない(つけない)方もそれで良い。
  しかし、乗りたくて乗れない方や、迷っている方を見ると声をかけたくなる。
  そういう方は結局乗り方が下手なのである。
  自然の道(氣道)で言えば、methodを行う必要があるし、その代表methodである自動運動や瞑想に対しても、行うにしても数日に数分など同じように躊躇している。
  こういう同じような図式を古い日本人であるカタカムナ人を研究した楢崎皐月氏は相似象と呼んだが、確かに財布に○○を入れれば貯金は貯まるし、それこそ△△をすればお金は入ってくる。(【お金の学校】參加者に申し訳ないため現段階では敢えて伏せ字にした。○や△を知りたい方、お問い合わせはmail@npo-kido.comまでお願いしたい。)
 
 明日、【お金の学校】に続く、「運命を知る」そして「運命を変える」方法を研修会にて初公開するが、これまた波に乗っている方だけの参加になる。(すでに断言。なお運命については、この日記でも書いたが、それを全部知識的に納得している人にとっても驚きの内容であろう。)
 【お金の学校】のように今後公開するかどうかは分からない。(録画はするつもりではあるが。なお2月の「お金の合宿」(參加者限定)では公開する予定。)
 しかし、今も準備を終え、あまりの内容だと思うので、參加者条件がありながらも、日記にだけ口を滑らせている次第。
 そして(非常に烏滸がましい表現だが)現在の地球にとっても、それだけで良いのだろうとも思う。
 

 天行健。
 世に生に波あるが、常に健やかに流るる氣を見る者は真の氣道家だろう。
 
 
 

  0→1→∞
Date: 2007-10-16 (Tue)
 おそらく今日の日は忘れまい。

 ともあれ身体の感覚である。

 私は、ダン先生という方に20年前初等講座より教わっていた。
 その後、私は行氣を深める方向の面白さにひかれていったが、先生もその後、そのようになっていった。(今や、ダン先生によって行氣は信じられない程に練られられ、成瀬雅春先生との統合をも思ってしまうこの一年である。)
 さて、途中、どちらの方向に歩めば良いのか、と多くの整体勉強中の方々にアドバイスを求められた。(ダン先生もが行氣的な手法になってからである。)
 その都度、キッパリと答えた。
 同じ組織で求めているものが違う筈がもとより無い。
 ただ形をも継承する方と、内を求めたことこそが継承に繋がると新ためて思った二人がいるだけである、と。
 ならば、貴方が進む道も魂を求めなければなるまい、と。

 少し酷な表現であったかもしれないが、その後10年間以上たつがそれで良かったと思っている。
 そして10年後、ダン先生の講話に行って驚いた。
 私が用い始めた(←これは驕りであるが、少なくとも心理感覚と同じ意味という定義では、そのころ無かった。晴哉先生は第六覚として表現していた)身体感覚という言葉を用い、素晴らしい世界を開拓、改革していらっしゃった。
 脱帽した。
 
 いつも、時代を先んじているかの如くの人生であるが、先んずる辛さを思い知らされたのは二度目であった。
 (一度目も恩師、岡島瑞徳先生である)

 ともあれ、身体感覚という言葉は、これからも伝わっていくだろう。そして伝わっていって欲しい。
 色々な意味で101匹目の猿になった自分であるが、私は、ひとり一人の整体(氣の道の個人指導)というスタンスを曲げない。

 ダン先生、ロイ先生、晴哉先生など天才たちは多い。
 しかし、その方々は或る人にとっては目標であって、それ故、卑下する対象では無い。
 ただただ、私も真っ直ぐ進む。
 その真っ直ぐの道は、おそらく先人と同じ道であろうが、そんなことは由もなく進む。
 道は後ろにしか出来ないと、常に思う。
 しかし、その後の道は先人の道であったのと同じ事を知る時、皆後悔する。
 再度言う。
 そういう時、卑下してはならない。
 一人の人生は、かけがないのない一つの生命だ。
 比較は出来ない。

 あなたは、あなたでしかない、生を、「今」も送ってるのだ。

  無題
Date: 2007-10-12 (Fri)
 幾日か前に【お金の学校】という講座を行なった。
 行なうに抵抗あった講座だったが、「会員用掲示板」にNさんという方から投稿があり、それを見て、行なって本当に良かったな、と思った。
 
 いつも講座で言っていることだが、
「捉え方を変える(意識、気体)、それを実感する(氣、流体、感覚的身体レベル)と、実際に現実化する(固体)」というのが、今回の【お金の学校】でも述べた事。
 その事も含めてのNさんの感想はとても嬉しかった。
 
 私たちは、自由に選べるのである。
 
 (だからこそ私たちの生の現れは自分の責任なのである。)

  馴れ合いの氣の感応。
Date: 2007-10-09 (Tue)
 先日、NHKで分子講座を行なった。偶然、垣間見る事になった。
 よく細胞は半年で殆ど変わる、骨でも一年で変わると、30年前から私は皆に言っているが、現在の分子レベルでは、それ以上らしい。
 ───ただ、変わっていないと思うのは何故なのだろう?
 
 意識があり、それだけが残るコンピューターがあったら、互いにどう感じられるだろうか?

    ……………………………………………………………………………………………
 
 さて、
 難病の克服を始め、分子レベルに準じて変化させるにあたっての共通項があることに気付いた。
 (これは数日前に行なった講座の結果が出る方から導き出されたことである。)
 100%実現出来る人は、どんな場でも、@決して、少しでも他言、告げ口、悪口を言わない方であり、かつAあらゆる場面で他人を尊敬している事が伝わる人であった。
 また、逆のデータもとると、逆も真なりとも言えず、顕著なのは
 @最近何回か、あるいは
 A週一など定期的に整体を受けている方は、全員「金運」があった。(ちなみに金運というのは偶然講座のテーマとも同じなのが不思議。 また受けなくとも良い程。A「意識化できることによる意味」と、B「特典」くらいが講座の意味であっただろう。)
 
 今日、その理由を考えたが、整体が金運なり、全ての可能性あることは、今までも言っていることで、だからこそ自然に生きる道としての「氣道」の個人指導と言っているが、
 指導者である様々な方(私もその一人であるが)が、他の場所ではどうか、というと、%が下がることが多いのである。
 その意味では「場」の力も考えなくてはなるまい。
 ただ、その場を選ぶのも、その指導者である。
 
 そういう意味では、話を戻しても指導者の如何に依ろう。
 (先の講座の金運もそうであるが、責任もって効果を保証できるのが、定期的に整体を受けられる方にしか力を及ぼせない私がいるだけである。それだけでも無いと言いたく愉氣をしているのであるが。残念ながら保証できるのはその範囲である。
  逆に言うなら、瀕死の方や、私とラポールが取れない方は別として、月一度以上、整体を受けている方には金運も含めて保証できる。)

 特に、血の繋がりある家族を含めて、近しい関係の方は、良い意味でない馴れ合いが氣の感応を深めるわけでは無い、ことを再度感じて欲しくここに書かせて戴いた。

 (障害者のみならず全ての方が脳の障害がある、ということを認識しなくてはなるまい。
  この日記の該当者は自分では無い、と思った方こそ、かもしれないし、逆も多いだろう。それは今までの日記も同じ。
  私を含め。 だからこそ平等な立場になれ、援助や指導の基盤が出来よう。)

 赤子の頃から、そしてそれと同時に、それ以前からの母体への整体の重要性。

  もう一つ書いたら消えてしまいました。(きっと北海道、九州の方も、明日の講座のために、今そばにいらっしゃっているのでしょうね…)
Date: 2007-10-07 (Sun)
 今日、31年ぶりに弓の師匠に出会った。
 共に参禅した。
 
 その師匠と出会う経緯を書いていた。
 オリゲン・ヘリゲルや、円覚寺でのシンクロニシティについても書いた。
 どこかで語っているだろうし、言っていることだろう。
 
 明日の講座の準備の中、数ヶ月前より、行けるかどうかと思っていた。
 それは今日のライヴもそう。
 (数ヶ月前より、この日程で大丈夫なのかどうか、ずっと思っていた。)
 
 沈思黙考は座禅の既なることだが、学びはあった。
 この数年、今日の座禅のために瞑想会を行っていたようなものであったが、やはり、人が違うと禅も異なる。
 異ならないのが禅であるが、「その」部分も学べた。
 
 帰り際、先生に31年ぶりに声をかける。

 ───そして、この日記が一度消失する。
 (今までのは、改めて書いた別文章である。)

 下に「すべてが終えそうな夜」という自分の文章が見える。

 明日は楽しみな講座である。
 そして有馬も。
 そして、
 …そして、、

 と未来にいくと、
 いつも考えていた事を思い出す。




 ───皆さんは、どのように亡くなる時を迎えたいですか。
 

  或る人へのメール
Date: 2007-10-06 (Sat)

  すべてが終えそうな夜です。

  考えてみれば、貴方にも言ったように、こんなに講座に対して準備したことは無かったと思います。

  20年前、岡島先生のもとで私の独自の講座をさせて戴いた時から、今まで、一番準備に時間をかけたのは、野口晴哉の世界(関西での講座)でした。
  そのときは、必死に野口先生の全ての残されている書を読みました。

  今回はその十倍以上でした。

  きっと、私自身がお金に対してがテーマだったのかもしれませんね。 (つまり、野口先生以上に…)

 今日、いらっしゃったのですね。
  その伝言も聞きました。

  同じ時間、だったら何故ここに来ないの?
   …なんて思ってしまっていました。
  
   
  ただ、いつか、閑かに、ともになれたらと思う者です。

(これを書いてから数日後から様々な方より意見があった。
 ここで改めて申し上げるが私はメールがとにかく大嫌いである。
 (今、私と週一の如くメールをしている方は、改めてご了解頂きたい。どうか本当に宜しくお願いします。)
 その上で、嬉しいメールもあるという意味で、ここでは掲載させて戴いた。
 ちなみにこのメールも以前の弟からのものである。(ちなみに私には三人、弟がいるがその真ん中の方。最近の方とこの方との兄弟の契りはまだ、であるが、いつか行ないたい。)
 
 

  全てYES。
Date: 2007-09-29 (Sat)
運命の流れに完全に身を任す至福を味わおう。
自ら生を創っていく悦びを味わおう。

これらは完璧に両立している。
何故なら元より両者は一つであるからだ。
それを私はよく演奏中に味わう。
時に整体中、講座中にも味わう。
裡に耳を傾け、そこから生まれる音を表現しようとする過程に、実は予め流れていた如くに感ずる波(Muse)が訪れる。
結果として美が現れる。
その意味で人生は芸術である。

(先日のライヴ後、共演者の狩俣さんに「淨潤さんに美しい世界に連れていって貰えた」と二度ほど言われた。
 私は、裡を通して、狩俣さんや河崎さん、そして聴衆の方々の響きが現れたとも思っている。)
 何処を観、感覚し、照準を合わせ、動き、鎮め、波に乗り、統一拡散するかに拠って人の生の芸術は変わる。



  初めて。
Date: 2007-09-22 (Sat)
 常にいつも初めてだ。
 慣れは常に緩慢、怠惰と麻痺を呼ぶ。
 麻痺は死だ。
 
 初めてと思うのは、心の新鮮さだ。
 
 そしてそれは体の新鮮さだ。
  
 相手にも、そして自分自身にも、毎日、初めて出会うような体創りをしていこう。

 常に「一期一会」 所以。
 

  天才 
Date: 2007-09-22 (Sat)
 芹沢という将棋指しを知っているだろうか。
 天才を彷彿させた方であった。(確実に名人になると言われた事を全く別としても)
 その天才さを持て余すように、彼は酒に走った。
 最期の数年は、著書でもあるように、冷えたウィスキーを愛飲していた。
 あの歴史的にも残るNHKの芹沢トークもその盟友故になされた。
 
 芹沢が亡くなった時、皆、あれは緩慢な自殺であった、と言う。
 その表現を見て、穿った言い方と思った。
 しかし、全ての死は自殺である事が分かるであろうか。
 (殆ど全ての死が物理的にもそうであるが、そういう位相、意味で無い事も。…と書くのは音楽にならなくなるだろうが。)
 
 果たして、芹沢の如くに天才を生ききった人はいるのであろうか。
 私の知る限り沢山いる。
 しかし、それらの方々も、きっと凍る如くの冷えたウィスキーが好みの方である。 (具体的にそうで無くとも)

 ( ───天才は誰の中にもある。
    ただ、生き方次第だ。
    「氣道」協会では、天才の前の部分を言っているが、止むに止まれぬ要求に純に従う時、天才の道がある。
     その事を思う時、天才の道こそ自然の道とも逆説的に言える、と思い、この日記を書いた。
     ここまで饒舌に説明しなくとも、良かったのだろうが、このところ様々な方々が日記を読むということと、スタッフでも、この数日で分からないことがあることを知った現在、下らない注説を入れた。 
    ご寛容戴きたい。 
    なお、以前に書いた「新釈現代文」での天才の定義をご覧になっていない方は、その本をお読みになった上で読んで戴きたい。 )
  
 

  「氣道」ネットワーキングの日だった。
Date: 2007-09-18 (Tue)
 今日は【夢の学校】一日バージョンの初講座と、ツノ犬の「ドラム・サークル」の最終日であった。
 今、皆が帰られ、朝10時半からの旅が終えた。
 素晴らしかった。
 終えてみれば、まるで、このようになるかの如くの自然な流れであったが、本当に充実した美しいひとときであった。
 まるで一瞬のように感じられるような。
(※諸事情でいらっしゃれなかった方には本当に申し訳ない。
  ただ、前半のBPさんの【夢の学校】は今後CD化するので、ぜひお求め戴きたい。予約先はmail@npo-kido.comかfax045−261−3304あるいは☎045−261−3300まで。受講費が16000円だったのでそれ以下であろうが、確かに一生を変える内容なので、金額的にもこの10倍以上の価値はあるかと思う。講座内容については、http://npo-kido.com/index.htmlの9月の特別講座をご参照にして戴きたい。一生残る名講座であった。)

 そして、現在の、こうした他講師の講座は、何か、本当に大きな流れに乗ってしまった感がある。
 最初の着火は私個人の氣であったかもしれないが、それがスタッフに灯され、そして…という内に、もはや「氣道」協会を超えた波になってしまっていると思った。
 (2ヶ月前からそう思っていたのであるが、口はゆく書けなかった。)
 元より、この「氣道」ネットワーキングは、金銭的なことや「氣道」協会への還元を『全く』考えず、
「会員の方のため」と「講師の紹介」という二点のみを、私たちスタッフは願って企画している。
 まるでカルチャーセンターのようだが、そこに紹介者として「氣道」協会というフィルターが存在しているところが違うところだろう。
 ともあれ、媒介役は私自身も心地好い。
 偶然に、ツノ犬の奥さんであるマユミさんから新著を戴いた。
 私の「東洋医学セルフケア」に続く、筑摩文庫からの出版。
 特に女性は馴染みやすい良書だ。
 読んで、思わず、「ああ、これで死ねるかも…」と隣にいたツノ犬に言ってしまった。
 
 「氣道」ネットワーキングもそうだが、こうして、多くの方々が、それぞれの個性を発揮して、さまざまな角度から「氣道」を紹介したり、行ってくれているのは、とても嬉しい。
 私は私で、整体(氣道の個人指導)が好きなので、今後も愉しく励ませて戴くが、火を灯したあと、大きな波に乗り、私を手放してゆく快感は、この歳にしてようやく味わえた無上の快感がある。
 (麻原先生に出会い、氣道に目覚め37年間日々勤しんで来たが、太極図のように陰から陽、そして陽から陰に還っていく心地よき日々である)
 

  偶然
Date: 2007-09-16 (Sun)
 今日は、整体法修得講座の日であった。
 或る方から、その後(講座の後の整体の後)の時間をとってもらえないか、と言われた。
 人と時間を共にすることは珍しかったが、仕事の打ち合わせということで相成った。
 とても嬉しい時間が過ぎた。
 何しろ、その方がどんどんと緊張し(これ以上は言うまい。誰かも言うまい。)、
 そのうちスタッフもお開きとなった。
 その後、弟が突然の来訪。(素晴らしい水を持ってきてくれた。)
 不思議なものだ。
 いつも一人居るのに、重なる時だけは重なる。
 弟とはジックリ飲みたかったのであるが、その間に、また玄関にピンポンの音が…。
 宮崎県から藤沢夫妻が訪れる。
 「何の目的も無い旅をしたい、と思っていたら…」今日、ここに来たと言う。
 その時いらしたのは、或る方と弟。
 そして、もう一人の方がいらして、この方は、10数年前から、一度飲みたいと思っていたSさん。
 (ほんとうに、本当に素晴らしい方だ。)
 
 ただただ、その「或る方」の打ち合わせから、一つの円の如く、広がっていた今宵。
 (明日は、宮崎県からいらした方も「或る方」の講座に参加すると言う。)

 息深く、心閑かに…

 ───という言葉は、最後まで残ろう。

 そして、そのとき、皆がいるのだろう。
 
 

  愛(想い)
Date: 2007-09-14 (Fri)
 
 一年位前か、弟がある本をくれた。
 その中に、こんなくだりがあった。
 それは初老の牧師さんが聴衆に問いかけた一節である。
「あなたが死ぬときに、後悔することは何だと思いますか?」
 著者は、暫くの沈黙の間、考えた。
 牧師は、静かに続けた。
「私がいちばん後悔するだろうと思うこと、それは、愛を引っ込めたことだと思うのです。和解しなくてはと思っていたのに、そのまま亡くなった父親。仲直りをしようと思っていて、音信不通になってしまった親友。ねぎらいや感謝の言葉を伝えたかったけど、別れてしまったパートナー。愛を示せたのに、気恥ずかしさとか面倒くささで、愛を品込めたこと、それを私はいちばん悔やむでしょう」
 著者は、自身のエピソードを紡いで最後に、こう結びます。
「あなたはこれまで、愛を引っ込めたことがありますか?」

  「鍼灸講座」
Date: 2007-09-10 (Mon)
 素晴らしかった。
 鍼灸の学校卒業生も多くご参加だったが、皆驚いていた。
 打ち上げの質問もマニアックな質問、それでいて治療の本質に関わる質問ばかりで面白かった。
 
 たった3時間で東洋医学の本質を学べる講座であった。
 そう言うと、東洋医学に携わる方から意見があるかもしれないが、私そして参加者は本当にそう感じたに違いない。
 感じたというのは、講師の久保先生が、一治療家として治療に命をかけ、その中で得たことのみを古典と照合して語っているからだ。
 
 講義後の、様々な話、その中には博打の話もあったが、その実践方法も自ら具体的に提示して戴いた。
 ほんとうに見事であった。
 目が醒める思いであった。
 翌朝、違う様々な暗示的メッセージがあることにも気付いた。
 (久保先生、ありがとうございます。)

 書けば切りがないが、昨日の講座は、少しでも整体に「興味」のある方はもちろん、もし治療家を目指さそうと思われる方は、いらして戴きたかった。
 また、氣道家を目指す方にとっても。
 つまり、音楽家だろうが、八百屋だろうが、人が自然に生きるということの中心にこのような概念を知っておくと、いいのでは、という中国5千年の歴史の結晶を実際に日々検証した「人を含めた自然おける具体的エッセンス」を語られていた講座であった。
 (前回の青木宏之先生のが体験版なら、今回は知的奥義版という感じだろうか。)
 その意味では、昨日の講義に参加出来なかった方は、残念であるが、大いに悔やむべきだと思う。
※(翌日注)こんな書き方を昨日してしまったが申し訳ない。
 ただ、今年の毎月の講座(氣道ネットワーキング)は、ただ、ただ、皆さんにこういう方(もちろん内容もそうだが)を知って欲しい、という想いから行なっている。
 順序を含め、私たちスタッフなりに考え、様々な想いの結晶として一つ一つの講座が出来ている。
 (前回の青木先生の講座は○○さんの尽力が無ければ到底実現でき得なかった講座であった。)
 空回り、かも、しれないが、そうした私たちの想いがあることだけは伝えておきたく、そしてそんな想いで、つい言い過ぎのような表現が出てしまうことを、お許し戴きたい。(話を戻す)

 (あまりの自然な気迫に促されたのか講座開始後1分後からであるが録画、録音をした。もしかしたら協会(氣道協会)より販売されるかもしれない。確約は出来ないが、自然に生きる(=氣道協会)や東洋医学や整体に少しでも興味のある方は、事務局(mail@npo-kido.com 045-261-3300fax 045−261−3304)まで予約される手もあるだろう。)
 ともかく、今回の久保先生の講座が実現するまでには、半年以上の様々な紆余曲折があった。
 大きい事としては、今回の講義内容は、「真実の東洋医学のエッセンス中のエッセンス」であり、それは他の団体から反駁される可能性が多いにあったからである。
 そういう意味では非常に秘匿性の高い講座でもあった。
 
 先生の一挙手一投足というか、講座以外の振る舞い、それは破天荒であり飲む打つ買う以上のアウトローであるが、そこに共通するものと仰ることは全く同じであったことを、一日たった今でも俯瞰する。
 講座中でも申し上げたが、全く同じ原理での相場の行ない方(それまた中国から来たものである)を知り、今や中国は非難されているが、昔の中国の凄さを知った、と同時に、個人的には来月の【お金の学校(相場の学校)】にやる氣が出てきたし、また山本忍先生の【体の声をきく】にも繋がる土台が出来た感もある。

 ともあれ、この講座が実現出来たことを、まずはYさんに心から感謝を。
 そして、ついに引き受けて下さり、鍼灸を全く知らないどなたにも分かるように『真髄』を伝えて下さった久保先生に心から感謝をしたい。
 ほんとうにありがとうございました。
 (私も、一治療家として、先生にあやかり顔晴っておりますヨ。 先生同様、生きがいですので。)
 講座でも言ったが、別分野で優れた方とは同じ言葉を使えるのであるが、同じ治療家であるのに言葉が通ずるのは初めてであった。(鍼灸と整体で技術的なことは全く外国語同士なのであるのに) 
 そして、そういう方とは逆に(だからこそ)言葉が要らなくなる。)

  地獄を見てきた。
Date: 2007-09-06 (Thu)
  忙しさにかまけ、この日記では書いていなかったが、砂療法〜滝行先達養成合宿〜滝行〜その他、関西での講座を初めとする様々な事があった。
 「何であれだけの事が日記に載っていないの?」と思われていた方も多いだろうが、申し訳ない。
 メールの返信も出来ず、待たせたままの方も多く、忙しさにかまけは言い訳ではなく本当の事なので、ご寛容戴きたい。
(その癖、青木先生とは…と言われそうだが、それは元々予定していた事なのでご勘弁して下さい)
 そう、またも青木先生の話となるが、先生に「今日は申し訳ないです。こんな顔になってしまいまして。滝よりも遥かにキツイ行に行ってまいりました。」と言う。
 (中略)
 滝行よりもキツイのは本当の事だ。
 (ここまで書いて弟に電話をする。その前(最初の数行辺り)には母に電話をした。こんなに数分でも余裕を戴いたのは有り難い。忙しいとはもう言えなくなりそうだ。しかし、久しぶりに父や母の声を聞けたのは嬉しい。弟の声も今もって頭に鳴り響く。青木先生の声もずっと。)
 そう。 青木先生の講座、そしてその後のお披露目(二次会)も素晴らしかった。
 講座中、霊能者であるなどと言われたが、そして、そんなこと公開しないで!と思ったが、考えれば、能力が0という「0能者」であることは間違いない。
 そして霊能者もそんなものなのかもしれない。つまり、真実、阿呆なのだろう。
 ともあれ、青木先生が生きているだけで嬉しい。
 私たちも斯くありたし。
 (そして、自分自身が生きているだけで嬉しいように。
  それこそが、氣の道だ。天真の具現化だ。
  人生は即興演奏に他ならない。)

 傍らで晴哉師が笑う。
 これからまた仕事も多いが今日は和やかに過ごしたい。

 さて地獄の事。
 先に言った修行のことである。
 まるで地獄のような大地のエネルギーの溢れる場所であった。
 ジェット機が間近にあったら、こういう噴火音と思われる音の大地の嗚咽は、宿泊する所にも通奏低音として響く。
 まさに地獄のようであるが、その場所で、皆の体が良くなっていく。
 9割の方は難症。
 多くはガンの方。それが殆ど快方に向かう。
 糖尿病でさえ2週間で100%の治癒率だと言う。
(大概の方は大変な反応を通して。)

 本当の意味での地獄というのは、こうした更生させる力を持った場なのではないだろうか。
 真の地獄とは実は天国への道なのではないだろうか。
 陰陽のマークが浮かぶが、今回はそれを実感させて戴いた旅であった。
 詳しくは、いずれ「自然掲示板」http://8003.teacup.com/joho1/bbs
に書くので、ご参照戴きたい。

 おそらくは、出会う方々の中にも、互いに、そして自分自身にもそうした陰陽が起こっているのだろう。
 天真(氣道)は、その最中にあり、そして常にすでに在る。

 ───人の生、それ自体が。
 そして、生きていること自体が嬉しい日々にならん、が天真(氣道)の目的であろう。

  長く書いていた文章、皆さまへの御礼が一瞬で消えてしまいました。
Date: 2007-09-03 (Mon)

 有り難う。

 そして、有り難うございました。

  0→1→∞
Date: 2007-08-21 (Tue)
初めて物理の授業の時に教わって驚いた事。
二人で1キロで押し合えば、動かない。
しかし、壁や大樹を押しても動かなく、そしてその時には、やはり1キロの圧をかけられている、という事。
驚きであった。
別に樹はなにも抵抗していない。
ただ、根を張り、空に聳え、悠々と自らの本意で生きているだけなのに。

30年以上たっても不思議であったが、しかし人間関係に於いてはそういう事が日々ある。

人の世は、如何なる意味に於いても「一人芝居」である。
全て、自分の捉え方で世界を定め、その中でもがいている。
時には、中々やるな、と樹を押し続けることもあろう。

同時に、私たちは、自分の人生の「主人公」にも成り得る。
(それは先述した運命と同じ理由である)
決め打った自分の衣を脱ぎ、更なる衣を脱ぎつつ、その無限の階梯に現れる「道」に沿う時、真の意味の自由が現れる。
その時、押される抵抗は心地よいかもしれないし、雲の如く押されていないかもしれない。

野口晴哉師の言う「俺は此処に居る。動かない。」という俺は全てであり、故に一(オンリーワン)である。
(∞=1=0)

随所作主、立処皆真。(臨済)

  まるで
Date: 2007-08-17 (Fri)
昨日からの私の気持ちが反映しているかの如くの雷そして雨。
先日の青木先生のアフリカで一匹の虫が死ぬ事がどこかの国の津波にも繋がるという件(くだり)では無いが、外応は瞑想が深まる毎に直結する。
地震は余計であったが、長旅から横濱に戻り自宅に着くと、急に稲妻と雷音。
魂から心地好い。
これを待っていた。

一聲雷震清風起。(碧巌録)

  と或る宿にて。
Date: 2007-08-16 (Thu)
仲居さんとの話合う。
青江美奈やそれを呼んだ伊勢佐木町会長であった私の父の事も知っていた。箱根環翠楼の仲居さんの事も先輩だと言う。私の仕事の事にも興味を持ち話は弾む。
その間、仕事がままならない。
傍らには大間の鮪も神戸牛の五つ星も並ぶ。
…どうあって氣の製図を行なうのか、11年ぶりに真剣に求めたく、その上で出た旅であった。どうやら…と答の全部が出た最中の事であった。
何かに似ている。
…そう。
仲居さんは「氣道」に興味があるわけではない。
私に興味があるだけである。
私を通して「氣道」に興味を抱くが、おそらくはヨーガも整体も受けないだろう。
楽しきひとときであったが、私は、同じ道を求める人しか興味が無い。

前日記の青木宏之先生の事に絡めて言えば、氣の道の個人指導である整体は如何なる方にも適応できる一期一会の場である。
───そして、健康は無限に高められる。
だからこそ整体が存在している。

整体は、一生涯、無限に健康を求める者のためにのみ存在する。(少なくとも氣道の整体は)
そしてその時にこそ門開かる。

(そして指導をする者たちは、そのために常に体や心を整えんとする事のみを歓びとする。それ以外の事や方は仲居さんとなる。)

  瞑想家の集い
Date: 2007-08-05 (Sun)
久しぶりに近況報告的な日記になる。
(今日の講座出席者も帰られ、ここに向かう。
 最後までいた弟者は深いところでも分かっていることが確認でき、滝行先達としても素晴らしいと思った。ただ、最後に家族の方の先達ができるかどうかについて伝えるのを忘れてしまった。)

青木宏之先生の整体をさせて頂いた。
先日の、成瀬雅春先生の時とは異なり、氣のレベルに於いても、今日の先生に合うよう、いつもの皆さんにさせて頂くのと同様にキッチリと行わせて頂いた。
(ちなみに、私から整体をさせて頂けますか?とは言わない。
 そこは、プロ同士の、言葉の前の「あれ」があり、そしてまた、互いにプロとして尊重し合う「言葉」が顕れる。(そうしたとき、氣道や、クルシュナムルティではないが、美は作るのではなく、まさしく現れるのだな、と思う。))
───ちなみに、「あれ」を言葉化すると『禮(礼)』と言う。
 (話は違うが「氣道」を深めるため、「礼」の一つの結晶化(型)である「礼儀」を『茶道』を通して納めることが出来る。)

 成瀬先生と青木先生のお体の共通している部分は胸椎七番。肺呼吸ではない背後の息が深い。

───青木先生と同じ横濱に生まれ、徒歩十数分のところに先生がいらっしゃるのは嬉しいものであり、その感覚に甘えて過ごさせて戴いている事、そして整体時、
手を触れ始めた瞬間に仰った「あぁっ、何処かにいっちゃいそうだ…」という言葉を懐かしく思い出し眠ろう。
(ちなみに、先生は、確かに何処かに(色々なところに)行かれたご様子を、整体後、吉田先生と暫く観つつ心地よく愉氣させて戴いた。)

 弟者もおり、よき瞑想家の集いであった。

  運命〈5 最終〉 (4が過去ファイルに残ってなく申し訳ないですが。)
Date: 2007-08-01 (Wed)
 ところが、その六年後、久しぶりにクリシュナムルティの書に触れたことが契機となり、この十年間野口整体を学んでいた間には収まっていた幼き時からの「悟り願望」に再び火がついてしまった。
 そしてクリシュナムルティの具現版と言うデジタル内観に数年間、徹底的に勤しんだ。途中、狂人になる事も覚悟せざるを得ない状況にもなった。会員制度を廃止したのもその頃である。
 最後に死を覚悟したが、それでも努力は報われず、裳(も)抜けの殻の状態になったところで、悟ることを諦めた。
 …というか体力的にも心理的にも周囲の支えなく生活をする事が困難になり諦めざるを得なかった。
 かなりの憔悴があった。この数年間の努力が実らなかった事だけではなく、幼き時からの願いが今生では成し遂げられなかったという絶望があった。
 今思うと、一縷の望みを無意識的には託していたのかもしれないが、その直後、ある指導者の写真と言葉に惹かれ、徳島に訪れることになった。
 そこでの経緯は割愛するが、その期間が終え、横浜に帰るまでの間に「それ」は訪れた。
 (※そのため、その時の指導内容は全て現在の【心の学校】に取り入れている。)
 そこで得たものは、自分は無かったという事。そして、全てが自分であったという事。(それは万物に仏性有りという表現は甘いというか臭い。)
 何も無く(0)、完全に在った(1)。
 このように、表現するとまるで精神世界のような感じになってしまうので、ここまでに留める。(その意味では同じ禅語の不立文字はまた甘いが然りだ。)
 思考や身体の感覚が戻ってきてから思い出すのは、身体の分子というか成り立ちが変化してしまったという事。その後、数十分くらい経ってからは、頭頂部に100メートル位の大きな穴が空いてしまい、そこから尾骨までの垂直として眉間と後頭部間にも筒が出来てしまった事などがそれ以降も暫く続いた。
 帰りの飛行機の中では、今も言っている重力と思考と時間との関係などの関係を俯瞰していた。イルカの伝達方法以上の遠隔愉氣が分かったのも搭乗中だった。
 ともあれ、書き出せば切りがないが、「私としては」今までの人生の最も大きな目的が得られた旅であった。
 話を戻し、運命という視点で言えば、運命の原点に触れたのであった。
 運命はまさしく有り、そして同時に完全にそこから自由なのであった。
 先述の完全に無で有り、完全に在るという表現同様、矛盾した書き方であるが、これは実感であり、そうした或る意味禅問答のような矛盾的な表現でしか、言葉を通しては表現出来ないのではないか、とも思う。
 (また、今思うに、そのほうが言語として理解しにくい分、安全な表現方式なのかもしれない、とも感ずる。)
 
 矛盾という言葉を用いたが、後年、これこそ適切な言葉であるな、と思った。
 そのため、昨年のゴールデンウィークで行った【心の学校】ダイジェストでは、「どんな物でも通してしまう『矛』と、どんな物でも通さない『盾』」とが同時に存在することは有り得ない、という事が「矛盾」という言葉の原義であるが、皆さんはどう思いますか?」と訊ねたのであった。
 そして、それが両立するということを、ご自身の感覚として得て戴くのが、この【心の学校】なのである、と続けたのであった。
 
 感覚とは身体感覚の事である。
 身体感覚と言うと、この今も文章を書くために動かしている指のような氣道で言うところの物理的な身体の感覚を思い浮かべるが故に、少し制約されて感じられるかもしれないが、少なくとも私にとっては全ての感覚は身体感覚と言っていい。
 あ、誰かから電話がある時の感覚だ、と感ずるのや、これから行く宿はとても良い、という感覚は、物理的身体の領域から少し離れて感ずる。
 しかし、それでも或る意味、身体の感覚である。
 それ故、私は精神感覚と身体感覚とを敢えて分けないで紹介している。
 精神感覚であろうが、その感覚の占めるスペースが空間(それは物理的空間では無いかもしれないが)があり、感覚できる以上、身体感覚と呼びたい訳である。
 それは、身体と精神とを言葉で安易に分離せずキチンと感じて欲しいからであり、また、ただ感ずるということが如何に広がっており、そして同時に身体にも即しているかを知って欲しいからでもある。

 さて、後年、古武術家の甲野善紀氏の或る著作の中にあった、人間の運命は完璧に決まっていて同時に完璧に自由である、という文章に触れ、私は自身の体験より、「まさしく然り」と思った。
 甲野氏は、その説明として、アインシュタインの、光は粒子であり同時に波の性質を持つ、というくだりと無門慧開の「不落不昧、両来一賽、不昧不落、千錯萬錯」の引用から「因果の法則を超えられる、も因果の法則は昧まし消すことはできない、いわば丁半の賽の目が同時に出たようなもので、両者は別であるが同じであり、下手に解説を加えようとしたらなんと説いてもみな間違いである」と書いていた。
 「運命」のパラドキシカルな自然の二重性を体感したいとも述べていた事から、その頃には未だ甲野氏は知的結論はあっても体感していなかったのだろうが、後年、甲野氏を紹介する別著(題名は定かでは無い)で、名越康文という心理学者が甲野氏に講座後の質問時間で聞いたところ、甲野氏はキッとした顔で「それは理屈ではなく私の身体感覚によるものです。」というような言葉を述べたという事を読んだ。
 そのエピソード、そして「身体感覚」という言葉を使われる事に、私はまるで自身の体験を俯瞰するかの如くの大いなる安堵感を覚えたのであった。
 
 運命とは何か?
 ───それは、人として生きていく内に誰もが一度は考えた事のある事だろう。
 然し、今も生は流れる。

 人、生くるに非ず。
 自然、人を通して生くる。
 人の生くるは、自然の要求である。
 人の生を全うするは人の本分を尽くすことが故、人の生きんと努むるこそ自然なりたし。
 人の生きる目的は、自己に非ずして、自然に在る也。
 而して人の使命たるや。
 生きることにある也。
 
 人は生きんが為に生くる。
 生くること、即ち人の道にして人の目的也。
 人の生、人にあるに非ずして自然にある也。
 されど、人なくして何の自然ぞ。
 自然、人によりて生くる也。
 人、あるが故に自然あり。
 人に自然の力具わる。
 人、之を自覚して活用すべし。
 自然の力、自然にあるに非ず。
 人にこそある也。
 自力なく他力無し。
 他力なく自力無し。
 力は一也。
 之を自観すれば自力、之を他観すれば他力。
 他力、自力、別なるものに非ざる也。
 之、人の生くるや、自力に非ずして他力、他力に非ずして自力なれば也。

 されど
 人、自力を信ずべし。

─── 生、流れて曰く、続けて、次の言葉を運命の餞とせん。

「 見えるものは過ぎ去るものだ。
  心に在るものだけが永遠にある。

  更にもう一歩進む よりよくなるだけが人間の生きてゐるといふことだ
  よりよくならねは退歩する
  人間の世に止まるといふことはない
  開拓するのは自分の心だ
  豊かさも心にある 静けさも心にある
  天の治療家であることが ただ一つの道だ
  (注/その天の治療家のことを気道家、否、氣道指導者と言う)
  
  あらゆるものが生きてゐる。
  生きて動いてゐないものは全くない。
  
  動かされてゐるやうに見える総てのものでも動いてゐる。

  そして 自ら動いていると思われている総てのものも 実は動かされてゐる。

  そういう世の中に自分は住んでゐる。 」


 ────されど、俺の世界は俺の周囲を回る。
  
  実は、運命が定まっているからこそ、私たちは更に自由である。
 
 ────それは、私の尊愛する青木宏之師が、様々な思索でも行わなく最後に残されたテーマである、
    「幸せ」 という事である。

       「氣道」の定義を変え、再興した理由が其処に在る。

  (「運命」の途中に失礼します)
Date: 2007-07-21 (Sat)
昨日は、久しぶりに土地の御祓いを行い、そして芦屋にて「氣道」指導(整体)。
大地の禊ぎも整体も相手と技術が変わるだけで全く同質の「氣道」指導であると改めて感じた。土地の御祓いは大地への整体であり心理指導法でもある。
今日は、1400台に4台しかないという四葉のクローバーのタクシーにて建仁寺まで行く。
(偶然そうなったのだが、先日一昨日乗った運転手同様、確かに非常に運の開いている方であった。)
建仁寺は静謐でゆったりとした空気が流れ、正に氣道を行なうのに相応しい場であった。
美しい庭と爽やかな風、新しい畳の香も心地よい。
これから一年間(八ヶ月)かけて行なう連続講座は今始まったばかりである。(控室にて)

  (「運命」の途中に失礼します)
Date: 2007-07-19 (Thu)

 明後日から、初めての関西整体講座である。
 一年間かけてのものだが、建仁寺というと30年前のことを思い出す。
 その頃は、晴哉先生が高等講座でよく建仁寺にいらしていた。
 そして、今回も、その時の講座をよく知ってらっしゃる住職さんからの便宜で相成ったと、関西支部長の間口から伺う。
 
 東京道場の指導を終え、お気に入りの運転手にて着いた。
 (素晴らしい運転手で、前回は成瀬先生との対談の時にもお呼びした。とっておきの時には彼を呼ぶ。そしてまた彼は、信じられないほどのVIPばかりを乗せているのだが、まあ、彼の話は本当に尽きないのでここまでにしておくが、今日は、「ツキ」の話が東京駅まで続き、彼は「本当に私はツイているのです。実は◎◎◎」そして、今回も前回もそうであったので、最後に彼が言った言葉に則して(分かりにくくて申し訳ない)、
「ツクためのコツは同感です。そしてツイている時の過ごし方も私も今年で30年たって全く同感です。問題は、ツカない時の対処の仕方に、実は奥義がありますよね。」というところまで話して、にやりという笑い顔と共に東京駅に着いた。)
 
 戻るが、明後日の関西での【整体法初等講座】には、それこそ素晴らしい方が多くいらっしゃることを名簿により知った。
 気功のアユさん、その他大御所を初め、「福井自然体健康塾」主催のうささんもいらっしゃる。
 今までのまとめのような、ますます真剣な一年講座ではあるが、逆にますます和やかでもある。
  その意味では、初めての方は、ほんとうに最初で最後かもしれないチャンスだと思う。(まずこんなにケアされることは無いだろうし、実際、来年の予定は無い。)

 明後日からの、初めての関西整体講座がとても楽しみである。
 関東からも数名いらっしゃるとのこと、充実した、そして発展ある一年になると思う。

※なお、うささんの「福井自然体生活塾」のアドレスは以下の如し。(尊愛する「ほんとうに」素晴らしい方です。)
http://www.shizentai.com/

http://www.shizentai.com/


  明日は七夕。 (「運命」の途中に失礼します)
Date: 2007-07-06 (Fri)
 と或る方から先程メールがあった。その中の
「明日は七夕。 
 皆の夢がひとつになる日。」
 というフレーズに驚き、この日記に向かった次第である。

 私は、この十数年、なぜ七夕会にいらっしゃる人の願いは叶うのかな、と考えていた。
 そして、皆が純粋に心を開くと、そうした皆の氣がまとまって、そのために一人で短冊を流すより遥かに超えた効果が出るのだろう、と思っていた。 
(そのため、今回は、理解ある方は郵便でもOKとしたのであった。)

 しかし、その方の言葉は違う視点からのものであった。
 参加される皆の氣ではなく、皆の夢がと言う。
 例えて言えば、生が、生きると生かされているの統合であるように、そして、明日の会もまたそうなのだろう。

 その方の文章は続く。
「その夢が源とつながっていれば、きっと叶うのでしょう。というより、叶うのが自然の運びなのでしょう。
 けれども本来人はみんな源であるのだから、本当はどんな夢も叶ってしかるべきで、叶わない方が不自然なのでしょう。」

  然り。その言葉自体は上の言葉を補足するものであり、また私自身、最初の七夕会より以前から言い続けている言葉である。
  しかし同じ言葉でも前の言葉に続く形だと意味が違ってくる。

  願望実現(有為自然=1)と我只足知(無為自然=0)の統合が、人が夢に向かう際の理想的な姿だと思う。
  そして、これは自然に沿って生きるためにも大事な視点、感覚だろう。というか私たちの体は高潮〜低潮と、その両者の波を自然に織りなしている。
  この方の言葉には、それに繋がるところがある。
  私は、明日の七夕会を改めて作る気持ちになれた。
  そして、源が一つなら夢は元より一つである。

http://www.masuda-art.com/antshop.html


  運命とは何か?(続きでは非ずの続き。)
Date: 2007-06-25 (Mon)
 晴哉先生が大好きであったという道に行けた。
 昭和20年代のことであったが、その道は在った。
 
 インターネットでいくら調べても無い道であり、また、ここの近辺の情報さえも無く、何度もの信じられぬ偶然に導かれた。
 あまりにもの偶然は、続くと必然と感ずる。
 そして元よりそうであることに気付く時、道は拓かれている。

 今日泊まる宿に行き、導かれて話すと、その主人は晴哉先生の事を知っていた。190年間宿を引き継ぐ者であった。(素晴らしいご主人であった。大変お世話になった。この事はいつか改めて書きたい。)

 次は、久しぶりに「運命」の話の続きを書こう。
 

  余韻
Date: 2007-06-24 (Sun)
 昨夜(土曜深夜。なのにDate: 2007-06-24 (Sun)と表記されているのは何故だろう。すでに12時を回っていたのか?)、下の日記を書き、暫くたった後、玄関のピンポンで目が醒める。
 主張のある音。
 最初、真剣師(賭将棋を生業にしている者)の誰かと思い、すぐに玄関に行こうとするが、肉体がついていかないため、これでは無理と諦める。
 ピンポンが続く。
 これは真剣師ではない。
 私の気持ちを分かって欲しいと何とか部屋の明かりを消す。
 それでもピンポンが続く。
 …音色がどんどんと変わってくる。そしてまた音に込められた感情も変わってくる。
 妹か、それとも?もしかしたらNH師匠か…
 下に行けば楽しいのは分かっているが、さすがに連日のイベントそして東京道場の指導のあとだったため、会報原稿と下の日記を書くだけが精一杯で、残された会報校正も手付かずのままの現在の状況では階段を降りる力も残されていない。
 決死の覚悟で行ったにせよ、戻ることはままならないだろう。 明日の指導を受ける方々にも、そしてその方にも迷惑がかかる。
 ピンポンの音色や間隔、込められた想いはさらに変わる。
 心だけは玄関に行っているが、体動かず、祈るよりない。

 音は止み、寂となった。

 一般の常識なら違うのだろうが、心残りのまま床に着く。
 きっと翌朝、連絡があるかもしれない、と思いながらも、あの鳴り方では無いかもしれない、と思いつつ。

 果たして連絡は無く、未だどなたであったかは分からない。
 しかし、こうして今も残るあの音の醸す余韻を感ずる時、あの音を作った心は、きっと私の中で残り続けるのだろう。
 美しく、少し切ない音韻であった。 
 

  I love you.
Date: 2007-06-24 (Sun)

 嬉しき誕生会であった。
 
 直さんとツノ犬とのライヴより始まり、演奏者の私をして驚愕の深い演奏を味わった。生涯残るであろう。
 いらした方々には、それぞれ御礼を申し上げたつもりであるが、それでも言えなかったところが、今朝の整体前に幾つかどころにあり忸怩たる思いであった。
 ブログの放牧の方もそうだし、また、いらっしゃりたくてもいらっしゃれない方々も知っている。
 限りない感謝を、この場を借りてしたい。

 昨夜は大好きな弟妹まで深夜に来て、尊愛するkanatyともまた共演でき嬉しかった。
 そして昨日の日記に書いた如く、夕べは雨も止み今朝は晴天、そして猛暑であった。
 東京道場が涼しかったのは、その前に読んだ師の書の影響か。
 今後、この日記にも転載したく思う。その場合は、どなたの引用でも「」でくくると以前書いたが、まさしく同じと思うものについては、それもつけずに堂々と公開したい。…といっても全く同じ文章はあり得る筈も無く、またあり得たら嬉しい。
 まるで、以前の拙著「実践自然健康道」のようであるが、現在の私は、それから21年間、懸命に旅をした違う自分であり、そしてまた、それさえも或る意味白紙にし初心に帰りたし。
 而して思うのは、この徒然の日記が皆の参考になることのみを祈ってという事。
 識者、了諾の程。
 
 今日は、横浜道場と同じ誕生日の方もいらした。
 「氣道」協会の「会員用掲示板」に以前書いていらした医学博士のSさんもいらした。(その次の方も医師であったのは偶然なのだろうか。)
 カナエさんや大北さんと出会えたのもリストカットの方や腎臓ガンの方との出会いも嬉し。

 
 息一つ。

 ただそれだけ。 それが嬉し。

 整体の嬉しさは、以前に纏めて、この日記に書いたのでここまでにするが、今日よりカルテのつけ方を変えた。
 それにより、指導前と後でカルテを観る手間となった。
 しかし、それが良い。(少なくとも現在の私にとっては)
 
 数日前、弟子のYさんとの稽古があった。
 「遠隔操法」の稽古をという希望であった。
 見事であった。
 視覚、触覚と分けての稽古であり、また実際の体との照らし合わせなどをしたが、全て、細かいところまでも合致し、指導者(プロ)として信頼できる感覚である事を確認出来た。
 なのに、なぜ私たちは「氣道」の指導の際に、わざわざ触れるのか?
 
 彼女との稽古の答えはそれであった。
    (ぜひ、皆さん彼女の整体を受けて戴きたい。)

 カルテは勝手に二度手間としたが、本来の治療というもののありかの話が昨日のテーマでもあったのは面白い。
 そして、それは全ての芸術に敷衍(ふえん)することでもあると再確認できた日でもある。

 弟者には、13周年祭の最後前の時間で掌を観て「あとで、とっておきの事を…」と申し上げたのであるが、その「あと」を行わなかったことに今朝気付いて目が覚める。
 
 それは16年前の事。
 氣道の個人指導(=整体)を受けられている方々のカルテを見、それぞれの方を想い、瞑想統一していた後、目を空けると目の前が金粉ばかりであった。
 かなりの量であったので、植木にゴソッとあげた。
 こういうものは時間と共に消えるらしいが、その後、半年以上は残っていた。
 
 今考えれば、売ればお金になったのかもしれないが、その後も金粉を出したく同じ事を試みた事はあったが、そういう時は出ない。
 しかし、先日kanatyとの時は掌の金以上の粉を確認させてもらった。
 純粋な愉氣における一つの試金石にはなるのかもしれない。

 金も銀も白金も一つの流通の結果である。
 お金も健康も斯くの如し。
 
 大事なのは、自分の息一つになること。

 これを自然の道、氣道と言うが、その階梯に健康ということが浮上する。
 
 健康であれば、自然で、そして豊かな人生となる。
 そうでならなければ、健康では無い。
 
 苦楽一。
 そして1=0。
 
 それを求める道が、真の意味での自然な道ではないだろうか。


 果たして今日、晴れ、野の口ならずとも潤う日であった。


  横浜道場誕生日。
Date: 2007-06-22 (Fri)
 今日は横浜道場の誕生日である。
 氣学の井上象英先生にこの日が最も良いと言われ、13年前の今日、道場開きを行った。
 ちょうど干支が一巡した。

 その日もそうであったが、私は極端な晴男なのであるのに、何故かこの日は雨の事が多い。
 今日は尊愛する師の命日でもある。
 私の誕生日は心理学者のユングの亡くなった日と全く同日であることを幼き時から家庭教師の麻原雄先生から聞かされていたが(先生はその頃東海大学でユング心理学を講義していらした)、氣道で言う0、宇宙の息、いのち、はユングの言う集合的無意識を発展させたものに思われてならない。
 そしてまた矜恃ではあるが、先述の師の遺志を引き継ぐつもりで横浜道場を作った。
 そう言えば先生は雨男であった。
 そして、この日は夜から、あるいは翌朝から晴れる事も多い。
 
 野の口は晴れ、長い谷川は淨く潤う哉。

  奥義言わずまま。
Date: 2007-06-20 (Wed)
 
 楽しかった。
 
 ほんとうの奥義は、今、そう其処にある調べ。

 なので、今日はいらしてくださった○○さん初めとするVIP会議であったが、

 ほんとうに言いたいことは、○○さんにも言うはずであったのに言えないまま。

 (東京道場の指導(○○さんも)〜場所を移し〜のまま今。)

 ○○さん、覚えていますか? 
 カウンターの時に色々と言ったこと。
 
 それは、「どうやったら、相手のことが分かるか」の究極の答えでもあります。
 そしてまた、相手のことだけでなく、どうやったら、究極にツクか…の答えと同じでもありました。
 
 「氣道」協会の会員の方は、テキストで最近書いていますが、それの奥義を、でした。

 その奥義は目でも無い、耳でも無い、肌でも無い、鼻でも無い。
 それを今日伝えられるかな、と思ったのですが、また後日。

 9月17日には、その奥義が「自ずと分かる」ような講座が行なわれると言う。

 伺いたし!

 

  補足 1 (本来なら「1」と「2」が逆)
Date: 2007-06-19 (Tue)
 下の日記に「自分がいなくなった時の状況を、基台として」と書いたことは、補足2でも記した。

 その時、以前、あるホームページで投稿をした文章があることを思い出し、
 その文章は、随分前のものであるが、いつか日記にも掲げたいと思っていたので、以下掲げることにした。

或る方(三脈を見るという題名)
 「昨日本屋に立ち寄った際に、古武道の本で事前に危険を察知する方法で
「三脈を見る」という方法を立ち読みで知りました。

左右の首筋(2点)と手首の計3点を同時に脈拍を測ります。
通常時であれば3点が同時に脈を打つが、体(潜在意識)が危険を察知するとこれらが同時で無くなる事から事前に危機を知るいう方法です。

*これを知っていた武士は、対戦前に脈がずれる時は理由を付けて対戦を拒んだりしたそうです。

【脈の取り方】
片方の手の親指と人差し指で首筋を軽く挟んで二つの脈を感じ、
残りの手でその押さえた手の脈を見るようにします。

その時は自分で計ってみて、「確かに同時だな〜」と思った後、「でもこれがずれることなんてあるのか?」と不思議に思っていました。
心臓からの距離がそんなに変わるわけでもないのに・・・

そして今日、友人と遊ぶ約束をしていました。
車で千葉から首都高を抜けて埼玉の友人宅まで向かうのですが、家の前で急に出てきた車とニアミスするなどいやな感じがしていたため、試しに3つの脈を計ってみると手首と首筋の脈がずれている!

普段より慎重に運転をしながら一度会社により、適当に残った仕事を片付けていました。
(待ち合わせ予定までの時間つぶしです)
するとその友人からメールが入り、仕事のトラブル(障害対応)で遊べなくなったとの連絡が入ったのです。

残念ながらも何となくほっとして、また三脈を計ってみるとズレは直り、同時に脈を打っていました。

もちろんそのまま遊びに行っていたからといって、どうなったかは知る由もありません。
ただ、確かに会社に行く前は脈がずれ、中止が決まった後は脈が元に(同時に)戻った事は事実でした。

自分と友人の潜在意識が危険を回避したのかも知れませんね・・・

昨日立ち寄った本屋で偶然読んだ事が起こった事といい、投稿している今でも不思議な感じがします。

以上、長文失礼しました

(この投稿を読み、私は投稿したくなってしまったのであった。
 まず、他のホームページに書き込みはしないのに。
 なお、この下の書き込みの前に、ある方(仮にAと呼ぼう)からの書き込みがあった。)

私→
さすがAさん。あと赤本(実際的看護の秘訣←80年以上の医療関係のベストセラー。東洋医学関係者にとってはバイブルの本。)に載っている織田信長が二回山中で窮地を脱した「死脈」の観方も同様です。

★なお三脈は地震が起きた時にいつも活用していますが、かなりその時の精神状態によっても左右されますので、一度、一瞬でも気息を整えてから調べないと正確には出ません。
 その意味では、事故死であろうが必ず4日前に現れる腹部禁点の硬結(剣状突起の指二本分下)のほうが確実で、
実際、野口晴哉先生も、空襲の時、には三脈ではなく禁点を触れながら、硬結が出そうになる方向を避けて皆を誘導して逃げたそうです。

 両方とも知っておけば万全(?)でしょうが、禁点に硬結がはっきり出た場合は必ず死にますので、(そのため今日もそうでしたが瀕死の急患の場合は野口整体の場合、その場処を必ず先に観ます)三脈のほうが活用範囲が広いと思います。
 〈ポイントは先述したようにそうした臨時の時に瞬時に気息を整えられるかどうかだと思います。〉

※なお、すでに生じた腹部の禁点に愉氣(氣を輸ること)をしても野口晴哉師が言うようにかえって早く逝ってしまいます。
(私の祖母もそうでした。長年看病していた母が見つけたのですが、生じて三日後に亡くなったので、親戚一同がいなくなった後に言いました。
「お母さん。禁点に愉氣しただろう。」
 母は途端に青ざめ、「だって、これさえ無くなれば、お婆ちゃんは…」と泣き崩れました。
 その姿を見て私は、「お母さん、命というのは厳粛なもので、人が介入するとかえって…」と言いかけ、しかし、私自身が目の前の母に禁点が出来た時のことを想い、口を噤まざるを得ませんでした。 )

  補足2
Date: 2007-06-19 (Tue)
 前回の日記を読むと、「注意しなければいけない点が三つほどある。」と書きながら、そのままになっていた。
 この点については、後日、機会があればしよう。
 また同日の前の日記では「自分がいなくなった時の状況」というフレーズを記した。
 そのことが、この数日間気になっていたが、読み返し、分かる人には分かるだろう、に留めたい。
 ならば、どうやったら分かるのか?
 …と言う人もいるだろうが、答えはいつもの如し。
 「氣道」を行なえばいい。
 具体的には…と言われれば、瞑想しかない。
 それをヨガと言い、それを「自動運動」とも言うが、更なる具体的な行法となるとそれらになる。

 常に、分かる人には分かり、分からない人には分からせられにくい。
 先日、「氣道」ネットワーキングを行なった。
 これは、「いのち」の道、「自然」の道にご理解ある方に、多方面から講師を呼んでいる企画だ。
 岡島瑞徳先生(呼吸法)、成瀬雅春先生(ヨガ)、澤博幸先生(歯科医)、藤原よしと先生(マイナスイオン)、椋木修三先生(願望実現)、その他多数の、その分野のオーソリティの方々をお呼びした。
 第10回目は、「氣道」の考えを、住まいに置き換えたら…
 と、一休建築士の伊藤牧子さんが『住まいの学校』を行なってくれた。(秋にも行なってくれる。)

 ラジオから依頼が来る。
 参加者の中に、あるラジオ局の方がいらっしゃったのである。
 彼女には、私のようにラジオでふざけてはいけない、とお伝えしたが、まるで自分のことのようにとても嬉しい。
 20年以上の付き合い故、彼女のことはよく知っているつもりだが、彼女は人には言わなくとも、自動運動を行なっており、また瞑想は現地(現実生活)でもいっている氣道道だ。
 彼女のようなパワフルな方は他にもいるが、現実生活が違うのは、何らかのアクセスがあった時には、必ず返信をする、ということ。
 これは、覚えて欲しい。
 (特に、今はメールがはやっているが、そして、一番最初は、どっちが出したのかも忘れ、私の言う「メールごっこ」という、以前の長電話状態と同じことがあるが、逆にスルーする人もいる。
  彼女はスルーを絶対しない。 何かを、たった一つでも戴いたら、必ず、すぐにメールあるいは他の手段で連絡をくれる。)
 この日記を通して、
メールはすぐに返信を、あるいは一つでも戴いたらすぐに連絡を!
 …ということを言いたいのではない。

 重要なのは、氣である。

 イルカではないが、それは、何も言わない間にすぐに伝わるし、ましてメールのやりとりは、なぜか文章以外の「氣」が非常に伝わる。
 私たちは、イルカに戻るためにメールを行なっているのか…と思うぐらいに、メールが帰って来るまでの間は、テレパシーが増幅される。

  演技無し。
Date: 2007-06-17 (Sun)
 
 今日は楽しかった。
 スタッフのまっちゃんから、昨日の食の学校のあとの経緯を聴いたあと、今日の怒濤のような講座が始まる。
 鼻をほじりながらの私の出番は午後であったが、皆の感性は素晴らしかった。
 講座中も申し上げたが、なぜここまでというぐらいで、カリキャラムをどんどんと変えた次第。
 「整体法修得一年コース」という初等講座は、15年温めていた講座であるが、だからこそカリキュラムもある程度決めていたのであるが、今日は、皆の「手」の出来具合(初等講座は「手」を作るが一番の目的である)が素晴らしく、カリキュラムも変更となった。
 (本当は、後半は頭部操法であったが、それは次回)

 氣道ブログ(アドレスはhttp://npo-kido.com/index.htmlの左袖下にある)の人達と一献傾けていた。
 珍しく他所だが、それも、「自然掲示板」http://8003.teacup.com/joho1/bbsにちょうど書いた焼鳥屋。
 しかも、そこに行った方も思えば「自然掲示板」で書いた中里温泉に行かれた方々。
 (アップロードした日に、皆が訪れたのであった。)

 そうしたシンクロ(ありえない偶然)が起こるのが当たり前になって来た時に、私が以前思っていたことがある。
 (ここでは公開はしないが、いずれまた。)
 注意しなければいけない点が三つほどある。
 しかし、野口晴哉やシュタイナー、あるいはクリシュナムルティなどの著作を肌心地よく味わっている方は別である。

 楽しく別れた。

  演技と真実───今を楽しむ。
Date: 2007-06-17 (Sun)
 今日は楽しかった。
 
 皆、今を楽しもうとはするが、その今は結局思考の中の今だ。
 過ぎ行く今を味わい尽くせば瞑想になってしまうのは、いつも言っているが如くであるが、
 
 生活の中で今を大事にするためには、一度、自分を離れることも必要なのではないだろうか。

 少なくともこの数年間、自分がいなくなった時の状況を、基台として行動している。
 
 まだ一挙手一投足までは至っていないが、すると、ほとんどの事が自由になる。
 これは【心の学校】や、深い自動運動、瞑想のあとに訪れる感覚である。

 ただ、哀しいのは、ごく僅かな人を除き、ほとんどの人間が言葉を話す幽霊としか思えなくなってしまうことである。

  すばらしい一日。
Date: 2007-06-16 (Sat)

 今、前日からのコメントで、
 明日の講師が午前中いらっしゃるので別場所に宿泊〜山下公園〜いつものゲーテ座近辺探索〜戻り珈琲を入れる〜ツノ犬のドラムサークル〜その後のドラムサークル〜シュタイナーの話〜
 とか、上記を特に、後半、ツノ犬が二回目のドラムサークルを二階で行ったあとに(その時には芝さんの演舞もあった)、その後、今回の滝行のスケジュールでのとっておきの話など、したあと、
 もう一度、ツノ犬が戻ってきて…そして

 ────という文章を上記の5倍くらい、今日の経緯として後半を書いていたのであるが、またまた一瞬で消えてしまった。

 今、食の学校がこのように、という過程は分かるわけはないのに、ツノ犬のドラムサークル參加者は、ずっとその無意識的意識を運んでいて、そして予定調和のようになっていく過程は凄まじくすばらしい。
 (これもまた書いていたことであった。
  親指シフト入力というのは、一文字消すキーと全文削除キーとが隣り合わせなので、右手の小指がちょっと外に5oいたずらすると全てが消えてしまうのである。)


 今日の日が、皆にとって素晴らしい日々であったら、誕生日のあと、そしてこの数年間、死ななくて良かったな、と思う。

  嬉しき邂逅 A
Date: 2007-06-11 (Mon)
 またまた「氣道」協会のブログhttp://plaza.rakuten.co.jp/bp0502/bbs/を見た。
 下の「敬意」でも書いたが、またまた「然り」の嬉しい文があった。

「(題名)  整体ーきのう嬉しかったこと

 整体は瞑想になる、と確認できたこと。
初めてそれが起こった時は呆然として、今起こったことは何だったのかよく分からなかった。
それが、その中に入りながらも、これがそうであるとわかる自分になっていたのは、大きな変化であり喜び。

初めの頃、整体は私にとって、体の調子を整えるという意味合いのものだった。
継続してゆくにつれ、体の調子が良くなるだけでなく、体の中を通る氣の通り道がだんだんと太くなる感じがしていた。
それが、この頃は、「あなたとわたし」で一瞬にして深いところへ潜ってゆく感じにもなってきている。
それは音も動きもすべて止まったようなシーンとした心地よい静寂の世界。
それが、「わたし」の独りよがりではなく「あなた」も同じ様に感じている、というところに、整体が瞑想になる醍醐味があるのかもしれない。
人と人との間でこのようなことが起こるなんて。
これはお互いが精進していれば、もっと進化してゆくものなのだろう。
そうしてやがて、「あなたとわたし」ではなく、「あなた」も「わたし」もそれぞれが大いなるものと繋がることができるようになるのだろう。
整体は、肉体を持った者同士が、その肉体を使いながら、それを超えたところで結びつくことを会得する稽古の場であるのかもしれない。 (2007.06.10 21:50:20) 」

 この事は、いつも私が言っていることであるが、それを受けられている方からも仰って下さるのは、私こそとても嬉しい。
 その嬉しさは、投稿者への素晴らしい感性に対してもである。

 まさしく整体は斯くあるべし、と思う。
 
 そしてまた、そのように整体を活用して欲しく皆にも願う。


 偶然、それこそが、昨日の成瀬雅春先生との対談のテーマでもあった。

 整体協会との違いは? 氣道とは? 氣道の個人指導と言う『整体』とは?
 …という司会者の嬉しい質問に応えながら、それこそ成瀬先生に実際に見て体験して戴き伺いたい事であったたな、と思っていた。
 ちなみに、それに対する先生の言葉も見事であった。
 下に掲げたその後の酒席での事も含め、それらは全て実現した。
  
 僣越な言葉であるが、やはり正しく真のヨーガは「氣の道」であった。
 (先生からすると、氣道もヨーガと認めよう、と仰ってくれるの「かも」しれないが、氣道(氣の道)という定義は、もっと広義故、その点は、先生は勿論のこと皆さんご理解して戴ける事と思う。)

 先のブログは、その後別の方の文章が続く。

「 (題名)  大いなるもの

 それはお互いのいのちとまっすぐ交流していく聖なる場なのだと思う。
それはきっと舞台上の演奏にも繋がるもの。

大いなるものと繋がったとき、「あなた」と「わたし」の境界線はなくなる。それは言葉、肉体、事柄など、そういうすべての現実的なレベルをスポンと超えた、深く、本質的なレベル。
私たちは、そこから来てそこへ戻っていくのかも知れない、と思わされる根源的なところ。

でも一方、肉体を持って産まれたからこそ、それを感じ、そこへ行きつく(戻る)美しい過程の旅をすることができるんだろうな。
そこに私たちの生きる、ひとつの意味があるのかも知れないと思います。 (2007.06.11 17:09:25) 」

 まさしく、いつも私が日々講座で言っている事だ。
 (貴方は長谷川淨潤?と伺いたい程に、そのままの文章だ。)
 それまたシンクロと呼べるのかどうかは分からないが、シンクロ以上の喜びを感じる。
 
 きっと成瀬先生もそうであろう。
 私たちが捧げている生、関わりに於いて、このように伝わっていく事にしかグルとしての浮世での喜びは得難いと思う。

 そして、その喜びの共感は、前者の投稿をして下さった方同様、氣の道の深まり(対談でも言った氣道の一つの方向である瞑想の深まり)でしか実現し得ないだろう。

 (そのための方法論は私も提示させて戴いているが、昨日の対談同様、実際にその人の氣と直接触れ合うしかない面もあるかもしれない。カタカムナ同様、「氣」のレベルでしか伝わらないものがある。
 だからこそ、個人指導(整体)を「氣道」では重要視する。
 もちろん先述のように受け手の感性によって伝わり方は異なるが、そのため(感性を磨くため)の修養の場としても整体は存在する。)

 そうした理解をして下さる事はほんとうに嬉しい。 

  嬉しき邂逅   
Date: 2007-06-10 (Sun)
 先程、成瀬先生との対談から戻る。
 先生のお誘いで、鬼門の酒席にまで行く。
 (なぜ酒席が鬼門なのかの話は対談で話したので割愛。)
 今回の対談では、様々な話の中、個人的には青木宏之先生と成瀬先生との対談の話が酒席で聞けて面白かった。

 また、先生のさらに冴え渡る「意識(時間)の細かな分断の仕方と配り方」(←この表現は私の言葉である)、
は素晴らしかった。
 (これこそが、今回の私の一番の収穫である。)

 その他、酒席では、スタッフも初めての、ほんとうにとっておきの話も5つほどを伺えた。
 (いつもは一つもないのだそうだ。そしてまた、私自身、同席させて戴いて本当に感謝している。今もって、あの「手つき」は忘れられない。二回目に確かなことを言ったのにな…、は話しが別。)

 また更には、野口整体に詳しい方がいらっしゃり、先生の体癖は何かということで、
 先生自らうつ伏せになり、(更には位置までも変えて)
お体に触れさせて戴けたのは、初めての事であり、22年前の豪徳寺で先生に触れていらした岡島先生でも数十秒であったことを思うと、本当に感謝に堪えない。

 観察〜操法のあと、敢えて途中で中断し(ジャズで言えばbaseソロの辺りで)、愉氣の3種類をそれぞれ味わって戴き、感想を戴いたのも、「成瀬先生だったらどう仰るのだろうか?」と、求めていた20年越しの貴重な経験であった。
 
 また講演中に、成瀬先生の愉氣を受けられたのも望外の貴重な体験であった。
  酒席では先生にも直接申し上げたように、まるで自分の掌のようであった。
  いつも私は自分がもう一人いて整体をしてくれたら、と願うのであるが、そしてそれを模擬体験するのであるが、まさしくそのような感じで、生まれて初めてなのにとても懐かしい感覚であった。

 気道協会からの方は数名の參加者であったが、雨天なのに多くの方々が、しかも、ご理解して下さっていらっしゃる方ばかりだったのが嬉しかった。

 ともあれ、成瀬雅春先生は、おそらくは(少なくとも私が思うには、ヨガナンダ亡き後)、世界で最も優れたヨーギ(ヨーガ行者)であり、
 しかも、一般にも書を出したり(20年前の成瀬先生を知っている私には信じられないことであったが、出し始めてから、その文章の書き方からまさしく!と思ったのであった)、また一般にもご指導をされていらっしゃる。
 その伝え方も「適切」過ぎるほどだと、ずっと感じている。

 この文章を読んで、少しでも触発(?)された方は、ぜひ一度、成瀬先生のヨーガ教室を体験して戴けたらと思う。
 下をクリックして戴きたい。

http://www.naruse-yoga.com/


★なお、昨日書いた「妹」の文章を今朝消した。
 その直後、今朝も、妹からメールがあった。
 昨日の文章を消した以上、ここでは言い難いが、ともあれ、今日も妹は生きている。
 そして生は美しい。純粋だからこそ美しい。 …とだけ付記させて欲しい。

  敬意
Date: 2007-06-08 (Fri)
 氣道協会の「会員用掲示板」を読み、そこに書いて下さった黒坂さんという方の文章を読んで、すぐに書いたと文章をそのまま掲げる。
 (その掲示板では、他の投稿者もいらっしゃり、そのまま投稿出来なかった故。
  なお「 」の文章は今後とも引用文章として捉えて欲しい。以前にその事については書いたかもしれないが)


 「いったい、何処から愉氣はやってくるのでしょうか?

  私をして、愉氣は、私という存在を媒介としてやってきます。
  
  しかし、なよなよとしては媒介となれないのです。
  きちんとしっかりとしながら、というか、元氣でありつつ、一つ抜けたときに、
   「それ」は、やってくるのです。
 (後注/肚がありつつ水落が抜けた時にと「言う」のはたやすいが、それは試金石であって、実際には違うと言いたいまでのそれまでの様々な過程があります。)


  「それ」がやってきたとき、愉氣がきます。

  「それ」はじぶんが無意識と繋がるときに訪れる、ひとつの促しです。

  「それ」こそ氣道で言う氣に感ずる時の言葉です。
  大氣であり在氣であり、タオ(道)であり、0であり1である、宇宙の息に、触れた時に感ずる一つの促しの言葉です。

 今日、この言葉を削除せず日記に書こうと思ったのは、ブログにあった一つの言葉がきっかけであった。

 「いのちに真剣に向き合っている人の姿は神聖だし
  その場も神聖なものになる

  あることにいのちを懸けるということも然り
  その瞬間が尊いものになる

  そんないのちに対する敬意を忘れずにいたい。」

 
  美しい言葉だと思う。


 ───「祕さずにも花」

 …というか、まだ蕾故の美しさが尊い。

  美しく生きよう。
Date: 2007-06-08 (Fri)
 何事があっても、自分の進む道は明確にしなくてはならないのか、と痛く味わせられた誕生日であった。
 
 「氣道」(=氣の道=自然の道)で言うように、そしてクリシュナムルティの言うように、貴女がそう目指すのなら、
 「美しく生きなさい。」

 それは動作を美しくするという事では無いのは勿論だ。
 しかし、発する言葉は選ぶ必要があるだろう。
 日本人には言霊という、言葉に魂があるという概念が古くからあるが、口から出る言葉が「美」を醸すには、
 起因となる言葉を発する以前の考え方、感じ方、感情全てを変えねばならない。
 だからこそ、「氣道」を、私はまだ協会として伝えている。
 (私が最近D先生の許から今離れているのも同じ理由であった。)

 また、言っていることと行なっていることが不一致ではいけない。
 その点、私は、「こんなにも一致した人は見たことない」と言われるが、それは私自身の現在が、たかが知れないことしか言っていないのかもしれない。
 (以前には、逆のことを言われて離れたスタッフもいらしたが、その後、逆に一致し過ぎててで離れてしまったスタッフもいらしたが、そこには、個人の色眼鏡という氣道で良く言う「観念」を見据えなければならないだろう。
  話を戻す。)

  
 芳しい(かぐわしい)言葉、それ以前の意識を求め、それにより、美しく生きるには、まず第一歩は身体感覚を変えなければならないだろう。

 美しさを求めれば、必ずそこから離れる。
 「祕すれば花」という世阿弥の言葉の真意は其処では無かったか。
 美は、常に其処にある。
 そして此処にもあろう。
 しかし、美を求めた時、美は消える。
 
 美しく生きよう。
 大いなる俗心と、止むに止まれぬ要求と共に。

 ──而して、生きていることはそのまま美しい。

  関西講座を終えて。 (+稽古会を終えて)
Date: 2007-06-01 (Fri)
 この日記に向かうのも久しぶりだ。
 先程、スタッフが帰られ、右からは、窓から入ってくる初夏の爽やかな風と共に、左からは凍って霜降りのジョッキの恵比寿黄金色と共に、そして音楽は明後日の準備のため前回の河崎さんとのデュオを再確認。
 (ちなみに、明後日は関内エアジンにて、河崎さん(大変素晴らしいベーシスト)と2カ月ぶりにデュオ。
  互いに名前がジュンなので、そしてまた同じ6月生まれなので、明後日は「June&Jun」という題名での『誕生日ライヴ』を行うのである。
  日曜昼間(午後3時半〜6時)であるし、しかも完全即興演奏なのでどんな音楽が生まれるかは分かりませんが、ご興味あれば、ぜひいらして下さいませ。
  ※エアジン→ http://www.airegin.jp/ )

 目を下に向けると以前の投稿が24日なので、その翌昼から関西に行っていた事になる。
 氣道協会の「会員用掲示板」にも書いたが、その後の潛在意識教育講座「心を育てる」では、主催者である気功協会の天野さんご夫妻、そして連日一緒に講座を創ってくれた參加者の皆さんには、心から感謝したい。
 皆さん、お疲れさまでした。そしてまた有り難うございました。
(なお、「会員用掲示板」は氣道協会会員でないと見れないが、同日の様子は、気功協会のホームページhttp://npo-kikou.cocolog-nifty.com/staff_diary/2007/05/post_7c48.htmlや、同胞であり盟友である福井のうささんのホームページhttp://plaza.rakuten.co.jp/shizen000/diary/200705280000/でも見れるので、宜しければどうぞ。)

 その後、スタッフは有馬に湯治研鑚。私を含め指導があって離れたスタッフもいたが、皆、懸命に幾つもの金泉と銀泉の身心への影響を互いに観察し合っていた。
 そうして今日を迎え、今朝は久しぶりの横浜道場でのヨーガそして氣道の個人指導(=整体)。
 その間、寸暇を惜しんで行っていたことがある。
 それは、空中浮揚で有名なヨーガ行者、成瀬雅春の全著作&DVDを観る事。
…というのは、10日に対談があるため。(対談名は「氣道とヨーガ」)
 成瀬先生には以前より大変お世話になり、また可愛がって戴いたので、そしてまた横浜道場でも、このところ復活している「氣道」ネットワークとして『ヨーガの基本』という講座もして下さったので、対談という形ではあるが、暫くぶりにお会いさせて戴き、ご挨拶と御礼ができれば(あわよくば指導を仰げれば…という感じなのであるが、それでも20年近くの月日がたっているので、先生に失礼の当たらないよう、先生の著作を再読しているという次第なのである。
 ともかくそういう意味で緊張半分、久しぶりにお会いできる嬉しさ半分なのであるが、これまたご興味のある方は、03-5789-4184(成瀬ヨーガグループ)までご連絡下さい。
 なおチラシでは「生涯役立つ健康法をお伝えする」と書いてしまったので特に初心者の方には役立つと思う。
 場所は五反田、午後3時半からです。私は緊張の時間ですが、これまたご興味があれば、というか成瀬先生に一度もお会いしていない方は、これを機会にお会いされては、と思います。
(なおGoogleで「成瀬ヨーガグループ」と検索しても出ます)
 
 そして、今日だけは寸暇を惜しみ明日の準備。
 明日は午後5時から稽古会がある。稽古会というのはスタッフだけで行っていたものを、一般公開したもの。
 毎月は行えていなく、明日は久しぶりなのであるが、その内容は、妹と約束していたもの。
 妹はメールで「エーテルとかアストラルとか興味あるのだけど、そんな講座って無いよね…。稽古会の内容なのかしら…。」なんてことを(注/文章は変えています)言っていたので、来月は無理だけど再来月には…ということで企画した。
 (妹ついでに言えば、今日は久しぶりにもう一人の妹からもFAXがあった。そしてまたそれついでに言えば、突然の玄関のベルの音と共に、エアジンでの次のライヴはいつ?と、懐かしきコーちゃん(船見晃洋氏)が数年ぶりに突然来訪されたのであった。 話を戻す。)
 協会会員の方はご存じのように、内容は「今回は、感覚開発訓練として、様々な「氣」(氣のからだ)を感じる練習をして」、「エーテル体、アストラル体、コーザル体の知覚」と共に「それぞれの氣の身体を修正する方法。(および、それぞれに影響を与える「愉氣」の方法。)」であるが、
 (詳しくは、Googleにて氣道で検索して、そこから「今月の特別講座」をクリックして下さい。今、この原稿を投稿したらこれ以上ホームページアドレスを記載できないようなので。(そのため成瀬先生のアドレスも記載できなかった)
  あるいは、電話(045−261−3300)まで遠慮なくかけてください。  …で、話を続ける。)

 そのための準備を、ずっと行っている。
 30年ぶりに読む本も多く、自分がアンダーラインを引いた上に、麻原先生(私の恩師)がコメントを載せるなどの本もあった。
 (それぞれの本は明日の講座の時に皆さんにお見せする予定。)
 殆どの本が30年ぶりなので、しかもシュタイナーをはじめ、私より遥かに感覚が優れている方の本ばかりなので、30年前よりは理解できるところが多くなったとはいっても、今だに身体感覚として確かめられない点が多く、少し休憩を取りたく、この日記に向かったのであった。)
 
 左からの動きは多く繰り返されていたが、右からの風の囁きは静かになった。
 心地よい夜であるが、こうしていても色々な呼び声が伝わってくる。
 
 明日の妹への講座は、そうした呼び声を感覚する講座に出来たら…と思っている。

      ………………………………………………………

 そして今、稽古会が終えたところ。
 わざわざ高槻(京都)からいらした方もおり、和みながらも充実した一時であった。
 「ぜひ、またこのような講座をたくさん行って欲しい」という空さんの声も嬉しかった。
 行った内容は以下の如し。

・氣の体とは?
・物質的(物理的)身体とエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体、カラーナ体とは?
・クンダリーニ・ヨーガの呼吸法2種類による掌で瞬時に磁力的氣(エーテル)を高めるテクニックの実習。
・エーテルの知覚実習。
・エーテル(磁力的氣)を高める合掌行氣の指のずらし方。
・野口晴哉師が、ここぞという時に用いた愉氣前の技術。
・故山田孝夫氏(瞑想家)に教わった自分の体の周囲にあるエーテル体領域を知覚する実習。
・エーテル体領域の部分別の濃さ薄さとその部位の状態との関係について。
・7段階ある相手のアストラル体領域を知覚する実習。
・アストラル体領域を変化させる実習。
・感覚的身体(=内体=からだ=潛在意識)を大きくする法。(仏陀のアストラル体の大きさ。更には地球〜宇宙レベルの拡がりを持つ法)
・感覚的身体とエーテル体、アストラル体、カラーナの関係。さらには集合的無意識との関係。
・無意識を意識化することは、それぞれの感覚的身体を知覚、かつ運用することによって可能になる。
・エーテル的愉氣の実習とその感覚演習。
・エーテル的愉氣と「熱感」との関係について。
・エーテル体の速度とエーテル的愉氣の感応速度について。
・アストラル体を変化させる愉氣の手法と特殊愉氣(菅野満氏の行うエナジーリファイン)の手法。
・目による愉氣とアストラル体との関係。
・アストラル的愉氣の感応速度について。
・街中でアストラルを感じる演習、様々の紹介。
・アストラル体を感じてもその中にエーテル体もカラーナ体も含まれている。
 それ故、全てを含めて「氣」と呼称しても良いが、それぞれを知覚した上で氣と纏めるのと、分からずに氣と一言で言うのは違う。
・エーテル、アストラルが純化されるとカラーナを知覚しやすい。
・物理的身体とエーテル体、アストラル体、カラーナとの連動。そのズレがある事によって生命が運ばれている。ズレが完全に無くなると死ぬ。ズレ過ぎるた場合の症例、様々の紹介。
・一週間後に怪我をする場合のアストラル体知覚状況。
・今日、昨日の満月の新月的な氣についての感覚。(前回の新月の満月的氣についての話。)
・整体とアストラル体領域の感応の話。
・エーテル的愉氣〜全的愉氣(アストラル的愉氣)〜カラーナ(メンタル〜コーザル)的愉氣の実習。
・チャクラとエーテル体、アストラル体、カラーナ体(メンタル体〜コーザル体)との関係。
・故三村寛子氏に3人のみ伝授されたチャクラ瞑想法。
・瞑想が深まると自然集中されて活性化されるチャクラは何処か?
・丹田の重要性の意味と、伝導瞑想の重要性の意味について。
・カタカムナの宇野多美江さんのご自宅に伺った時に教わったイヤシロチ(土地の氣の流れ)感得法。
・生活の中での感覚実習の重要性。
・その他、様々な話。。

 今日は録音したので、もしもご興味のある方は下記までご一報下さい。
 (メール mail@npo-kido.com  電話045−261−3300、fax045−261−3304)気道協会事務局。「気道協会」は私の所属するNPO法人で、今回の講座は気道協会主催のため。)

http://npo-kido.com/index.html


  病と死 
Date: 2007-05-24 (Thu)
 人は病気で死ぬのでは無い。
 生まれたから死ぬのである。

 病と死とが潛在意識的にせよ結びついているのではないだろうか。
 
 生は死なり。
 
 ───だからこそ生、輝かん。

 (斯の事、肚で体得するべき事也。その過程を瞑想と言う。指導者は指を持って知るべし。注意集めれば如実に感得出来得る所以。  生、光也とも。
  故に光、闇を生むが如く病生ずる事も。
  光故病有り。 
  生、病也。
  而して、病、生、光也。)  


 

  メール
Date: 2007-05-19 (Sat)
大嫌いなのものの代表がメール。
その理由は、時間を取られるということもあるが、
すでに見ており、そしてその後の様々な感情や意識は何度も何度も届いているのに肝心なメールが届いていない、という逆にそれまでの感情が浮き彫りになってしまうのが一番の理由。

飛びたいという夢があったから飛行機の発明があった、と野口晴哉師は言う。
初めに夢ありき、である。
真実だと思う。
けれども、飛行機の発明の前から人は飛んでいた、メールの発明の前に人は交信していた。
(それを今も感じるが、「敢えて」幾重もの鎧を大事にしている人達とは特に仕事ではメールの必要もある。
 なかなか現在の人間はイルカのようにまではいかない。)

初めに夢ありき。
而して、その夢は、すでに実現しているものなのである。

  治りたい要求、そして治療。 体を育むとは… 。 〜死とは。 
Date: 2007-05-16 (Wed)
ゴールデンウィーク「整体法修得連日講座」にて、○川さんより、同じ質問を二度される。
「治したいと思っていても無意識では治りたくない人が多いですよね。そういう時、先生は…」
その時の私の答えは、具体的なアプローチについて答えたが、実は、殆どの慢性病の場合、そうした無意識のメカニズムがある。
 人は変化を恐れる。
 たとえ、それが病や悩みを手放すことであっても。
 それは、石井宏之先生の言う潛在意識の現状維持メカニズムとは違うのかもしれない。なぜなら無意識は常に変化を求めているからだ。
 体は、心は常に変化を求める。
 それは高潮、低調の幾重もの波はあるが、成長が止まった女性なら20歳、男性なら25歳を超えても、限りなく変化を求める。
 それは死ぬ4日前まで続く。
 「いのち」は生ある限り、変化を求め、体と心に要求させる。
 それが生きているという事でもある。
 故に、現状維持を図るのは、意識に影響される浅薄な無意識の位相である。
 
 ならば、なぜ治したくない部分が内にあると言うのか?

 分からぬ方は一度、患部に手を当て、真剣に問うて欲しい。
 そこからは必死の声が帰ってくる筈だ。

──曰く
 「私がせっかく皆を代表して頑張っているのに…」
 「こうしてガンを作って、懸命にバランスを図っているのに…」
 「やっと、私に見向いてくれましたね。」
  …等々。

───症状即療法。
 もちろんこれは○川さんの仰る心理面でのアンビバランツ面とは違う答えであるが、私たちは治そうと思っていた事が、実は役立っていた、という事実を一度真剣に見つめるべきではないだろうか。
 そして、それを踏まえた上で、初めて真の治療が生まれる、と思っている。

 私が、体(あるいは心)を『育む』と表現するのも、
 また整体(氣道の個人指導)はそのための援助と言うのも、決して治療という言葉を用いる事による法的問題を回避したいがためでなく、そうした理由に依ること、ご理解戴きたく思う。

 ───そして真の治療は、体ある限り永遠に続く。
  小学校から中学校に行くように、途中、何度もの卒業はあるだろうが。
  また、全くしない事も含めて。
 (今まででも何度かあった。その方々は憮然としていらしたが、たとえ病の最中であっても、手を触れないことが最良の整体である事がある。(勿論、懸命な観察の結果の上でである)
  この事、あらゆる治療家に申し上げたし。そして受けられる全ての方にも。)

  私の言う体を育むということ斯くの如し。
  「自然」に沿うが所以。 
  然して、その変化の部分や多少はあるが、生ある限り、体(心)は変化し、そして育まれる。
  

 …………………………………………………………………………………………
  整体(氣道)は全生するためにあり、全生とは今、ここに生きる事。
───地切り、場切り。
  それは無限に通ずる。
  そしてまた、その事により無限の能力が発露しゆく道が拓かられる。
  その生の羽ばたき、生の本質的謳歌を死と言う。
  故に、現実面では一日生きることは一日死に近づいた事であるが、感覚面では、
  死は常に生と共に在り。

  ゴールデンウィーク「整体法修得連日講座」終える。
Date: 2007-05-09 (Wed)
・4月28日から二日間行った「心理指導法講座」を含めての9日間の「整体法修得連日講座」が終える。
 ご参加された方々、本当にお疲れさまでした。
 今回は、通常の連日講座あるいは連続講座よりも17時間多いことや、通例よりかなり少人数ということもあったせいか、初めて整体を学ぶ方が多いのに、5日目には通常行う全ての実技が一通り終了という密度であった。
 參加者の顔ぶれも、通例とは異なり、様々な背後を持ち、様々な現在を持つ顔ぶれ。中には投薬通院されている統合失調症の方もいらした。(ちなみに彼の無意識(ハイヤーセルフと表現するのが本当は相応しいのであるが)は6日目から最後の打ち上げまで積極的にジョイントしてくれていた。)
 それぞれの魂の織りなす様々なドラマを日々感じ、その位相の異なる氣に触れ指揮つつも翻弄されゆく9日間であった。そのため全ての參加者の意識にまで通ずる事が出来なかった方も出てしまった。3月より察していた事なのに、未熟である。

(さて、去年は、「氣道」の学校であったが、来年はどうなるのか。何にせよ、例年ではあるが、ゴールデンウィーク講座の休憩中や夜の時間が殆ど全て仕事になってしまうのは今回で終えられれば、と思ったが、会報の事を考えるとそれも致し方無いのだろう。)
・一番キツイのは、ピアノの練習が実際の鍵盤で出来ないことであり、今年は、今朝の「自動運動会。生ライヴ付」を目掛けてゴールデンウィーク前から鍵盤無しの準備をしていた。
 当日の最後は、日記でも少し触れた方だが、若くして自らの命を断ったAちゃんへ捧げる気持ちでずっと弾いていた。
・またライヴ後は10歳からお世話になっていた恩師、麻原雄先生の論集が送られ圧倒された。
 「イーゼンハイムの火」というこの論集は、私同様、麻原先生に家庭教師を受けていた土方明治氏を初めとする方々で先生亡き後に追悼の意味も込められ出版された書である。
 麻原先生には、小学時代から大学時代まで、多い時は週に四日、夏休みなどの長期休暇の時は長野穂高の別荘にて数週間、ずっとお世話になった。
 私が岡島先生の許に弟子入りし、その時は御夫婦で羽織袴で正装して合宿中の鎌倉光明寺まで訪れ「今後は宜しくお願いします。」と頭を下げられるという現代の時代ではらしからぬ師匠の交代劇もあった。その後も、何度も交流があった。
 …言い出せば切りが無い。ともあれ私という人間を創った方であった。最愛の方であった。
 今日は、届いたその書に自分の立処を確かめ、これからを期する日でもあった。
 また、麻原先生の眼差し、氣から感ずるものは、Aちゃんへの想いと同質のものであった。

 (「イーゼンハイムの日」冬花社 麻原雄著
   美術や映画に興味のある方には是非ご一読戴きたい。)

・夕方の「初夏・梅雨の整体」講座では、尊愛するS先生もいらっしゃり、参加者は非常に少なかったが嬉しい時を持てた。

 明日は、久しぶりのエアジン夜ライヴ。
 素晴らしいベーシストやドラマーとのピアノトリオに直さん(竹内直)がジョイントする。
 30数年前、私が中学の頃、キースやタウナー、ダラーブランドを教えてくれた先生や、そしてAちゃんは明日の演奏にどのような感想を持つのだろうか。

 最期のエッセイにある「身体感覚」という命題は私をして遺されていると思うが、そうした意味だけでなく、
 先生の遺志を真の意味で繼ぎつつ日々を送りたい。
 

  或るメールでのやりとりから。
Date: 2007-05-02 (Wed)
私/
だからこそ、波に乗り、波であり、波の彩りをちょこっとだけお手伝いでき、しかしまた、その自己もまた波の一部であり… 演奏者が(氣道指導者が)、大氣(宇宙の息)の媒介たらん、と目指すのと同じです。

>ん、言葉に重みがあります。
>そううえば、新体道でも号令者(氣道でいう指導者)の号令の仕方に非常に重要視してました。 
>指導ということと媒体になることは同義語。 

私/
まさしく!
そしてまたリードする。
宇宙の息と一つになることと、その上での指揮役との「統合」。

もとより、生受ける者、個あり。 
そして個あるが故に生あり。
故に、宇宙の息と一つになるだけで、元よりある個さらに生きん。
然して媒介の道、指揮の道也。

そして、忠実な媒介にならんと努めるところにこそ、媒介と指揮の出来る理由がある。

  【心理指導法講座(潛在意識へのアプローチを学ぶ講座)】  始まる。
Date: 2007-04-28 (Sat)
 今日よりゴールデンウィーク連日講座が始まった。
 今日と明日は「潛在意識へのアプローチを学ぶ講座」。
 特に今年からは、各講座(学校)を、再受講を重ねることによって、どんどんと練成してゆけるような講座内容にしていることもあり、(もちろん今回一回のみの受講でも十分に満足して戴ける内容であるようにもしているが)
 そのため、新たに創案した技術や練習方法も多くご紹介した。
 整体法一年コースの一回目でご紹介した『離れた相手の状態を把握する方法』にも通ずる感覚訓練【連想対話法】は、今日は、その前に行なった自動操法の言葉板である【自動話法】のメッセージを正確にしてゆくために、意識と無意識そして集合的無意識との連動を良くするために行なったが、講座でも申し上げたように『前世リーディング』にも応用できる、かなり奥深い感覚練成法と言えよう。
 
 ただ今日のメインとしては、この二日間の講座のエッセンスであもある「いかにして相手の無意識(潛在意識)にアプローチするか?」という講座名そのままの「奥義であり原点である」技術(を超えた技術)であろう。
 それは「如何にしてラポール(信頼感、一体感)を一瞬で取るか?」という技術でもあり、ある意味では、今日もそして明日からも紹介する様々な心理技術は、その原点を深めるためであり、その「感覚」と「技術」の学びの図式は、整体も同様である。
 
 整体とは「手による心理指導」と言っていいが、心理指導は「言葉そして氣による整体」である。
 整体と心理指導の統合こそが、私たちの(即ち氣道の)整体であるが、だからこそ心理指導こそ整体の原点となる。
 今日からの二日間の核心を伝えたあと「あとはオマケ」と申したが、九日間という全体で言えば、この二日間が整体法の核心であり、あとはオマケなのである。
 (オマケもまた、とても妖しい魅力を放っているようであるのだが…)

 九州、長野、広島、和歌山、その他各所から、この講座のために皆さんいらっしゃり、そのエネルギーは素晴らしい。
 氣道裏ブログでの主要メンバーも各地から集まり懇談会を行なっていると聞く。
 場所を知ったので今からでも行きたい程だが(みんな、その場所で慌てて宿題をやっているのだろうか?)、まだ準備があるのでそうもいかない。(これを読んだ方にもその場所を公開したいが、その代わり裏ブログのアドレスを。http://plaza.rakuten.co.jp/bp0502/
この数ヶ月全く見ていないし、今後も遠慮もあって殆ど見ないつもりであるので、興味のある方はどうぞ。なお協会のホームページ左袖からも行ける。)
 
 今回の講座も、来たかったのだけれども日時の都合でいらっしゃれなかった方も多いと聞く。
 明日のための準備(と言ってもレジュメではなく今日も言ったようにエリクソンのビデオを何度も観る如く(それにしてもザイクの解説は言語解析的には素晴らしい分、別の視点(氣の視点など)で全く介入されていなく、かなりの問題有りに驚く。いつかビデオを観ながら語りたいが言語と身体感覚優れた方なら以前より疑問に思っていた事かもしれない。)、の全脳速読法http://8505.teacup.com/sokudoku/bbs的なものであるが。ただ【過去を作り替える】最強の新methodと【未来を作る】同じく最強methodは伝えられたらと思っている)
 を、これから迎え、そうした今回いらっしゃれなかった方々への、そしてまた最近亡くなった方、今もお辛い方への愉氣にもなるような元氣潜む講座になったらと思っている。

  人生の目的
Date: 2007-04-24 (Tue)
 今朝の訃報に驚き深い悲しみを感ずる。今年になって身内を含め大切な方が三名逝った。
 
 生ありて死あり。
 
 又、死ありて生あり。

 苦楽一如。

 然して、生の目的は生くる事にのみ在る。

  運命とは何か?(続きでは非ず)
Date: 2007-04-13 (Fri)
 意識と潛在意識との流通が良くなると、潛在意識(無意識)の割合が減る。
 さらに進むと潛在意識は無くなる。
 無意識は意識できない心だからこそ無意識と言うが、その領域が減ってくるからである。
 
 毎朝の深息法がまだ手放せないのであるが、この数ヶ月、二つある深息法の内、後に行なう生気吸入法の気合的側面を重視して行なったためか、内体(感覚的身体=心)の領域が更に大きくなり、歩くシンクロの如くの日々を送っている。(元より全てがシンクロなのであるが。)
 そういう時というのは、たとえば歩いている時で言うなら、走る電車の中で進行方向に向かって立っているかの如く、ただ景色が後ろに流れてゆく。
 もう少し言えば、そうした電車の中で、全く抵抗なく、さらに進行方向にも進めたり出来るような感じとでも言うのであろうか、ともかく「全てが自分」であるので、全てである自分の中で自由に動くこともできる。
 ただ「時が未来から現在に流れる」のを自分が動く時には感ずる。(動かない時は、「時」は永遠という、いわゆる時ではない∞に感ずる。)
 この身体感覚は【自動運動】中にも訪れる水中や宇宙の中を全く抵抗なく動く感覚、山から山にフッと飛べる感覚(特に駒ヶ岳山頂で富士山に向かうと多くの方も味わえるだろう)にも似るが、こう書くと実際の感覚とはかなり語弊を生ずるので、これ以上、言語化すると譬えが難しいため、ここまでにする。
 
 実生活に於ても一秒の無駄も無い月日が流れ、全てがそれこそシンクロが生じなければこなせないスケジュールも、まるで隣通しが触れているような狭い空間で多人数が【自動運動】を行なっても決してぶつからずないように、奇跡の如くクリアされていたその最中、数週間前の成瀬雅春師とのメール対談では珍しくかなり感情を揺さぶられた。成瀬先生より対談の依頼の電話を戴き、その後のチラシ作成の応接をメール対談と呼称しているのであるが、お世話になり、またかねがね尊愛する成瀬先生との20年ぶり近い邂逅ということもあり、チラシ文章に気持ちが入り込み過ぎたのが直接の原因であったが、久しぶりの感情変動故驚くが、そうした思考、意識を外さなくとも、先に「最中」と表現したように、確実に氣の道に繋がっており身体領域の大きさも遥かな感覚があるので、これまたどうしてと不思議と思っていたが、今思えば【自動運動】中に停滞していた処が痛み出した時と驚きと似る。
 嬉しき事はかなり多かったが、15年前より月に数度お世話になっているこれまた非常に尊愛申し上げている○先生より、良い湯治場を紹介してくれた御礼として頂き物をした事。(先生は指導を休憩されており、その復活を望む方々の為にも、先生からの依頼に答える事ができ、とても嬉しかった。)
 その頂き物というのが、以前にこの日記でも書いた「絶対にあり得ない事。そしてあり得ない物」と、全く同じものであった、という事。(つまり、「絶対にあり得ない事」が二回起こってしまった。。。)
 なお、今日も先生のご子息より「先生が淨潤さんより戴いた資料を、お仲間の集いの時に自慢気に見せていた」という言葉を聞き感無量となった。
 (そのお仲間の集いの名称や参加された方々についてはここでは書けない段階なので割愛せざるを得ないのが残念であるが、私も「えっ?!そんな事って?!」と思った程故、きっと多くの方々にとっては更に衝撃だと思う。
  ともかく、先生がお元気になられ、「来月も温泉に行くらしいですよ。私も行きたいですよ。」というご子息の言葉には爆笑しつつも、ほんとうに嬉しかった。
 (ちなみに、ご紹介申し上げた連泊での羽衣に行かれるらしい。それも含めてうれしい。)
 
 今日は時間が出来たので、久しぶりに日記に向かったが、それ以外にも、本当に様々な嬉しきこと有り。ドラマ有り。
 生きている事とは、生きる事と生かされている事との両者の両立(自力と他力との両立)であると20年以上前から言っているが、気の道に歩む時(氣(の)道では、まずは自力から行なってゆく)それは結果として訪れるものであり、そしてそれまた過程であるのは臨済の「人生は途中にあって家舎にあり、家舎にあって…」という言葉を待つまでもない。

 さすがにそろそろ仕事に掛からねばならないが、嬉しき事、哀しき事、、書きたい事は山ほどある。
 明後日より始まる月に一回の整体法一年コースもそう。
 単発受講の人数が読めないなど定員を記載しなかったのであるが、
 狭い道場であるため途中より事務局内で定員を設けたが(新規36名)、キャンセル待ちの方の中には、東京より関西での整体法一年コース伺う、という方もいらっしゃり、申し訳なく思う。
 多くの方々に、氣道における整体の醍醐味を知って戴きたく、今回のような料金体制、企画をしたのであるが、そのためにも、ゆくゆくは広い道場を、と切に思う次第である。
 ただ一回目は、何においても充実した氣が満ちているものだし、また野口晴哉師(整体の創始者)も昭和46年の初等講座で仰っているように、氣の密度が違うためであろうが、人数が多いと、【自動運動】や「合掌行氣法」、「愉氣」も全く成果が異なるのは、七夕会(夢実現の会)と同じ理由であろう。
 以前、5畳の浜町道場に20名以上いらした時には、さすがに困ったので上記したように今回は定員を設けたのであるが、氣の道を学ぶ者にとっては、そうした道場の狭さ、という意味では久しぶりに氣に満ち足りた充実した講座になるであろう。
 (とは言っても一人半疊分以上あるので昔を知っている方には広く思われてしまうだろう。)

 何にせよ、同じ志を持った氣の結集力は凄まじい。
 訪れる未来が楽しみである。
 (そう言えば羽生さん(棋士)も、同じような事を言っていたことを今思い出す。彼は【心の学校】で言うリバース・コンディションも行なわない、というか行ないたくないと言う。(ましてや時間を二断するエコロジーチェックはもっとであろう)
  次の相手の手を待つまでに、相手の全ての手を予測するのが棋士であるが、言葉としては斯くあるべし、と思う。
  なお、将棋と氣道についての妙な蛇足的私感を言えば、たとえば【心の学校】の前半(0の道)の階梯では将棋には勝てない、後半のほうが勝てる。
  而して、1の道になり過ぎても勝てない。
  
 氣の道を敢えて提唱し、そのmethodも提示する所以である。

 ───風。 
  それまた運命の如し、
 ───而して風は起こせ、そして吹く。

   『 整体 』
Date: 2007-03-18 (Sat)
 整体は楽しい。

 つい人や生きているものに触れたくなることがあるように、本能として相手の体に触れる喜びもある。
 
 それにより氣の交流が深まり、心理的距離感も近くなる嬉しさもある。
 
 相手の領域を尊重することによって、その中に溶け融和していく醍醐味もある。

 様々な氣を受ける楽しさもある。
 
 氣の感応が止揚され、互いに変化しゆく醍醐味もある。

 互いの瞑想が深まり、体が消えてしまうこともある。
 また、互いの丹田が充実し、生が発揚されることもある。
 そしてそれらが巡って起こることもある。

 変化した相手の体を観る喜びもある。
 必ずや後日こう変化するという事を知り「自然」の営みに触れる感動もある。

 本当の意味で癒す、治すということに携われる充実した責任ある嬉しさがある。
 また単なる治療ではなく、さらにより良い体に無限にしてゆくことができる喜びと醍醐味がある。

 自然で、活き活きとした体になってゆく援助ができたことを感ずる嬉しさがある。
 また後日そうなってゆくであろうことの確信を得られる喜びがある。
 それが時に数年後であっても、待つ間もまた嬉しい。

 氣が合えば、音楽のデュオの如く、一期一会の感動を得られ事もある。
 その息一つになった状態で、私たちが創っていると同時に創らされているような感覚を覚えることもある。
 その無上の至福感は創造の喜びだ。

 整体は、いのちを体を通して生として活かす最高の創造行為だ。
 故に整体は芸術だ。
 
 だからこそ、整体は何よりも神聖なものである。
 それは、いのちを何より尊いものとして扱いたいからである。
 故に、その形式もそれに準ずる。
 
 整体は楽しい。
 生、そしていのちに直接触れる喜びは何にも変え難い。
 
 
   ………………………………………………………

 この頃、毎日、整体をしている夢を見る。
 久しぶりの人、数日前の人もあるが、全く知らない方もある。
 翌週に、夢に初めて出てきた方が道場にいらした時には驚いた。
 しかし、ビデオ映像に向かって整体をしても変わる。
 そのような「空間」的なことだけでなく、亡くなった方に整体しても、その映像がその直後から変わるという「時間」的な同居性もある。
 これは理屈で言えばアインシュタインの統一場の理論の実証でもあろうが、それにしても面白い。

 多くの方を整体し、時に、声も出せない程、草臥れる事もある。
 やっとの思いで帰路に着き、倒れ込むように玄関に突っ伏す事もある。
 そうした時、間でも、体は、多くのいのちに触れられ、たとえ小さな一石であったとしても「自然」に沿って投じる事が出来得た事の充足感と、命懸けの楽しさを味わえた、満ち足りた幸せで溢れんばかりである。
 (その感覚も、私にとって即興演奏のライヴ後に似る故、上の文章を書いた。)

 そして、朝起きて、また整体が出来る喜びを思うと次の瞬間には掛け布団が跳ねられている。


 ………………………………………………………
 
 独り歩むも無向無限の楽しさはあるが、デュオやトリオもまた楽し。
 世界が社会性を帯び多次元的になる。
 何にせよ、氣の道は楽しいが、整体という氣の道(氣道)の個人指導(デュオ)は、相互運動同様の自他共の遥かで無限の楽しさを得られる。

 一人でも多くの方に伝えたいので、今年は一年コースなどの企画をした。

 
────まずは愉氣から。

 そしてまたそこに戻ってゆく。


  無題
Date: 2007-03-15 (Thu)
夜中に玄関のベル。
私が見に行き、そして外まで追うが、
妙な偶然で、結果、弟妹夫妻と歓談す。

浮世に戻るのもまた楽し。

  息一つ (整体時に驚く)
Date: 2007-3月11日(日)
 我動けば風生ず。
 
 而して我風と一つ也。

  運命(前回の正式な続きでは無い)
Date: 2007-03-12 (Mon)
時間は過去から現在への流れだけではない。
試しに後ろ向きのまま歩くと未来から現在への時間の流れを感じられる。
以前、菅野満氏にエナジーリファインの行い方を教わった時、その訓練の為にも電車で進行方向に後ろ向きで座ることに触れていたが、それまた同様。

「今」は未来も過去も包括し、それ故、私たちは常に自由である事を瞑想(自動運動や他の身心訓練も含む)は教えてくれる。

  その後…
Date: 2007-03-11 (Sun)
 実に、一日が一週間以上の充実した日々が過ぐる。
 その間には、「氣道」協会では、「氣道」ネットワークの再開第一弾の、まゆみ先生の「女の学校」があった。
 (まゆみ先生、そしてツノ犬、お疲れさまでした。この場を借りて御礼申し上げます。
 素晴らしい一日を、皆も本当に喜んでいた様子に、今もとても嬉しいです。)

  整体
Date: 2007-02-27 (Tue)
前回の冒頭に「立春を過ぎ、道場も賑わい連日満員。今年は、多くの方が、一年の体づくりのため、春に向けての整体を上手く定期的に受けている。」と書いたのだが、その後、受けたくとも受けれない方が多くいらした事を知り、安易に書いたと反省。
(言い訳では無いのだが、特に東京道場では、佐野や小泉の整体も、ぜひ経験して欲しいと思う。(本当に素晴らしい愉氣です。技術も中々のもので、私とはまた違った華が開くので、体の開花の為に、ぜひお薦めしたい。)

さて、今年は整体三昧の日々になりそう。
現在の毎日の整体もそうだが、講座でも一カ月に一回の『整体修得講座』を初企画し、私自身のcycleが数十年ぶりにグルリと円を還って、久しぶりに初心に戻っている。

今日、本当に久しぶりに古くからの整体指導者の操法を受け、色々なお話しを伺えた。

(…と、ここまで書いたところで久しぶりに弟が来訪。貴重な「様々な」話に感謝。)

 弟は仕事に戻り、私もまた、この日記に戻る。

敬愛するその整体指導者が仰る。
「ぼくは、もう先が無い。もうそろそろだ。」
咄嗟に言う。
「そう言う方に限って…、と晴哉先生も仰っていましたよね。」

「いや、分かるんだ。」
 …絶句。

「あとは淨潤さん、あとは貴方にまかせるよ。」

 暫しの沈黙の後、
「先生の名人芸の数々をどれだけ伝えられるかは分かりませんが、先生から教わったこと、そして常に響く晴哉先生の魂をお引き受けいたします。」
 と答えたかったが、
 私を含め二人にしか伝授していないという先生の名人芸、そして先生の晴哉先生への想いをどこまで伝えられるのか。

 ………………………………………………………

 元より、技術は口伝。 即ち体伝、息伝也。
 守破離という学びの過程故、書では臨書という守が重要になってくる。
 而して今日、弟に言ったように、臨書のみに終わる者多し。
 「道」尊し。
 しかし、例えば腰椎1番突出の者は既に守を終えているのに守に拘る。
 故に、導者無ければ、道険し。
 けれども、自ずと道を開こうとする者にのみ、道拓かる。

  道場
Date: 2007-02-14 (Wed)
Date: 2007-02-11 (Sun)

立春を過ぎ、道場も賑わい連日満員。
今年は、多くの方が、一年の体づくりのため、春に向けての整体を上手く定期的に受けている。

昨日も順番で整体を待つ方の数年ぶりに邂逅とか、あるいはその方がご親戚だったとかの不思議な事が2回あった。
氣が上手く巡っている時は斯くの如し。
相手や皆との繋がりを、道場を通して実感する。

元より私たちは繋がっている。しかしその繋がりは目の前の相手との交流としてでは無く、自身と相手の奥である背後の繋がりである。
それ故、自身が己れの深い部分と純に深く交流する時(意識と潛在意識との繋がりが良い時=自身の息と一つの時)、そうした一見偶然のような事が頻出する。

それが深まると次に起こる事を意識を通して上手く再現している感覚が訪れ、運命が既に決まっているという事が実感出来る。
而して、そうした事が整体(氣道の個人指導)という創造行為に於て良く訪れるのは、創造行為こそ氣の流れに依って生み出されるものである所以なのだろう。

また更に、そうした現場では、定まっている運命が別次元に於ては変わってゆく実感をも得られる事がある。
宇宙を驅けていた夢から覚めた孫悟空は釈迦の掌で蠢いていたに過ぎなかった。
その事に気付くのは前述の定まった運命を知るかの如くであるが、私達は全て斯く在る。
然し、深める瞑想(氣の道)により、その掌が実は自らの掌であることに気付く時、
運命の扉は忽然と開き、恐る恐る触れるその扉をもが扱えることにも気付く。
然し、然して…更なる扉も在り。
それを幾重かに乗り越え道を深める事こそ、生の、氣の道の醍醐味であり、ただ生きる事が目的である所以だ。
(瞑想が到達することに意義があるのでなく、その深めようとする過程自体に意義があるのと同様に…)

今年もまた其れを今日道場にて実感す。
これまた整体の醍醐味。

何にせよ、燐とした静寂の中、潜み流る充実した氣は得難く、有り難い。

  〈辛さ(苦しさ)4〉 〜そして楽しさ
Date: 2007-02-11 (Sun)
青き空に豊大なる白と灰の二色の雲が周囲を朧ろにドラマを演ずる。峻烈なる陽光。 身内の死在り。斯く時こそ人の真実に触ゆ。優しさが身に沁む。   竣光眩く、時に清らかな風が戦(そよ)ぐ。 ───天行健。
今、隣屋根の猫を見て皆が和む。

 「人生に三楽在り」とは石龐天の書か。
 一つは、過去の苦を回顧し今日在るを思う追苦の楽。
 一つは、現在の苦に堪へ、来たる苦を迎う迎苦の楽。
 一つは、苦の去り行く時を思う去苦の楽。

どの様な事でも楽しみに転換出来る力こそ人の特権。(テキスト200号より)

苦楽一也。 生、楽しからざらんや。 否、楽しまざるべからず。      

  追記。
Date: 2007-02-09 (Fri)
下記「ご紹介」では、管理の都合上、3つまでしかアドレスを掲載出来なかったため、削除せざるを得なかった残りのアドレスを追記します。

こころの露天風呂:http://plaza.rakuten.co.jp/izumifukumoto/diary/200701190000/
移り行く日々:http://rayhane.exblog.jp/5694842#5694842_1

  ご紹介。
Date: 2007-02-09 (Fri)
先日、会報でも毎月掲載させて戴いている山本忍先生よりメールを戴く。
(医学博士。横浜 神之木クリニック院長。日本ホリスティック医学協会創設者、現運営委員。初めてお会いした16、7年前より(0が一つ足りないか…)整体を受けられている会員の方にもご紹介している。今年はご無理を言って(会報の掲載もだが)、横濱道場で講座が実現。木曜日。)

 「日々精進されているご様子、「日日是好日」日記拝読して身がひきしまります。」との文章に私こそ身が引き締まる。

 山本先生は益々人気沸騰で有名女優のみならず、あちこちのブログで書き捲くられているとの事。 最近の記事をご紹介戴いたので皆さんの参考にと、先生のご許可を戴き下記に転載する。

Trinity Life:http://masumimiyazaki.at.webry.info/
ミュゲさんの日記:http://mixi.jp/view_diary.pl?id=332571565&owner_id=5867426

また目木蓮というペンネームでブログもこっそり(?)始められた。
・もくれん庵 Delusion:http://blog.goo.ne.jp/memo90n_2007
「お暇な時に、妄想の世界に遊びに来ていただければ幸い」との事ですので皆さんもどうぞ。

(なお、山本先生も先日削除した質問1(「全てを知っているが故に言いたくとも言えない状況の時どうするか」という要旨)をご覧になっていらっやるだろうから、拙答を書かなくてはなるまい。
 一つは、その状況の創造主の立場に立った時に自ずと現れる微笑(の感覚)。(【心の学校】参加者なら前半の「風の学校」の最後部で行った敵対感を処理する立場の感覚。)
 話に事実と違う事があっても、温かく良い意味で聞き間違えゆく態度は、映画ライフ・イズ・ビューティフルにも通じよう。(知らない人には申し訳ないが是非ご覧になって戴きたい映画である。)
 なお質問2の回答は、其自体であり永遠、無、空、などが思い浮かぶだろうが、回答をすることで質問の意味を失うので回答せず。
 また、抽象的概念や身体感覚を特定の言語に当てはめることで却って答えから離れてしまう面についても禅の問答と同様。それ故、敢えて回答するとしたら禅のそれと同じ形になろう。
 (ちなみにその意味での拙答なら、

     パン!!   。

  質問をされた瞬間に、質問者の両頬を同時に叩く。
  …同じ叩くであっても回答者が岡島先生なら質問者の面前の空間を、弟者なら自分の両頬かナ。 と思うのも、そしてそうなったら嬉しいもあるが、何にせよ前述の如く言葉での答え無し(あり)。)

  伊勢佐木町5丁目
Date: 2007-02-06 (Tue)
年頭より噴き出したエネルギーも鎮静化し、そしてだからこそまだ残っている想いが、最後の浮上を見せている頃、まるでそうした象徴であるかの如くの近火による火傷で、ずっと療養中であった三つ星さんのご主人の訃報を伺う。
(大正堂さん、三つ星さん、マルマンさん、ミナトさんと、どの方も伊勢佐木町5丁目を半世紀前の親の代から、つまり青江美奈に伊勢佐木町ブルースを歌ってもらうことを依頼するもっと以前から、この町を現場で支え守り続けている方々であった。)

 心からご冥福をお祈り申し上げます。
 

  質問2 (1を削除してしまったので、新質問)
Date: 2007-02-05 (Mon)
合わせ鏡の向こうには何が在るか?

  「氣道」=「鬼道」  (昨年書いた文章であるが今日の豆まきの代わりに「初」投稿。)
Date: 2007-02-03 (Sat)
「氣道」は「鬼道」である。

 縄文の卑弥呼が或る時期から信仰していた呪術と言われるのが鬼道。
 16年程前、氣道という名称を創った時より、それを意識していたことは通信テキストにも以前書いた。
 そして理由は識者なら解ろうが、結論を言えば、現在、純化された形の鬼道が氣道であろう。

 話が逸れるが鬼門という方位がある。北西と南東であるが、実は、その方向は日本に於いては(他の北半球も同じかもしれないが)、涼やかな氣の通り道である。
 地球は一つの磁石であるので、磁力的な面では、南北の風通しもあるのだが(たとえば北枕が万人に良いと言われるように。実際、大概良いが、時節やその人の体状況によって異なる)
そのためなのかどうか分からないが鬼門は確かにある。
 以前、浜町に住んでいた時に多くのラップ音(するはずの無い音)がしたが、その住まいのある場所を角田功さんは「霊界の通り道」と判定した。
 叔父のつのだじろうさんも住む実家には鍵を閉めているはずの窓が毎夜開くのだそうだ。
 誠に宜しい。
 その後、横濱に移り住むが、それからは、こちらが忘れているのに何故だか分からないが、必ず毎年2月になると「先生、豆まきしましょう」と言われる。
 馬鹿馬鹿しい、一人瞑想する人がいるほうが場は整うが、これもまた浮世の仕来りか、
 …と思いつつ、豆をまくが、これがなかなか清々しい。 
 ───もちろん、豆をまく時には、気合を込めて言う。

 「鬼は〜 うち。  福も〜 うち。」

※「うち」…裡、家、内

   立春   (「無心」)
Date: 2007-02-03 (Sat)
様々な動きのあった一週間であった。
以前よりその傾向はあったが、特に「遠隔操法(愉氣)」の訓練を積んでからは、その人の想い(特に感情)が直接乃至間接で伝わってくるような体になってしまった。
(※なお、こうした事が「勘違い」でなく出来るような訓練を今度ご紹介しよう。
  意識と無意識との流通を良くし、体を敏感にする、とても良い訓練になると思う。
  4月からの『整体法修得講座』の中でかナ。まあ、その前にも、ご要望があれば木曜日か金曜日のヨガの時間に。)
 10日位前からもそのような事があり、しかも困ったことに完全な誤解で、その誤解を解きたくも「もしもし、あなたが昨日思っていることは全然違うのですよ。」と電話することも出来ず、また出来たにせよ、私への色眼鏡が固着している為かえって拗れるのは必至。
そのうち届く想いの変化に憤りの感情も出て、こちらもつられてしまいそうになり、イケナイイケナイと思う。  …というのは、そうした念が届いた時、とりわけ反応してしまった場合には更になのだが、この20数年の観察では100%相手の方が怪我(あるいは心身の異常)を来してしまうからだ。 
 この事は私だからということではなく、「人を呪わば穴二つ」と言うように、相手だけでなく自分をも傷めることになってしまう。まして相手の勢いが強い場合や、磨かれた鏡のような場合には、穴は二つでなく自分の入る一つだけになり、しかも倍以上深い。

 何にせよ、相手に対しての想いは、全て自分の問題である。
そして、そうした想いを持つことによって、結局のところ自分が損をしている。 同時に、相手にとっても、周囲にとっても、一つも得は無い。
 また、これが一番大きい事かもしれないが、相手の言葉や態度から或る想いを引き起こされ、それに対して反発しているとしたら、その時点で相手(正しく言えば、相手に対する自分の色眼鏡)の奴隷になっている、ということである。
 実は、反発だけでなく、嬉しい気持ちこそ隷属の危険性があるのだが(だから占いに行った者は多く腰椎4番の弾力を失う)、どちらにせよ自発、自由な立場では無い。


「無心」は、心を無にすることではない。
 心を鎮めることでもない。
「無心」は、心無し、と読む。
「無心」とは、本来、心が無いことを表現する語であり、
 また、心が無いことの体得を促す語である。

───その道は瞑想の道であり、いのち(氣)の道である。


 晴哉先生が以前、炎は単なる化学現象であって炎自体が存在しているのでは無いように心も又同様である、と書かれた文章を、旧年暮の【心の学校】で読んだ事を思い出した。
(※故に、全てを自分の問題と捉えること。(それが「氣道家」の立処でもある。)
 先述の隷属の意味だけでなく、自分が変化すると相手が実際に変化するからでもあり、否それ以上に、
結局、全てが(捉え方も含め)自分でしかないからである。 (相手を感じているのは常に自分の色眼鏡を通してであり、その色眼鏡の持ち主はいつも自分だ。)
 自分が自分の宇宙(人生)の主人公になろう。
 それが「氣(の)道」だが、確かに主人公である事が重要で、その配役は(脇役だろうが)関係が無い。
 それこそ、拙著(実践自然健康道)にも書いた臨済の言う『立処作主 随処皆真』の真の意味ではないか。
 その時、「私」は「私たち」とも連なり、大きな流れと共にある。)

 冒頭に書いたように、身心的には関西での指導を含め、多忙な一週間であったが、日々、瞑想は深まり、先に言った念、想いも、それにつられるように一昨々日辺りより段階を経て昇華していった。 その後、満月の日からの新コース等もあり、今日の立春を迎える。
 日本を代表するヴォイスヒーリングの渡邊満喜子先生との「氣〜声〜体」というジョイント講座であった。
(最初の45分が「肩上げストン」でギューポンの感覚を掴み、「脱力体操」、そして脱力しない脱力体操として「内感運動」を後頭部〜肩甲骨〜骨盤のバージョンと正規版を紹介し、呼吸法として「邪気呼出法」「生気吸入法」「脊髄行氣法」をご紹介した。
 続いて、渡邊先生の今日の參加者の身心を開放するヴォイスヒーリングと、參加者による発声。
 その後、私の即興ソロ演奏。
 続いて、渡邊先生との即興デュオ。(素晴らしい体験であった。)
 その後、希望者の方と私との即興デュオが5名。(これは史上初の試みでは? 驚きであった。)
 そして最後は、私のピアノを含め參加者のコラボレーション。(途中、渡邊先生が一端区切り「単なる発散で音の壁を作らないようにpianoを、そして他の声も聴いて…」と仰ってから、信じられない程の空間、時、氣、が美しく訪れた。)
 そして講座後には何と參加者全員からの一言感想。
 …有り難かった。)

 渡邊先生とは、いつの日かご一緒に、と思っていたが、今日のこの素晴らしい氣を実現するためにこそ、私をして夢にしていたのだろう、と思った。
 今日の全てのうたが渡邊先生が言われていたように集合無意識的な夢の一つの現れであったのかもしれない。
 あの時、あの空間、參加者、そして全てに感謝したい。
 わざわざ和歌山からいらした方も喜んで帰られ、そしてその後の4階での喫茶店での残った方々との歓談の場では、今朝行った瞬間を微分化して感じる瞑想を通しても、やはり「『今』は無い」(あるのは敢えて言えば「無」「虚」「とわ」)という事も時事報告も兼ねて申し上げたが、まさに「生こそ即興」の場でもあった。
 道場に戻り、こうして今日の事を俯瞰する。
二次会での4階ティールームで「まるで岩盤浴を受け続けてきたよう」と仰っていた方がいらしたが、私もまたその後様々な感覚が大きく増幅された。
(満月の影響も感じるが、余りに大きな氣やエネルギーに身体が外れそうな時もあり、そのためもあってこうして日記を書き続けている次第である。それを意識的に小さくしても頭頂部のエネルギーに圧倒される。キラリさんもよく顔晴っているなァ、とふと思う。そう言えば、『辛さ(苦しさ)』の連載を喜んで下さっているのに4の投稿がまだで申し訳ない…。)
 改めて今日いらした方々にこの場を借りて御礼申し上げたい。

 ───今日が立春。 (暦通りも珍しい。) 
 「無心」───

 すべては其処から始まる。

  感謝 
Date: 2007-01-27 (Sat)
 大好きな方が昨日逝かれた。
 その方にお会いするのが、いつも楽しみだった。
 その方を思い浮かべるだけで、心が和んだ。 
 愛すべき、そして最愛の人であった。

 先程、弔問に伺う。
 生きていた時より仏そのもののような方だったが、そのままだった。

 ご家族の前で失礼であったかもしれないが、その方の身体への最後のご挨拶をしたく触れさせて戴いた。
 まるで東京道場でのいつもの時のような生きている温かい氣があった。(私のために少しだけサービスしてくれているのかな、と思ったほどであった。)
 今までの御礼を申し上げていたら、背後から、ご家族の方が「先生が整体をして下さっている」との声が聞こえる。

 とんでもない…、 そんな必要もない
 ───ほんとうに素晴らしいお体であった。

 (以前、「赤ちゃんへの愉氣(整体)と、禁点の硬結が出た方(逝かれる方)への愉氣(整体)は共通項があり、それが愉氣の原点である」と、この日記に書いた。
  あの世からこの世に生まれる者と、この世からあの世に還る者という、生死の境に際にいる者は、
 どちらも「いのち」そのものに近い姿であるためなのだろうか。
  いみじくも、今日伺った時にいらっしゃらなかった唯一のご家族の方は他所で誕生の事に携わっていた。 …きっと偶然では無いのだろう。)

 その後、逝かれる二日前の、本来なら話すことも出来ない危篤の激しくなっている状況で、突然、写真を撮ろうと言い、しかも身をも起こさせ(!)、その結果ご家族と撮った写真を見せて戴いた。
 そのうちの一枚はガッツポーズで、家族の方も写真を見せながら笑っていた。

 意識があること自体が不思議な危篤状態の中、酸素吸入器を外しての撮影は身体的には大変なことだったろう。(思えば、不自然な口の開け方だけがそのことを伝える…)
 しかし、ベッドを囲んだご家族と共に映ったその笑顔は、無限の愛というご家族へ最後に遺したメッセージであり、そしてご家族の方にとっては生(そして死)の祝福という贈り物であり、また誇りでもあり続けることだろう。
 私もまた深い感動と共に、ご縁を戴いたことへの心から感謝に満たされている。
 そして、その方への感謝は、きっとこれからも一生続くことだろう。

 玄関での帰り際、最期の話を伺った。
 旅立ちを悟ったその方は、自ら延命装置を外し、そしてほんとうに安らかに逝ったのだと言う。
 
 (───○○○さん、私はあなたの事を一生忘れないだろう。    
   あなたと逢えたことは私の誇りです。)

────────────────────────────────  

(追伸/
    私もまた生まれてきて良かったと、今日あなた逢えて思いました。(そのことを今思いだし、この追伸を書き始めました。)
    その意味でも、今日の誕生講座はなされるべきだったし最高の餞だったと思います。
   ───これからは多くの方が、あなたの愛を伝えていくことでしょう。
   
   私もまた、その一人となりたく思っています。
   今日からはいつもここにいる感じもしますが、きっと、道場でも、いつものような佇まいで、いつものような声でいらっしゃることでしょう。
   
   限りない愛をこめて。     淨潤 拝     )

  〈辛さ(苦しさ)3.5〉  (4への前に…)
Date: 2007-01-27 (Sat)
 この「辛さ(苦しさ)」の項は、あと一項で終える筈であったが、少し誤解を生じさせてしまったようだ。
 それは、辛さや苦しさ、悩みというものに対する捉え方が、氣道家なら、まずこれが大前提であり、そしてそれは既に知っているとばかり思っていた事であったので割愛したからである。
 そのため、ここでは、尊愛する方のうたを引き、辛さ、苦しさ、悩み、ということに対する大前提を確認する一項を設けた。
 (全て「氣道」協会で頒布している『名言集』に収録しているものです。 なお、今後、尊愛する方のうたを引いた場合には、「 」にする。何より、この日記をご覧になっている方の為。)
 
     ………………………………………………………

 「悩むということはよいことだ。 これあって人間は進歩する。
  音楽も悩みによってある。
  腰をすえて悩みなさい。 中途半端で逃げてはいけない。
  認識と体験との相違が、一種と九種に分ち、そこに悩みの元がある。

  悩むということはよいことだ。これあって人間は進歩すく。
  音楽も悩みによってある。
  然るに多くの人は悩まず、豚の如く満腹し、眠って暮らしている。
  悩むことのできる人間は幸せである。」

  痛みや症状は体のサインである。同時に回復要求を促す重要な体の声である。この声によって、体(そして無意識)の要求を意識でも聞けるようになり、そこで注意が向き、氣が集まり、するとそこの動きが出始める。
  骨折しても痛みなければそのまま使い事態が悪化するかの如く、内臓でも同様。痛みあるが故に改善ができるのは身体に備わったバランス回復の本能故である。
  もちろんそうしたことが起こる以前に体の声に沿った生活をし、無駄な痛みや症状が出現しないようにするべきであろう。
  そして、悩みもまた同様。
  悩み、辛さ、苦しさがあるが故に、心が回復できる。
  また、時折り風邪を引き、体がリフレッシュされるように、悩みによって心も大きく変化できる。
  そしてまた、痛いのが体だけでなく心も痛いように、
  辛い時、心だけでなく体もまた辛いように、体と心は現象界では分けられにくく、一の如し以上の関係である。
  どうぞ、上記の文章の「悩む」を「痛む」にし、それに続く文章を体にとってのことで翻訳してみて欲しい。
  氣道家なら、それで範了される方が多いと思う。

  また、もう一つのことは、2でも「辛さのキッカケ自体への抵抗をしてはならない。」と書いたが、それとは少し別の意味のこと。
  これまた常に言っていることであるが、私たちは辛い、苦しいと感じることが大きければ大きいほど、その辛さそのものでなく、辛さを味わいたくないという抵抗を感じてしまう、という事。
  そして、その「味わいたくない、という抵抗」のほうを、辛さとして感じてしまう事が多い。
  2からの引用文章と逆のようだが、辛さのキッカケとなっている事ではなく、その辛さを味わいたくない抵抗が時間の経過で出来上がってしまったために、辛さ本体と、辛さとが分離してしまっている、という事であるのだが、これが、「辛さが辛さを呼ぶ」あるいは身体的に言えば「痛みが痛み」を呼ぶということのカラクリなのである。
  このことは気づきにくいところでもあるので、初心会をはじめ、様々なところで言ったり、
 また、「あえてツネってもらって、その感じを受容するのと、抵抗するのとでは、感覚がどう異なるか?」という実習を行って体験してもらっているが、
 それは、辛さ(痛さ)そのものになることであり、「同時に」
辛さ(痛さ)を俯瞰する本来の自分に戻ることでもある。
 ───私とは何か?
 息深く、心閑かに、感ずるべし。

 「彊くあるの道
  人の必ず死ぬを知り 見つむること也
  苦しむを見つめ 静かにしてゐること也
  楽しむを見つめ 静かにしてゐること也」

 そうして最後に、これから書くことは、上記以上に氣道家にとっては当然中の当然(苦楽が比較によって生ずるということ)で、この〈辛さ〉の項の大前提である故、上記の二つよりも前に掲げるべきかとも思ったが、統合の部分もあるため最後に掲げることにした。

 「楽しめば楽がある
  苦しめば苦がある
  苦楽ともに心より生ずる
  どんなことでも 苦しむことも出来 楽しむことも出来る
  人の心の豊かさ 楽しきこと也

  楽ありて苦あり
  苦ありて楽あり
  心 楽によりて苦あり
  苦によりて楽あるを知る

  楽苦一如 苦なく楽なし 」


 (───以上、(3.5)として、この項の大前提となる概念を掲げた。
  前記の〈辛さ(苦しさ)1〜2〉を読んで、色々な感慨があった方のために、大前提の紹介として、老婆心ながらに掲げた次第である。
 もし初耳のところが少しでもあれば、それは大変遺憾であり、また自分の責任でもあろう。
 せめて拙著や講座、整体(個人指導)などを活用して欲しく願う。 
 

  祈る
Date: 2007-01-22 (Mon)
 今日は、様々なことが、まるで予定調和の如く、つつがなくあった日であった。
 きっと、本来、どんなことがあっても、今日のように予定調和なのだろう。
 (もちろん、そうは捉えられないことがあったにせよ…)

 或る人からの質問で最後は無意識はあるのかどうか(その人はエリクソンのことも習熟しているし気道家である。)…のことであったが、
 その人の帰る姿が、初めて、今日、話していた恩師(麻原雄)と同じような姿であったのに驚いた。(その人は合ったこともないのに…)
 部屋に戻ると、恩師の懐かしい香りがした。
「何なんだ…この香りは」とは、と思いめぐらした。

 今日は、恩師が亡くなってから初めて電話した(奥さんに)日であった。

 その香りは、いらした方の煙草(ガラム)の匂いだったと思う。
 恩師(麻原先生)が、晩年、その煙草を吸っていたことに、今、気がつき、驚く。



  ほんとうに面白い。(思わず投稿)
Date: 2007-01-21 (Sun)
 この一週間以上あった関東の極度低調期が数日前抜けた。
 面白いというのは、あるホームページのこと。
 そこの管理者も、同様のことを私感で言っていた。(ゆくゆく以前「会員用掲示板」で数日毎に書いていた「心身気象台」をまかせたいなあ。)
 ずっと私は、或る方のこと、そしてまた或る方に捧げたメッセージを書いてきた。
 もちろん日記なので自分に言っているようなものだ。
 (実際、自分も「常に」そのような立場だろう。9日に書いた「美しさ」はもとより)
 
 明るいはいい。
 天に通ずるタケビだ。
 それがサケビになってはいけない。(漢字は同じ)
 しかし、暗いもいい。
 地から通ずる美しき「音」だ。
 君、深海を知っているか?
 それは宇宙の囀り、木靈だ。
 
 波乗りの達人が氣の道の達人。
 自然に生くる者、両者の波を楽しむ。
 …よく落ちる時をも。
 ───而して、其の楽しみを得るには波の裏の波を得ん。

 先に、そのホームページを見るとこんなことが書いてあった。
「師匠の日記、私は心の学校に出てないけど、よくわかる。というか、このところ思っていたことととてもつながることが書かれていてびっくりしたというか。」  
 とかを始め、タイムリー&フレンドリーな言葉で満載。
 「会員用掲示板」に書けないかな、と思う人も、ぜひのホームページ。 (こんなに特定のホームページを紹介していいのだろうか?)

 「苦しさ(辛さ)」については、もとより四部作にしたく作っていたので、(そのために、ご存じの方もいらっしゃるだろうが、二つの投稿を一つにしたりなどした。)最後に当たる文章を公開する前に昨日より書いているが、ご寛容戴きたい。
 (思えば「運命」についてもそう。しかし、「苦しさ(辛さ)」については、すでに思うことを書いた。
  自身もまた、照らし合わせていながら懸命に書いたつもりである。)

 能書きでない美しさ────それが「自然」というものだろう。
 そして、それは善。

  
(今宵は、思わず、あるホームページを見て投稿してしまった次第。
 「もしも」どこのホームページか、どうしても分からない方は…
 内緒にしたいが、、、「氣道」協会ホームページから事務局までメールを。)

 今日も危篤の方在り。   祈る。
  

  ハグ。
Date: 2007-01-20 (Sat)
 今日は、金曜日初めての【新月瞑想会】だった。
 屋久島から一カ月「氣道」研修のために、横濱にいらっしゃった方(!)は今日も連日参加された。
 (そういう方がいらっしゃると、私も含め、スタッフも気合が入るので嬉しい。
  また、以前から屋久島に…と思っていたところで、屋久島での研修合宿の予約(?)も出来てうれしい。)

 さて、新月瞑想会は、三つの目的があるが、その一つは、とっておきの情報を紹介すること。
 これが面白い。
 …そんなときに、VIP会員(特別会員)の伊藤牧子さん(一級建築士)が着物姿でいらっしゃる。
 「暖房や冷房がいらない自然の住まい」の講座を、5月にしてくれることとなった。
 ───【住まいの学校】
 今から楽しみである。

  〈辛さ(苦しさ)3〉  
Date: 2007-01-17 (Wed)
 今日は東京道場の指導日であった。
 道場への道ながら昨日書いたこの日記のことを思い出していた。
 一昨日は、「しかし、一点でも辛さからの逃避があってはいけない。」という文章で締めくくったのを、
 昨晩になって、これでは誤解も招くかもしれない、と思い、「しかし、辛さのキッカケ自体への抵抗をしてはならない。」という表現に変え、そのため、その前後に文を添えたのであるが、そのことによって潔さを失い、また文間を読み取る部分、つまり文間に醸される部分をも無くしてしまったのではないか、また同時に、ある一つの方向(一日一生(生れ変わる)というテーマへの帰結のために)を提示してしまったのではないか、という後悔の念があったからである。

 東京道場に着き、玄関を開けると、ゆうさんのヨガコースが燐として行なわれていた。
 自室に入り、いつものように今日、整体を予約されたカルテに目を通し、前回の整体時のその人の体を思い起こす。
 その時から数日あるいは数週間経った今日、この人はこういう体になっている筈。
 また、それまでに日々訪れるその方の情報(それは私が勝手にこの天気だとあの人は…などという空想に過ぎないが)とも照らし合わせて、結果として今日はこのような体になる筈、と見当を付ける。

 その後、ゆうさんの入れてくれた珈琲を飲みながら、事務局や、ゆうさんからの文章にコメントする。
 仕事を終え、着替える前に、このところ読みたいと思っていた野口晴哉師の偶感集を数年ぶりに手にとる。
 
 パッと開けた頁に息を飲み、まさしく然りと、そして昨日の饒舌な文章があってもこの文章が来れば、と今日の日記のため書き写す。
 以下、転載。

 人間の生きているは苦しむ為だ。
 その苦しむことが楽しくなる迄、生きていることが養生というのだ。
 犬も猫も、苦しければ逃げる。
 人間は自分の心身が苦しいことだけが苦しいのではない。
 他人の苦しみにも苦しむ。世界の一切の動きにも苦しむ。
 人間の向上とは苦しむことを拡げることだ。
 動物の苦しみから人間の苦しみへの展開こそ、人間の向上だ。その苦しみに徹し、苦しむことが楽しくなる迄、苦しむことだ。
 苦しむことを拡大し、一切の苦しさに苦しむことが進歩というものだ。

http://8505.teacup.com/sokudoku/bbs (今日はここにも書いた)


  続けて… 一日一生。  (辛さ(苦しさ)2) 
Date: 2007-01-16 (Tue)
 ──── 一日一生。

 これは、以前に私の創った言葉であったが、古神道でもあるらしい。
 しかし、言葉だけでなく、本来、人は日々生まれ変われるように出来てしまっている。それを阻むのは、私たちの健康を阻むものと同じで、やはり思考の凝態、観念だ。
 
 私たちは、本当に生れ変われる。


 それを、三次元の中でも味わえるキッカケが「辛さ」である。
 しかし、辛さの中でもがいても変わらない。
 どころか結果としてかえって辛さが増す。
───問題の解決は常に問題の中には無い。

 身を震わすことも出来ず、心が壊れてしまいそうになることもある。
 そんな時は、自動運動も発現しない。
 そういう極限の時のために薦めるのは背骨や丹田への集中だがそれでも効かぬ時は、what am Iの瞑想だ。
 しかし、それでも間に合わない時は、尾骨の焼塩や特殊な入浴法があるが、その上なら、たとえ酒や薬の力を用いて逃げてもいい。そういう時もあるだろう。
 しかし、辛さのキッカケ自体への抵抗をしてはならない。
 逃げられたのならそのひとときの安息感を味わおう。
 決して、辛さに抵抗してはならない。抵抗があると、その安堵は刹那に過ぎなくなる。
 抵抗は最も氣を集める行為故、再び引きつけられてしまう。

 心は、もとより無い。
 私の尊愛する野口晴哉先生も仰っているように、心は火の如くの化学現象であって、火はあっても火を対象にしても、それは影を消そうとする行為に似ている。

 安息を得るも良し。
 そこから、辛かった自分を見つめるべし。

 その辛い自分もまた、今の自分とは違う過去の自分であるが、自分は自分である。
 そしてそれまた火に過ぎない。

 これまたwhat am Iの作業と同じでなのであるが、私たち人は本源と繫がらなくなった時にのみ、苦を感ずる。 極端な楽も同様。よく笑う人は哀しさを知るが、赤ん坊の笑いを求め体や心を育んでいきたい。


 せめて、寝る前だけは、全てを手放そうとしよう。

 還るときだもの。
 そしてまた、必ず、別のかたちで還ってくる。
 
 歯を食いしばるな。
 ただ、全てを手放せばいい。

 ほんとうに、ほんとうに生まれ変われる。

 ──── 一日一生。


大丈夫。
 

  胸椎6番 そして 肚 。 (辛さ(苦しさ)1)
Date: 2007-01-14 (Sun)
 辛い… 
 あまりに哀しい。
 そういうとき、氣道的には、どうするのか?
 
 切ないままに、泣くままに、という原則0(体の文法)がいい人もいれば、サッと心の角度を変えることが適する方もいるだろう(原則1)。
 それらは、その人の腰髄(肚)の弾力によっても、また同じ人であっても、その時々の体状況によって違うだろう。
 体の痛みがそうであるように、無難なのは原則0であるが、最初に1を試すことは、心をも自分の持っている一つの道具、役割として活用する意味でも大切なことだろう。
 (「心身の文法」の原則云々を知らない方は、申し訳ないがテキスト(一部50円)を読んで欲しい。→連絡先「NPO法人「氣道」協会」045−261−3300(fax 045−261−3304))

 しかし、悩むことはいい。
 悲しむこと、辛いこと、切ないこと、絶望すること、慟哭に陥ること、すべていい。
 
 ───もちろんその渦中では、いいわけがない。
 それでも「いのち」や、宇宙の息ら、神やら何たらかんたらがあって愉氣されている、と言ったって、その渦中では、そんな言葉も理屈も意味がない。
 だからこそ、先に言ったような技術(1)や真にまかせる(0)が要るのだろうが、それでも辛いのはいい。

 何にせよ、人の辛い気持ちがわかってあげられるようになれる。
 
 そして、渦中に於ては、自然の息に繋がる唯一の道でもあるだろう。
 
 今、あまりに辛い方は幸いだ。
 ───すべて(全て!) 波。
 必ずや、それ以上の歓びが訪れる。

 しかし、その歓びの後、また…

 人の生の歓びは、常に「いのち」に戻らねばなるまい。
 生きている、という、『これ』そのものに、歓びを感じない限り、永遠に波の流浪者になろう。

 それでも、辛いことには意味がある。
 生きている証ということではなく、経験の積重による腰や肚の鍛練という意味ではなく、また事実そうであるのだが、自分が新たなstageに行く脱皮のときであるということだけでもなく、、
 そしてまた、辛いを感ずる自分の練成であるだけでなく。 
 
 生は常に波。
 私は体(心)をも、波の集合体だと言う。
 私の体や心は、「いのち」が「生」を纏ろうとしたときから、あるいは未来からでも、織りなされる一つの調べだ。

 
 「ああ辛い」───それは生の誇りだ。
 「死にたい」───それは生の叫びだ。

 「泣きたい」───それは限りない甘えから生まれる更なる甘えだ。
  存分に泣くのがいい。

   ………………………………………………………

 『 限りなき辛さを観る者にのみ真の歓びがある。
   死につつあるを得た者にのみ今の幸せがある。 』


  生美
Date: 2007-01-09 (Tue)
美しく生きたい。
もとより生は美しいのだから。

生きることはそのまま芸術だ。
もとよりそうなのだから。

(クリシュナムルティの「自己の変容」の中にあった『ならば、美しく生きなさい!』という彼の言葉はずっとあったが、
 きっかけは、直さん(竹内直/日本を代表するリード(sax、その他)奏者の「こういう話し合いも即興なのだと思うんです。」という昨年の「即興演奏講座」での言葉。
 音楽もそれがクラシック(楽譜があるという意味)であれ即興。
 いのちも即興。
 ────そして、私たちの日常生活自体が即興の連なりだ。
 (心理療法や整体は、あの限られた空間の中にあるわけではない。 そして、その道こそ「氣道」だ。  )

 そのポイントは「正直さ」にある。
 生きる嘘もある。
 そのほうが何千倍も難しい。というより、それは相手のためを思って行なう、いわば心理指導であり、それは全てのコミュニケーションの時に、私たち人間が一生懸命行なっている思考の良き姿だろう。
 しかし、嘘が生きるのは、私たち自身の中に「正直さ」があるから。
 自分自身に嘘をつかない、ということを「氣道」ではよく言うが、実は、この「正直さ」が難しい。
 自分自身の裡なる声を聞き取れない時があるから。
 
 「正直さ」は、意識と潛在意識との流通が良くなることでもある。
 つまり、自然の道、「氣道」と同義なのである。

 しかし、敢えて「正直さ」とここで言うのは、その言葉からも、自然に生きる道を、つまり潛在意識との流通の良くなる道を得られると思うから。
 ほんとうに、自分に正直なのか、自分の魂に正直なのか?
 (ちなみに、「魂」という言葉をよく使う人ほど自分に不正直な人しか見ていない。(だからもし「魂に正直に生きよう」ということを主張している人がいたらそれは要注意というか、それ以上に…。
  「魂」は、宇宙の息から自我が形成されつつある時に現れるもの、と以前ここで書いたが、
   自分に正直であるなら、その途中過程に現れる「魂」に正直であることは、自我に正直となってしまう危険性もある。
  なににせよ、「魂」という人によって定義の異なる言葉を用いることによって、生の純粋さに向かう「正直さ」を失ってしまうなら本末転倒である。
  そうした言葉を、自分が今使ってしまったので(「魂に正直に」と)、敢えて書いたのであるが、果たして魂とは何なのか?
  晴哉先生の「魂とは何か?」という文を繙いても、それを定義しようとすることにより、より深まる生の本質への促しが感じられる。
  その意味で私も使わせて戴いたと捉えて欲しい。)

 ( )内が長くなったので、いずれ別項として会報掲載の暁には纏めたいが、
 何にせよ「正直さ」は魂に至り魂を超え「いのち」に向かう一つの純粋な行為だと思う。
 
 それだけが、自分の息とひとつになるために大切なことでもあるし、同時に道教ではないが、氣(宇宙の息)ともひとつになっていくことではないか、と思う。

 もとより、私たちは、すべての正直さの上で生きているのだから。

 

  明けましておめでとうございます。 私の日記をご覧になる皆さんの今年一年が、素晴らしい一年になりますよう、心から祈っています。
Date: 2007-01-06 (Sat)

 生は ただ 生だけがある。 
                (ヴェーダ)

  良い新年を。
Date: 2006-12-31 (Sun)
久しぶりに横濱に戻る。
今日は、【心の学校】の前半(=風の学校)の最終日であった。
皆さん、 素晴らしかった。
ほんとうに美しく「無」くなっていった。
この4日間のことを思うと、とても長い、深い旅を、共にしてきた感じがする。
一年間以上たった感じと言っても大げさではない。

それぞれの方の旅を思うと、懐かしく、そして感動だ。
深く淡々と進んでいくBPさん、懸命に向かい途中から軽くしかも大きくなっていった岡田さん、一日で何本もの違う映画を見ているかの如くの、そして本源が確かになって閑かになっていったかなえさん、大きな創造に巻き込まれているのに、それをも正面から受容し乗り越えていったのぞみさん、私の言い方がいけなかったのにそれをも受容され大きく変わられたアンヌさん、初日苦しかったのをどんどんと手放して閑かに楽に入られていく明美さん、楽に静かに始めながら、途中、衝突にぶつかっても、軽く軽くなっていくまっちゃん、仕事を持ちながらも素直に受け入れ、とても軽く、慈悲の深まる今野さん、初日から自分を受容し、そして創り出したものを創られたと思うものまで優しく認め手放されたひろみさん、信じられないほどの過酷な人生を創り出し、それを直視することも困難だったのに、日々素直に、そして懸命に向かい、そして最終日の今日は、同じ人とは思えないほどの軽さと真の美しさに、感動を禁じ得ないともかさん。
そうして…
目には見えなかったけれども、初日は家族への想いを最初は拭えなかったけれども翌日から軽く笑やかになっていった0さん、不満もあっただろうに納得されたように朗やかになったH美さん、そしてその他の方々たち。

共に、素晴らしい旅ができたことに、心から感謝します。
そしてまた、私たちと共にいて、応援してくださり、見舞ってくださった多数の方々たち、またサブの講師たちにも、この場を借りて心から感謝します。

明日から【心の学校】は後半の「夢の学校」。
(※そのため個人メールも他の仕事にも手を着けられない状況(そしてまた手を着けてはいけない状況)が続くこと、何卒ご了解ください。 
  ですので、こうして日記を書くことも阻まれたのですが、そうした方々たちへの近況報告を含め書いた次第ですので、どうぞご了解くださいませ。)

明日からは産まれ直して育んでゆくプロセスに移る。
ちょうど新年。
仕切り直し、新たな旅に向かいたい。


皆さま、今年一年、ほんとうにお世話になりました。
そしてまた、ありがとうございました。
心から感謝申し上げます。
皆さまに還元でき、また、さらにご援助できるよう、新年はつとめたく思っております。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

  メリークリスマス!
Date: 2006-12-24 (Sun)
 
 来年の予感を感じさせる10数年ぶりの最高のイヴでした。

 きっと、それぞれの方に素晴らしい贈り物が、これからもあるんだな、と確信していました。

 (ところで、私の焼きそばを食べてしまったのは誰ぁれ?)

  久しぶりの夜出。
Date: 2006-12-22 (Fri)
 今日は日中、あるチラシを今野さんから見せられ、その価格設定に驚き、寂しき想いになった。
その後、素っ頓狂に幸せそうな写真付きメールがある人から届き、少し救われる。

 夕方、ひと月以上ずっと楽しみにしていた弟の書を見に、青木先生の主催する書道展に行くが、終了時間を過ぎてしまっていた。
 暫し唖然。 (弟を驚かそうと、昨日も行くことを内緒にしていたのに…)
 
 氣を取り直し、石井宏之先生のディナーショー「いつも上手くいく人の本当のヒミツ」を聞きに帝国ホテルに行く。
 ここに来るのは、ある社長さんから整体の出張を依頼された時依頼なので20年以上ぶりだが、落ち着いた品と運気は今もって漂っている。
 懐かしいフォレスト出版の方々や石井先生のお元気な姿を見れ、またご挨拶も出来、とても嬉しかった。
 (先生の講演内容も私が思っていたことと違い、実にシンプルで当然のようなことであった。さすが石井先生である。
 ────これは今回の【心の学校】受講生だけにはこっそりとお伝えしてしまおう。)

 会場では、講演以外はオープニングからずっと私のピアノソロのCDが大きく流れており、しかも、ショーの途中では過分にも私の紹介もあり、とても有り難かった。
 森谷さんをはじめフォレスト出版の方々にはこの場を借りて御礼申し上げます。「私の即興演奏を、帝国ホテルという素晴らしい場で、しかも今や時の人である石井先生の記念すべき最初のディナーショー(谷村新司や美和明弘よりも高額な!)に、あのような形で使って下さったのは、私にとっても初めての経験ですし、しかもご紹介まで戴き、ほんとうに光栄で、嬉しく思っています。ありがとうございました。」
 …さすがフォレストさんであった。(真心がある。真心と言えば、帰りに送って下さったのも…。コートを忘れて帰るところをよっしーさんに見られてしまったのは恥ずかしかったが、そのことに気付いたのか、私がコートをクロークに取りに戻るのまで待って戴き、しかもまた見送りを…。 よっしーさん、ありがとう。)
 その後、急患を診に病院へ。

 こうして一日が終われば、今日の人生もまた愉し。
 これを読んで下さった皆さんの、明日一日が素晴らしい日になるよう祈りつつ。

※上に書いた今日、帝国ホテルにかかった「石井先生ディナーショー用特別CD」が欲しい方は、事務局(045−261−3300)までどうぞ。
 もともと今日販売する予定だったそうなのですがそれが急遽無理になってしまったので、今日のために作ったものが23枚ほど残っています。
 収録された曲は、いずれ別の形でそれぞれCD化する予定ですが、今回のまとまった静かな曲(二枚目は激しい曲)は、今回のみの販売です。
 宜しければどうぞ。(二枚組。1千円(送料別)。合計1時間半弱)

※なお、上に書いてしまった「いつも上手くいく人の本当のヒミツ」をこっそり教えてしまう【心の学校】についての詳細はhttp://npo-kido.com/tokubetu.html  と
http://8505.teacup.com/sokudoku/bbs
を見てくださいませ。
 まだ予約可能なので、自分で言うのもなんですが、おススメです。
 (なお来年は私は担当しません。一生の中でのほんとうに貴重な時間、体験が出来ることを保証します。)

 最後に宣伝が入ってしまい申し訳なかったですが、
心より皆さんの明日が、そして日々が愉しく充実するように祈りつつ。



  様々な忘年会。
Date: 2006-12-22 (Fri)
日々を忘れる「忘日会」を行なうのは、ここだけの通例なのか。

今日も、時々を忘れるための「流れ」があった。
その流れに乗り、恵比寿の酌も進むが、皆さんの帰った足どりは確かであった。
(一人、昔の或る映画の如く、最後にロボットの如く手足を動かしていた人もいるが…)
 
 もうすぐ年末であるが、忘れられないこともある。
 
 素晴らしい。
 それは宝である。
 
 宝とは思えない…と思うのも「自由」。
 
 全てを手放した時に訪れるのもそれ。

 「それ」は、温かくも、有り難くも、そういう意味では何も無いかもしれないけれども。

 しかし、それを実現した時は、本当に、本当に自由であることに実は戻る。
 
 日日是好日にするべし、と日日是好日とは異なる。

 (しかし、今日はまあ、最高のおでんを味わせて戴きたい。)

  「心の学校」
Date: 2006-12-21 (Thu)
 前半は0。
 瞑想を深めていく。 
 完全なモウナである。
 クリシュナムルティの言わんとするとこを目指す。
 過去に完全に実現できたのは数名。(スタッフでも以前のスタッフでは無し。現在でも一名。 )
 少し評価は厳しいのかな。
 その意味でも、下記に書いたように、青木先生はじめ、様々な方(特に長年禅を行なっている方)、こそ「心の学校」にはいらして欲しい。
 (また、夢の実現(というか現実生活でスルーできない悩みを抱えている人は、どうぞ。)

 ────ところで、今日は、新月瞑想会。

 素晴らしかった。

 静謐に…

 潜る、潜る、潜る、、、


 気体の感覚を皆さん仰って、同感覚が嬉しかった。


 皆さん、遠くからいらっしゃりありがとうございました。
 (2時間以内の方も約一名いらっしゃいましたが、近いから変ということではないので。 ご寛容のほど
 大事なのは、「想いではなく行動」、なので、大丈夫!)

 そして、カナエさん、素晴らしき歌声を有り難うございました。
 (共演でき、本当に光栄でした。)

 これというのも、夢の実現に欠かせない『大地の調べ』。

 来年はそれがテーマであるが、
 ともあれ、今日の新月会は、本当に潛在意識の深き、そして遊びを堪能させて戴いた。

 (参加者全員にも言ったが…)
 きっと、今日いらした方の願いは叶うだろう。

 有り難き一日に感謝を。

  瞑想会
Date: 2006-12-09 (Sat)
相変わらず「瞑想会」は人気が無い。
今日も二人。
しかし深い。
協会の経済の事を考えれば別であるが、私としては、これで良い。
その深さは、この道場故、地に根ざし、そして天を貫く。

───更に深く、更にピュアに深く。
 それのみ。

  絶感
Date: 2006-12-09 (Sat)
 「ここで指が止まるでしょう?」
 「?」
 「…。 …というより、ここの前で指が止まることが分かるでしょう? 」
 「?」
 「…。 そして、それが右上左下捩れであり、それが頭部の硬結と同じ感触というのも分かるでしょう?」
 
───この二日間、また暗闇に潜りたく穴熊になっていた。
 フォレスト出版のCDを作るために時間を費やしたが、それが穴熊の私にとってはいい川霧になったようだ。
   晴哉先生は盲人に色を説くようだ、と言っていたが、きっと直さんを初めとする共演者(特にツノ犬は長らく)も同じ思いだったかもしれない。
   
───私たちは気付いていないだけで信じられないほど多くの愉氣を受けている。
   産まれてから今まで。
   (…そして今も!)

  また、消えてしまった。
Date: 2006-12-05 (Tue)
 以前の淋しさを抱える人がいる。
 そして今、それを抱えたい人。
(「今」という言葉を遣いながら…)



 全ての寂しさを抱えん。

  素敵な夜・・・
Date: 2006-12-03 (Sun)
眠りにつく一瞬、玄関の音。
おや、こうさんか、新間さんか、二見さんか…(どれも「真剣師」(=賭将棋を生業にしている人のこと))。
ずっと横浜にいなかったからな、とベッドから起きる。

今、手許にパスタがある。味見し、これは才能あるプロ級の仕事と感激。
(素人で、このクラス以上と今浮かぶのが、逗子の龍野さん、門前仲町の岡田さんだが、それぞれ料理の種類が違う。)
 磯子の牧姉や、その以前の友人の中華料理も思い浮かぶが、ともあれ、この分野で美味しいと思ったことは珍しく、素人では思い浮かばない。
それで今思い出した。
その人たちに亀戸のやま野の穴子寿司を今日渡すのを。

今日は、まるで以前の浜町道場を少し(半分くらい)彷彿させる感じであった。
そしてまた、浜町時代とは違った新たな勢いのある日であった。

大地の素晴らしさを感じ、(そのことは弟者にも言ったが)
そのエネルギーの大事さ、土地にも波があること、など。

今宵も終われば、明日は、また陽が昇る。

そして、それぞれの夜の背後には、一つの、月と、陽がある。

(だから、どんなことがあっても大丈夫ですよ。牧子さん。
 そしてまた、明後日、最初で最後の指導(整体)を迎える貴女にも言いたい。
 絶対に大丈夫です。
 それを伝えるために行く。)
───そしてまた、全員にも。

  またも虹弾く。
Date: 2006-12-02 (Sat)
一昨日の日記で書いたように、ナッテルハウス直後の一泊二日のスタッフミーティングの後、久し振りに自宅に戻り練習。(メールチェックや、原稿を書きながら)
エアジンに着くと、看板の坂元さんのところでは、「チェロ、火花」と書かれてあった。
…そして、セカンドステージでは、文字通り以上の火花が。
(前に座っていた方、席を離れましたが大丈夫だったかな)
いやいや、7年前にドルフィーで共演して以来でしたが、それにもまして凄い。(演奏もまた。)
 初共演のマツケン(松本健一)と坂元さんはどう思われていたのか…。
 私は、こほろさんに「虹という曲をやって…」と言われ、firststageでは無理と言ったのですが、secondまでこほろさんがいらしたので最初のソロでその曲(テーマ)を弾く。
 …どんなに演奏が激しく、魑魅魍魎になろうとも、この背後の音は、今日いらしてくれた○○さんには届くはずと、少し邪心もあり、しかもその邪心も出したい演奏であった。
 久し振りの坂元さんとの邂逅であったので、今後が楽しみ。(マツケンも道場ライヴに来てくれそう。)

 音楽のことが、なぜか「速読&速聴掲示板」http://8505.teacup.com/sokudoku/bbsに「きらり」さんが、先日のナッテルハウスのことを書いてくださっている。
 続けて、色々と書きたかったのであるが(BPさん、私も実は、また一日目…とか、キラリさん、ナッテルのことは文章多すぎではないよ、とか)、ここに投稿するほうが他の方も書き易いかとか、筋かな、と思って書いた次第。
 (「『自然』掲示板」http://8003.teacup.com/joho1/bbsにも書いたようにショックのことがあったので。
  ああ…、竜一さん、1月号の湯氣さんの投稿も今や気力無し。でも、なんとか書きます。)

 明日は、久し振りの東京道場での個人指導(整体)。
 楽しみである。
 

  虹 & my blue bird
Date: 2006-11-30 (Thu)
今、ツノ犬と別れる。
有り難かった。とても楽しかった。(直さんとも僅かな間だけれども話ができ嬉しかった。)

そして、今日のライヴを聴きにいらして下さった方に、心から感謝を。

2年前のピットインは大入り満員で80名近くいらして下さいましたが、(今日はそれ以上に強力な方々が来て下さいましたし)、また、私の演奏としては、今日の後半のほうが、その時よりも良かったでした。

ほんとうにありがとうございました。
(直さん、ツノ犬、そしてまたナッテルハウスの方々、ありがとうございました。
 直さんは、思い出せば、後半のソロから入って下さったり、またツノ犬も久し振りにそのあとも話が聞けたり、思えばありがとうの塊になってしまう。)

今日は、芦屋から直接戻っての東京ライヴだった。
そして、明日は神奈川南にてスタッフミーティング
(来年のスケジュールを決めるので、「こんな講座があったらいい」とか「個人指導はこんな感じで」とか、ご希望の方は「会員用掲示板」に書いてくださいませ!
 「会員用掲示板」に私も時間が許せば書きますが、もし書いていなくとも遠慮なく書いて下さいませ。)
 そして、明後日はエアジンライヴ。
(マツケンと文字通り火花ちらすチェリストの坂元弘道さんとの数年ぶりの共演。初トリオである。今日も、ツノ犬が面白そうと言っていたけど、楽しみ。) 
 そして、演奏後は東京道場にまっしぐら。。。
 そして、翌日の休みまでには原稿を二つ書かなくては!

 ともあれ今日は、皆さまとミューズの神に感謝をしつつ。。



  明日から、合宿。 (&連絡先の件)
Date: 2006-11-22 (Wed)
 いよいよ明日より、第一回「氣道」合宿が始まる。
 「氣道」の最強メソッドである【自働運動】と【瞑想】を連日行って、体と心を大きく変えてしまおう!
 …という今まで行いたくても出来なかった「変身合宿」である。 (またの名を「底打ち合宿」と言うらしい。)
 
 毎朝のヨガ・コースや自動運動会でも「数時間続けての自動運動」はあまり経験ないはず。
  潮先生(故人)の所では8時間続けての【自働運動】を一週間行うことによって、心身を激変させ、さまざまな慢性病を改善していらしたが、それにあやかったもの。
  ───実に25年間の夢が叶った。

 富士山が部屋から見える空気の澄んだ場所だし(とっておきの場所)、講座も自由参加(!! これまた初めての試み)だし、
 私の25年の夢実現にあやかって、【心の学校】や【夢の学校】の内容も披露する。
 何しろ静かな宿舎を貸切で、人数は現在スタッフ除いて4名なので部屋は一人か二人での使用(!)の贅沢。
  『存分に休みながら』、『シンプルで深い』合宿となることだろう。
 何というか、「裏合宿」とでも言うべき、潛在意識のレベルで深く大きく変化できる、自覚はともあれ濃密な時空間になることと思う。
  他にも、言いたいことがあるのだが、委しくは、11/10の日記でも書いたので、下や、「氣道」協会のホームページhttp://npo-kido.com/をご参照ください。)

★「分かっているのだけど、時間がとれないのだもの」という人が多いと思う。
 私も、お誘いした人がいらしたのだが、皆、無理とのこと。
 ──── なので、突然、「時間が出来た。行ってみたい!」という方はまずいらっしゃらないと思うが、
 「もしも」時間の都合が出来た場合は、合宿先の長寿湯(0460−5−2228)までご連絡ください。
 11/10の日記でも記したように部分参加もOKですので。(お待ちしています。楽しみです。)
 なお、「万が一」、部分参加ではなく、明日からOKという方は、明朝10時54分に箱根湯本駅にいらっしゃれば参加可能です。
(ただし私の整体を受けたことのある方に限ります。(部分参加の方もです。 m(_._)m )
 ただ、今、書いていて、このホームページをご覧になっている方に申し訳なく思い、私の初心会かヨガコース、ライヴにいらした方でもOKとさせて戴きます。(その場合は、他の参加者の方と合わせるためにも(私がこのように勝手なことをして事務局から怒られないためにも… (--;) )、合宿中に私の整体を二回は受けてくださいませ。今回の合宿ではその予定(整体をする予定)ではなかったのですが、私も時間を作りますので。)
 …これまた愉しみにしております!)

※なお、私個人は、上記の合宿やその足での芦屋支部への指導〜ナッテルハウスのライヴ〜スタッフ研修会〜東京道場と、早くとも12月2日位までしばらく連絡が難しい状況となります。
 インターネットが繫がらない場所が続くためですが、どうか個人メールの場合はそれ以降にお願い申し上げます。
 なお、事務局も総移動のため連絡が難しいと思います。
 急ぎの場合は、明日からは前述の長寿湯(0460−5−2228)にお願いします。なお、28日(火)は横浜道場が行っておりますので、よろしくお願いします。

  …横濱道場の氣が天を衝く。
Date: 2006-11-19 (Sun)
幸せな人は幸せな体をしている。

私たちが整体を行なっているのはそのためだけである。



(※整体とは氣道の個人指導の事。
 ※氣道協会では整体以外にヨガやアロマ整体(プハンエステ)etc.を行なっているが、その目的は「自然に生きる」という氣の道の実現であり、それは視点を変えれば、幸せになる事に他ならない。)

 自然に生きると幸せになるように、人(生物)は設計されている。

 幸せになるためには、自然に生きるしかない。



  微笑み
Date: 2006-11-18 (Sat)
瞑想とは生きながら死ぬこと。

そして死んで生きる事。

  ぜひ、一緒に、湯治に行きましょう!
Date: 2006-11-10 (Fri)
あさって(12日)が締め切りなのに、まだ3名の予約。
あの人もあの人も行きたい人はいっぱいいるのだけれど、どうも部分参加OKというのが伝わっていないのかな?
(チラシをご覧になっていない方は、早急に電話(045-261-3300)かFAX(045-261-3304)まで!)
24時間OKです。

今、予約して下さっている方も、とってもいい方。
一人は母ですが…。
(母は、とってもいい人です。
 ちなみに、ビッグコミックを読んでいない方は、「天上の弦」という漫画(あるいは本)をぜひ読んでくださいね。
 今回が最終回だったのですが、東洋のストラディバリを創られた方の伝記です。
 …オムニ  (T_T) (^o^)  )


とっても楽しい合宿になるので、迷っている方、知らなかった方は、
ぜひ、上記まで連絡してくださいませね。

 …………………………………………………………………………………

 なお、内容を含め、以前、この日記で書いたことを転載します。


★初めての「瞑想」合宿。
(自動運動(野口整体で言う活元)と愉氣(手当て)も行ないます!)
 しかも、『湯治』を兼ねて行ないます。

★場所は、箱根の仙石原。
 (箱根仙石原で『最も湯質がいい所』で行ないます。

  箱根に100回以上行った箱根通でも驚く湯質でしょう。
  (このスポット(宿)でないと味わえません!)
  
  粘土のような湯質はここだけです。
  箱根通でも驚きます。

  とっておきで温めていた場所を、今回、公開しました。)

★日時は、23日(木祭日)〜26(日)までの3泊4日です。

 (23日は、箱根湯本に10時40分で待ち合わせをして、天山湯治郷〜関東で最大の「自然瞑想スポット」であるお玉が池〜知る人ぞ知る箱根で唯一無比の秘湯(宿もそうですが)でしかも、箱根神社よりもご神氣溢るる姥子温泉〜現地に。
 という、まさしく『ご神氣ツアー』!!
 26日は朝10時解散で、それまでの講座も参加は自由!(本当です)

★ですから、夜に飲みたいというだけでもOKの合宿です。

 参加すれば、数日間、富士山も見えるイヤシロチ(自然な場所)で、「身も心も魂も禊ぐ」ことができます。

 きっと思い出すと、とにかく楽しい日々だった、と思うことでしょう。

 そして、あの時の合宿は、充実した日々で、そう言えば、あの時の合宿から確かに大きく変わったな。

 …きっと、そういう合宿になると思います。

 すこしでも、関心のあられる方は、ぜひ、ご連絡をお待ちしています。
 (早速に、この湯治合宿のパンフを郵送します。)
 
 FAX 045−261−3304 電話 045−261−3300
(どちらも『24時間』受付ていますので、遠慮なくご一報ください。電話は留守番電話の事有り。)

 宿の都合上、数日後が〆切なので、上記した如く、少しでも関心のあられる方は、遠慮なく、そして早めにお願いしますね。

  初めて妹に電話する。
Date: 2006-11-10 (Fri)
 嬉しかった。

 

   虹 ─── 記念すべき日
Date: 2006-11-08 (Wed)
 今日は驚きの日であった。
 朝、1sの粗塩と酵素を入れた塩湯(もちろんミセルも)で禊ぎの行。
 そして午前中のライヴは、禊ぎの延長として、これが最後と思っての午前中ライヴ。
 (これで私は死ぬという白鳥の歌。(まるで私の青本の序文のようだ)それとは関係ないが泣きながら弾いたのは久しぶりのことだ。)
 キースもカミロもメルドー(「氣道」協会に長年いらしている方は私が紹介しているのでご存じだろう)にも抵抗なく淨潤として弾けた。
 (今、聞き直しているが、シャンソン即興ピアニストの面目躍如たる演奏も多い。
  惜しむらく(?)は、録音が悪いことと(たった一音の繰り返しで終える演奏(5分26秒)もあるが…)後半は録音していたことも忘れていたため入っていないこと。その曲が今日のテーマなのであった。)

 その後、指導。
 指導後、二階に行くと信じられない虹がいくつも部屋に。
 今日という日の祝福だよ、と言ったが、その虹が何処の出所かを探す方もいらしたが、それよりも何故、今日、今、ここに初めて…と、思わず、その曲の題名を決める。
 そして・・・
 まさか、と思った場所に連れていかれる。
 そして、それは「まさしく」イメージしていたような空間であった。
 これは、あの時と同じだ!
 …と思った。
 浜町の道場で、新しい場所を捜し、色々な場所に行ったのであるが、イメージ通りのところがなく、…とある時に、「こういう場所は?」と不動産屋から声がかかって行った場所が、まさにイメージ通りの場所ですぐに決めてしまった事。(それは、自分がイメージしていた場所の真上の空間であった。「えー?私は半年くらい願っていて、そのイメージも出来ていたのに、それと同じものの真下で毎日願っていたということ?」と思ったものであった。)
 掟破りの陰陽師(場所の祓い)を行い、神道系の家固めの祝詞も12年ぶりに奏上させて戴いた。(つっかえ、つっかえで家主には謝りながら…)
 ※注/今、現在では1軒500万円でもやらない。600万円だったら少し動くかもしれないが700万円以上でもやらない時はやらない。)
 
 その後、指導。そして今日二回目のライヴ〜瞑想会。
 一日も後半となった。
 最後の曲が冒頭の2分だけ入っていることが確認できた。
 それを聴きながら…
 まさしく白鳥の歌だと思う。
 この残っていた2分間は彼らに捧げたい。
 そして、残っていなかった残りの音は、今日いらしてくださった方々の魂に、そして、彼らの住居の今後の発展のために捧げたい。
 私としては、この録音されなかった演奏のように、リパッティやキースがいらしても、この世に残っていい演奏をまたいつか白鳥として歌いたい。
 (とても烏滸がましいが…)
 残っていなかったが故に、私も育ち、そして皆の発展もあるのだろう。
 この最後の曲を弾きながら、体の中で限りないメロディが出ていたことを思い出す。
 しかし弾かなかった。
 弾いたのは、ただCの音。
 そこから限りなくアドリヴが私の中に鳴った。
 もしかして皆さんの中にもアドリヴが鳴っていたのかも、しれない。
 そして、それは、今も続いている。

 ──一期一会。
 生はいつも綿々と続き、その調べは常に即興である。
 
 聞こえぬ音に限りない感謝を込めて・・・。


  合宿参加に迷っている方に。
Date: 2006-11-07 (Tue)
★初めての「瞑想」合宿。
(自動運動(野口整体で言う活元)と愉氣(手当て)も行ないます。)

 しかも、『湯治』を兼ねて行ないます。

★場所は、箱根の仙石原。
 (箱根仙石原で「最も湯質がいい所」で行ないます。
  箱根に100回以上行った箱根通でも驚く湯質でしょう。そのスポットでないと味わえない箱根の湯の一つです。粘土のような湯質はここだけです。通でも驚きます。
  とっておきで温めていた場所を公開しました。)

★日時は、23日(木祭日)〜26(日)までの3泊4日です。
 (23日は、箱根湯本に10時40分で待ち合わせをして、天山湯治郷〜関東で最大の「自然瞑想スポット」であるお玉が池〜知る人ぞ知る箱根で唯一無比の秘湯(宿もそうですが)でしかも、箱根神社よりもご神氣溢るる姥子温泉〜現地に。
 という、まさしく『ご神氣ツアー』!!
 26日は朝10時解散で、それまでの講座も参加は自由!(本当です)

★ですから、夜に飲みたいというだけでもOKの合宿です。

 参加すれば、数日間、富士山も見えるイヤシロチ(自然な場所)で、「身も心も魂も禊ぐ」ことができます。

 きっと思い出すと、とにかく楽しい日々だった、と思うことでしょう。

 そして、あの時の合宿は、充実した日々で、そう言えば、あの時の合宿から確かに大きく変わったな。

 …きっと、そういう合宿になると思います。



 すこしでも、関心のあられる方は、ぜひ、ご連絡をお待ちしています。
 (早速に、この湯治合宿のパンフを郵送します。)
 
 FAX 045−261−3304 電話 045−261−3300
(どちらも『24時間』受付ていますので、遠慮なくご一報ください。電話は留守番電話の事有り。)

 宿の都合上、数日後が〆切なので、上記した如く、少しでも関心のあられる方は、遠慮なく、そして早めにお願いしますね。

  横濱エアジンでの満月ライヴを終えて。
Date: 2006-11-05 (Sun)
今、ライヴより戻る。
今日は、こほろさん、かほりさん、ハイジさん、高田さんも子連れでいらっしゃって下さった。(ありがとうございました!)
first stageで出し切った感じの疲労感をこんなに感じたのは初めてだった。
(きっと「音の玉手箱」のように内側から出るものを引っ張ったからだったためか。)
そしてsecond stageもまた更に。

工藤さん(base)とは、どんどんと演りやすくなり、また私の様々な要素を引き出してくれる。工藤さんのベースはいい。
金剛さん(sax他)とも、フルートとのデュオは清冽な緊迫感があったが、他も以前にまして私たちならではのインナープレイができ、自然な愉しさが嬉しい。

心に残るライヴだった。
皆さま、ありがとうございました。

(※なお、私の音楽のホームページは、http://npo-kido.com/j-j.htmlです。)

 ここまで書いて、スタッフと楽しいミーティング。
 その後・・・
 突如、玄関のベルが鳴る。
 なんと金剛さんや工藤さん達が来訪。
  
 まるでカーネギーホールでのライヴ後のような盛り上がり。
 
 だからジャズマンは好きだ。

 (中学の頃、瞑想やヨガ(0)とジャズ(1)との統合が出来ないことに思い悩んだことを思い出した。 (^o^) )

 special thanx!  
  
 ───の十五夜。

  ぜひ、聞いて意見をください。
Date: 2006-11-01 (Wed)
ぜひ、「氣道」協会のホームページhttp://npo-kido.com/
にアクセスして戴き、右上にあるメルマガ登録をして欲しいです。

→というのは、今ですと、アマゾンにて二冊以上拙著(東洋医学セルフケア(筑摩文庫)を購入された方にプレゼント音声が聞けるようになるからです。
 (アマゾンより届く「ご注文の確認」メールの中にある「注文番号」を入力して「氣道」事務局に送ると、音声ファイルが開ける番号が事務局より送られます。)

自分の声や間合いには反省点は多いが、内容的にはまあ及第点と思う。

初めて、一般公開した音声である。
(何と「2時間」の音声です!)

恥ずかしいが、宜しければ、ぜひ聞いてください。

なお、聞かれたご感想があれば、FAX(045-261-3304)か、メールmail@npo-kido.com まで、よろしくお願いします。

 
※さて、今月は、「瞑想」と「自動運動」を主体とする湯治合宿を箱根仙石原の極秘場所で行います。
 (富士山が見える静かで良いところ)
 この合宿についてご存じなかった方には、パンフを郵送しますので、前記、お問い合わせ先まで遠慮なくご連絡くださいませ。 
 定員も30名くらいだと思いますので、ご希望の方はお早めのご予約をお願いします。
 とにかく楽しみな合宿(瞑想と自動運動(と愉氣)と飲み会オンリー! 願望実現の極秘methodも紹介しますが…)
 なので、ご興味のあられる方は、お早めにどうぞ。 
 

 
Date: 2006-11-01 (Wed)

 古えより在り、我を抜け、そして舞う。


(哀しいが念の為。
  風は空気のそよぎではない。
  また風の当たる感触でも勿論ない。)


  ライヴ〜二日酔い健康法
Date: 2006-10-27 (Fri)
 昨日は、いつも秒単位の忙しさの木曜日。
 そして夜は直さんとのデュオだった。
 とても楽しく学びが深かった。
 ほんとうに素晴らしい音、演奏。一音の中に限りない倍音、広がり、メッセージがある。なんであんなにも深い音や演奏ができるのだろう。
 
 その後の打ち上げではKさんや久し振りに妹者が来てくれて嬉しかった。
 (…なのに私は通りすがりの真剣師(注@)を追いかけて将棋。人と指すのは去年の3月以来だし、その人とは数年ぶりで懐かしく夜を徹してしまった。遊びで夜を過ごすのもこれまた久し振りの事だった。しかし直さん含め、ライヴ後に私と話したかった方には申し訳なかった。この場を借りて謝謝。m(_._)m)

 挙げ句の果てに今日は珍しく二日酔い。様々な質問に答えているとスタッフから「先生、まだ酔っていますね?」と鋭い指摘。
 その後、私としては数カ月に一度の無為時間である散髪に。(最近は有益であるとリフレーミング(注B)している。なお私は20年間、十亀さんという人(注A)という方にお世話になっている。寿司屋もそうだが、板さんに惚れるとその人が店を変わってもその都度追いかけてしまう。十亀さんもその一人。)
 その後、若先生(整体コンサルタント)に「良い休みをとられた感じのお体です。」と言われる。自身でもそう感覚していただけにうれしい。
 
 さて、これからまた仕事だ。(竜一さん、テキスト原稿は今日は難しいので明日以降にお願い。締め切りには守るよう頑張りますので。)
 そして、明日は東京道場、明後日からは芦屋での指導。
 またあの方たちの体に出会えると思うと、とても楽しみで、ワクワクする。

───日日是好日

そして、人生は途中にあって家舎にあり、家舎にあって途中にあり。 (即ち時間軸の色即是空(1=0)


───日々是好日


※注1 (真剣師)賭将棋を生業にしている人の事。横浜では二人しかいない。
※注2 (十亀さん)髪に触れるだけでその人の体調から仕事まで分かる方。
※注3 心理療法は「行動」と「論理」と「認知」に流派が分かれるが、現代的心理療法の父ミルトン・H・エリクソン以降、「認知」によるアプローチが効果的主流となっている。その代表はミルトン・モデルまで残しているNLP(神経言語プログラミング)の主軸となっている「リフレーミング(心理的枠組みの変換)」という技術である。(ちなみに、NLPを日本に紹介したのは会報にも毎月紹介している恩師である吉本武史先生である。)
 なお、ここで言う「リフレーミング」はNLPで言うそれを更に徹底させたもので、「全てが自分の捉え方に過ぎない」という仏教で言う唯心論に近い。
 私たちを形成している大事な認知、観念を私たちが日々時々幸せになるように用いていこう。
 その為には無意識の変革と、それには「からだ」の変革がキーワードとなる。
 活き活きと自然に生きる道「氣道」を紹介するに当たって、心の使い方だけでなく【体にまかせる健康法】を紹介している所以である。
 
 そして、 だから、  どんな時も、

 ─── 日日是好日

 (有り難し。 (T_T)  )

  今月の一冊 (「氣道」協会会報12月号「今月の一冊」に掲載予定の原稿。)
Date: 2006-10-24 (Tue)
・「般若心経 絵本」 諸橋精光 著 (小学館) 

 中学の頃から何故か般若心経に惹かれ、解説書を読んだり、実際に唱えていたりしてきた。(授業中に金岡秀友先生の講話(講談社文庫)を読んで怒られ、そのために通信簿を下げられてしまった思い出もある。)
 その後、高校時代まで高神覚昇先生をはじめ五十冊ほどの講話や解説書に触れたが、中でも一番衝撃だったのは西勝造(西医学創始者)の講話であった。
 それから30年、全くと言っていい程、遠ざかっていたのだが、昨年、『声の学校』を行なうに当たって改めて原語そのままの訳を読むと、何とこれは「氣道」と全く同じではないか!と驚嘆した。
 しかし、今までのどの本でも飽き足らない。やはり原語でしかないのか、と思っていた頃、久しぶりに本屋に立ち寄った時、般若心経のコーナーで、これはと思い一冊の本を購入した。
 一読して私の思っていた般若心経と最も近い解説書(つまり「氣道」の解説書だ)と思った。(「おぎゃあ」と「おかあさん」の譬えは穿ち過ぎかもしれないが。)
 著者あとがきにも「思いついてから二十五年、実際にラフを描き始めてから十年の年月がかかった。特にこの十年はうんうんうなりながら公園をぐるぐる回り、寝ても覚めても考え続けて、心この世にあらずというような毎日を過ごした。」とあるように渾身の一冊であると思う。(密教学者の津田真一氏にも草稿の一字一句に厳密な検討を一年半に及んで行なってもらったとも言う。)
 私もまた「氣道」の論理的そして実証的骨格でもある「身心の文法」という全ての事象や運動形態が1と0とで生成されている視点を発見するまでの経緯を思い出した。
 1とは色であり、0では空である。
 色即是空、空即是色───1=0、0=1。
 この般若心経のレトリックは、同時に、空が単に無ではないことをも示している。
 即ち0=∞であることを明示せず表現しているのである。

  (すべて消ゆる)
Date: 2006-10-21 (Sat)
 その後、「マントラ」という題で書いた。
 「気づきのマントラは『オーム』ではなく「あ、そうか」である」という尊愛するハリー・パルマーの言葉を引用しながら書いた。
 そして、真の禅に気づいた時に、言葉として出てくる音声について書いた。
 書きながら、こういうことは「内観法」もそうだが「毒(知ってしまうと、それを求めてしまい、行の邪魔になってしまうこと)」になるのかも、と思ったが、先の「瞑想───唯心論を超えて」でも書いてしまったので、烏滸がましい表現だが、公開してもいいのだろう、と思ったのであった。

 いつも、こういうことを書くと消える。
 (これこそ唯心以前の意味での自分の問題なのだろう。)

  瞑想───唯心論を超えて
Date: 2006-10-21 (Sat)
 たとえば音が鳴る。
 しかしそれを捉えるのは私だ。
 鳴っても気づかぬ時もあるし、この音はあの音だな、人の声だな、等、解釈をすることもある。
 音に限らず、すべて、自分で感じ、判断している。
 音が在るのではなく、自分の音に対する評価があるにすぎない。
 私がこのリンゴは赤いと思うから、そのリンゴがあり、そして赤いのである。
 繰り返すが、すべては自分の感覚と判断に過ぎない。

 ………………………………………………………

 哲学めいた概念ではなく実際の事。
 たとえば、今、あなたが何かに嫌な気持ちになっていたとしたら、それは自分のせい、というか自分が勝手にあるいは某かの必然をもって造り出したということに他ならない。
 自分しかいないのである故、当然だ。

 これは仏陀の説く唯心論なのかもしれないが、それを究極すれば、すべては私に他ならなくなる。
 それ故、「この世は鏡の如し」では無いといつも言っている。
 鏡に他ならなく、また鏡どころではない。

   ………………………………………………………
 (当初3行であった文章も、皆も見る日記故と牛の口に草を運ぶごとく言葉を連ねているが、ついでに言えば、ではどうしたらいいのかというスタンスへの言及となると、以前から言うように、まずは裡を変えるべきだし自力のほうが尊重される。つまり唯心論的に生くるべしであるが、真実の真実は違う。蛇足ついでに、今回の場合は、音を「すべて」と象徴したのは分かりの程。勿論下記の「音」もそうだ。)

   ………………………………………………………

 而して真実は…


 音は、ただある。

  唯心論でも、実際論でも、唯物論でもなく、ただある。
  聞こえなくともある。

 

  「今」───「氣道」
Date: 2006-10-20 (Fri)
「今」という瞬間の中に、全てが在る。

 いつも言うように「今」は時間の中には無い。
 「今」は今という現在の時、瞬間のことを指しているのではない。
 というか、今と感じる瞬間を最限まで微分して(「今に潜る」その行程は瞑想と同じ)そのときに現れる、時間の生まれる原点のところである。
 そこに現れるものは無であり全であり道(タオ)であり愛であり自然(宇宙の息)であり0であり1であり∞であり遍く偏在する氣である。

 それ故、そこに至る道を氣の道と呼ぶ。
 

  日本量子医学研究会での講演終える。
Date: 2006-10-15 (Sun)
ほとんど全員が医師、あるいは医療関係者である100名以上の前で講演をするのは些か緊張したが、大変勉強にもなった。
会は大きな盛り上がりを見せ、終了予定時間の5時半を一時間以上も越えた。
その後、懇親会。
きっと今頃は更なる盛り上がりをみせていることだろう。
また、私が行けないということで、とても残念に思ってくれた先生方には感動であった。
 ・ホリスティック医学創始者の山本忍先生(久し振りにお目にかかれ嬉しかった。先生、今度、ヒロ先生と約束したように滝行ご一緒しましょうね。会員の皆さん、「健康法───常識のウソ」に出てくる先生ですよ! そのうち会報にも、ご登場しますので楽しみに…。)、
 ・理学博士であり鍼灸師でもあられ、なおかつ東洋光彩分析協会代表であられる新城三六先生(先生の素晴らしい技術と、研究と実践への邁進の仕方、そしてそのご謙虚さ、感性に惚れました。大阪のほうで困っている人には紹介したい。連絡先06−6390−4722。なお、この日は私と新城先生の二人の特別講演であった。)
 ・医学博士の中村元信先生(東京ハートライウクリニック院長。先生のご謙虚さには頭が下がった。町田にての診療。042−739−5350。)
 ・頭蓋仙骨の藤牧経乗先生(福岡でたなこころ庵主催。092−831−0704。特に、出産と骨盤、頭蓋との関係は分かりやすく、気さくで嬉しかった。)、
 東洋体育のおくでらゆみ先生(ますます輝きをもって医師ではなく病者や一般の方の視点から説得力のある言葉を戴いた。)
 また、波動応用技術研究所代表の藤堂大輔先生にも、そして何より、菅谷尚和先生には、最後の最後まで「淨潤先生と会うために子供たちまで連れてきたのです。懇親会出ないのは許しませんよ。」と純粋な目で何度も何度も何度も誘ってくださいました。
 そう、今日の大会長と司会を務められたヒロ先生(高澤博幸先生)は「淨潤先生が行かないなら私も行きません」とまで誘ってくださった。

 そのような著名でかつ素晴らしい先生方に懇親会を誘って戴き、本当に、本当に心から感謝、そして感動している。
 (帰り道も「後ろ髪引かれる」とはこういうことなのだな、と思いつつ歩いていた。今も、これから参加したい位・・・真坂先生やアユ先生にもお会いできるし…。 しかし、仕事が…などと思いつつ。
  ここでの先生方の紹介も仕事の一つとして、もし皆さんの中でお近くの方がいらっしゃったらぜひご連絡してみてください。電話番号の分からない方は書けなかったのですが、皆さん素晴らしい先生方です。)

 そしてまたこうした素晴らしい方々にご縁を繋いでいらっしゃるヒロ先生(高澤博幸先生)には本当に頭の下がる思いである。
 個性ある、そして他技術、他視点からの繋がりを、大事に育てていき、なおかつこうした場を創るという寛容さと実現力は本当に凄い。
 (今日は、ヒロ先生、お疲れさまでした。またお会いできる時を心から楽しみにしています。)

 また、今日は「氣道」協会の会員の方、スタッフの方も多くいらっしゃった。この場を借りて感謝申し上げます。
 そしてまた、ずっと座って聞いて下さった座長の中村國衞先生と電話でもサポートして下さった奥様の中村良子先生にもこの場を借りて御礼申し上げます。
 また、お名前は掲げられませんでしたが、山梨の七沢先生を初めとする今日ご参加の皆様方、そして何より裏方で取り持たれさぞかし大変なご苦労をされていただろう中村さま(もしかしてご子息なのでしょうか?ともあれ中村さんのお蔭でこのように無事終えることが出来ました)には、この場を借りて、心より御礼申し上げます。

 皆さま、今日は本当にありがとうございました。

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  ライヴ、即興、生  
Date: 2006-10-13 (Fri)
◆新宿ピットインのライヴが終える。
 (secondstageでは氣的にも細工してジョイント。往年の山下トリオより繊細なフリージャズの醍醐味は味わえただろうが、こういう音楽に馴染みの無い方には分かりにくいのかもしれない。)  演奏後、或る野口整体の指導者にお会いする途中、「思えば30年前に私はこのようなことを新宿ピットインで出来たらな」といつも思っていたことを思い出す。)
  無意識は(彼は)、いつも最高のタイミングで実現させることを準備している。

 ─── ともあれ「この世は、すべて『音』」だ。

◆明日は、整体のライヴ。
  整体は、以前は誰でもが独立して行えなかった。
  「整体協会」の許可を得なければ行えなかった。
  野口晴哉先生がご存命のことである。
  そのことを一週間前に、或る指導者から伺い、隔世の感を抱いた。
 (今は、巷の整体と違うことを表現するために、「野口整体」という呼称になってしまっている。この事は20年前から話していることだが遺憾である。)
  ともあれ、明日は(明日「も」だ。いつもずっと演っている)、その本来の整体ライヴを東京道場で行う。
  そして整体(氣道の個人指導の事=本来の野口整体)には、触れる故、触感もあれば、もちろん身体感覚もあれば、心理療法でもあるので言語感覚もあれば、あるいは氣の感応によって進めるが故に「相手の事を全部受け、その上で自他も無いところでの、意識の操作(時に自分に向けたり、あるいは相手に、あるいは空(くう=0=瞑想)に…)などを行う」もあるし、またあるいは…
 など、「すべて」の総合的援助であり(だから「氣道」の個人指導なのである)、全ての感覚がフル稼働して伴わなければ行えない。
 そして、その背後には音楽よろしく、どういう意味であっても、また、どのような細かい繊細な調べであっても「氣」が常にある。
 (氣とは呼べない空(くう)の状態であっても、そのときにある感覚を、私たちは、もともとのの氣((在)氣あるいは大気と呼んでいる。『それ』が心身に現れた時、文字通り「元気」と言うのであろう、とは昨日も初心会で言ったことだ。)

 ─── ともあれ「この世は、すべて『氣』」。

   すべては、その変化の姿に過ぎない。

◆明後日は、ライヴ講演。
 下記題名「新宿ピットイン」の後半にも書いたように、久し振りに学会での講演を行う。
 (ご興味のある方は下記をご参照下さい。)
 大好きなヒロ先生(「虫歯も必然があって生ずる」など体や心との関係を重視して治療なさる歯科医の高澤博幸先生) が会長を務める日本量子医学研究会での講演。
 先方事務局より講座のために雑誌を作るので、講演内容を提示せよ、と以前に言われた時は、「いやいやお上が行うことはいつも堅苦しく…」と困ったが、まあ『即興ライヴ』でも「こんな感じからはじめて…」と行うケースもあるので、全面的作曲までいかない分良かったかと思い直し、悪戯心で石井宏之先生宜しく「講演なのに最初にジャンケンをさせる」ことにし「ジャンケンワーク」として実施内容のトップに書く。
 (…といっても以前、ヨガコースで行ったような小林正観察さんのを叩き台とした負けるためのジャンケンから発展させてゆく心身変化の研究ではない。)
 きっとこれで、今年の秋の状態、影響が参加者にも分かるであろう、という初心的な目的のゲームである。
 (注/秋は捻れる季節であるが、その捻れの場所も判明となることだろう。なお、この講演のテーマは「季節による体と心の変化」。)

  …お楽しみに。
 
 さて、今日、「「氣道」とは『健康法のインプロ(即興演奏)』だよ」とピットインでの共演者に言った。
 (以前は、「健康法のフリージャズ」と言っていた。)

 生は、もとより即興(インプロ)だ。
 その現れとして、音楽があったり、絵画があったり、整体があったり、陶芸があったり、他の分野というか「仕事」や「生活」があるに過ぎない。
 
 そして、生は常にライヴだ。
 ライヴはどんなに「型」があったにせよ、そこには即興が潜み、だからこそ活き活きとしている。

 私たち氣道家は瞑想という0の方向(気体化、夜、拡散、無重力、神、宇宙、まかせる、ブラフマン、無為自然、道、etc.、)というだけでなく、
 1という方向(固体化、昼、収縮、重力、自我、個、要求、アートマン、有為自然、夢実現、etc.、)
 という(敢えていえばであるが)、二つの方向を、「人間としての『自然』」として紹介している。
 (後者の「1」の方向を持ちたいからこそ、産まれてきたのだ、というフレーズは一昨日の初心会でも言ったことだ。)

 すべてが、ライヴであり、そして即興なのである。

 相手と話し合う会話も即興でありライヴだ。
 (それを、当会では【心理の学校】(心理療法講座=「心」部門の他力版))として研究紹介している。【

 触れ合うのも、もちろんライヴ。
  (整体法講座【氣の学校】てして紹介。(体の他力版である)

 その二つは「他力」だが、
 「自力」で言えば、
 自分の「体」を改善してゆく『健康法のエッセンス』を修得する【体の学校】は、まさしく氣道の土台だし、
 また、自分の「心」を瞑想を通して純化させ(先述の0の方向)、その上で夢を実現してゆく生活を創っていく(1の方向)という【心の学校】は、「氣道」の白眉でもある。

 「氣道」を勉強するための自力&他力、そして体&心という「四本柱の学校」まで紹介してしまったが、
 勉強でなく、自分の体や心をとにかく改善したい方には、まずは先述の個人指導(整体)をお薦めしたい。
 またその時間内では、予約時に仰っていただけたら勉強もできる。(複数人数でも同料金)
 他にも、毎日のように行っているヨガ・コースや、とにかく体質が激変する『プハン・エステ』などあるが、ここが宣伝の場になってしまうので、興味のある方は、事務局まで電話かFAXをして下されば、分かりやすい〔チャート図〕などお送りするので、そうして戴きたい。
 電話 →  045-261-3300
 FAX →  045-261-3304


 話を戻す。

 生の道、すなわち自然の道 を「氣道」と呼んでいる。

 (なので、実は、今掲げた四本柱の形態や、その内容(【健康法のエッセンス】を初めとする氣道のmethod)は、
生というライヴ、即興という生の波乗りがうまくなるための一つの便法、合理的手段に過ぎない。
  
 私は直さん(竹内直)やツノ犬に「どうしたら音楽を、もっと演奏を…」とよく尋ねるが、
私と同じように、生に関すること、特に体と心においては、病者をはじめ、改善への合理的な手段を聴きたい方々、あるいはさらに心身を『育む』ためのmethodを渇望している方はいらっしゃることだろう。
 そのために「氣道」のメソッドを提示している。
 
 生というライヴ、即興を行うためにこそ『型』(method)という存在に触れるのは頭脳を持った人の生の自然の一形態ではあると思い紹介している。
 (例えば… 以前の会員証では「【自働運動】を行わない方は認めず」という如くの記載をしていたが、その後【操体法】を奨励するようになってから、そのほうが心身改善の効果があがった。【自働運動】のほうが効果があがるのが当然であるが、人は思考あるが故、「型」のある【操体法】から入っていくことを準備する必要があるのは、「ただ座れ」と言えない点、それ故、ヨガではそれ以前の段階を準備しているのと同様であろう。 ───しかし、それでも「ただ座る」ことが生きるのは、型があっての生ではないからであろう。)

 つまり、型は必要なくなるためにこそ存在し、健康法も同様。
 健康法もそうであるなら、すべてもそうだ、とも言いたい。

 なぜなら、(繰り返しになるが、ここで戻る)

 生はライヴであり即興であるからだ。

 そして、即興したくライヴしたいが故、私たちは産まれてきた。

 重力のある世界でしか持てない「摩擦」その代表の「思考」。(これらは、そして以下も氣道の観念、私の実感に過ぎないが。)
 それらと遊びたいがために、重力と反駁して二本の足を持ってでまで立ちたいという「要求」を持った『人間』という私たち。

 人間の「自然」とは、タオ(道、0、気体)とエゴ(思考、1、固体)との、それぞれの往復運動の波乗りだ。

 … 昼あり夜あり。 意識あり無意識あり。 個あり全あり。


 「氣道」は、生の道、すなわち自然の道(「自然道」)であるが、
 それを時間軸で言うとなると、「人にとっての自然の波乗り」を求める道が『氣道』となるのだろう。

http://npo-kido.com/


  新宿ピットイン
Date: 2006-10-13 (Fri)
◆今日は新宿ピットインでの演奏。(マツケン(松本健一)トリオのゲスト出演。)
 ピットインのピアノや音響は良いし、1年近くぶりにマツケンと演奏できるのも楽しみである。
 昨日、マツケン(松本健一)が言うには、なんと客席の真ん中で演奏する(できたらピアノも下ろす)という前代未聞の形態らしい。
 これはまたとても楽しみ。
 …というのは、先日、関内エアジンでダン先生(野口裕之先生(晴哉先生のご次男))とお話した時に、ピアニストとしては音も良く弾きやすいと申し上げたところ、ピットインはステージなので観客と演奏者が分かれている点が…と先生が仰っていたように確かに聴衆にとっては心理的距離感のため体の奥に直接音が響きにくいことはあると思っていたので、これは素晴らしいアイデアだ。
 (またピットインはCDも録音されるので、その点でも楽しみである。)

■10月13日(金)PM2:30〜PM5:00 ピットイン(新宿)
「松本健一トリオ with 長谷川淨潤 」
松本健一(sax)河崎 純(b)池澤龍作(ds)
ゲスト;長谷川淨潤(pf)
★時間 2:30〜5:00。
・【料金】1,300円 (1ドリンク付) 
・お問い合わせ→PIT INN
TEL:03-3354-2024 新宿区新宿2-12-4アコード新宿B1
http://www.pit-inn.com/index_j.html   ←ホームページには私の名前は記載されていない。

◆明後日は「日本量子医学研究会大会」での特別講演。
 テーマは「季節による体と心の変化について」。
 日時 10月15日(日) 10時〜17時半(私の講演は11時〜12時半)
 場所 町田市民ホール
 参加費 5千円
 連絡先 日本量子医学研究会事務局(なかむらクリニック内)
     042−730−5473
 

http://npo-kido.com/index.html


  そののち。   和敬清寂
Date: 2006-10-13 (Fri)
 その後、晴哉先生の氣に謁(まみ)える。
 氣道の個人指導(整体)中や、【心の学校】や瞑想後によく訪れる先生の氣は、私にとってなじみが深く、懐かしく、そして限りなく透明で、黙如雷の如く峻烈なのに婀(たお)やかだった。
 その圧倒的な氣に包まれ、内体と共にうれしく感じつつ、気がつけば計二時間近く正座のままであった。
 
 ここまでの先生の氣の大きさに触れたのは野口晴哉記念館に初めて行き先生の椅子で瞑想した時と悪戯で先生の魂を一度呼んだ時以来であった。
 自らの自然が太いパイプとなって発露してゆく。
 (それは意識と潛在意識との間のパイプであり、身体的には内体(感覚的身体)の背骨に関係があることが今日感じられた。)

 明日の演奏、整体を楽しみにしつつ…

 (2006/10/10 記)

  オンリー・ワン
Date: 2006-10-13 (Fri)
自然に生くることを氣道と呼ぶ。

自然とは宇宙の息であり空(くう=0)であり、それは人の氣(色=1)の背後にあり連なっている。
(それ故、20代の頃は「氣で生くる」と表現していた。拙著「実践自然健康道」より)

野口晴哉先生の文章にいくつか触れる。
「生くることそのものに生くる意義を感じて生きていくように生くる、そこに第一歩があり、生くるということに十全にその生を発揚して生活する、そのことを全生というのである。
 全生ということは永く生くることではない。生を全うするという意でもない。
 十全にその生に生ききり、その生を十全に生かしきって生くることを全生というのである。」
「自然に生くる者 自ら生を楽しむを得る也
 空は蒼く花は紅く雲は悠々としてゐる也
 働くも楽しく疲るるも快く目覚むれば爽か也
 自ら生の楽しきを健康といふ也
 健康は人の自然の状態也
 人本来の使命 健康に生き 全生すること也 」

「宇宙を貫いて真に存在しているのはエネルギーの波のみであります。この世の根底は物でなく、色でなく、音でなく、ただエネルギーの集注と分散があるのみであります。その集注と分散というも、人間の感覚から出発した見方であって、宇宙の息のみが、この世に於ける真実の存在なのであります。
 吾々の生きているのも、吾々が今あるのも、宇宙の息によるのであって、生きているということのうしろに、いつも自然の妙機があるのはその故であります。自然の妙機によってその生を保っているのではない、生きていることそのものが自然の妙機なのであります。 
 それ故、宇宙の生きに生くれば、その生きは調い、エネルギーの集注と分散のリズムが保たれるのであります。
 手技のテクニックで刺戟と反応の平衡を維持するつもりになっていることが、すでに間違いであって、整体操法は、生物説を実地に移す技術でもなければ、治療的刺戟を与えるものでもないのでありまして、そのつきつめた一点は、ただその息一つになるのみということにつきるのであります。それ故、人間の自然性ということから、一瞬も離れて存在しないのであります。」
 
 まさしくこれは氣道に他ならない。
 ───一字一句全て。
 私は、まったく同じことを感じている方がいらしたことへの嬉しさと共に、それが晴哉先生であったことに、あらためて先生への尊愛の念を覚える、と同時に、様々な思いの内の一つとして先生の想いをさらに明確にそして具現化したく氣道を創始したのかもしれないとも感じた。

 (2006/10/10 記)

  中秋の名月
Date: 2006-10-13 (Fri)
今日は、例年になく珍しい雨の満月。
新月の醍醐味も味わえて嬉しい。
 (ご存じのように満月は太陽の光故。)

今日の満月は、股関節、足首が開きます。
 (3日前からその傾向あり。)
頸上(ぼんのくぼの辺り)も開いている人が多く、あとはこの秋3回目(一番目は8月中旬以降)の胸鎖乳突筋への変動も現れる。 (どれも、その違和感ある部位に温湿布を行なうのが良い。)

 これは、明日以降も使える。
なお、明け方の冷えには、「10月は朝の足湯」と言われるが、確かに今はタイムリー、冷えの急所を押さえてから足湯(「あるいは膝湯」)を行なうといいのは例年通りであるが卓効があるだろう。
 
 現在症状のある方は、小さな波としては2日目、そして6日目がポイント。
 そして13日後には一つの中の波があります。(整体(氣道の個人指導)を受けている方へ)

 夕方より、ラ・ヴィートの雨の音(ブラームス)より深い調べとなる。バッハの深さと違う深淵がある雨音だがベートーヴェンの後期四重奏の深さでも当たらず。
 
 ────今宵は、邦楽のみ似合う月。

もとよりショパンは甘過ぎで却下していたが、コルトーの24の前奏曲それも1920年代の録音だけは相応しい日であった。

 (2006/10/06 記)

  氣道
Date: 2006-10-13 (Fri)
 もし、今、何かが気になるなら、それは進歩の証だ。
 もし、今、悩んでいるなら、それは美しい誕生の前だ。
 もし、今、苦しんでいるなら、それはそれは春だ。生の雄叫びだ。(夜明けは近い。)

 もし、今、楽しいなら、それは感情だ。
 (そして感情は体に左右される。)
 もし、今、嬉しいなら、それは鈍っているのかもしれない。
 もし、今、幸せなら、それはただ無色だ。そしてあらゆる色に変化する。
 ───虹だ。

 透明は強い。
 たよやかさが彊いのは、しなやかさが丹田から産まれているからである。
 
 肚があると、茶は橙か赤になり、橙は金になる。他の色もその如し。そして灰は光となる。(黒は闇となり、而して凝縮を経て真空となる。)

 透明は強い。
 しかし生きるということは、もともとの透明に色を塗り、そして場合によっては濃くし、そしてまた彩り豊かにすることだ。
 それまた良し。
 すべての色が入れば黒となる。
 それまた透明の入り口。

 こだわろう…
 
 …そして手放そう。

 
 陽は陰から生ず。決して逆ではない。
 こだわるという摩擦の思考の感情の、すなわち重力の所産を楽しむため私たちは陰(0)より産まれ、陽(1)にいるのかもしれない。

 (2006/10/04 記)

  (音楽掲示板より転載)
Date: 2006-10-13 (Fri)
 先程、お蔭さまで無事終えました。
 あれ以上でも、あれ以下でもない、今の自分の演奏が出せたとは思います。
 魂と共にあって全曲弾けたのは後半の一曲目ですが(もしかしたら同時に二つの音を出すミスタッチが一カ所あったかもしれませんが…)、私としては生まれて初めてに近い経験かもしれません。
 (その意味でも、マネージャー様が仰るように確かにエポックではあったと思います。)
 ライヴ全体を通して魂を込めて弾かせて戴いたつもりではあります。
 今日いらっしゃった皆さま(ソラさん、トシエさん、星野さん、ご友人、こほろさん、おーちゃん、渡邉さん、小杉先生、お弟子さん、firststageで帰られたご家族、梅さん、マネージャー様、ご友人、今野さん、ゆうさん、まっちゃん、このりさん、妹)には、この場を借りて、心から御礼申し上げます。
 皆さんのお蔭でこのような音を共有させて戴きました。ありがとうございました。
 また、なぎさんを初めとするいらっしゃれなくとも気持ちはいらっしゃっていた方々、ありがとうございました。
 (次回にはぜひいらっしゃってくださいませ。)

 またエアジンのマスターとマコさんにも大変お世話になりました。ありがとうございました。
 (いつも感想は仰らないマスターが、演奏後暫くたって「潤がシャンソンを知ってるとはねー」とのこと。
  最後のアンコールが「死なないで」というシャンソンとフレーズも感じも両方ともそっくりだったのだそうです。美和明弘も越路吹雪も歌いたくても歌えないほど定番の曲なのだそうで、ましてそれを歌でなく楽器で歌心十分で演奏することは、あらゆる楽器演奏家の目指すことでコルトレーンもそれができなかったけど、今日のはほとんど「いっている」と言われたのは嬉しかったです。)
 私はそんな曲は知らずにただ即興で演奏したのですが、確かにアンコールも後半一曲目までではないですが、ほとんど全曲魂と共に弾くことは出来ました。
 まず絶対に褒めないマスターなので「えっ、まさか褒めての言葉で?」と尋ねたら「大褒めだよ!」と即答してくださったのは感慨無量でした。(そういう意味でも確かにエポックでした。シャンソン・ピアニストとしてのデビューもあり?(笑))
 しかし何より、今日いらして下さった皆さん、そして今日のライヴに気持ちを運んでくださった皆さんの氣が嬉しく、今を迎えています。
 願わくば、それらの響きが愉氣として多くの方々に伝わるよう…

 今日はほんとうにありがとうございました。

 (2006/10/01 記)

  ソロ・ライヴ
Date: 2006-10-13 (Fri)
 いよいよ明日になる。(即興 ソロ・ライヴ)
 かなり過敏になってくる。
 今日も会えるはずの人に会えなく久しぶりに怒りの感情が出る。先程は母からの電話でのお願いも却下。(お母さん、誕生日プレゼントも渡せずごめんなさい。)
 日々時々行なっているように整体を受けられている方々に、そしてすべてに愉氣をする。そのモードから離れるからこうして焦るのだ。
 そのため今日は珍しく大事な忘れ物を3回も立て続けに。(一つは財布。あとの二つも、それに続いて大事なものであった。)
 体と心と指は忘れなかった。
 それがある限り、演奏はできる。
 その前には整体もある。(表現形態は違うし、デュオであるが、心身感覚は同じなので、根本的なリハーサルになる。そして、明日のライヴ自体が、次の整体のリハーサルになるのだろう。)
 
 ライヴではチャングムにまでは遠いかもしれないが、それでも、ぜひ皆さんにいらして戴きたい。
 (特に私の整体を受けていらっしゃる方には。)
 http://72.14.235.104/search?q=cache:U2qZKuTT850J:at.bloc.jp/info/01693+%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%B3&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=5
 神奈川県横浜市中区住吉町5-60 連絡先045-641-9191

 ────一期一会の音、時空間を共有したく。

 (2006/09/30 記)

  チャングム
Date: 2006-10-13 (Fri)
「心理の学校(心理的援助の仕方を学ぶ講座)」が終わる。
『最も大事なこと』を重要度順に学びあった。
 そしてまた、今回は、「言葉や文節(文章の前後)の使い方」ワークをいくつも行った。
 これは初めてのことだ。
 (また、日本でこうした試みを他でやっているところをこの20年間は知らない。)
 数分でのワークだが、一回でも行うことにより、今後の生活で活用できる。
 ちょうど、整体の調律点(ツボ)を練習し合うのと同じである。
 ぜひとも、今後、こうした練習(ワーク)を行う合宿なり講座を行っていきたい、と思った。
 
 それにより、多くの方々が、生活や自分の心身の快さを飛躍的に実現できると思う。
 ぜひとも、今後、こうした練習(ワーク)を行う合宿なり講座を行っていきたい。
 ───今後の夢が大きく広がった。

 さて、明日は、東京道場。
 心理の学校中、テレビを見た。(ちなみに、私は新聞もテレビも持っていないので、講座中でしか見れない。)
 チャングムという撮影も演技も嗚咽ものの番組であるが、技術だけは面白かった。 
 観ながら「チャングムと勝負をしたい」と思った。
 (あるいは、互いの観察、そして相手へのアプローチを話し合いたいと思った。)

 日々、楽しき整体(氣道個人指導)の現場を迎える。
 明日もまた…

 (2006/09/19 記)

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